剣持つ乙女
5.
明けてグラン暦七五七年、ユグドラル大陸は激動の時を迎える。
イード砂漠の都市ダーナがイザークによって侵略を受け、その報復としてグランベルはイザークへの侵攻を開始した。これを嚆矢として、グランベルをとりまく諸国もまた、戦乱の渦へと巻き込まれていく。
西の蛮族と呼ばれるヴェルダンが、イザーク出征で手薄となったグランベルのユングヴィ公国に突如として侵攻を開始する。領主不在のユングヴィは落城の憂き目をみるが、盟友たる隣国シアルフィのシグルド公子がすぐさま出陣、瞬く間にユングヴィ城を奪還した。そしてそのまま、奪われたユングヴィ公女エーディンを取り戻すべく、ヴェルダンとの国境に軍を進めた。シグルドは国境の城エバンスを制圧すると、ここを新たな拠点としてヴェルダン国内へと進軍を開始する。
このようなグランベルの動きを受け、アグストリアにもまた戦を求める動きが起こった。
アグストリア諸侯連合のハイライン王国は、シグルド軍がヴェルダン国内へ侵攻したのを好機とみなし、手薄となった国境のエバンスに兵を向けた。だが、このハイラインのエバンス侵攻は、ノディオン王エルトシャンによって食い止められることとなる。
やがてシグルド軍はヴェルダン全域を制圧する。かくして西の蛮族ヴェルダンは独立を失い、グランベルの保護下に入った。
王国聖騎士の称号を与えられたシグルドは、エバンス城に滞在するようグランベル本国から命じられる。エバンスはグランベルの西端であり、アグストリア・ヴェルダン両国と境を接している。シグルドはグランベル西方の実質的な守備を任されたようなものであった。
境を接する国の主として、かつ、かつて青春を共に過ごした友として、エルトシャンはエバンスに赴き、城主となったシグルドと旧交を温めた。
グランベルとアグストリア、両大国の思惑がいかなるものであったにせよ、エルトシャンにとってシグルドはかけがえのない友であり、逆もまた真であった。シグルドとエルトシャン、それにレンスターのキュアンの三人は、迫る戦雲を感じつつも、今はただ純粋に再会を喜びあい、互いの幸福を嘉していた。
エルトシャンがエバンスから戻るのと前後して、シグルドから結婚式の招待状が正式に届けられた。
招待状にはエルトシャン夫妻に加えて、王妹ラケシスの名前もあった。
去年の冬にハイラインから舞踏会に招待されたときとはうってかわって、エルトシャンは大層乗り気であるらしく、このところずいぶんと機嫌がいい。ラケシスに対しても、エバンスでシグルドの妹たちと仲良くしてみるといい、などと勧めてくるのだった。
一方のラケシスは、エバンスでの婚礼を、正直あまり楽しみにはしていなかった。
昨年のハイライン城での記憶を、ラケシスはいまだに引きずったままだった。社交の場に出て見知らぬ人間と交流を持つなど、かなうならば避けたかった。だが王家の一員である以上、そうも言ってはいられないことも、ラケシスはわきまえていた。
加えて、グランベルの人間と交流を持つことが果たしてノディオンにとって益があるのだろうかと、疑問に思ってもいた。
今、アグストリア諸侯連合はむしろ反グランベルに流れつつあるように思われる。アグスティのイムカ王はグランベルとことを構えるのは望ましくないと考えている。だが、諸侯たちはむしろグランベルとの戦を望んでいるのではないか。
また、グランベルの側ではどうなのだろう。本当にアグストリアと平和な同盟関係を続けていくつもりなのだろうか。イザークのことといい、ヴェルダンのことといい、近頃のグランベルはなにやらきなくさい感じがして、どうも信用ならない。
こういった疑問を、ラケシスはそれとなくエルトシャンに投げかけてみた。
「たしかにグランベルは信用ならないし、アグストリアの諸侯たちも戦を望んでいるのかもしれない。だが、ラケシス、たとえそうであったとしても、俺はシグルドを信じて平和への道を模索したい。グランベル本国の意図がどうであれ、シアルフィのシグルドは信頼のおける人間だ。それは間違いないのだから。
イムカ陛下は平和を好むお方であられる。だからこそミストルティンを担う俺をグランベルへ送り出したのだと思っている。俺はグランベルという国を知り、シグルドやキュアンを友と呼ぶようになった。
個人の間の友情や信頼が国を動かし平和を招く、そんなものはおそらく夢物語だ。
だがそれは、かくあれかしと願ってやまない夢でもある。
良き絆を、そしてその絆が生む良き循環を求めることにより、良き未来が訪れる。
ただの夢想であるのかもしれない。だが俺は、その可能性を最後まで捨てたくはない」
エルトシャンの言葉は、一国の王としてはあまりにも理想主義的であるようにラケシスには思われた。だが、そんなエルトシャンであるからこそ、自分は惹かれてやまないのだと、改めて気づくのだった。
エバンスに赴く直前になってグラーニェが体調を崩した。医師の見立てではただの夏風邪だろうということだったが、無理を押して行くほどではないという判断から、グラーニェはノディオンに残り、エルトシャンとラケシスがふたりでエバンスに向かうことになった。
実際のところ、今回の婚礼に関しては、シグルドとエルトシャンの繋がりを公的な性質のものとして示すよりは、私的な友人関係として扱ったほうが何かと無難ではあった。ノディオン王がエバンス城主を訪ねるのでも、ミストルティンの保持者がティルフィングの継承者を訪ねるのでもなく、友人が友人の結婚祝いに訪れるという形を内外ともに示すほうが、今の情勢下においては問題が少ない。そういう意味合いからしても、妻グラーニェまでもがあえてエバンスに向かう必要はないと言えた。
義姉を交えず兄のみとともにエバンスを訪ねると決まって、ラケシスは内心ほっとしていた。
おのれの胸の裡にあるものを自覚して以来、ラケシスはグラーニェとどう向き合えばいいのかわからなくなっていた。憎いわけでは決してない。だが、その存在を肯定的に捉えることもまた難しかった。彼女が兄にとって必要な存在であることは理解していたが、仲睦まじく寄り添いあう兄と義姉を目にすると、えぐられるような苦痛を覚えるのだった。
いっそ遠方に嫁いでしまって兄と義姉の姿を日々目にすることがなくなれば、この痛みも消えるのかもしれない。とは言え、最も婚約者に近い男とはあのようないきさつがあったばかりだし、嫁ぎたいと思えるような相手が他にいるわけでもない。
癒しがたい痛みと深い迷いを抱えたまま、ラケシスは廻る日々をただ見送っていた。