二次創作

南の夜空のもとにて

 〜「虚空の旅人」より〜


(眠れない……)
 チャグムは夜具のなかで輾転反側(てんてんはんそく)していた。
 新ヨゴ皇国の都、光扇京を発つこと半月、サンガル王国の<即位の儀>に参列すべく旅立った皇太子チャグムの一行は、国境を越え、サンガルの王都<聖光の都>まで残すところわずか七日の地点まで達していた。
(どうにも暑いな。いや、暑いのが問題なのではない)
 ナヨロ半島の南に位置するサンガルは新ヨゴ皇国よりも温暖であることを、皇太子としての広範な教育を受けたチャグムはむろん知っていたし、この数日の旅の間にそれを身をもって知るようになっていた。日中は牛車の中で揺られ、夜には仮寝の宿に身を置くうちに、少しずつではあるが南国の暑気にも慣れてきていたはずであった。だが今宵の寝苦しさは別のところに原因がある。
(かゆい。これは虫……か)
 宮殿の奥しか知らぬ皇子であれば、「虫に刺される」などという事態を想定することすらできなかっただろう。だが、チャグムはかつて宮殿を離れ、<短槍使いのバルサ>らとともに一冬を過ごした経験を持っている。その暮らしの中でノミやシラミといった不快な虫の存在を、これまた身をもってよく知るに至った。バルサやタンダの住まいが格別不潔であったというわけではない――むしろ冬の<狩穴>などは、あの状況で許される住まいとしてはかなう限り清潔であったといえる――が、こういった虫はどこからともなく入り込んできて、生まれてこのかた虫刺されなどに煩わされたことのなかったチャグムを大いに悩ませたものだった。
(この音……くそっ、間違いない。あいつらだ!)
 遠くから、ザザァという規則的な律動が聞こえてくる。それが『波』の音であることは、昼のうちに星読博士のシュガが教えてくれていた。
 内陸部に位置する光扇京に育ったチャグムにとって、波打つ音は初めて耳にするものであった。耳慣れない波の音は心地よい子守唄とはならず、むしろチャグムを落ち着かない気分にさせる。だが、今、チャグムを悩ませているのは、遠い波のざわめきではなかった。
 ぷよーん、とでも形容すべきかすかながらも耳障りな響きが、近づいたり遠ざかったりしながら、さきほどから断続的に聞こえ続けている。まごうことなき、蚊の羽音だ。
 三年前のあの旅でも、やはり蚊には悩まされたものだった。体内の<卵>に導かれるままに青弓川の水源を目指したチャグムは、必然的に川縁や沼沢地を多く旅することになった。それもよりにもよって初夏、にである。サンガルに比べれば冷涼な新ヨゴ皇国でも、さすがにその時期・その場所には蚊が少ないはずがなかった。<卵>に精神を奪われ、その瞳はむしろナユグに向けられていたとはいえ、現実にあるチャグムの肉体は旅の間中、蚊の脅威にさらされたのである。むしろ現実の体にかまうことができなかった分、無防備に蚊に刺されまくったとすらいえよう。夢うつつにさまようチャグムは現実の問題に対処できない。にもかかわらず、現実世界で発生する肉体の不都合だけは、常に存在し続けていたのだ。
 さんざんかゆい思いをしながら、自らの身を害虫から守ることができない。ばかりでなく、刺された箇所を思うままに掻くこともままならない。にもかかわらず、かゆみだけは夢うつつながらも嫌というほど味わわされた。実に不快な経験だったといわざるを得ない。
 バルサらとともにひとりの民として暮らし、ナユグを垣間見ることを許された<精霊の守り人>としての体験は、チャグムにとって得がたいものであった。だが、蚊の襲撃になすすべもなく身をさらさねばならなかったことについては、恨みがましい気持ちのほうが先に立ってしまう。そんなわけで、チャグムは心の底から蚊を憎んでいたのだった。
(ちくしょう、蚊のやつめ。今回は好きにさせるものか)
 光扇京には蚊が少ない。ことに宮殿の奥深くともなれば何らかの手段で駆除しているらしく、めったなことでは蚊に遭遇することもなかった。蚊に深い恨みを抱くチャグムではあったが、この旅に出るまでは蚊に意趣返しをする機会を持つこともなかったのである。
 チャグムは息をひそめて蚊の動静をうかがう。
 と、羽音が止まった。それと同時に、ほほの上にこそばゆいような感覚を感じたチャグムは、狙いをさだめ、ぴしゃりと手のひらを打ちつけた。
 手のひらの下で、何かがくしゃりと潰れたような感触があった。
「やった!」
 チャグムは思わず快哉をあげた。人目のあるところでは聖なるヨゴの皇太子にふさわしく、感情の動きを表に出さないように努めてはいたものの、見張る目のないところでは自然と地金があらわれてしまうのだ。
 チャグムはにっくき蚊の死骸を確かめるべく、寝台を抜け出し、月光の差し込む窓辺へ近づいた。子どもじみている、と思わなくもなかったが、獲物の姿を確認するというひそやかな楽しみを拒否するつもりはなかった。
 月明かりの下で右手を開くと、押し花のように平らになった小さな羽虫が張りついていた。その下に広がっているぺたりとした暗色のしみからは、わずかに鉄くさい臭いが漂う。蚊に吸われたチャグムの血に違いない。神聖な聖王家の血ではあるが、蚊にとっては他の人間のものとなんら変わることのない、ただの糧に過ぎないのだろう。
(こんなに吸われていたのか。道理でかゆいはずだ。だがもうこれでこいつに悩まされることもない)
 傍の卓子に置かれていた手拭で手のひらをぬぐいながら、チャグムは満足げな笑みを浮かべた。
(今夜は月が明るいな)
 窓から差し込む月光に誘われ、ふと外を眺めやったチャグムは、そこに意外なものを見つけた。
 月光に照らし出された中庭に、悄然と立つ人影があったのだ。
(あれは、シュガではないか)
こんな夜更けに何をしているのだろう。チャグムは好奇心に誘われるまま、自らも庭に出てみることにした。


「何をしているのだ、シュガ」
 いきなり背後から声をかけられ、はっとして振り返ったシュガは、そこに皇太子チャグムの姿を見つけ、さらに驚いた。
「殿下。このような刻限にいったい……?」
 半ばとがめるような口調で尋ねるシュガに、チャグムは悪びれない様子で答える。
「寝苦しくてな、窓の外を眺めたらそなたがここにいるのが見えたのだ。それよりもそなたこそどうしたのだ」
「わたしは……星を見ておりました」
 手に持っていた星図と覚書を指し示しながら、シュガは答えた。
「星を? ああそうか、そなたは星読博士だったな」
 一瞬、チャグムの顔によぎった疑惑の表情が、シュガの心にひそかな痛みを与える。
(わたしがまつりごとにかまけすぎていて、星読博士本来のあり方から離れていると思われているのだろうか。殿下は)
 そうではないのだろう。単に夜中に出歩く行為と、シュガのなりわいが結びつかなかっただけに違いない。それでもふとそんな思いが胸をよぎってしまうのは、シュガ自身の中に、そうした自覚が少なからずあるからに他ならなかった。
 『星ノ宮一の英才』とうたわれ、三年前の事件以来皇太子の相談役となったシュガは、将来<聖導師>となる可能性の最も高い人物と目されており、事実、そうなるべき階梯を一歩ずつ上がりつつあった。それはとりもなおさず、新ヨゴ皇国の政治の暗部と深く関わることを意味している。普通の星読博士ならば知ることのない、皇室の小暗い秘密に精通するとともに、ただひたすらに天道に身を尽くすという生き方からは次第に離れている自分に気づき、シュガは形容しがたい複雑なものを感じることが、実はしばしばあったのだ。
 それだけではない。三年前の事件を通してヤクー族の呪術師トロガイの知己を得たシュガは、以来ひそかに彼女と交流を持ち、わずかながらも呪術を学んでいた。トロガイによって示される呪術の世界は、天道の教えるものとはまったく別の世界を垣間見せる。呪術と天道、この異なる世界観をふたつながらに知るシュガは、やはりその点でも普通の星読博士とは違った存在とならざるを得なかったのだ。
 現在の自分のあり方が間違っているとは思わない。むしろ誇らしいとさえ思う。いずれチャグムが帝位についたときには、そのかたわらにあって彼を支え、新ヨゴ皇国を繁栄に導き、星ノ宮の指導者たる聖導師として呪術と天道、ふたつの世界観の統合を図る。多くの人々のしあわせに貢献することができるとともに、彼の野心をも満たしてくれる、輝ける未来像ではないか。
 だが、心なしかさびしいものを感じないではない。憂いを含むことなく星のみを見つめ、疑いを抱くことなく天道に身をゆだねる。そんな、ある意味純粋な生き方は、もう今の彼には許されていないのだ。光り輝く座をはるかにのぞみながら、深淵に横たわる細い一本の橋をひたすらに歩み続ける。迫る深淵の闇は、時として彼自身をも染め替えよう、呑みこんでしまおうと、常にあぎとをひらき、待ち構えている。それでも堕ちることなく、ひたすらに歩みきるしかない。その先にしか未来は生まれないのだから。
(だがわたしはその道を自分で選んだのだ。しかし殿下は……)
 チャグムが皇太子というおのれの地位を疎んじていることを、シュガはよく承知している。穢れを受けた皇族として父王の命によって暗殺を謀られたにもかかわらず、兄皇子の死により皇太子とならざるを得なかったチャグム。三年前のあのとき、確かにチャグムは納得し、自らの意志で宮廷に戻った。だがその決意はむしろ義務感によるものであって、彼自身の心からの望みがほかにあったことは疑うべくもない。
「シュガ、どうかしたのか?」
 黙りこんでしまったシュガに、チャグムが不思議そうに問いかけた。
「いえ、何でもないのです。殿下」
「それにしても、星読博士というものはこのように旅先でも天を読むものなのか」
 感心したように問いかけるチャグムに、シュガは微笑で応じた。
「いえ、そうとは限りません。まあ、そのような場合もありますが。ですが今日のわたしに限っていうならば、ごく個人的な興味から星をみていたのですよ」
「個人的な興味……へえ」
 チャグムの表情に好奇心の影を読み取ったシュガは、言葉を続けた。
「三年前、殿下が<精霊の守り人>として選ばれたとき、わたしは星ノ宮の秘倉に納められたナナイ大聖導師の記録を読むことを許されました。そのとき、大変興味深い星図を見つけたのです。<精霊の守り人>の一件とは直接に関わるものではありませんでしたので、あのときは多くの注意を払うことができませんでしたが。
 今回、このサンガル王国への旅の話が舞い込んだとき、わたしはあの星図を思い出し、ぜひとも南の国の星空を観察したいと思ったのです。その昔、ナナイ師が眺めたであろう空を知るために」
「ナナイ大聖導師の眺めた空……それは、ヨゴにいては知ることができぬものなのか?」
 チャグムの問いかけに、シュガはゆっくりと首肯した。
「天というものは、知らぬものの目には広大無辺で不易のもののように思われますが、実は眺める地点によって、あるいは時刻や季節によって、その相を変えるものなのです。ヨゴの空に輝く星と、サンガルの空に輝く星は、同じ星でありながら、その高度や天に占める位置がいささか異なっております。ナヨロ半島を離れ、さらに南へ向かうならば――すなわち、ナナイ大聖導師の、そしてわれらヨゴ人の故郷である南の大陸では、ここでは見ることのできない星々が天に輝き、同時になじみある星のいくつかが地の底に沈むのだと。
 ナヨロ半島を訪れたナナイ大聖導師は、初めて星空を見上げた夜、とまどいを隠すことができなかったと語っています。星がなじみの座を占めぬ北の地にあって、いかにして正しく天道を読むことができようかと。しかしナナイ師は星空の観察を重ね、新たな地の星図を描き、あるいは半島に元から住む者たちの情報を集め、ついにはナヨロ半島の皇国にふさわしい天道を築き上げたのだそうです。星の座は移れども、天の掟は変わることはない。むしろその移ろいの中にこそ、天の真理がある。ナナイ師の手記にはそう記されておりました」
「それで、シュガが秘倉で見つけた星図とは、どのようなものだったのだ」
 シュガの語りにうなづきを返しながらも、実は結論を知りたくてじれていたのであろう。問いかける声はあくまでも落ち着いていたが、チャグムの瞳に宿る光は、好奇心と性急さを隠せないものであった。
 そんな皇太子の態度を、だがシュガはむしろ好ましく感じていた。
「わたしが見つけましたのは、ナナイ師の故郷、古きヨゴ皇国の星図版でした。
 いにしえのヨゴ皇国は南の大陸の国。われらの知らぬ星々を天に抱く国でした。むろんなじみの星もありますが、知らぬ星も少なくないのです。
 ここサンガルは、いにしえのヨゴの領土、すなわち現在はタルシュ帝国の統治下にある南の大陸と、われらが新ヨゴ皇国との中間に位置しています。ですから、サンガルの空を観察すれば、いにしえのヨゴの空をしのぶことができるかと思ったのですが……」
「が……そうではなかったのか」
 残念そうに問いかけるチャグムに、シュガはうなづいた。
「南に来たとは言えどやはりサンガルはナヨロ半島の国。思ったほどには新ヨゴの空と変わらぬようです。第一、時代が違います。時によって隔てられた誤差と、土地によって生じる誤差、それらを見極めるためには正確な観察記録が必要とされましょう。が、星の座の正確な相を知るためには、異なる日の同じ時刻、同じ場所での観察をある程度重ねなければなりませぬ。このようにただ一夜、漫然と眺めただけでは、正確なことは大してわかりはせぬのです。もっとも、そういったことはあらかじめ承知していたのですが……」
 シュガは苦笑をもらし、言葉を継いだ。
「それでも天を眺めてみたかった。わたしもまた、星読博士。ナナイ師の意志を継ぐものであると、そう確信するために」
「シュガ、そなた……」
 チャグムの言葉を振り切るように、シュガはさらに続けた。
「……<聖光の都>に着いたら、また星読みを試みようと思います。あちらにはしばらく滞在することになりますので、定点観測による記録を重ねることもできましょう。それにかの地はここよりもさらに南。おそらくはナナイ師の星図により近い天をのぞむことができましょうから」
「さすがだな、シュガ」
 感極まったように、チャグムはつぶやいた。
「そなたはやはり星読博士だ。その心のありようは、はるかに天をのぞみ、時を見はるかすものなのだな。その感性を、まつりごとの駆け引きなどですり減らしてほしくはないものだ。それにしても……」
 チャグムは視線を落とし、シュガの足元を見つめた。サンガルの様式で仕立てられた服を身につけ、サンダルを履いたシュガの足は、ふくらはぎのあたりまでが無防備に外気にさらされている。
「星を見ているときは雑念も寄せ付けないのだろうな。その足……」
「え……」
 チャグムの視線を追って、自分の足元に視線を落としたシュガは、思わず息を呑みこんだ。
 さんざん藪蚊にたかられたのであろう。シュガの足が刺し痕でぼこぼこになっているのは、月光の中でもはっきりと見て取れる。蚊の刺し痕を認識すると同時に、猛烈なかゆみが襲ってくるのを覚え、シュガは思わずおのれのすねを掻きむしり始めた。
「わたしには、そなたのように無心に星を見ることなど、とてもできそうもない」
 チャグムの言葉には心からの敬意が読み取れた。だが、なぜか素直に納得できないものを感じながら、シュガはすねを掻き続けるのだった。

おそらく2002年頃の作品。企画ものとして書いた『守り人』シリーズの二次創作。シリアスに見せかけたギャグ。


written by S.Kirihara
last update: 2016/08/28
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