FE聖戦20th記念企画

光を導くもの(後)


 マンスターの解放からほどなくして、解放軍はミーズ城の攻略に向かった。ミーズを落した後は、今度はトラキアへと軍を進めることとなった。
 これまでの戦いでは、解放軍は歓呼の声とともに民衆に受け入れられてきた。だが、トラキアでは事情が違った。セリス率いる解放軍をトラキアの民は侵略者と見なして抵抗を示したのだ。トラキア王トラバントは解放軍との戦いで命を落とし、その後を継いだアリオーンもまた、解放軍に従うことを潔しとしなかった。
 トラキア城前の戦いでアリオーン王子を破ったセリスは、そのままトラキア城を陥落させる。かくして、トラキア王国の戦いは終結し、解放軍は再び帝国領へと軍を進めることとなった。


 トラキアを後にした解放軍は、メルゲンを経由してミレトス地方へと向かう。
 ミレトス地方の諸都市は、かつては自治権を有する自由都市として知られていた。だが現在では完全に帝国の支配下に置かれている。
 解放軍が最初に向かったのは自由都市ペルルークだった。
 ペルルークの攻防は熾烈を極めた。ミレトス地方においてはロプト教団が大きな力を振るうようになっており、敵兵にもロプトの魔道士が多く混じっていたからだ。
 だが、激しい攻防の末、解放軍は勝利を収めた。
 折りしも季節は厳冬に入ろうとしていた。セリスは補給と休養を兼ねて、春までの間、このペルルークの街で英気を養おうと決断したのだった。


 トラキア王国での戦い、そして自由都市ペルルークの攻防でも、セティは常にアーサーの動向を気に留めていた。
 アーサーは神器フォルセティの継承者だ。解放軍に所属する魔道士の中では、最大最強の――まさに切り札というべき存在となっている。アーサーが向かう場所は常にもっとも危険な戦場だった。
 セティは気が気ではなかった。あの幻視はいつかきっと現実のものとなる。だが、軍師レヴィンはセティの幻視を知りながら、常にアーサーを前線に送り出している。ならば彼を危険に晒さないように、自分が目を光らせていなくては。


 最初の頃は、アーサーに対して特に親しみを感じていたわけではなかった。だが、そばに身を置くうちに、自然と交流が増え、次第に彼を深く知るようになっていった。
 初対面での印象どおり、アーサーは気さくで明るい気質の持ち主だった。本人は人間嫌いだと言っているが、人づきあいは決して悪くない。魔法の研究にも熱心で、そういった分野では特に会話がはずんだ。
 アーサーとフィーの関係に気づいてからは、彼を死なせたくないという気持ちはさらに強まった。まだ決定的な関係には至っていないようだが、妹はたぶん、アーサーに恋している。そしておそらく、アーサーもまた。妹はただひとりで母を看取った。身近に感じている誰かをまた妹が喪うことになるなど、考えたくもない。


 そして、アーサーの傍らには、その妹ティニーがいた。
 マギ団を率いていた頃、ティニーの噂は何度か耳にしていた。ブルームの姪で、若いながらもフリージ家の名に恥じない力ある魔道士なのだという。だが同時に、むごい真似は好まない、心優しい娘だとも聞いた。民から聞く彼女の噂は、むしろ好意的なものが多かったように記憶している。
 実際に顔を合わせてみると、ティニーは内気で控えめな娘だった。セティがマギ団の頭領であったと知ると、恥じ入るような声でフリージ家の蛮行を詫びた。詫びることなどないと告げると、ティニーは困ったような表情を浮かべ、その後で、はにかむようにふわりと笑った。その笑顔がなぜか強く心に残った。
 いつもあんなふうに笑えばいいのに。そう思うのに、ティニーが柔らかな笑顔を見せることは稀だった。あの笑顔が見たくて、気づけばセティは頻繁に話しかけるようになっていた。喜んでもらえたときには舞い上がるほどに嬉しく、あまり楽しんでいないように見えたときは、どうにも心が沈んだ。他の者と親しくする彼女を見かけると、喜ぶべきことなのだと思いつつもやきもきとして落ち着かず、そんな自分に気づいて当惑するのだった。


 もしアーサーが死ぬようなことになれば、フィーやティニーはどれほど悲しむことだろう。彼女らだけではない。おそらく自分も……とんでもない痛手を負うことになるに違いない。


 今のところ、アーサーが死の淵に立たされるような事態は起こっていない。アーサーの持つフォルセティは神器の名に恥じない桁違いの力を秘めている。戦場でその傍らに立つ時、守られているのはむしろ自分のほうかもしれない。
 それでもセティは不安だった。マンスター城で垣間見た幻視の中では、見知らぬ薄暗い部屋の中で、アーサーが蒼ざめた顔で横たわっていた。
 あの光景が現実のものとなるなどと、思いたくはなかった。だが、自分の予知は今まではずれたことがない。ならば、あの幻視は、どうあがいても避けることのできない未来なのだろうか。


 季節は春へと移り変わっていた。
 帝国の支配によって痛めつけられていたペルルークの街は、新たな市長の施政の下で蘇りつつあった。解放軍もまた、次の戦場へ向かうべく、日々準備を進めていた。
 最初に目指すべき場所は、南西に位置するクロノス城だ。
 この城を治めるヒルダには、とかく悪い噂がつきまとっている。夫ブルームが積極的に取り組もうとはしなかった子ども狩りを、ヒルダはむしろ熱心に推し進めていて、クロノス城の周辺では日々子どもたちが狩り集められているという。ばかりでなく、暗黒神ロプトウスに生け贄を捧げる儀式までもが行われているのだという噂すらある。


 ヒルダはまた、ティニーやアーサーにとっては憎むべき相手だった。彼ら兄妹の母親であるティルテュは、フリージ家に連れ戻された後、ヒルダから執拗ないじめを受けていたらしい。亡くなったブルーム王は自分の実の妹であるティルテュに対して、むごい扱いをしようとは考えていなかったようだが、ヒルダは夫の目を欺いてティルテュへのいじめを繰り返し、心身ともに痛めつけた。ティルテュの死後は、彼女の娘であるティニーに対して、冷酷で残虐なふるまいを続けていたのだという。
 ティニーが誰かに対して、怒りや憎しみといった強い感情を示すことはあまりない。だが、ヒルダに対してだけは違っているようだ。明確な嫌悪――いや、憎悪と呼んでも差し支えないような感情を抱いているように見える。もし解放軍がヒルダと戦うというならば、先鋒として立ち向かうのは自分の役割だとまで言ってのけたことがあった。


 そんなティニーのことを兄アーサーは案じていた。
 妹に手を汚させるわけにはいかない。そう言って、アーサーはクロノス城方面に向けて早駆けする騎馬部隊に加わった。
 セティはアーサーとは別行動を取っていた。ペルルークの周辺に集まった暗黒魔道士たちに光魔法ライトニングで立ち向かい、あるいは仲間たちを癒しの杖で治療しながら、騎馬部隊よりはいささかゆっくりとした速度でクロノス方面へと向かっていた。
 騎馬部隊が先行し、歩兵は後方の安全を確保する。理にかなった適切な作戦のはずだった。

 だが、このときアーサーから目を離していたことを、セティは後悔することになる。


*****************


 歩兵部隊の第一弾がようやくクロノス城に到着したとき、城内は一種異様な雰囲気で満たされていた。


「何があったんです?」


 驚いて問うセティに、オイフェが答える。


「アーサーが戦死した」
「何ですって。いったいなぜ」
「采配がまずかった。そうとしか言いようがない。敵の騎馬部隊を率いる指揮官と接触して――斬り伏せられたのだ」
「そんな、まさか……相手はいったい」
「ラドスのリデール将軍。もとは皇帝アルヴィスの親衛隊を率いていた人物だ。ユリウス皇子の台頭によって任を解かれ、ラドス城の守備隊長に就いていたのだと聞いた。たしかに並ならぬ腕前の持ち主だった」
「このことを、フィーは……」
「フィーは別行動を取ったままだ。まだこの城には戻っていない」
「そうですか」
「あのときアーサーは平常心を欠いていた。それは確かだ。だが我々にも油断があった。まさか彼が……」


 やられるなどとは思いもしなかったのだ。沈痛な面持ちでそう述べるオイフェに、セティはうなずき返す。
 そう、あの幻視を見ているセティだって信じられないのだ。あのアーサーが、こんなにあっけなく命を落すなどとは。
 だが、人の生き死にとは、そのようなものなのかもしれない。


「それで、アーサーは……今、どこに」
「西の棟の空き部屋に安置してある」
「わかりました。案内、願えますか」
「セティ、アーサーはもう事切れている。いくら君が優れた癒し手でも……」
「そうですね。でも、確かめなくてはならないことがあるのです」
「……君がそう言うなら」
「それと、お願いがあるのですが」


 思い出したようにセティはつけ加えた。


「レヴィン様やティニーはまだこちらに向かっている途中です。ですが、伝令でこの事態を伝えることは……避けてはいただけませんか」
「セティ、いったい……?」
「死者を生き返らせる。そんなこと、普通は不可能です。ですが私はブラギの直系、バルキリーの杖の担い手です」
「まさか」
「ええ、おそらくお考えのとおりです。ですがそれが可能かどうかは……実際に今の状態を確かめるまではわかりません」
「しかし……」
「お願いします。親しい者が死んだなど、知らずにすむなら知らないままのほうがいいでしょう?」
「だが、あの魔法は……バルキリーの杖の使用は、君にも危険が及ぶのではないか」
「それも状況しだいです。杖の力を用いることが神意にかなっているならば、何も問題は起こらないはずです」
「神意、か」
「はい」
「君らしくない言葉だな。ああいや、ブラギ僧を束ねるエッダ家の後継者としては、いかにもな言葉ではあるが」
「……そうですね」


 そう、自分らしくない言葉だと、自分でも思う。
 本当のところ、神などさほど信じてはいない。
 さすがにセティも十三歳の頃ほど頑なではない。人には信仰する対象があったほうがいいのだと、実感として知るようになっている。
 だが、ひたすら神を崇めんとするような信仰心を抱くには至っていない。そんな自分が『神意』などといった言葉を口にするのは……滑稽でしかない。
 けれども今、運命を覆す魔法を行使するにあたって道しるべとなるのは、神意、あるいは天命――そういった言葉でしか言い表すことのできない『何か』なのだ。


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 オイフェに案内されて、セティはその部屋に足を踏み込んだ。
 薄暗くて小さな部屋だ。正面には硝子の嵌められた窓がひとつ。部屋の中央には寝台が置かれ、その上に横たわる人影があった。


 あの日、マンスターで垣間見た幻視と同じ光景が、そこにはあった。
 寝台に横たえられている彼に、セティは視線を落とす。
 斬り殺されたのだから、苦しみの表情を残していてもよさそうなものだ。だが、その顔には苦悶の影は見当たらなかった。歪みもなく、怒りもなく、かといって、喜びもなく、そう――表情と呼べるものが消え去っている。
 安らかといえば安らかだ。微笑んでいるようにも見えなくもない。だが、日頃の彼を知っているだけにわかってしまう。
 ここに彼の心はない。
 ただ意識を失っているのとは違う。彼はここにはいないのだ。


(だめだ。感傷的になってどうする。エーギルを……彼の命運を、正確に読み取らなくては)


 エーギル。持って生まれた生命力。それが完全に途絶えてしまった者は『呼び戻す』ことはできないと言われている。


 遺体を覆っていた布をそっとめくり上げる。
 なるべく見苦しくない状態にしようとしたのだろう。傷はきれいに洗われ、整えられていた。
 左肩から腹に向けて切り下げられた痕があった。そして左胸にぽっかりと穿たれた深い傷。心臓を貫かれたのだろう。
 ほとんど即死だったらしい。リカバーの杖による治癒さえ追いつかなかったのだと聞いた。


(どうなんだ。可能性は残っているのか。アーサーは本当に……すっかり消えてしまったのか)


 セティは気を凝らしてさらに見つめる。彼の体を、ではない。そのさらに奥、命の流れそのものを読み取ろうとして。


(あ……)


 ちかりと光る何かが見えたような気がした。
 本当にかすかな、今にもかき消えそうな細い光の筋が、彼の体の芯にまだ遺されている――ように思える。
 気のせいかもしれない。彼のエーギルはまだ途絶えていないと信じたいあまり、幻想を作り出しているのではないか。


 ――相手を生かしたいという希望があまりにも強ければ、見誤るかもしれない。


 かつて、バルキリーの杖を譲り渡すときに父は言った。
 目の前の死者がいまだ生きるべき者なのか、すでに天命の尽きた者なのかを見極めるのは難しい。自分自身の願望に目を曇らされて、死すべきものにまで光を見出すかもしれないと。


(だが、もしそうだったとしても)


 彼はここで喪われていい人間ではない。
 解放軍のために。フィーのために。ティニーのために。そして、セティ自身のためにも。


 ならば、やるべきことは決まっている。


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「バルキリーの杖を使う。そう言ってるのかい?」


 セリスは厳しい表情を浮かべて、セティに問いかけてきた。


「はい。アーサーの遺体を見ました。可能性は……残されていると思います」
「そうか。ならば是非に、と言いたいところだけど」


 セリスは眉をひそめて、念を押すように訊ねる。


「本当に大丈夫なのかい」
「……わかりません」
「バルキリーの杖の力は偉大だ。それだけにもたらされる反動も大きいのだと聞いたことがある。アーサーは生き返らず、なのに杖を使った反動で、セティ、君まで危うくなる。そんなことになれば、我が軍は益を得ずに損失のみを被るわけだ。それを承知の上で、君はこの申し出をしている。そう考えていいんだね」
「はい」
「だけど、君はさっき、わからないと答えた」
「絶対に大丈夫だとは言い切れないからです。私は神そのものでもなければ、神の使いでもない。神意など知りようのない、ただの人間です。これは賭けです。分は悪くないと踏んでいますが、それでも賭けであることには変わりません。だからこそ、万全を期して臨みたいのです」
「……そうだね」


 セリスはうなずくと、セティに訊ねかけてきた。


「それで、私たちは何をすればいい?」
「どなたか、癒しの技が使える方に立ち会っていただければと」
「うん?」
「杖による蘇生がうまくいったとしても、私はおそらく魔法力を使い果たして、動くこともままならないような状態に陥るでしょう。アーサーにしてもです。その身に受けた傷まで全快するかどうか。息を吹き返しても致命傷を負ったままかもしれません。ですから、事がなされた後に適切な処置ができるよう、準備を整えておきたいのです」
「なるほど。では、ナンナに頼もう。リライブの杖を用意して、そばに付き添うようにと」
「お願いします」


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 他の神器と違って、バルキリーの杖は父クロードがブラギの塔で手に入れるまで、長らくその行方がわからなかった。だからその使い方や、使った後で何が起こるかを実際に知っている者はいない。エッダ家に伝わる記録ならば、そのあたりの詳細が記されていたはずだが、シレジア育ちのセティには、そういった文書に触れる機会がなかった。
 だから、正直怖かった。
 だが、躊躇している暇はない。時間を置けば置くほど、エーギルは薄れていくだろう。


 アーサーの蘇生にはセリスも立ち会うことになった。アーサーの寝かされている部屋にナンナを連れて来たセリスは、指揮官としての責任を負うため、自分も立ち会うと言って譲らなかったのだ。


「邪魔になるようなら遠慮するけれど」


 そう問いかけるセリスに、セティは静かに首を振る。


「いいえ、それは大丈夫です。セリス様が望まれるなら……お願いいたします」


 セティはバルキリーの杖を手に、アーサーの枕辺に立つ。その向かい側には、リライブの杖を手にしたナンナの姿があった。


「セティ……」


 心細そうな声でナンナが声をかけてくる。セティは励ますように無言でうなずくと、静かな声で言った。


「頼みます。アーサーが息を吹き返したら、彼にリライブを」
「ええ」
「では、始めます」


 息を大きく吸い、杖を両手で持ち、天高く掲げる。そして、聖句を胸の奥で念じる。


《我、ブラギの血脈の末なる者、命と運命を司る尊き御方に、伏して願い奉る。御心にかなうならば、この者に今ひとたびの生を》


 杖の先に嵌め込まれた宝玉に淡い光が宿る。光は次第に大きく膨れ上がり、薄暗い部屋を眩い光で照らし上げた。
 今や宝玉にとどまらず、杖全体から青白い光が放たれている。
 その杖を両手で握り締め、セティはただ、膨大な量の魔力が自分の体に流れ込み、また流れ出していくのを感じていた。
 まるで光の奔流の中に立っているようだ。
 ああ、これはとても危険なものだ。ぼんやりとセティはそう悟る。
 バルキリーの杖がもたらす魔力の流れは、人間が制御できる範囲を超えている。流れに逆らわず、ただただその中に身を浸しているだけで精一杯だ。


(これは、すごい……)


 圧倒的な悦び、とでも言うべきか。
 快なのか不快なのか、それすらも定かでなくなるような多幸と全能の感覚が、心を――いや体を満たしていく。


(我を失うな。願うべきことを忘れるな。方向を見誤れば、飲み込まれてしまう)


 セティは必死で自分を保とうとする。


《聞き届けたまえ、我が願い。もし、御心にかなうならば――アーサーを!》


 魔法の輝きはさらに強くなる。
 バルキリーの杖に集まっていた光の波はアーサーに向かって流れ込み、その全身を眩い輝きで包み込んでいった。
 輝きはどんどん増していく。アーサーの姿は真っ白な光の中に溶け込んでゆき、かろうじてその輪郭がおぼろに見分けられるばかりだ。


 そのとき。


 ぱりん、と、小さな音がした。
 強すぎる魔力に耐えかねて、杖の宝玉にひびが入ったのだ。と同時に、今まで溢れ出していた光の波が、急速に引き始めている。
 杖が壊れてしまえば、魔法を維持するのはもう無理だ。
 失敗したのだろうか。杖を掲げていた手を下ろして、セティはアーサーを凝視する。
 あんなに明るかった光は、今ではもうすっかり失せていた。アーサーは寝台の上で、変わらず静かに横たわっているように見える。


(あ……!)


 アーサーの右手が、かすかに動いたように見えた。


「ナンナ!」


 セティは切迫した声でナンナに呼びかける。ナンナは緊張した面持ちで杖を構えようとするが、次の瞬間、セティに視線を戻して言った。


「すごい……傷が全部ふさがってる。リライブは必要ないわ」
「では……」


 蘇生は成功したのか。そう問いかけようとした瞬間、アーサーが目を開いた。


「アーサー……」


 セティはアーサーの横に屈み込んだ。


「……セティ?」


 アーサーはゆっくりと二、三度またたくと、ぼんやりした視線をセティに投げかけてきた。


「気づいたんだな。大丈夫か?」
「ん……すっげ、だるい。あちこち痛い……」


 ひどくかすれた声で、アーサーが答えた。


「……俺、怪我してた? 確か敵の、大将っぽい奴が……」
「そうだ、ひどい負傷で、今まで意識がなかったんだ」


 そのとき、セティの背後に立っていたセリスが言葉を発した。


「よかった。無事なようだね。アーサー」


 そう言いながら、セリスはゆっくりとセティの隣へと歩み寄る。


「セリス様……俺、いったい……」
「今は質問はなしだ。とにかくゆっくり休んで」
「はい……あれ?」
「どうしたんだい?」


 訊ねかけるセリスに、アーサーが弱々しい声で答えた。


「セティ、なんか……すごく、顔色が悪い……ような」
「大丈夫。薄暗いからそう見えるだけだ」
「でも……」
「大丈夫だから」


 そう言い張るセティに、横合いからセリスが声をかけてきた。


「セティ、君も休まないと。私にも、君は無理をしているようにしか見えないよ」


 セリスの言葉にセティはうつむいた。
 そう、確かに無理をしている。本当は声を出すのすら億劫だし、少しでも気を緩めれば、たちまち気を失ってしまいそうだ。


「セティ、いったい……?」


 アーサーが不審そうな様子で訊ねかけてくる。


「後で話すから。今は、ちゃんと……休んで」
「だけど」
「アーサー、頼むから」


 強い調子でセティが言うと、アーサーは不満そうな表情を残したまま口をつぐんだ。


「ナンナ」


 セリスがナンナに向かって声をかけた。


「アーサーを頼んだよ。私はセティを連れて行くから」
「はい」
「ではセティ、行こうか。歩けるかい?」
「……はい」


 セティはふと、右手に握り締めている杖を眺める。宝玉はひびが入っているものの、かけらがこぼれ落ちたような形跡はない。
 バルキリーの杖を使ったとわかってしまうような痕跡はなるべく残したくない。一度死んでいたことにアーサーが気づかないでいてくれるなら、それに越したことはないのだから。


 セティはセリスに続いて、部屋の扉に向かう。扉から出ようとしたところでもう一度振り向いて、寝台へと目をやった。
 アーサーは寝台に身を横たえたまま、ナンナと何か言葉を交わしているようだ。


(確かに生きている。ちゃんと助けられたんだ……よかった)


 セティは扉に向き直ると、セリスに続いて部屋の外へと歩み出た。
 部屋の外へ出て、二、三歩踏み出す。だが、そこまでが限界だった。セティは膝からくずおれ、床の上にへたり込んだ。
 異変に気づいて、セリスが振り向く。


「セリス様……申し訳ありません」
「いや……そんなことなんじゃないかと思ったよ」


 セリスは軽くため息をつくと、苦笑を漏らした。


「アーサーに負担をかけまいとするのはわかる。けれど、大丈夫じゃないときは素直に大丈夫じゃないと言ってほしいな」
「はい……」
「君の気持ちもわからないわけじゃない。お前は一度死んだ、なんて、聞きたい人間はいないだろう。けれど、遅かれ早かれ彼だって知ることになるんだよ。こういうことは隠し通せるものじゃないからね」


 それもわかっていた。だが、死から蘇った直後に聞かせたい話ではない。ただでさえ衰弱しているのだ。余計な刺激や混乱はなるべく与えたくなかった。


「ああうん。今はお説教なんかしてる場合じゃないね」


 セリスはつかつかと歩み寄ってきて、セティに背を向けてしゃがみこんだ。


「はい、乗って。背負ってくから」
「え……ですが」
「ああ、この際、変な遠慮はなしだ。今は人手も足りてないしね。甲冑を着込んで戦場を駆けずり回ることを思えば、君みたいな魔道士ひとり背負うのなんて、たいした負担じゃない」
「はい……」


 仕方なく、セティはセリスの背におぶさった。身の縮むような思いがしたが、逆らうだけの気力すら、もう残されていなかった。


「では行こうか」


 セリスは朗らかな口調でそう言うと、セティを背に負って歩き始めた。


 ふたつ隣の部屋の前で止まると、セリスは扉を開いて中へと入った。そして、奥に置かれた寝台にセティを腰掛けさせると、安静にしているようにと言い残して部屋から立ち去っていった。
 ひとり残されたセティは、まだ手にしていた杖をそっと床の上に置くと、靴だけを脱ぎ捨てて寝台の上に横たわった。だるくてだるくて、横にならずにはいられなかったのだ。
 寝入るつもりはなかった。だが、気絶したのか眠りに就いたのかすら定かではないような状態で、気づけばセティはそのまま意識を手放していた。


*****************


 再び意識を取り戻したとき、セティが最初に目にしたのは、自分を覗き込んでいるレヴィンの顔だった。


「気がついたか?」


 静かな声で、レヴィンが訊ねかけてきた。


「レヴィン様……」
「セリスからあらかた話は聞いた。ああ、無理に起きようとするな。熱が出ている」


 言われて気づいた。全身がいやに熱くて、鉛のように重い。


「魔法の使いすぎだ。あれほどの大魔法を使ったのだ。無理もない。当分は、何もせずただ休んでいなさい」
「アーサーは……」
「無事だ。お前よりずっと元気なくらいだ」
「そうですか。よかった……」
「無茶をしたな、セティ。せめて我々が到着するまで待てばよかったものを」
「……不安だったのです。時を置いてはエーギルが薄まっていくのではないかと」
「それはわからないではないが」
「それに、ティニーに知らせたくはありませんでした。お兄さんが死んだ、なんて」


 ティニーの名を口にして、セティは気づく。
 ティニーはレヴィンと同行していた。レヴィンがクロノス城に到着しているということは、ティニーもまたここに到着しているのではないか。


「レヴィン様、ティニーは」
「アーサーに付き添っている。お前のことも気にかけていたが、私がしっかり見ておくと言い含めておいた」
「フィーは……」
「まだ戻っていない。このままクロノスには戻らず、ラドス城周辺でセリスたちと合流するはずだ」


 ならば、フィーはまだ知らないのだ。なんとなくセティはほっとした。
 今回のいきさつを知れば、フィーはきっと悲しんで、そして怒るに違いない。いずれはわかってしまうだろうが、なるべくなら自分やアーサーが元気になってからのほうがいい。


「以前お話しした予知のこと、覚えていらっしゃいますか」
「忘れるわけがない」
「あれがようやく実現しました。私が見たのはこの城の……まさしくあの部屋でした。アーサーはもう死なないでしょう。少なくとも、あの予知と同じ形では」
「そうか」
「……予知も、悪いものではないかもしれません」
「セティ?」
「あの予知のおかげで、私は今日に備えることができました。彼の死を予見してからずっと、本当にそのときが訪れたら、自分がどうすべきかを思い描いてきました。そのおかげで、惑うことなく決断を下せたのかもしれません」


 レヴィンは無言のまま、じっとセティを見つめていた。そして、手を伸ばすと、セティの肩にそっと触れてつぶやいた。


「セティ、お前に感謝する。よく呼び戻してくれた」


 あまり抑揚のない、静かな声だった。けれども、その声にはどこか、いつもと違うものが潜んでいるような気がする。
 はっとして、セティは改めてレヴィンの顔を見上げる。だがレヴィンはついと視線を逸らし、そのまま立ち上がって後ろを向いた。


「医者に知らせてくる。お前が目を覚ましたと。目覚めたら薬湯を用意したいと言っていたからな」


 背を向けたままレヴィンはそう言うと、そのまま部屋から立ち去っていった。


*****************


 レヴィンと入れ替わるようにして、解放軍に同行している医師が薬湯を用意して部屋を訪れた。薬湯を受け取って問診に答えた後、セティは再び眠りに就こうとする。
 だが、どうにも気分が悪かった。熱はさらに上がっているようだし、頭痛がひどくて寝つくに寝つけない。
 レヴィンの言ったとおり、魔法の使いすぎによる現象なのはわかっていた。今まで経験したことがなかったが、思っていた以上にきつく感じるもののようだ。
 そのとき、扉が開く音がした。顔を上げると、アーサーが入り口に立っているのが目に入った。


「セティ!」


 セティの名を呼ぶと、アーサーは勢いよく枕元に歩み寄ってきた。


「アーサー、もう動いて大丈夫なのか」
「ああ、おかげさまで。ってか、なんだよ。熱出してるって」
「ああ……まあ、たいしたことはないよ」
「畜生、俺はピンピンしてるのに、何だってお前がこんな。もっと元気だったら、いっぱい文句を言ってやろうと思ったのに」
「文句って?」
「本当は俺、死んでたんだろう? それをお前がバルキリーの杖を使って」
「……ああ」
「あれって、一歩間違うとお前自身が死んでしまうかもしれない、そんな危険なものなんだって。現に今だって、やたら弱ってるし」
「……まあ、そうだね」
「なんでそんなことを」
「放っておけるわけないだろう。生き返らせることができる可能性があるのに」
「けど!」
「君が死んだりしたら、フィーやティニーが悲しむ。そんなの見たくもない」
「お前が死んだって、フィーやティニーは悲しむだろうが! 現にティニー、ずっと泣きっぱなしだったんだぞ」
「え……」
「フィーが今いなくてよかったよ。ティニーには泣かれるし、軍師からは説教食らうし……もう、さ」
「説教って……なぜ」
「その……やられた時の状況を聞かれて答えたら、すっげ叱られた」
「いったい、どんなことを」
「難敵にあたるときはちゃんとフォルセティを持っとけって。あと、因縁のある相手と戦った後だからって気を緩めるな、すぐに気持ちを切り替えろ、とか」
「……ちょっと聞いてもいいか。どういう状況だったんだ?」
「あー……うん」


 クロノス城での戦いについて、アーサーはぽつりぽつり話し出した。
 クロノス城を守っていたヒルダと相対したのはアーサーだった。
 この戦いでは、アーサーはトローンの魔法を使っていた。解放軍にののしりの言葉を浴びせるヒルダに怒りを覚えつつ、アーサーは有利に戦いを進めていた。だが、止めを刺そうとしたそのとき、ヒルダは移動魔法を使っていずこかへと脱出した。
 そこに、ラドス城から向かってきた騎馬部隊がクロノス城近くまで到達したとの報せが入った。解放軍は急いで城外へ出て、これを迎撃しようとする。
 リデールに率いられた騎馬部隊は強力だった。急いでいたこともあって、解放軍の隊列はいささか乱れていた。混戦の中、アーサーはついうっかり敵将リデールの目の前に飛び出してしまう。迫りくる敵将に対抗しようとしてあわてて取り出した魔法書は、いつものエルウィンドやフォルセティではなく、先ほどヒルダとの対決の中で用いていたトローンだった。だが、魔法の詠唱を完成させる余裕もないまま、アーサーはリデールの振るう剣をその身に受けてしまっていた。


「いや、本当にびっくりした。あいつが使っていた剣、あれ、たぶんラクチェが持ってるのと同じやつだ。かわす間もなく、なんというか一瞬で、こう、ばっさりと……」


 アーサーは敵将リデールがいかに強かったかを、懸命に説明しようとする。
 その様を見ながら、セティは何とも言いがたい気持ちでいっぱいになっていた。


(ついうっかりって……ついうっかりって何だ。魔道士が直接に攻撃を食らうような射程に入りこまないのは基本中の基本だろう。しかもなぜトローン……。身につけていたのがフォルセティだったら、神器の加護によって攻撃をかわすこともできたかもしれないのに。なんでこんな……)


 不注意にもほどがある。少し気を配っていれば回避する手段はいくらでもあったはずなのに、『ついうっかり』失敗して、命を落としたというのか。


「ごめん、私も腹が立ってきた」


 たまらずセティがそう口走ると、アーサーはびっくりしたような表情を浮かべて口をつぐみ、セティを凝視した。


「フォルセティを持ちっぱなしでいろとは言わない。けれど、せめて敵との距離はちゃんと確認してくれ。混戦だったのはわかる。だけど、魔道士が前に出すぎちゃだめだろう……」
「……うん」


 本人もよくわかっているのだろう。しゅんとした様子でアーサーは下を向く。
 まるで飼い主に叱られた犬みたいだ。そんな場違いな感想が、とっさに浮かんできた。


「この先の戦いはたぶんもっと厳しいものになる。君はたぶん、一番厳しいところに向かわざるを得ない。バルキリーの杖だって、ほいほい使えるものじゃないんだ。細心の注意を払って……アーサー?」


 アーサーの表情が変わったことに気づいて、セティは口をつぐむ。顔を紅潮させ、怒りに身を震わせながら、アーサーは言った。


「ほいほい使えるものじゃないって……セティ、まさか、この先も死人が出たら、またバルキリーの杖を使うつもりなのか?」
「状況が許せばね」
「何言ってんだ。ほかの誰かが死ぬ度に、自分の命を危うくするような魔法を使うのかよ。冗談じゃない」
「そう思うなら、なるべく死なないよう、気をつけてくれないか」
「……ひどい脅迫だな」


 自分が決して強くはないことを、セティは自覚している。
 魔法はそれなりにこなせる。だが神器で戦う者たちのような圧倒的な戦闘力を持ち合わせているわけではない。
 他の者を『生かす』ことこそが自分の戦い方であり、その究極の形がバルキリーの杖なのだ。使う機会などないに越したことはない。だが必要とあらば、使わざるを得ないだろう。


「まあ、今回のことでバルキリーの杖は壊れてしまった。修理には時間もお金もかかるだろうから、当面は使えそうもない。私の体力や魔法力だって……こんな状態だからね。だから実際のところ、今すぐ使えって言われても無理だけど」
「そうか……」


 アーサーは沈んだ声で相槌を返すと、そのまま黙り込んでしまった。そんなアーサーに、今度は逆にセティが問いかける。


「それにしても、どうしてトローンを使っていたんだ?」
「うん?」
「ヒルダと戦うとき、君はトローンを使っていたんだろう。魔法の相性を考えれば、炎魔法を使う相手に雷魔法で立ち向かうのは、理論上は正しい。けれどもフォルセティなら、ささいな不利を補って余りある力が発揮できるはずなのに」
「あいつの相手をするのは、『フリージの』アーサーであるべきだと思ったんだ。シレジアのアーサーではなく」
「ああ……」
「あいつは母をさいなみ、ティニーにひどいことをした。だから、ティルテュの息子として決着をつけたかったんだ。それに、あんなクソババアに神器を使うなんてもったいないし」
「クソババアって……」
「もうな、思い出すだけで胸糞が悪い。きっちりとどめを刺しておきたかったのに、あと一歩のところで逃げやがって」


 さも悔しそうにアーサーは言う。
 セティは内心驚いていた。
 アーサーは口が悪いし、わりとくだけた物言いをする。けれどもこんなふうに、誰かを悪しざまに言ったり、復讐心をむきだしにするようなことはあまりない。ヒルダはよほど嫌な印象を与えたのだろう。


「ティニーからの又聞きでしか知らなかったけど、なんかいろいろ納得した。今度機会があれば、絶対に逃さない」
「アーサー……」
「悪い、変な話になった」
「いや……君が元気そうでよかった」
「うん?」
「なにしろ、君の死に顔を見てしまったからね……あれは、もう見たくない」
「……すまん」


 アーサーはばつの悪そうな顔をして頭を下げた。


*****************


 セティが熱を出して寝込んでいる間に、セリスに率いられた騎馬部隊の精鋭は西方に位置するラドス城の攻略に向かっていた。ラドス城はほどなく陥落し、解放軍はミレトス地方の南半分を完全に掌握するに至った。
 この間、残りの者たちはミレトス攻略に向けて、クロノス城で準備を進めていた。
 セティの発熱は二日ほどで引いたが、万全と言えるまで体調が戻るまでには、さらに時間を必要とした。
 寝ついている間、よくティニーが顔をのぞかせた。彼女はあまりしゃべらなかったし、セティもまた、たいていの時間はまどろんでいて、ろくに相手をすることもできなかった。だが、ただそこに彼女がいるということが、言いようもなく嬉しかった。
 セティが床から離れられるようになった頃、解放軍はクロノス城を後にした。ラドス城から戻ってきたセリスたちと合流して、いよいよミレトスへと乗り込もうというのだ。
 斥候の話では、ミレトス近郊の森には多くの伏兵が置かれているという。魔皇子ユリウスと雷神イシュタルの姿を見かけたという噂もある。ミレトス攻略が容易ならざるものとなることは予想に難くない。
 バルキリーの杖はまだ修理している最中だ。もしミレトスでの戦いで戦死者が出たとしても、今回は使えない可能性が高い。慎重に慎重を重ねて、万全の策を練らなくてはならない。
 ミレトスの対岸にあるのはグランベル帝国領シアルフィだ。ミレトスを落として海を渡れば、そこはもうグランベルなのだ。困難な戦を前にしながら、解放軍の士気はこれまでになく高かった。


 クロノス城を出立して最初の休憩に入ったときのことだった。
 セティは木陰に腰を下ろして、どこを見るともなくぼんやりと前方を眺めていた。
 体調はもう戻っている。けれどもしばらく床に着いていたせいで、かなり体がなまっていたようだ。行軍速度は決して速いわけではないのに、普段よりも疲れるのが早い。


「セティ、大丈夫?」


 ティニーがそっと歩み寄ってきて、心配そうな声で話しかけてきた。


「大丈夫、元気だよ。ありがとう、ティニー」
「無理、しないでくださいね」
「ああ、わかっている。だけど大丈夫だよ」


 そう答えると、ティニーは安心したように笑みを漏らして、セティの隣に座った。


「ティニー、何かいいことでもあったのかな。今日は何だかいつもより嬉しそうだ」
「セティが元気そうで、本当によかったなって。ずっと心配だったんです。ちょっと前まで、とても具合が悪そうだったから」
「すまない、心配をかけてしまって」


 セティの詫びの言葉に、ティニーは軽く首を左右に振る。
 そして、ふわりと微笑みかけて、言葉を続けた。


「それと他にも、昨日、ちょっと嬉しいことがあって」
「へえ、いったいどんなことだろう」
「レヴィン様が話しかけてくださったんです。軍の編成とか、会議とか、そういう話ではなくて、もっと個人的なことで」
「そうだったのか」
「レヴィン様は、わたしにヒルダのことを訊ねられました。そして、ずいぶんつらい目にあったのだなと、なぐさめてくださったんです」
「ティニー……」
「レヴィン様は、ご自分がわたしのお父さまだとは言ってくださいませんでした。でもたぶん、そういうつもりでお話しくださったのではないかと思うのです。だからわたしは嬉しくて」


(そうか。ティニーはこういうとき、『嬉しい』と言うのか)


 父と名乗りを上げないレヴィンに対して怒るのではなく、レヴィンが情を示したことを『嬉しい』と、ティニーは語る。それがセティには、とてもいじらしく思えた。


「お父さまは亡くなったのだと聞かされてきました。でも、アーサー兄さまはフォルセティの継承者だし、わたしも小さいころから風の魔法が得意だった。だから、お父さまが誰なのか、本当はわかっているんです。でも、名乗りあうことのできないまま、今日まで来てしまいました」


 憂いを含んだ声でティニーは続ける。


「兄さまはお父さまのことを『軍師』としか呼びません。口を開けば悪口ばかり。でも本当は、たぶんとても気になってて、とても……好きなのだと思います」
「似た者同士なのだろうと思うよ。どちらも不器用で、自分の気持ちに素直になれない」
「ええ、そうですね。似た者同士……本当にそのとおり」


 セティにうなずき返すと、ティニーは正面に向き直り、前方に視線を投げかけた。
 そよ風が吹き寄せてくる。風の中にほんのりと甘く、わずかに湿り気を感じさせる香気が含まれているのに気づき、セティはそっと周囲を見渡した。
 腰を降ろしているすぐ横に、濃い紫の菫が、地面にしがみつくように花を咲かせている。


(ああ、この花の香りだったのか)


 確かこれは咳止めや頭痛の薬になるものだったはずだ。そう考えた後で、情緒的に花を愛でるのではなく、種を同定して薬効成分を思い出すことにまず頭が働いてしまう自分が、なんだかおかしかった。


(ヨハン王子なら、こんなとき、詩のひとつでも作って彼女に贈るのかもしれないが)


 どうやら自分には、そういった情緒が少しばかり欠けているらしい。現にこうして隣にティニーが座っているというのに、気の利いた言葉のひとつも思いつけないでいる。
 そんなことを考えていると、不意に、正面を向いたままティニーがひとりごとのように話し始めた。


「今回、兄さまがあんなことになって気づいたんです。あの方は……お父さまは、本当は心から兄さまのことを心配している。なのに、そのことを表に出そうとしないのだと。なぜお父さまがわたしたちのことを避けているのか、わたしにはわかりません。でもたぶん、嫌っておいでなのではないのだと……そう、思えるようになりました。昨日、声をかけてくれたのだって、きっと」


 そこでティニーは口をつぐみ、セティのほうに振り向いた。


「セティ、ありがとう。あなたは兄さまを呼び戻してくれただけじゃない。お父さまも、わたしたちのところに戻してくださった」


 そう言って、ティニーはふわりと微笑みかけてきた。


 柔らかで伸びやかな笑みだ。いつものような遠慮やためらいは感じられない。ただひたすらに、春の陽だまりのように温かな、屈託のない笑顔。
 ああ、自分は、この顔が見たかったのだ。セティは不意に悟った。


「ティニー、私はただ……」


 言いかけて言葉に詰まる。
 どう言い表わせばいいだろう。恩着せがましくなく、それでいて真情をぴたりと表せる、そんな言葉はいったい……


「ただ?」


 ティニーは首をかしげて言葉の続きを待っている。


「ただ君に、笑ってほしかったんだ」


 ティニーは目を見開き、小さな声で何かをつぶやきかける。だが途中で口をつぐむと、恥ずかしそうにうつむいて、ふるふると首を振った。そのまましばらくうなだれていたが、やがて意を決したように顔を上げて、そして――


 輝くような極上の笑みを浮かべて、小さくセティの名を呼んだ。



《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2018/06/19
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