二次創作小説

剣持つ乙女

2.

「間違っていたかもしれない――」
「え?」
 声に出すつもりではなかった。だが、頭の中をよぎった言葉は、声になってもれ出ていた。
「ああ、なんでもないの。ごめんなさい、マリアンヌ」
 ラケシスは、着付けを手伝っている侍女に、慌てて声をかける。
「それならいいのですが」
 ラケシスの背中のボタンをはめていた侍女は、手を止め、心配そうな声で言った。
「ハイラインに来て以来、お元気がありません。少し気がかりなのです」

 マリアンヌは三年前から、ラケシス付きの侍女を務めている。
 彼女はラケシスの母方の祖父の親友の姪で、その縁故でラケシスの侍女となった。年齢はラケシスより三歳年長の十八歳。濃い褐色の髪と明るい茶色の瞳を持つ、おしゃべりで朗らかな娘だ。小柄な体つき、くるくると動く表情、闊達に動き回るさまは、髪の色も相まってか、どことなく栗鼠を思わせる。騎士の家に生まれただけあって、乗馬を好み、多少ではあるが剣の心得もあった。その半面で、刺繍や機織といった女性に求められる手仕事も得意で、ラケシスが身の回りに置いている小物類は、多くが彼女の手によるものだった。
 この三年間というもの、ずいぶんとマリアンヌに支えられてきた。ラケシスはそう感じている。
 マリアンヌがラケシスのもとに上がった当時、正妃レオンティーヌと彼女におもねる者たちは、ことあるごとにラケシスにつらくあたっていた。だが二年前、エルトシャンが王位を継いだのをきっかけとして、レオンティーヌは修道院に隠棲した。以降、ノディオン宮廷におけるラケシスの立場はかなり改善されたが、それでも私生児であるラケシスを軽んじるものは少なからず存在している。
 そんな中にあって、マリアンヌは一貫してラケシスの味方――腹心の友といっても差し支えないような、数少ない味方のひとりだった。
 マリアンヌは常にラケシスの立場に配慮し、表面上はいたって礼儀正しい態度を保っていた。だが二人きりの時には、ラケシスに敵対する者たちに対し、怒りもあらわに、痛烈な、それでいてどこか滑稽な批判を浴びせたりもする。ただ、もともと楽天的な性格であるせいか、マリアンヌのそうした言葉は明るくからりとしていて、いわゆる陰口に含まれる陰湿さとは無縁だった。
 こういったマリアンヌの言葉や態度によって、ラケシスは勇気づけられ、自分に向けられた悪意を笑い飛ばすことができるようになった。こうして、友とも呼ぶべき侍女は、精神的な面でも女主人を支え、励ましてきたのである。

「大丈夫よ。慣れない場所で、慣れない務めを果たすことに疲れただけだから」
「もう少しの辛抱ですよ。今夜の舞踏会が終われば、ハイラインでの行事も終わります。明日にはノディオンに帰れますから」
「そうね……」
(いけない。気をつけないとマリアンヌに心配をかけてしまう)
 本当はちっとも大丈夫ではなかった。ラケシスは当惑し、疲れきっていた。

 わたしはエリオットに耐えられるだろうか――
 王家の婚姻はもとより政治的なものであり、細かな情の通い合いを期待するのは間違っている。それくらいのことはラケシスも覚悟していた。とは言え、手を取られるだけで鳥肌が立つような相手を夫とするのは、さすがに無理なのではないか。曲がりなりにも『夫婦』なのだから。
 特にラケシスには、ヘズルの血脈に連なる者として、聖戦士の血を絶やさず繋げていくことが求められている。そのためには、どうにも避けようのない夫婦の営みが存在するはずだ。だが、あのエリオットとそういった関係を持つなど、考えるだけでも怖気立つ。
 もっとも、そういった男女の間柄で行われることについて、ラケシスはまだ単に知識としておぼろに知るのみなのだが。

 それにしても、こんな状態で今夜を切り抜けられるのだろうか。
 ハイライン滞在の最後の夜となる今夜は、仮面舞踏会が催される。
 今夜の宴が仮面舞踏会であることに、ラケシスの兄エルトシャンは懸念を抱いていた。
 仮面舞踏会は無礼講の宴である。仮面で顔を覆うことにより、人々は身分を離れ、自由にふるまうことが許される。だが、時として自由が行き過ぎ、破廉恥な行為に及ぶ輩もいるという。そのような宴の席は、正式なデビューを果たしていない少女にふさわしい場所とは言えないのではないか。
 不安を隠さない兄に、ラケシスは言った。
 ――ハイラインの方々も、王家の誇りと威厳を重んじているはずです。公的な場で、何か無体な真似をするとも思えません。わたしもノディオンの姫として、しかるべきふるまいを心がけます。たしかにわたしは幼く、経験も乏しい身です。ですが、ノディオンの威光を貶めるようなふるまいは断じていたしません――
 ノディオンの城にいたときには、その言葉のままにふるまいきる自信があった。だが実際にハイラインを訪れ、エリオットと対面した今となっては、自分は愚かで自信過剰な小娘に過ぎなかったのかと思えてくる。
(わたしは間違っていた。エルト兄さまが正しかった)
 抑えきれぬ不安を懸命に押し隠して、ラケシスは侍女の促すまま、今夜の身支度を整えていった。

「ラケシス様、よろしいでしょうか」
 扉の外から呼びかける声があった。
「見てまいりますね」
 ラケシスの髪を整えていたマリアンヌは、手にしていた櫛を脇へ置き、廊下に続く扉へと向かう。
「あ、イーヴ」
 扉の入り口に立っていた者に呼びかける侍女の声には嬉しそうな、どこか気安い響きがあった。
「ラケシス様、準備は整いましたでしょうか? お出ましの時間が迫っております」
 ノディオンの聖騎士イーヴは一礼すると、几帳面そうな調子でラケシスに問いかけた。
「あらかた整っていますが、まだ多少、仕上げが残っています。もう少しだけ、待ってもらってもよくて?」
 そう返しながらも、ラケシスは部屋の入り口に立つ青年を差し招き、室内へ入るよう促した。
 マリアンヌはラケシスの髪をくしけずり、手早くカールを整えていく。
「明けの明星……ですね。事前にうかがってはおりましたが、これは……」
 ラケシスの姿を目にして、イーヴは賛美の溜息をもらした。

 仮面舞踏会では、おのおの主題を決め、仮装に近い装いをする。
 ラケシスは淡い象牙色の光沢のある絹地に薄い紗を重ねた、くるぶしが隠れるほどの丈のドレスに身を包んでいた。ドレスの随所には細かなビーズがちりばめられ、星が瞬くような輝きを添えている。胸元には、星を意匠としたものと思われる首飾りがひときわ大きな存在感を放っている。首飾りの中央には透明度の高い黄金のトパーズが置かれ、その周囲に無数の小粒のダイアモンドがあしらわれている。
 それは若い王女にふさわしい、清楚で気品高くありながらも、贅沢な装いだった。

「品位を落とさず無難で、それでいて印象に残る装いを、と思ったのだけど、なかなか難しくて」
 仮面舞踏会で用いる装束は、動物をモチーフにしたものが多い。だが、動物のモチーフはともすれば扇情的なイメージに繋がりやすく、若いラケシスに似つかわしいとは言い難かった。
「みごとです。まことノディオンの王女にふさわしいお姿かと」
「イーヴ、ラケシス様をお願いね」
 心配そうな面持ちで、マリアンヌが言う。マリアンヌは舞踏会には出ず、控えの間でラケシスを待つ。だが、聖騎士イーヴはエルトシャンの近侍として舞踏会に列席することになっていた。
「君に言われるまでもない」
 イーヴとマリアンヌの応答は親しげだった。彼らは結婚を約した間柄で、この冬にはマリアンヌはイーヴの許へ嫁すことが決まっている。
「それにしても……ラケシス様、本当に気をつけてくださいね」
 エリオットには女性絡みのよくない噂が少なからずある。それを知っているからこそ、エルトシャンもあれほど憂えていたのだ。
「わかっているつもりよ、マリアンヌ」
「イーヴも……なるべくラケシス様をおひとりにしないで」
「無論だ」
 いささかそっけない、だが力強い調子でイーヴが答える。
「では行きましょう」
 内心の不安を押し隠し、ラケシスは凛とした声で告げた。

←BEFORE / ↑INDEX /↑TOP / NEXT→


written by S.Kirihara
last update: 2016/04/27
inserted by FC2 system