二次創作小説

白い花の記憶

Act. 3

〜グラン暦七五八年 アグストリア〜

 ユングヴィ公女エーディンの婚礼は、グランベル六公爵家の息女のものとしてはささやかだった。
 戦地にあるリング卿は、次女とユングヴィの弓騎士との婚姻を認める旨をしたためた短い手紙を送ってきたが、当主の予定外であったその婚姻をあまり歓迎している風ではなかった。だが、シグルド率いる軍に属する者たちにとっては、エーディンと弓騎士ミデェールの仲は周知のものであり、今更引き裂くことなど不可能であると思われていた。
 グランベル本国からの客人は祝いの使者以外には多くはなく、婚礼はごく身内のものとなった。それでも、アグスティ城に滞在する者たちにとって、それは大きな祝い事であるに違いなかった。
 婚姻の誓いをかわすために祭壇に立ったエーディンは、花婿に腕を預け、晴れやかに微笑んでいた。既に身重になったその体を覆う純白のドレスは、体を締め付けないゆったりとしたものであったが、計算されつくしたドレープは腹部のふくらみをうまく隠し、白百合のような清楚な姿を際立たせていた。『女神』と称されるその美貌は、喜びにいっそうの輝きを放ち、彼女の心を得損ねた男たちを改めて悲嘆の淵へと誘った。
 婚礼の夜は城をあげての宴がもよおされた。主人公である花嫁エーディンは身重であり、城の女主人たるシグルドの妻ディアドラは先頃生まれたばかりの息子をことのほか大切にしているため、二人とも宴の席からは早々に退出していた。女主人不在の宴ではあったが、若い者たちが盛り上がる口実としては十分なものであり、夜が更けても、宴は続いていた。
 アイラはグランベル風のダンスを楽しんでいた。イザークで王女として過ごしていた頃、教養の一環としてグランベルの社交界のしきたりはひととおり学んでいる。たいていの儀礼は彼女にとって退屈なものであったが、ダンスは闊達な彼女にとって喜ばしいものであり、楽しみながら覚えたものであった。どちらがより好きかと問われればイザークの伝統舞踊を好むと答えるだろうが、グランベルの華やかなダンスも決して嫌いではない。音楽に合わせて体を動かすことは、彼女にとって喜びであった。
 ただ、ともに踊る顔ぶれがある程度決まってしまうのがやや不満ではあった。ドズルの公子とシアルフィの口のうまいほうの騎士は幾度となく誘ってくるのだが、他の者たちは積極的には彼女を誘ってこない。同じ顔ぶればかりではさすがに飽きるので、一度、広間の隅でぽつねんと皆の踊るさまを眺めているシアルフィの重騎士を強引に引っ張りだそうとしたのだが、彼は頑強に抵抗して踊りの場に出てこようとはしなかった。
(さすがに、そろそろ疲れたな)
 アイラは広間から離れ、中庭を廻る回廊に出た。
 青白い月光に包まれた庭園は静寂が支配していた。ふと視線を上げると、幻獣や動物の形に刈り込まれた樹木の群れを抜けた先の東屋に、人影があるのに気付いた。
(あれは、ホリン)
 こんなところにいたのか、それが最初にこみあげてきた思いだった。
 実はずっと、こっそりと彼の姿を探していた。式の時には端のほうに参列していたように思うし、宴の始まった頃も、部屋の片隅で酒をたしなんでいたように思う。だが宴が踊りと音楽に移行してからは、いつの間にか彼の姿は消えていた。
(騒がしいのは嫌いなのだろうか)
 アイラはそっと東屋に歩み寄った。

「ホリン」
 東屋に佇む剣闘士に、アイラはそっと声をかけた。
「ずっとここにいたのか?」
「ああ」
 東屋のテーブルには酒瓶と酒杯が置いてある。酒杯は空になっていたが、酒瓶にはまだ酒がだいぶ残っているようだ。
「ひとりで飲んでいたのか?」
「まあな」
「宴の席にいればよいものを。騒がしいのは嫌いか?」
「あまり馴染めるものではないな」
「そうか」
 相変わらず無口な男だと思った。会話を持ちかけても、なかなか言葉が続かない。ただ、沈黙を続けていても、それがごく自然なものと感じられ、居心地が悪くならないのが、この男の不思議なところである。
「なあ、ホリン。一度お前に聞いてみたいと思っていたことがあるんだが、いいか?」
 意を決して、アイラは言葉を投げかけた。
「うん?」
「お前の剣筋には覚えがある。お前はイザークの人間ではないのか?」
 ずっと聞きたいと思っていたことだった。アグストリアの闘技場で初めて剣を交わした時から感じていたことだ。彼の剣筋を、アイラは確かに知っている。
「俺はイザークの人間から剣を教わった。お前にとって馴染みがあるのはそのせいだろう」
 やはり、という思いと、聞きたかったのはその言葉ではない、という思いが交錯する。
「昔、イザークで、月光剣を使いこなす少年に出会った。彼と会ったのはほんの数えるほどだが、今でもあのときのことは忘れられない。お前は、彼にとてもよく似ている。お前は、セタンタという名に覚えはないか?」
 そう、ホリンは記憶の中のセタンタとよく似ている。セタンタがそのまま成長すれば、きっとホリンのような容姿となり、ホリンのような剣を使うようになっていたはずだ。セタンタの母はアグストリアの出身だったという。出奔したセタンタが、アグストリアに流れていっても何の不思議もないではないか。なによりも、月光剣を使い、姿形がこんなにも似ている人間が、そうそういるものだろうか。
 ホリンは黙って、アイラの顔をじっと見つめていた。
「お前は、その少年が、俺だと思うのか?」
 長い沈黙の後、ホリンはぽつりとつぶやいた。
「違うのか?」
 ホリンは応えない。テーブルの上に置かれた酒杯を取り上げ、手の中で転がす。
「その少年はイザークの民だったのだろう? イザークの民であるならば、王家の危機を見捨てるはずはない。イザークがグランベルによって攻められたとき、そいつはお前を助けに来なかった。ならば彼はもういないか、イザークの民であることを捨ててしまったのだろう。そんな者のことをイザークの王女が記憶する必要はない」
「お前は、セタンタではないと……?」
 自分の声が震えるのがわかる。
「そんな名の者は、ここにはいない」
 ホリンははっきりと言い切った。
「そうか……」
 涙が滲みそうになる。ホリンがセタンタであればいい。ずっとそう思っていた。だが、今、本人があっさりとそれを否定した。いや、正確には少し違う。ホリンは、今ここにいる彼はセタンタではないと言う。過去はともかく、今の彼はイザークの民ではなく、セタンタでもない、ホリンはそう言っているのだ。
「おかしなことを聞いた。すまない。もう忘れてくれ」
 ホリンはアイラの言葉には応えず、手の中の酒杯を見つめている。
「邪魔したな。では、またな」
 アイラは踵を返し、足早に歩み去った。

 ホリンは手の中の酒杯に目を据えたまま、アイラが立ち去っていく気配を感じていた。
 アイラが完全に遠ざかったと確信すると、ホリンは顔を上げ、天を仰いだ。
(覚えていてくれたのか――)
 彼自身は一度たりとも忘れたことはなかった。イザークのアイラ。イザークでの少年時代の記憶の中で最も輝かしい光を放つ、忘れえぬ少女。
 アグストリアの闘技場で、対戦者として彼の前に歩み出た彼女を目にしたとき、まさかと思った。剣を交わし、すぐに彼女だと確信した。敗れた後に彼女の名を尋ねたのは、確認のためでしかなかった。
 グランベルのイザーク侵攻の話はアグストリアにも伝わっていた。だが彼は動こうとはしなかった。イザークは既に彼にとって過去の土地だった。アイラのことだけは気がかりだったが、もはや遠い過去の幻影、そう思っていた。
 否、そう思おうとしていた。
 実際にアグストリアで彼女の姿を目にしたとき、それがとんだ過ちだったと思い知らされた。アイラは苦難の中にあっても折れることなく、信念を貫いていた。敵であるはずのグランベルの軍に身を寄せながら、イザークの民の誇りを胸に、幼い甥に祖国再興の夢を託し、困難に正面から立ち向かっていた。
 自分とはなんと違ってしまったことだろう。もう長い間、彼は剣闘士として、あてのない日々を流されるままに生きていた。名の売れた今では、金も酒も女もさして不自由することはなくなっていたが、ただそれだけだった。
 昔は守りたいものを持っていたはずだった。誇れる名を持っていたはずだった。だが自堕落な生活の中で、それらは失われて久しかった。不敗の剣闘士などという呼称は、イザークの民としての矜持に比べれば、なんと薄っぺらいものだろう。
 もし、グランベルの侵攻が始まった時点で、セタンタとしてただちにイザークに向かっていたならば、彼はイザークの民としての誇りを取り戻せていたはずだ。だが彼はそうはしなかった。
 彼自身のイザークの民としての名誉はすでに失われた。だが、まだアイラとシャナンがいる。彼らを守りぬくことが、今の彼に与えられた使命なのだ。ホリンはそう確信していた。
 セタンタの名は名乗るまい。彼はひそかにそう誓っていた。セタンタと名乗れば、アイラは喜んでくれるかもしれない。だが、ソファラの子を名乗る資格は、今の自分からはすでに失われている。
 ソファラのセタンタではなく、アグストリアの剣闘士ホリンとして、アイラとシャナンを守護するものとして生きる。それこそが、今の彼が求める生き方だった。

《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2014/09/29
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