NOVELS

銀の旋律

プロローグ

 イル・ティールの都で一番高いといわれる聖エリウルの鐘楼に立ち、娘はひとり、市街を眺めやった。
 風が娘の全身をなぶる。西から吹く風、それは彼方の沙漠の砂を合んでいるのか、黄色くかすみ、ほこりっぼい。
 腰まで垂れていたはずの娘の髪が、ふわり、と風にまきあげられ、左右にひろがってゆく。砂色の柔らかそうなその髪は、一瞬、西風の一部となった。
 だが娘は気まぐれな風に乱された髪を直そうとはせず、ただ肩布を両手でしっかりとつかみ止め、前方を眺めるばかりである。
 前方。その眼下にひろがるのは、アルロイの王都イル・ティールの市街だが、娘の目はさらに遠いものを見ているように思われた。イル・ティールの街。城塞。その向こうには多くの村々。畑。森。河。山々。そしてさらに別の街。別の都市。そのすべての彼方にひろがるのは広大無辺の沙漠……。
 沙漠でアルロイの世界は終わる。だが沙漠の彼方にも異郷の人々が住んでいるという。異なる言語、異なる暮らし、異なる顔を持つ人間が。
 そのすべてを、娘はただ知識として知るばかりである。娘はイル・ティールの街を出たこともなく、いやそれどころか街中を供を違れずにひとりで歩くことも許されぬ身であった。それでも、いやそれだからこそ、広犬な“世界”は、娘をひきつけてやまない。
(ばかみたい。もし外に出てゆく自由を与えられても、お前みたいな温室育ちが、一日だって生き延びられるものですか。外の世界に焦がれるなんて、身の程知らずもいいところ。もし実現したりしたら、すぐ逃げ出したいと思うでしょうよ、無責任の、甘ちゃんの、夢みがちの貴族の娘が、いかにも考え出しそうなことね)
 娘はそっとつぶやいた。その口もとには自嘲的な笑みが刻み込まれている。だが、その瞳だけは、あいかわらず、熱っぽいまでの輝きを秘め、一心に彼方を眺めやる。
(自由――か)
 娘は心のうちでつぶやく。
(もし今、たったひとつだけ、私の望みをかなえてやると言われたら、いったい何を願うだろう。……自分でものごとを決められる自由? 自分の意志を持つ自由? 父親からの解放? 自分の結婚相手を自分で選ぶ自由? 宰相の娘とかいう、この始末に負えない立場から逃れ、すべての義務と責任を放棄する自由……? 勝手なものね。これ以上のぞめないほどの地位を約束され、物質面では何の文句もつけられないほどに恵まれている人間のくせに。そして、そういった自由を与えられて、自分の手に負えるとでも思っているのだろうか)
 娘はかるく頭をふり、ゆっくりと目を閉じた。
(でも、本当は。本当は違うのだ。もっと強く願っているかもしれないことを、あえて忘れようとしているのだろうか、私は。――あの人。もし、あの人が、私があの人を想うのと同じくらい、(あるいはそれ以上に?)私のことを想ってくれていると確信できるものならば。もしそうならば、私は自分に与えられた自由のすべてを売りわたしても、惜しいと思わないかもしれない)
「まあ……自分がそこまで馬鹿だとは思っちゃいないけど。……でも、それこそ過ぎた望みね」
 小さなつぶやきを残し、娘は己の眺めやった世界に背を向けると、鐘楼を降りていった。

 娘の名はエルドラ。国王に次ぐ権力を誇るアルロイ王国宰相の長女にして、王太子アドールオの婚約者。『アルロイで最も恵まれた娘』との羨望を一身に集めている、十七歳の少女だった。


 館に戻ると、イリアンが見知らぬ吟遊詩人を伴って訪れていた。
 イリアンはエルドラの父、宰相ルラルドの妹の息子である。つまり、ルラルドの甥であり、エルドラにとっては、もっとも親しい関係にあるいとこだった。
 アルロイ宮廷にあっては彼もまた、ルラルドの一門の者として、将来を約束された、権威ある若者だった。伯父やいとこと同じ砂色の髪を持ち、鋼色とでも形容すべき透明に近い珍しい色の瞳に知的な輝きを宿した彼は、宮廷の女性たちにもなかなか人気があった。しかしたとえ権門の一員でなかったとしても、彼はその頭脳ゆえに二つと得られぬ貴重な存在と見なされ、重用されたことであろう。
「ごきげんいかがかな、我が姫君?」
 昔からイリアンは戯れにエルドラを『我が姫君』と、呼んでいる。
「我が姫君にあらせられては、またも、市街へお出ましになられたとか。このひどい風の中、老骨にむち打ち、姫君につき従ってゆかねばならない乳母どのの繰ろうがが忍ばれますな」
 イリアンはエルドラに、にやりと笑いかけた。
「そういう言い方はよしてもらいたいわ、イリアン」
「あいかわらず手厳しいな、我が姫君は」
「…その『我が姫君』っての、いいかげんにやめるべきじゃない?」
 いらいらしたようにエルドラは言った。
「どうして?」
「だって、想い人のいる男性が、想い人でもない女性に向かって言う言葉じゃないでしょう、それは」
「……そんな言われようは心外だ」
 急に真顔になってイリアンは答えた。その声音には、妙にこわばったところがあった。
「どこで、何を聞いてきたのか知らないが、私は……」
「あら、もっぱらの評判じゃないの。イリアン殿は、宮女シルヴィア様に夢中。最初は冷たくかたくなな態度を取っていらっしゃったシルヴィア様も、今ではまんざらでもないご様子で……」
「やめてくれ、エルドラ」
 イリアンはエルドラを見すえ、口を開いた。
「そんなこと、君には関係ないだろ」
「そうかしらね?」
「私は、君にはそんなふうに言われたくないんだ」
「……でも、どっちにしたって、私のことを『我が姫君』なんて呼ぶべきじゃないのよ、あなたは。……だって私には、王太子殿下という婚約者がいるんですから」
 押さえつけた感情で爆発しそうになりながらも、エルドラはなるべくさりげなくこのせりふを言ってのけようとした。エルドラのこの言葉を聞いて、瞬間、イリアンの表情が堅くなったように見えたのは、彼女の欲目だったろうか。
「……たしかに君の言うとおりだ。だけど、いまさらやめろと言われても、この言葉は私にとって口癖みたいなものなんだ。だから……」
「なおさら悪いわ!」
 エルドラは叫んだ。
「なおさら悪いわ。……それは失礼というものよ、イリアン。私に対しても、他の女性に対しても。即刻やめるべきよ」
「違う!」
 イリアンも激して叫びかえした。
「何が違うというの!?」
「違う。君は何もわかっちゃいないんだ!」
 まさにそのとき。
 二人の言い合いが喧曄に移っていこうとする、まさにそのとき。
 二人は急に口をつぐんだ。
 突然、堅琴の調べが二人の耳に流れこんできた。
 それは、何とも形容しがたい音だった。旋律そのものは平凡で、昔、どこかで聞いたような気さえする。だがその音には、何か不思議な力があった。静かな、落ち着いたその音色は、次第に二人を平常心にひき戻していった。
「……ああ、そうだ」
 イリアンが、唐突に沈黙を破った。
「あなたのことを忘れていた。……私としたことが」
 そう言って、イリアンは吟遊詩人のほうをふり返った。
「イリアン、この方は?」
 エルドラの問いに答えたのは、イリアンではなく、吟遊詩人のほうだった。
「私は放浪の堅琴弾きにございます、姫君。気ままに旅し、気ままに歌う、堅琴と歌によって日々の糧を稼ぎとり、また旅を続ける。……時にはこのように、貴人の館にて腕前を披露してごらんにいれることもこざいますが」
「彼の腕はたいしたものだよ、エルドラ。アルロイ広しと言えど、彼に匹敵する者はそういないはずだ。――もっとも私には、音楽の素養はあまりないんだが……」
 最後の言葉が完全に謙遜であることを、エルドラは知っている。イリアンの音楽好きはつとに有名で、彼は自分でも二、三種の楽器をよくこなした。
「わたしはまあ、その、何というか、時々友人と飲みに行く店で、初めて彼の音楽を聞いたのだが……。ともかくすごいと思ってね。だから君たちにも聞かせてやりたいと思い、彼をこの館に違れてきたという、まあ、そういうわけなんだ」
 さきほどまでの激しい語調とはうって変わって、イリアンの声は穏やかだった。
「そうなの……イリアンが言うんだから間違いないわね。あなたの演奏、ぜひとも聴かせてくださいな。……ところで、あなたのお名前は?」
 少し考えこんでから、吟遊詩人は答えた。
「私の名でしたら…そう、エルとでもお呼びください。姫君」
「エル? 私の名前とも似ているのね」
「恐縮です。姫君」
 吟遊詩人はにこりとエルドラに微笑みかけた。
 そのとき、初めてエルドラは吟遊詩人の顔をまともに見たのだった。
(何て――美しい人)
 いや、美しいなどという形容ではふさわしくないかもしれない。
 被りもののために今まで気付かなかったが、造形美の極致とでも言うべき白い面をふちどっている髪は、星の光を集めたような、あるいは純銀を細く細く紡ぎ出したような、銀髪。その双眸は、もっとも純粋なエメラルドの結晶のように、澄みきった緑に輝いている。完壁な美。もしそんなものが存在するならば、彼こそはまさにそう呼んでしかるべきものだった。
 だがその美しさは、どこか人間離れしたものですらあった。それでも彼のそのやわらかい笑みはどこか人好きがして、彼を人間じみたものに見せることに成功していた。
「おい、エルドラ」
 吟遊詩人エルに思わず見とれていたエルドラに、イリアンが横合いから声をかける。
「いくら彼が美人だからって――浮気するんじゃないぞ」
 その言葉に、吟遊詩人はおかしそうにつぶやいた。
「本当に、あなたがたは仲が良いのですね」


「でも、あのエルとかいう吟遊詩人、本当に美形じゃなくって?」
 妙にうきうきした調子で、エルドラの妹アルフィアが言った。
 晩餐の後、吟遊詩人エルはイリアンによって、ルラルドの館の者に正式に紹介された。その場で彼は自分の腕前を披露し、ルラルドを始めとするこの館に住まう者たちを、その歌と竪琴と、持ち前の美貌とで、魅了したのだった。
「どうでもいいけれどアルフィア、あなたの話っていつもおんなじ。顔がいいとか悪いとか、もてるとかもてないとか」
 ややうんざりしたような調子でエルドラが言った。
「あら姉さま、じゃ姉さまはそういうこと、気にならないの?」
「そうね」
 すこし考えこんでから、エルドラは答えた。
「全然気にならないわけじゃないけど、でも、あなたほどではないと思うわ」
「……そうね、姉さまは賢いから。私みたいに馬鹿じゃなくって、むつかしい書物なんかもたくさん読んでるし、あのイリアン様とだって何かむつかしそうな話を楽しそうにしているし。……それに、姉さまにはすばらしい婚約者がいらっしゃるんだから、男の人に興味なんかなくったって当然よね」
 そう言って、アルフィアはつぼみがひらくように無邪気に微笑んだ。
「そうじゃないわ……。そうじゃないの、アルフィア。私は賢くないし、あなただってちっとも馬鹿なんかじゃない。私だって、男の人にまったく興味がないわけじゃないし、それに……」
 エルドラはぼんやりと天井を見上げ、ぽつりと言った。
「王太子殿下の婚約者って、そんなにいいものなのかしらね」
「どうして、姉さま? アドールオ殿下って、すばらしい婚約者じゃない。ハンサムだし、わりと頭もいいし、親切な方でいらっしゃるし、……それに何と言っても未来の国王陛下なのよ」
「そうね……」
「みんな言ってるわ。姉さまが羨ましいって。……私だって、代われるものなら、姉さまと代わりたいわ」
(私だって、代われるものなら、誰かと代わってしまいたいのよ)
 エルドラは、しかし、そのつぶやきを声には出さなかった。
 アルフィアと話しているとき、エルドラはいつも思うのだった。どうして姉妹でありながらこうも違うのだろう。たしかに自分とアルフィアは母が違う。でも同じ父を持ち、同じ館で育ち、同じような教育をうけたはずなのに。
(もっとも変わっているのは私の方なのでしょうね。でも、王太子の花嫁が羨ましいという考えは、どうしても解せない。たしかに富も権力もあるかもしれない。でも将来王妃となったときには、一国を支える者として重い責任を背負わされ、がんじからめに縛られた不自由な生活に耐え忍ばなければならない。そう、それはきっと宰相の娘の暮らしより、もっとひどいものになるでしょうね。……それに、何の感情も感じられない、どうでもいいような相手、どうひっくり返っても、ひとりの人間として愛することはあっても、ひとりの男性として恋することはあり得ないと確信できる相手と結婚しなければならないことが、苦痛でないわけはないだろうに)
 でも結婚なんて、そんなものかもしれない。
 エルドラは、自分の母のことを考える。
 エルドラの母キザーリアは名門貴族の出身で、野心家で成り上がり者の父がその家名を手に入れたいがために、強引に結婚したのだった。が、父には他に、昔恋した女性がいたらしい。やがて父はその女性の面影を持つ妓楼の舞姫を自分の愛妾とした。それがアルフィアの母である。
 精力的な父は他にも数人の女を己がものとした。しかしどうしたものか、彼はいまだに男児には恵まれない。認知されている父の子は他に七人ほどいるが、いずれも女児ばかりなのであった。
 一方、正妻であるエルドラの母は、そんな父に対し、冷ややかな態度をとり続けた。それが名門出身の誇りのゆえであるのか、それとも裏切られた愛情のためであるのか、エルドラは知らない。
 エルドラには母に甘えたという記憶がない。幼い頃からエルドラに乳をやり、育ててきたのは乳母であって、母ではなかった。エルドラにとって母は遠い存在だった。そしてまた父も。
 エルドラにとって父は権威の権化とでも言うべき存在である。父の言葉は絶対で、逆らうことは許されない。父はたしかにエルドラを大切に育てさせはしたが、それは宰相家の体面を考えてのこと、あるいは将来の政略の駒として役立てるためではなかったかと、エルドラは考えている。
 だがアルフィアは違う。
 アルフィアには乳母はいない。アルフィアの母たる女性は、自分の乳で彼女を育てたのだ。その結果なのか、アルフィアの母は昔の均整のとれた体型を失い、あちこち肉のたるんだ、普通の中年女になってしまった。(エルドラの母キザーリアは今でもほっそりとしていて、娘のような硬い美しさを保持しているのだが)。しかし、アルフィアの母は昔の美しさを失っても、父の寵を失うことはなかった。
 アルフィアがまだ赤子の頃、父はよくその母と共にアルフィアをひざにのせて遊んでやったものだ。エルドラに対しては、母に遠慮してか、そんなふうにかまうことはめったになかったのに。
 母の結婚がしあわせだったとは、エルドラには思えない。しかし母のような結婚が、貴族の娘にとっては恐らくもっとも一般的なものなのだろう。いや、もっとひどい例は捜せばいくらでも見つかるかもしれない。
 だがそういったことを従容として受け入れてゆくには、エルドラは自我が強すぎた。それでもなお、与えられた運命に逆らうだけの力は自分にはないと、このときの彼女は思っていた。


 吟遊詩人エルが宰相ルラルドの館に滞在するようになって、すでに十日あまりの日々が流れていた。
 彼は、館の誰にでも人気があった。その腕前や美貌もさることながら、普段は常に人当りがよく、にこやかであるのに、いったん楽器をとると、どことなく不思議な、一種神々しささえ感じさせるような雰囲気をかもし出すところが、何ともいえない魅力であるらしかった。
「あなたって不思議な人ね、エル」
 エルドラは、彼女の部屋で演奏を終えたばかりのエルに、そう言った。
「そうでしょうか?」
 エルは顔を上げ、いつものように、にこり、とエルドラに微笑みかけた。
「ええ、あなたといると、なぜか心を見透かされているような気がする。あなたの曲を聴いていると、一度も聴いたことがないはずなのに、なぜか、どこかで聞いたことがあるような気がする。……まるで魔法のように」
「魔法……ですか?」
 エルは視線を下げ、竪琴の弦の上に軽く指を遊ばせ、ぼんやりと何かを考えているようだった。しかしやがて顔をあげると、エルドラをその緑の瞳でじっと見つめ、言った。
「あなたこそ不思識な方だ、エルドラ姫」
「え?」
 突然、吟遊詩人が真剣な表情を浮かべ、まじまじと彼女の顔を見つめたので、エルドラは面くらっていた。
「たぶん、あなたはさきほどの言葉を特に何も考えずにおっしゃったのでしょうね。……それなのに、あなたの言葉はすべて真実なのですよ」
 さらにエルは続けた。
 「あなたは真実を見抜く目をお持ちだ、姫君。魔法……あなたは魔法を信じておられたのですか?」
「え? いいえ別に」
「そう。あなたは単に言乗のあやで魔法と言ったのでしょう? ですが、こんなことをいきなり言っても、たぶんあなたは信じないだろうけれども、私の音楽は、まさしくその魔法によって成り立っているのです」
「まさか、魔法なんて、そんな。……いいえ、そんなことあり得ない!」
「いいえ、魔法はたしかに存在しているのです。ただ、普通、人間はその存在を認めようとしないので、目にすることができずにいますが。……でも魔法も、大自然の理法の一部であって、万能ではないんですよ。――魔法よりも不思譲なものは、この世にいくらでも存在しています。たとえば私に言わせるならば、人間の心、人間の生きざまのほうが、よほど不思議でとらえどころがありません」
「では…ではそう言うあなたは人間ではないとでもいうの?」
「いいえ、わたしは人間です」
 エルはきっぱりと言った。だがしばらく考えてから、かなしそうにつけ加えた。
「……元は人間だった、と言ったほうが正しいのかもしれません。…自分でもわからなくなっているのですよ。自分が今でも人間なのか、それとも、もはや人間以外のものであるのか……」
「……すみません。悪いことを言ったみたいね」
「いいえ。……いいえ、気にしないでください」
 エルは、エルドラに微笑みかけた。その微笑みは、エルドラには、どこか痛ましく見えた。
「私の音楽は魔法によるものなのです。私がこの堅琴に手をのせると、堅琴の方が勝手に旋律を紡ぎ出してゆくのです。歌も同じです。私は何ひとつ考えていない。しかし勝手に歌詞ができ上がってゆき、メロディが流れ出てくるのです。そしてその内容といえば、その場に居あわせた人間の心を映し出したものにほかならないのです。……だから人は、私の曲を聞いて、強く心をかきたてられ、あるいはえも言われぬなつかしさを覚えるのでしょう。――私は人の心を音楽としてとらえているのです。それが、私の音楽であり、魔法であるのです」
「では、あなたには、人の心が見えるのね?」
「はい…もっとも普段は、あまり深くは立ち入らないようにしているのですが。それに、私は他人の思考が読めるわけではないのですよ。ただ、人の想いを音楽にうつしかえることがでさるだけで……」
「……あなたの言葉、そのまま信じてもよいのかしら」
「信じてください。……いいえ、あなたならわかるはずです。真実を見抜く目を持つ姫君。たしかに信じがたい話であると、私も思うのですが」
「ならばあなたを見込んでお願いがあります」
 いきなり、エルドラは決然とした調子で口を開いた。が、そう言いきった後、何かを思い悩んでいるのか、なかなか次の言葉を言おうとしない。
「何なりと、姫君」
「……ではお願いします。私の心を、心の奥底に眠らせてある本当の想いを、ある方の前で、音楽にしていただきたいのです」


「その方はどなたですか」
 エルドラは、その名を口にするのをためらっているようだった。
「……イリアンです」
「ああ、あなたは彼に恋をしているのですね」
 合点がいったようにエルは大きくうなづいた。
「……どうして? どうしてそんなことがわかるのです?」
 思わず、エルドラは大声で叫んでいた。
「私ははじめから気づいていました」
 エルは静かに話しはじめた。
「最初にイリアン殿があなたに私を紹介したときから、あなたとイリアン殿が言い争っていたときから、私は気づいていました。なぜならあなたがたの間に、やるせないまでに切なく美しい共鳴が起こっているのが、私には聞こえていたのです。ああいった共鳴は、恋人たちの間にしか、起こり得ないものなのです。あなたはイリアン殿に恋している。そしてイリアン殿も……」
「それは、嘘ね」
 エルドラはきっぱりと言った。
「イリアンが私に恋しているなんて、そんなことはないわ、だって彼は他の女性に恋しているのですもの」
「……あなたは、それをたしかめたのですか?」
「いいえ。でも私にはわかるのよ。だいたい、幼い頃からずっと一緒にいた、兄妹みたいな女に、いまさら恋心を感じるなんて、そんなことあり得ない」
「でもあなたはイリアン殿に恋をした。ならば逆にイリアン殿があなたに恋をしたって、全然おかしくない、そうではありませんか?」
「でも……」
「素直におなりなさい、姫君。そして自分の想いを大切になさい。そんなに自分を押さえつける必要なんてないんですよ」
「いいえ、そうはいかないわ」
 エルドラはややむきになって反論した。
「私は王太子殿下の婚約者です。だから殿下じゃない人間に恋したりしてはいけないんです。恋したって実らせちゃいけない。想いを伝えられない。伝えたら……よけいかなしくなるだけです。――それに、イリアンが私に恋しているはずもない。私は女らしくなんかないし、ちっともきれいでもない。やさしくないし、陰険だし、おまけに妙に嫉妬深くて、自分でもやりきれないくらい。愛される資格なんてないんです」
「あなたはきれいで女らしくてやさしいですよ、姫君。ご自分だけが、そんなふうに思いこんでいるのです。あなたの中に眠っている旋律は、そんなにも繊細で、心魅かれるものであるのに。……それに、愛されるのに資格なんていらないんですよ」
「……あなたは口がうまいのね、エル」
 エルドラはむりやり微笑もうとした。しかし、その瞳はすでにぬれていた。
「あなたの言葉、信じてしまいたくなるじゃないの」
「ならば、信じさせてあげます……。今、この場で」
 そう言ってエルはすわり直し、堅琴をかまえ直した。
「今、この場で、私はあなたの心を、その胸のうちに隠された、細い銀の糸で織りなされたような旋律を、あなたのために演奏しましょう。あなただけのために……」
「エル……?」
 吟遊詩人は答えなかった。彼は軽く目をつむり、深く息を吸い込んだ。そして弦の上に指をのせ、最初の和音をかきならした。
 瞬間、時間が止まった。
 吟遊詩人は第二の弦をつまびいた。
 空気の色が、流れが、変わっていった。現実は色あせ、エルドラは過去とも未来ともわからぬ(いやその両方かもしれない)時間の中に、ひとり投げ出されていた。
 そして、音楽が流れ出した。
 それは、ずいぶんと変わった音楽だった。単純そうに思われるのに、奇妙にいりくんだ、複雑な旋律。あまりにもよく知っているのに、なぜか知らないでいた旋律。微妙な不協和音の連なりが、ぎりぎりのところで奇妙な調和をかもし出す。それは冷ややかでありながら、どこかもの哀しく、せつなくて、そして限りなくやさしい旋律だった。
 最後の和音が鳴り終わった後も、しばらく、魔法が空気の中にただよっていた。
「ああ……」
 やっとのことで、エルドラは口をひらいた。しかしその声はいまだ夢から覚めやらぬ人のものだった。
「はじめて、知ったわ。……音は、音楽は、言葉より雄弁であり得るということを……」
「ええ、……時には」
 吟遊詩人の声はいつもどおり静かだった。
「でも、言葉にしなければならないこと、言葉でなくては正確には相手に伝わらないことだって、あるのですよ」
「ええ、わかっているわ」
 エルドラは立ちあがり、吟遊詩人に背を向け、数歩、窓のそばに歩みよった。
「いま、私は決めました。私はいつか、いいえ、近いうちに、あの人に、言うべき言葉を告げるでしょう。――その言葉が、あの人をとまどわせようと、困らせようと、私は、自分自身のために、あの人に告げることでしょう。その結果が、どうなろうとも」


 そして、五年あまりの歳月が流れる。

 結局、エルドラと王太子アドールオが結ばれることはなかった。吟遊詩人エルがルラルドの館から立ち去ってから数日後、突如、彼女と王太子の婚約は解消され、かわりに、ルラルドの次女アルフィアと王太子の間に婚約がとりかわされることとなる。そしてその一年後、エルドラはいとこイリアンと結婚した。
 しばらくの間、この事件はアルロイ宮廷にスキャンダラスな話題を提供し、宮廷人たちを騒がせた。だが、ひっそりと堅実に暮らすイリアン夫妻にあまりおもしろみが感じられなかったのか、間もなくそういった噂諸も消えていった。
 イリアンはこの結婚によって、王太子の花嫁を盗んだ男として王の不興をこうむり、出世街道からはそれてしまった。だが、イリアンはそのことを気に病むようなそぶりは見せなかったし、エルドラも何も言わなかった。
 彼らは兄妹か親友のように親しい夫婦となった。出世街道からそれたイリアンは、異民族の攻め寄せる辺境の地に左遷されたが、エルドラはどこへでも嬉々としてついていった。むしろエルドラは、多くの見知らぬ土地を旅できることを喜んでいたかもしれない。
 ときどき、異民族の来襲があり、イリアンは司令官として戦いに出ていった。エルドラは戦いにこそ参加しなかったが、後方にあって傷病兵の看護を手伝うなど、何かと彼の手助けをしようと努めた。それは、当時のアルロイ貴族の女性にはあまりにも珍しいことであったが、辺境の素朴な人々は、暖かく彼女を受け止め、共感をよせた。
 辺境の暮らしが、都育ちのイリアンとエルドラにとっててつらくなかったはずはない。だが彼らは、自分たちの恋を悔いているようには見えなかった。『司令官とその奥さん』の仲むつまじさはつとに有名で、辺境の若い娘たちの憧れの夫婦でもあった。
 そんなある日、エルドラは王都イル・ティールからの呼び出しをうける。ついに妹アルフィアが王太子アドールオのもとへ嫁ぐ日が来たのだ。その婚礼の祝いのために、花嫁の親族であるエルドラは、都に行かなければならないというのだ。任務のために辺境を離れられないイリアンを残し、エルドラは数名の供の者と共に、都にのぼった。
 久しぶりに会ったアルフィアは、すっかり美しい女性になっていた。もともとアルフィアは、母親譲りの亜麻色の髪と碧い瞳を持つ美少女だったが、花嫁となる喜びのためか、いっそう輝いて見えた。
「きれいになったわね、アルフィア」
「あら、姉さまはずいぶんと日にやけたのね」
 野外に出ることの多かったエルドラは辺境の太陽にやかれ、貴族の女性にしてはかなり色黒になっていた。
「でも、なんだか姉さま、昔より口のききかたまでずいぶん乱暴になったけど、でも、今のほうが、素敵ね」
「ありがとう、アルフィア。」
 エルドラはにっこりとアルフィアに笑いかけた。

 辺境からの急使が王宮の門をたたいたのは、ちょうど王太子とアルフィアの婚礼がとり行われた夜だった。
 エルドラが『その報らせ』を受けたのは、王宮でもよおされた宴の席でだった。社交界などあまり好まぬエルドラにとって、宴は退屈きわまりないものであったが、花嫁の姉として、宰相家に連なるものとして、さっさと退去することもまかりならず、ぼんやりと人々の顔を眺めていたのだった。
 そのとき、給仕の少年がエルドラの方に歩みよってきて、何事か耳うちした。辺境からの急使があって、エルドラに告げねばならないことがあるという。軽い胸さわぎを覚え、エルドラは少年の後について、宴の席を辞した。
 王宮の別室で待っていた使者は、エルドラもよく見知っている男だった。だが、男はみるかげもなく憔悴し、別人のようにすら見えた。
「いったい、何があったのです」
 男は告げた。数日前、辺境で大地震が起こったこと。その被害は甚大で、多数の死者が出、三〇あまりの村が壊滅状態に陥ったこと。そして彼女の夫、イリアンもまた、災害にまきこまれて死んだこと……
 報告を聞き終えたとき、エルドラは何も言わなかった、そしてそのまま彼女は館へ戻り、ひとことも発さずに、自室に閉じこもった。


エピローグ

 黒衣に身をつつんだ女がひとり、夜のイル・ティールの市街を歩いてゆく。
 イル・ティールの街は王太子の婚約祝いでわきかえっていた。人々は陽気に酒をくみかわし、もしかすると生涯ただ一度のこととなるかもしれぬ、このすばらしき祝祭に、酔いしれている。ついさきごろ、辺境で大地震が起こり、大勢の人間の命が消えていったことなど知るよしもなく。
 エルドラはうつろに歩き続けていた。どこかへ行くあてがあるわけではない。ただ、館の中でじっとしているのがやりきれなくて、ひとり市街に出てきたのだ。
 彼女の目には、すでに涙はなかった、喧騒の中にあって、彼女はもはや、かなしみにも、よろこびにも動かされることはないように見えた。
 そのとき。
「エルドラ姫!」
 エルドラの肩に手をかけ、彼女に声をかけた者があった。エルドラはのろのろと首をまわし、相手の顔をながめた。
「……エル!」
 それは、あの吟遊詩人エルだった。
 五年あまりの歳月をへだててもなお、彼は以前とまったく変わらぬ若々しい顔のままであり、しわひとつ増えたようすもない。
「あなたは……、ぜんぜん変わらないのね」
「ええ、…それが私なのです。でも、あなただって変わっていらっしゃらない。姫君」
「いいえ、私は変わったわ。それに、私はもう姫君じゃない。夫を持ち、そして今、夫を失った、ひとりの女です」
 吟遊詩人の縁の瞳がかなしげに光った。
「ええ……わかっています」
「そう。あなたには何でもお見とおしというわけね」
 エルドラは吟遊詩人の顔を見つめた。吟遊詩人もまた、黙ったまま、エルドラをじっと見つめていた。二人の間に沈黙がおとずれた。
 その沈黙を破ったのは吟遊詩人の方だった。
「あなたは今、私の堅琴を必要としておられるのではないですか?」
 エルドラはそっと目を伏せた。そして小さくうなずいた。
「ええ、おねがい」
 音楽の魔法は、あのときと同じようにはじまった。吟遊詩人の紡ぎだす旋俸は、あの日と同じもののように思われた。微妙にして絶妙の調和を保った和音も、精巧な銀細工のように繊細でどこか冷ややかな、単純にして複雑なその旋律も。
 だが、音楽は途中から大きく変わっていった。今度の旋律には、何か、あたたかなものがあった。曲はよりゆるやかに、よりゆたかに、よりダイナミックになっていった。小さな小川が、流れ流れて大河となる、そんな感じに似ているかもしれない。
(この音楽を私に与えてくれたのは、あの人なのだ)
 エルドラは目を閉じた。
 イリアンのことを思うと、気も狂わんばかりに彼を必要としている自分に気づく。でもそれすら、いつか、ふるい日々の思い出として、なつかしくながめられる日が来るのだろうか。
 月光は静かに、あざやかに、彼女と吟遊詩人を照らし出している。

 涙がひとつぶ、エルドラの瞳から流れおち、彼女の黒衣の上にちいさなしみをつくった。

 初出は某大学児童文学研究会の機関紙。
 人外もどきの超絶美形の吟遊詩人とか、いまだったら多分書かない……
 謎の吟遊詩人は結局何がしたかったのだろう、など、突っ込みどころ満載です。

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written by S.Kirihara
last update: 2015/02/04
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