二次創作

遠き日々への挽歌

 ……目を閉じれば、時計の針は逆行する。そこは古ぼけた小さな家。富もなく、地位も名声もなく、だが、そんなものをまるで必要としなかったあの遠い日々、黄金の髪を持つ少女は、午後になるとお菓子作りに精を出していた。
 お得意の巴旦杏(ケルシー)のケーキを焼き上げると、二人の少年が駆け込んでくる。彼女と同じ色の髪を持つ、翼を隠した天使のように美しい彼女の弟と、そのかけがえのない友人であるのっぽの赤毛の少年――。ほこりまみれの手のままで、あわててケーキに手を出そうとする少年たちに、手を洗ってらっしゃいと優しく声をかけ、彼らのために熱いチョコレートを用意する。たとえ家計は苦しく、飲んだくれの父を抱えていようとも、それは彼女にとって――そして、少年たちにとっても――至福のひとときだった。そして、そのしあわせはいつまでも続く――はずだった。
 破局は突然訪れた。ある日、少年たちが帰ってきたとき、彼女は権力と貪欲という名の暴力によって拉致されようとしていた。ときの権力者たる皇帝フリードリヒ四世が彼女を愛人として欲し、帝国騎士(ライヒリッター)とは名ばかりの彼女の父は金銭のために娘を人身御供に差し出すことをいささかもためらわなかった。
「父さんは、姉さんを売ったんだ!」
 金髪の少年は叫んだ。父の行為は、あまりにも非道な、恥ずべきものであった。それはいかなる理由があろうとも許されることではない。彼と彼の赤毛の友人にとって、なにものにも換えることのできないもっとも神聖な存在が、権力や金銭といった世俗の力に屈して不当に彼らのもとから連れ去られるなどということは。
 少年は父をなじり、激しく嗚咽した。だが姉は少年を優しく抱きとめ、そっと耳もとにささやいた。
「仕方ないのよ、ラインハルト、私のことは……。でも、あなたには未来があるわ……」
 ……そして、再び顔をあげた少年の瞳に宿っていたものを、彼女は生涯忘れることができないだろう。蒼氷色(アイスブルー)の瞳の中にゆらぐ、青白い炎――憤りとかなしみ、そして小さな野心の輝きを。あるいはこの瞬間、四百年余にわたって銀河を支配してきたゴールデンバウム王朝の滅亡は決定したのかもしれない。
 そして、少女の心にはもうひとつの瞳も刻みつけられた。深いかなしみと、それすらも包みこむなにものかに満ちた青い瞳――赤毛の少年、ジークフリート・キルヒアイスの瞳も。

 いつの間に、彼は彼女の心の中に、それほど大きな位置を占めるようになっていたのだろう。
 その報せを受けたとき、グリューネワルト伯爵夫人(グラフィン・フォン・グリューネワルト)アンネローゼは、世界が急速に暗く、空疎になってゆくのを感じた。
「……それでは、ジークフリート・キルヒアイスは死んだのですね」
 遠くで、誰かが、そんなことを尋ねている。おのれ自身の口から発せられたはずの言葉は、だが、はるか彼方の虚空から響いてくるように思われた。
「はい、グリューネワルト伯爵夫人」
「ラインハルトの……盾に、なって……」
「そうです」
 オーベルシュタイン参謀長の答えは、冷酷なまでに明瞭だった。光コンピュータを組み込んだ義眼には、感情の色すらうかがうことができない。それはかえって、この嘘のような報告を偽りなき現実として肯定しているもののように思われた。
「……でも」
 アンネローゼの中にかすかな疑問が浮かぶ。でも、どうしてそんなことがありえるだろうか。弟の生命を救うのに、彼、ジークフリート・キルヒアイスは、自分の生命を犠牲にせずともよいはずなのだ。なぜなら……
「ラインハルトは、彼には、式典における武器の携行を許可していたはずです。だから……」
「いえ、ローエングラム侯は、キルヒアイス提督の武器の携行をお許しにはなりませんでした」
 …………ああ。
 アンネローゼは静かにまぶたを下ろした。ああ、ラインハルト、あなたは、あなたは犯してはならない過ちを犯してしまったのね……。
「グリューネワルト伯爵夫人?」
 急に黙りこくってしまったアンネローゼを不審に思ったのか、通信スクリーンからオーベルシュタインが尋ねかけた。その声にアンネローゼは閉ざした瞳を再び開いた。わずかにうるんだ、深青色(サファイア)の瞳を。
「いえ、何でもありません。報告は、それだけですか」
 然り、と、オーベルシュタインが答えるのを見て、アンネローゼは軽くうなずき、通信を切った。

「誰も入らないでください。しばらくひとりにしておいて」
 オーベルシュタインからの超光速通信(FTL)を切ったあと、しばらく放心状態で椅子に座っていたアンネローゼは、やがて立ち上がると、そう言い残したきり、自室に閉じこもってしまった。
 今、ようやく現実は実感を伴って彼女に迫ってきた。深い悔恨と、限りない空虚。彼女は知った。自分たちが、けっして失ってはならないものを、失ってしまったことを。
 目を閉じれば、時計の針は逆行する。はるかに遠い日々へ。富も権勢もなく、だがそれ以上のものをしっかりと握りしめていた、あの日々……。
 赤毛の少年はいた。差し出した少女の白い手に、おずおず伸ばされる少年の少し土に荒れた手を握り、少女は晴れやかに言った。
「ジーク、弟と仲良くしてやってね」
 目をみはり、少年はうなずいた。そして少女との約束を忠実に守った。守り続けた。
 時はめぐる。古ぼけた家に、そして輝きに満ちた日々に少女が別れを告げなくてはならない日にも、少年はいた。黙って見つめる少年に、少女はまたも弟を託した。
 少女が後宮におさめられた後も、赤毛の少年は弟とともに彼女のもとへ訪れた。太陽の輝きを放つ弟の背後に、ひそやかに、だが堅固な存在感をもって。
 皇帝は彼女に限りなくきらびやかで、限りなく陰惨な生活を与えた。広大な屋敷、豪奢な調度や衣装、貴族らの賞賛と嫉視、そして皇帝自身の寵愛……。他人が望みながらも与えられないものをすべて与えられ、しかし彼女は喪失感を味わわずにはいられなかった。そんな彼女の心の空隙を埋めるものは、宇宙にはばたこうとする弟たちの強い羽音と、あの古き日々の記憶に他ならなかった。そして、その記憶の中には、いつも、あのジークフリート・キルヒアイスの瞳があった――。
 めぐる四季の中で、いつしか少女は大人になり、少年たちも青年になっていた。市井に遊ぶ少年少女はそこにはなく、かわりに権力の中枢にある三人の男女がいた。
 皇帝の寵妃と帝国元帥とその腹心の部下。だが、野心家の金髪の青年も赤毛の友に対してだけは特別であるのだろうと、彼女は信じていた。信じていたかった。――少なくとも彼女にとっては、赤毛の青年は、おそらく弟の友人以上の存在だったのだ。
 いつの間に、赤毛の青年は彼女の中にゆるぎない地位を占めるようになったのだろう。今、アンネローゼは深く後悔していた。なぜ、ああ何度もジークに弟を託したのだろう。ラインハルトの身を案じて? たしかにそれもある。でも、それだけなのだろうか。
 ひょっとして、わたしは、ジークを弟の上に、わたしたちの上に、いいえ、わたしの上につなぎ止めておきたかったのではなかろうか。弟を守ろうとする間はジークの心はわたしたち姉弟の上にある。そう期待して――?
 ならばジークを殺したのは、このわたしだ。アンネローゼはつぶやいた。
 ジークを殺したのはわたし自身だ。なぜなら、ジークはわたしとの約束を、古い約束を忠実に守り、そのために死んでしまったのだから。
「ああ、ジーク……」
 アンネローゼの声は小さかった。わずかにふるえてもいた。
「ジーク、あなたがもっと不実な人間だったらよかったのに。そうすれば、わたしも、ラインハルトも、あなたを失わずにすんだかもしれないのに……」

 通信スクリーンに映った弟は余りにも痛々しく見えた。これほどに打ちひしがれ、おびえたように見つめる彼を、アンネローゼはいまだ見たことがなかった。
「姉上――」
 やっとのことで、ラインハルトは最初の一言をつむぎ出した。
 アンネローゼは彼を見つめた。弟の蒼氷色(アイスブルー)の瞳にも、すでに涙はなかった。
「かわいそうなラインハルト……」
 彼女の声は低かった。だが、どんな罵声よりも深く、ラインハルトの心をえぐった。
「あなたはもう、失うべきものを持たなくなってしまったわね。ラインハルト」
 ラインハルトは絶句した。アンネローゼの声は淡々としていた。しかし、いや、だからこそ、ラインハルトは姉に言うべき言葉を失ってしまったのだ。
「……いえ、まだわたしには姉上がいます。そうですね、姉上、そうでしょう?」
「そう、わたしたちはおたがいの他に、もう何も持たなくなってしまった……」
 わたしたちは失うべきではないものを失ってしまった。犯すべきでない過ちを犯してしまった。おろかな、自分たちのわがままのために。だから……。
 もう、弟のそばにいることはできないと、アンネローゼは思った。彼らをつなぐものは絶たれてしまった。輝かしい日々は二度と戻らない。なぜなら、ジークフリート・キルヒアイスを殺すことによって、彼らはそれを取り戻す権利を永久に喪失してしまったのだから。
 自分たちの生きる道はすでに異なっている。ラインハルトは未来に生きなければならない。喪われたキルヒアイスのためにも。彼とキルヒアイスの誓いはいまだ果たされていないのだから。だがアンネローゼは……。
「ラインハルト、わたしはシュワルツェンの館を出ます。どこかに小さな家をいただけるかしら」
「姉上……」
「そして、当分はおたがいに会わないようにしましょう」
「姉上!」
 姉は自分を見捨てた。ラインハルトはそう解釈した。だが、当然ではないか。そうなってしかるべき罪を、自分は犯してしまったのだから。
「わたしは、あなたの傍にいないほうがいいのです。生きかたが違うのだから……わたしには過去があるだけ。でも、あなたには未来があるわ」
 ラインハルト、あなたはたぶん誤解している。わたしは、あなたに対し怒っているわけではない。わたしはおそれているのよ。あなたが立ち止まってしまうこと。過去の世界に生きることを。もしわたしと一緒にいれば、あなたは過去に逃れようとするでしょう。わたしには生きるべき未来がない。でもあなたには未来がある。いえ、あなたは未来に生きなくてはならない。
「……疲れたら、わたしのところへいらっしゃい。でも、まだあなたは疲れてはいけません」
 あなたは権力を手に入れた。そしてその代償として、あなたは歩き続けなくてはならない。立ち止まってはならない。時間を逆行してはいけない。……でも、わたしがおそれているのは、それだけではないのかもしれない。
 アンネローゼは思う。わたしがおそれているのは、他ならぬわたし自身なのだ。このままラインハルトの傍にいれば、彼を憎んでしまうかもしれない。自分の罪は棚上げして、ジークの死を弟のせいにしてしまうかもしれない。現に今でも、わたしはラインハルトに対し、必要以上にかたくなな態度をとっているのではないか――。
 ラインハルトはうなだれていた。喪ったものと、手に入れるべきもののおおきさにおののいて。二人でならば、できないことは何もなかった。だがひとりでは! おおきすぎる、おおきすぎるのだ、キルヒアイス。だが俺は……。
 ラインハルトは姉の言葉を容れた。もうこれ以上、自分のわがままを姉に押しつけ、彼女を悲しませたくなかった。だが、ひとつの問いを姉に問うた。長い間、ひそかに抱いてきた疑問だった。だが今日に至るまで、けっして口にすることはできないと思ってきた問いだった。それはほとんど確認ですらあった。姉の答えをラインハルトは充分に予想することができたのだから。
「姉上はキルヒアイスを……愛していらしたのですか」
 アンネローゼは答えなかった。すきとおった、あまりにもかなしい表情をたたえ、じっと弟の顔を見つめていた。
 ……アンネローゼは答えられなかった。然り(ヤー)と答えるには自分はあまりにも罪深い。その権利は自分にはないと彼女は思った。しかし否(ナイン)と答えることもできなかった。いまさらおのれを欺き、偽る必要はないのだから。
 しかし、これは本当に女が男に抱く“愛”なのだろうか。彼のまなざしにあったものはあまりにも透明で、そして彼女の中にあったものもまたあまりにも静謐にして複雑で、宮廷で語られているそれとは、ずいぶんとかけはなれたものであった。だがアンネローゼは思う。これもひとつの“愛”なのだろうと。ひとの想いは規範に従うものでなく、他者と重なり合うものとも限らない。銀河の星を数え尽くすことができないように、ひとの心のありようもまた、ひとの数だけあったとしても、何の不思議もないのだ。
 そしてラインハルトは、姉の答えを諒解していた。

 ……目を閉じれば、時計の針は逆行する。幼い三人が笑いあう、昼さがりの裏庭へ。しかし過ぎ去りし時を取り戻すことはできない。追憶の流れにたたずんでみても、所詮、それは過去の幻影――。
 ラインハルトは艦橋にたたずみ星の大海を眺めやる。右手で胸にかけた銀のロケットをまさぐりながら。
「宇宙は大きいな、キルヒアイス」
 黄金の髪の若者は、そっとつぶやいた。
「ひょっとすると、俺の手には余るかもしれない」
“いいえ、ラインハルト様以外の誰に、宇宙を手に入れることができましょう”
「キルヒアイス――?」
 彼の声を聞いたように思った。振り返ってみても、彼の姿はない。が――
「そうだな、キルヒアイス。俺以外の誰に、それができよう」
 ラインハルトは胸のロケットを開き、中から一筋の髪を取り出すと、宇宙の星々にかざした。血のように紅い、亡き友の髪を。
「見ていてくれ、キルヒアイス。俺は宇宙を手に入れる。必ずお前との誓いを果たす。お前が俺に命をくれたのだから――」
 友人の答えはない。だが、宇宙の深淵に輝く星々若者の言葉にこたえるかのごとく、強くまたたいた。


 高校生の頃に勢いで書いたもの。中2病な遺物を発掘して見つけました。いろいろ恥ずかしいシロモノですが、やりたいことも文章のクセも、今とあんまり変わっていないのかも。
 高校生当時は銀英伝に大変はまっておりました。これは帝国サイドのお話ですが、どっちかというと同盟(というかヤン)のファンでした。

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柊館
written by S.Kirihara
last update: 2014/10/09
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