剣持つ乙女
4.
エリオットとの一件を、ラケシスは誰にも明かさなかった。
知るのはラケシスとエリオットと、名を聞くこともなかった傭兵らしき男のみ。
不問に付すべきだと思ったからだ。明かせばただごとですむはずもない。
だが、エリオットのあのふるまいは、ラケシスの心に大きな傷痕を残していた。
あのとき、エリオットが酒に酔い、おのれを失っていたことはわかっている。素面であれば、さすがにあそこまでのふるまいはしなかっただろう。だが、エリオットが普通の状態ではなかったことを差し引いても、どうにも我慢のならない、固い感情のしこりが腹の奥底でくすぶっている。
何よりも許しがたいのは、そんなふうに扱ってもよいと思わせてしまったラケシス自身の有りようなのだ。
――売女の娘
私生児として生まれたのは、どうあっても拭うことのできない汚点なのか。
男をたぶらかし、誘惑する女。ラケシスの母が、そしてラケシス自身もそういった類の女だと思ったからこそ、エリオットは無軌道な行動に出たのではないか。
違う。お母様はそんな女性ではなかったのに。
亡き母クロエのことはよく覚えている。生前は母とは知らず、姉だと思い込んでいたが。
クロエは美しく凛々しい人だった。立ち居ふるまいはきびきびとして、語る言葉は飾らず控えめ。清楚でありながら、いつもどこかさびしそうな人だった。
あのような人を売女と呼ぶならば、宮廷に集う女などみな売女ではないか。父や兄の気を引き、かなうことならばその寵を得ようとする貴婦人は掃いて捨てるほどいるというのに。
母が父の思いを受け入れ、そして自分が生まれた。それはそんなに責められなくてはいけないことなのか。生まれたときの事情など、ラケシス自身にはどうすることもできないというのに。
――頭を上げ、誇りを抱いて生きよ。お前の誕生を祝福できなかった者たちがいるのは事実だ。だが、お前が、お前自身を呪うようなことは、決してあってはならない――
かつてエルトシャンがラケシスに告げた言葉だ。
その言葉がどれほど自分にとって特別なものであったのか、ラケシスは今更ながら気づく。
(やはり兄さまに話すべきなのだろうか)
エリオットのふるまいすべてを話すつもりはない。だが、ラケシスにとってエリオットが受け容れがたい存在であることを伝えるのは、むしろ必要なことなのではないか。
あのようなことがあった後で、なおもエリオットを自分の結婚相手とみなすのは難しい。ラケシスはそう感じていた。
ノディオンの王女としての義務は果たさねばならない。その覚悟はある。だか、もし選ぶことができるならば、あのエリオットのもとになど嫁ぎたくはない。
(ともかくエルト兄さまにお会いしよう。お会いして、お話ししてみよう)
執務室を訪ねたラケシスに、エルトシャンは庭園で寛いでいると家宰は告げた。
冬にしては暖かい午後だった。
常緑の灌木で仕立てられた迷路のような生垣を抜け、ラケシスは庭園の奥に設けられた四阿を目指した。
名残りの秋薔薇の深紅が、冬の午後の淡い日差しの中、ひときわ鮮やかに目に映る。
紅葉した葉をわずかに枝に残した木々の合間に、ラケシスは金の髪を持つ後姿を見つけた。
駆け寄ろうとした。だがその隣に寄り添う人影を認め、ラケシスは足を止める。
兄の隣にはグラーニェがいた。
ふたりは四阿の椅子に腰掛け、何事かを語り合っていた。
グラーニェはエルトシャンの胸元に頭をもたせかけ、エルトシャンはグラーニェの肩に腕をまわしている。
何を話しているのか、ラケシスの位置からはほとんど聞こえない。だが、彼らがいかにも親密な様子であることだけは伝わってくる。
風に乗って、軽やかな笑いが漏れ聞こえた。
(あ……)
ラケシスは踵を返し、逃げるようにその場から立ち去った。
転がり込むように駆けこんだ先は薬草園だった。
冬でも緑を残しているマンネンロウの刈り込みの脇にしゃがみ込んで、ラケシスは息を整える。
うっかり踏みつけてしまった足元のタチジャコウソウから、ふっと青臭い香気が匂い立つ。
その爽やかな芳香はエルトシャンを連想させた。兄が好んで使う香油や塗り薬と同じ香りなのだ。
(エルト兄さま……)
ラケシスは先ほどの情景を反芻していた。
踏み込めなかった。
エルトシャンとグラーニェ。
寄り添いあうふたりに、ラケシスは声をかけることができなかった。
義姉に聞かせられないような話をするつもりではなかった。
だが。
ふたりの間に分け入ることができない。そう感じた瞬間、反射的にラケシスはその場から逃げ出していたのだった。
(でも、なぜ)
ラケシスはグラーニェを嫌っているつもりはなかった。
レンスターから嫁いできた義姉は、育ちの良さを感じさせる品のいい貴婦人だ。苦労を知らずに育ったゆえの思いの至らなさや線の細さに閉口することもたまにあるが、基本的には優しくたおやかな、好ましい人物である。
今年の初めには兄との間に子供も生まれている。大切にし、穏やかにつき合っていくべき相手と心得ている。
なのにあの時、ラケシスがグラーニェに対し抱いた感情は。
(邪魔しないで。わたしから兄さまをとらないで)
あの一瞬、ラケシスはグラーニェを疎ましいと思った。
兄の隣にいるべきは彼女ではない。自分だ。
そう感じている自分に気づいたからこそ、逃げ出さずにはいられなかった。
(駄目なのに。そんなことを願ってはならないのに)
兄嫁を疎ましいと思った瞬間、ラケシスは気づいてしまった。
自分がエルトシャンに対して抱いている想いが、どのような種類のものであったのかに。
(わたしが、お義姉さまの位置にいたかったのだ……)
だが、それは望んではならないものだ。エルトシャンは彼女の実の兄なのだから。
エルトシャンに必要とされたかった。エルトシャンに求められたかった。エルトシャンにとっての一番でありたかった。
それは単に、兄にとって有用な人間でありたいといったものではない。
エルトシャンの、もっとも傍近くに在るものになりたい。
そう、伴侶として、人生を分かち合う唯一無二の男と女として、その傍にありたかったのだ。
どうしたらいいのだろう。
自分の願いは決して叶わない。いや、叶えてはならない類のものだ。
だが、たしかにそれは自分の中に存在している。
秘めるべき想いとどう向き合い、いかに折り合いをつけていけばいいだろう。ラケシスは途方に暮れるばかりだった。