二次創作小説

狼の子

3.

 およそ一ヶ月が過ぎた。
 シグルドの一行は、ヴェルダン城から、アグストリアとの国境にあるエバンス城へと移動していた。シグルドは軍を引き、シアルフィへ帰還することを望んでいた。だがバーハラの宮廷は、制圧したばかりのヴェルダンのみならず、不穏な動きを見せるアグストリアをも警戒し、シグルドをエバンスに留め置くことを望んでいた。エバンスと領土を接するノディオンを支配しているエルトシャンは、アグストリア諸侯連合の君主の中では数少ない親グランベル派である。エルトシャンと友人関係にあるシグルドをエバンスに置くことがグランベルとアグストリアの平和に繋がるのだとするバーハラ宮廷の言葉に、シグルドは疑念を挟みつつも従わないわけにはいかなかった。
 アグストリアとの関係を憂いながらも、シグルドはその私生活においては、非常に満たされ、幸福な状態にあった。愛してやまない婚約者ディアドラとの婚礼が、数日後に迫っていたからだ。
 イザークとの戦争はまだ続いていたし、ヴェルダンもまだ安定しているとは言い難い。
 加えて、アグストリアにもまた不穏な空気がある。アグスティの上王イムカはグランベルと平和な関係を保つ方針を打ち出しているが、世継ぎの王子シャガールや諸侯らはまた別の思惑を持っているのではないかとうわさされている。
 そんな危うい平和の中にあっても、若い城主の婚礼は、彼に従う人々にとって祝うべきものであり、笑いと喜びをもたらすものであった。エバンス城は、今、活気に包まれていた。

 エバンス城の中庭で、アイラは影を落とす大木に背を預け、駆け回るシャナンと子狼の姿を見守っていた。
 アーダンが育てている子狼は、今ではかなり成長していた。一ヶ月前はまだ目も開かず、三時間ごとに人間の手で乳を与えてやらなければならない赤子だったが、今では固いものも食いちぎり、そこいらを自在にかけずり回るようになっている。
 この一ヶ月というもの、この子狼はアイラの生活に嵐のような騒動と混乱をもたらしていた。女神の名にちなみ、アリアンロッドと名付けられた――だが、長ったらしいとの理由でたいていの場合はアリアンと呼ばれている――この雌の子狼は、餌と排泄を自力でこなせるようになってからは、ずっとシャナンと行動を共にするようになっていた。
 アリアンは、警戒心が異様に強いこと以外は、さして普通の子犬と変わらないように見えた。むしろ、どちらかと言えばおとなしく賢いようで、手をかけ世話をしている人間のことはきちんと認識し、その命令をよく聞き分けている。今のところ、特に凶暴であるような兆しはない。ただ、やはり狼であるので力はかなり強く、そういった点では油断できなかった。
 歯が生えたばかりの子狼は、やたらといろいろなものを噛みたがり、アイラを閉口させた。うっかり片付けずに放置していたアイラの剣帯やシャナンの靴などが、アリアンのおしゃぶりとなって無残な有り様となり果てたこともあったし、アイラとシャナンが使っている部屋に置いてある椅子やテーブルの脚には、子狼の歯形が少なからず刻まれていた。
 シャナンはこの子狼の虜だった。片時も傍から離さず、夜寝る時も寝床に連れ込んでいる。最初、アイラはそれを好ましいことだとは思わず、夜は屋外の猟犬小屋に置くようにとシャナンに言い聞かせていた。だが、幾度となくシャナンが子狼を寝床に連れ込むに至り、アイラは諦めざるを得なくなった。狼のしつけの責任を負っているアーダンも、その行為を特に咎める様子はないので、排泄のしつけさえなんとかなっているなら、黙認しようと思うようになった。
 子狼を通じ、アイラとシグルドを取り巻く人々との関係は、徐々に変化を見せ始めていた。特に、アーダンとはかなり親しく関わるようになっていた。
 このいかつい重騎士が、面倒見がよく、気のいい男であることはすぐに知れた。朴訥でどちらかといえば言葉の少ない男ではあるが、思いの他に情が細かく、幼い生き物を丁寧に扱う。シャナンに対しても、叱るべき時と褒めるべき時を使い分け、飾らない態度で接している。幼い者、いとけないものに対し、適切な態度で接することのできるこの男を、アイラは次第に信頼するようになっていた。
 子狼の面倒を見る以外にも、歩兵部隊の訓練などを通じて、アーダンと関わる機会は多かった。アーダンの剣術は洗練とは程遠く、粗削りで力任せなところが目につく。だが、非常な努力家でもあり、他者の言葉をよく容れることもわかってきた。彼は不器用だが誠実で裏表がなく、ある種の繊細さには欠けるものの、総じて好ましい人柄であるように思われた。
 アーダンの同僚たちに関しては、アイラはそこまでの信頼は抱けないでいた。
 金の髪のノイッシュは、本来は心優しく、誠実な人物なのだろう。だが、その忠誠はシグルドとシアルフィに向けられている。自分が忠誠を誓い、守ろうとするものの身に危険が及ぶとなれば、悩みながらも私情を殺し、排除しようとするだろう。子狼を誰よりも可愛いと思っているにも関わらず、殺さねばならないと主張したような人物なのだ。イザークとグランベルが敵対関係にある以上、信頼していい相手ではない。
 洒落者のアレクは、どことなく底が知れない。普段は冗談ばかり言っているように見えるが、いざというときには、情にとらわれることなく冷徹な判断を下す人間であるような気がして、どうも気を許すことができない。
「部屋はあちらの棟に用意してあります。義姉上」
 後方から声が聞こえた。特に考えがあったわけではないが、アイラは木陰に身を引き入れ、声のほうを見やった。
 ノイッシュと見慣れぬ女性が連れ立って歩いてくるのが目に入った。女性にしては背の高いその人物は、白銀に輝く騎士の鎧を身につけ、腰には剣を吊っている。蜂蜜色の豊かな髪は固く編まれ、形の良い頭の周りにぐるりと巻かれている。女性らしい柔らかな頬の線に似つかわしくなく、その表情は引き締まっており、茶褐色の瞳は厳しい光を湛えている。
 今日、シアルフィ公国から結婚を祝う使節が到着するという話は、アイラの耳にも届いていた。この女性はおそらくその使節の一員なのであろう。
(女性の騎士か。やはりシアルフィは尚武の国なのだな)
「あ、ノイッシュ」
 騎士たちの姿をみとめ、シャナンがノイッシュの傍に駆け寄った。
「シャナン様、エーディン様が探していましたよ。勉強の時間なのではないですか?」
 ノイッシュは中腰になり、シャナンと視線を合わせ、話しかけた。その足元に子狼のアリアンが駆け寄り、ふんふんと匂いを嗅ぐ。ノイッシュは片手を狼にそっと近づけ、顎の下をやさしく掻いた。
「あ、そうだった! うっかりしてた」
 シャナンは慌てたように応えた。故意にさぼっていたのではなく、本気で忘れていたのだろう。
「時間通りにいかないと、エーディン様が心配しますよ。アリアンはアーダンに預けて、早く行ってください」
「うん。ごめんなさい」
 そう応えると、シャナンは手を振り、踵をかえして駆け出した。
 少年に手を振り返すノイッシュに、傍らの女騎士が声をかける。
「あれが例のイザークの王子なのね」
 ノイッシュは腰を伸ばし、女性のほうに向きなおって応えた。
「そうです、エレイン義姉上」
(義姉上……?)
 そういえばノイッシュには兄があり、その妻も騎士であるという話を耳にしたことがある。この女騎士がそのノイッシュの兄嫁なのであろうか。
「……ずいぶんと、馴染んでいるようね」
「もう三ヶ月近くも一緒に暮らしているのです。普通のことだと思いますが」
 女騎士――エレインは深く息をつき、溜め息交じりに云った。
「ノイッシュ、やはりあなたは甘い。我々にとって危険な存在にしかならないものに対し、あのように情を傾けるなど。シグルド様は、情にもろいところがある。だからこそ、傍にいる者たちは、あえて厳しくあるべきなのに。義父上やアンリならば、あなたのように、危険をもたらすかもしれないものを甘やかすような真似はしないでしょう」
 ノイッシュは表情を引き締め、エレインの顔を黙って正面から見つめた。長い沈黙ののち、ノイッシュはようやく口を開き、小さな声で呟いた。
「危険をもたらすもの……ですか」
「ええ、そうよ。グランベルとイザークは今、戦争状態にある。それなのに、イザークの王族が、秘密裡にこの軍に匿われている。このことをランゴバルト卿やレプトール卿に利用され、シグルド様に叛意ありと誹謗されるようなことになったら、どうするつもりなの。それに……」
 エレインはノイッシュから顔をそむけ、絞り出すような声で云った。
「アンリはバイロン様に従ってイザークに出征している。アンリの身に何かあれば、イザークの者たちは、私たちにとってまぎれもない敵となる。私はわが夫を害する者など絶対に許さない」
「……同じことは、アイラ王女やシャナン王子の側にも言えることです」
「そうよ。だからこそ、我々は睦み合うことなどできない。たとえ相手が一個人としては好ましい相手であるように感じられたとしても、我々とイザークの民は相容れない存在。王子が連れていたあの子狼にしても同じこと。シャナン王子も、狼の子も、本質的には同じものだわ。今は幼く弱い者であっても、いずれは猛々しい獣となり、我々に牙を向けるかもしれない。その未来を予測していないわけではないのに、手元に置いて慈しみ、大切に育て上げようとする。甘過ぎるとしか言いようがないわ」
 アイラは思わず一歩踏み出そうとしていた。女騎士の眼前に立ち、それは違うと叫びたかった。だが、踏み出そうとするアイラの手を、後ろから引く者があった。
 振り返ると、アレクがいた。抗議しようとするアイラに、アレクは黙って首を振り、口許に一本指を立てて、声を出すなと伝えた。
「もうしばらく、黙って二人の会話を聞いていてもらえませんか」
 ほとんど聞き取れないような小声で、アレクが囁いた。
「なぜ……?」
「あなたが出て行って、エレイン殿の警戒心をさらに掻き立てるのは賢明なことではありません。それに、知っていただきたいのです。我々の立場を。我々の本音を」
 アレクの瞳に宿る光はいつになく真剣だった。いつも洒脱で冗談ばかり言っているこの騎士が、こんな表情を浮かべるとは、アイラにとって意外なことであった。
 アイラたちの存在には気付く気配もなく、ノイッシュはエレインに言葉を返した。
「そうでしょうか? ランゴバルト卿やレプトール卿に関しては、確かにおっしゃるとおりです。その点に関しては、私も深く懸念しています。しかしアイラ王女やシャナン王子、それにあの子狼に関しては……私は義姉上とは違う見解を持っています」
 ノイッシュは息を継ぎ、言葉を続けた。
「アイラ王女の話によれば、イザーク側は、ダーナ侵略を企てたリボーの族長の首を手土産に、グランベルとの交渉に臨んだらしいのです。しかし、マナナン王の言葉は容れられず、逆に命を断たれ、結果、イザークは徹底抗戦を望むようになった。どうしてそんなことが起こり得たのか、正直私にはわかりません。賢明で平和を望むクルト王子がそのような判断をなされるとは、到底思えないからです。何かよからぬたくらみがあり、イザークと我々グランベルとの間に取り返しのつかない齟齬が生じてしまった、そんな風に思えてなりません。ならば、アイラ王女の信頼をかちえ、シャナン王子を守り育て上げることこそが、我々のなすべきことなのではないでしょうか。グランベルとイザークの間に生じた誤解とわだかまりを解き、平和を取り戻すために」
「でも、アイラ王女が真実を述べているとは限らないでしょう? 生き延びるために、あなたがたを言いくるめようとして、イザーク側に都合のよい話をでっちあげた可能性は十分に考えられるのだから」
「無論、それは考えましたし、調査も行っています。ですが、アイラ王女を知るにつけ、底の浅い作り話をするような人物ではないと思うようになりました。それに、よしんばアイラ王女が我々を偽っていたとしても、我々の側から与えるものは、正義と信頼であるべきです。少なくとも、シグルド様はそのようにお考えになられています。そして私は、シグルド様の意志が曲げられることなく実現されるために、力を尽くします」
「ひとつの理想ではあるわね、あなたの言うことは。でも現実はそんなに美しくもたやすくもない。たとえどんなに正しくても、力なき者は踏みにじられ、担保のない信頼は裏切りで報われる。正義や信頼など、いったん力を失えば、謀略と疑念の前に虚しいものとなり果てる。そんな事態を招かないためにも、非情に徹し、排すべきものは排することができる者がいなくては」
 ノイッシュは瞳を閉じ、首を振った。
「……それは私の器を超えた要求です。義姉上がおっしゃるように、私はどこか甘い。それを改めようとしてこなかったわけではありません。ですがその度に、おのれの限界を感じるのです。できれば誰か別の、私などよりも優れた方をお送りください。シグルド様を正しく導ける、年配の方を。老練で抑えの利く武人や、あるいは、外交に明るく広い視野を持つ方を。私は、単なる若造、騎馬隊の一隊長にすぎません」
 そう語るノイッシュは、張り詰め、憔悴しきっているように見えた。常に凛とした姿勢を崩さないシグルドの片腕が、こんなにも負担を感じていたとは、アイラには思いもよらないことだった。
「ノイッシュ、あなた……だいぶ疲れているようね」
「弱音を吐いて申し訳ありません。ですが……なすべきことの多さの前に、もう崩れそうなのです」
「……残念ながら、あなたの希望に沿うことはできそうにないわ。あなたの望むような人物は、イザーク遠征に同行しているか、バーハラで宮廷との交渉にあたっている。今ここにいる人員で間に合わせてもらう他ないの」
「そうですか……。ではせめて、文官の増員をお願いできませんか。祐筆が務まりそうな者、租税の徴収や交渉事に明るい者などをお送り下さい。エバンスの統治を円滑に行うには、そういった者が不足しています」
「善処するわ。でも、国元も、バーハラのシアルフィ館も、決して手が余っているわけではないのよ。どだい、二方面へ同時に遠征を行うなど、一公爵家には負担が重すぎるのだから。それにしても、正義と信頼、ね。あなたらしくはあるけれど……」
「青くさい理想論に聞こえるのは承知しています。ですが、結局最後にはそういったものこそが力を持つのではないかと、私は思っています」
「正論ね。個人としてはすばらしいと思う。でも同時に、とても危なっかしいとも思うのよ」
「義姉上、我々の軍をご覧ください。その母体となっているのは確かにシアルフィの騎士団です。しかし、レンスターのキュアン王子を皮切りに、グランベルの公子たちが加わり、今ではヴェルダンのジャムカ王子の勢力も参戦するようになりました。我々はシアルフィ軍でもなければ、グランベル軍でもない。シグルド軍、としか呼びようのない集団です。生まれ正しき公子と、名も知れぬ盗賊が肩を並べて戦う、所属も国籍も価値観も異なる人々の集団。軍紀も、忠誠心も、このような集団においては、あまり力を持ちません。シグルド様への個人崇拝と互いへの信頼、それこそが我々を束ね、支えているのです」
 ノイッシュの言葉は、アイラにも実感のあるものだった。シグルドの軍は不思議な集団だ。アイラにせよ、ジャムカにせよ、本来はグランベルと敵対する勢力に属しており、シグルドを敵として恨んでいてもおかしくない立場の者である。だが今では、シグルドとともに戦うことに抵抗感はなく、むしろこの軍の精鋭として扱われることすらある。そうなり得たのは、シグルドがアイラらを信頼し、その力を発揮することを許したからであるとともに、彼らの側でもまた、シグルドの望みに応えたいと思ったからではなかったか。
「信頼は、こちらが先んじて与えなければ、相手から返されるものではありません。狼を飼いならすのも同じことです。獣は、言葉が通じぬがゆえに、言葉に騙されることもない。言い訳することができない相手です。そのような者を相手にするときは、たった一度の裏切りが致命的なものとなる。だからこそ心を傾け、大切にしなければならないのです。自らが傷つけられることを怖れ、身を引いてしまっては、結局何も得られない。信頼とは、そのようなものだと思うのです」
 エレインはじっとノイッシュを見つめ、ゆっくりと首を振った。しばしの沈黙の後、彼女は静かな声で云った。
「……シグルド様やあなたが思い描くほど、人間は美しい存在ではない。もっとどろどろとしてなまなましい、力と力のせめぎ合いが、我々を動かす原動力となっている。わたしはそう思っている。でも、理想があるから、動かせるものもある、それもまた真実なのでしょう。あなたが、そしてシグルド様がその理想に裏切られることのないよう、わたしは祈るのみです」

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written by S.Kirihara
last update: 2014/12/04
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