二次創作小説

白い花の記憶

Act. 2

2.

 イザーク城の中庭で、マリクル王子は木剣を手に妹と向かい合っていた。
 アイラは正眼に構え、じりじりと歩み寄ってくる。
 対するマリクルは無造作に剣をだらりと下げ、静かにたたずんでいた。
「たぁっ!」
 気合一閃。アイラが踏み込んできた。
 マリクルは自然な動きで妹の剣を受け止める。
 その動きを予測していたのか、アイラはすばやく次の攻撃を繰り出してきた。だがマリクルの反応はもっと早かった。
 カンッ
 高い音を立て、アイラの木剣が宙に舞う。
「……まだまだだな、アイラ」
 したたか打ち据えられた小手をさすっている妹に、マリクルは練習の終了を告げた。
「今日はここまでとしよう」
 いつの間にか太陽は中天に輝いている。稽古をはじめたのは早朝だったから、かれこれ四時間ほどもぶっ続けで練習していたことになる。
「はい、兄上」
 アイラは素直に兄の言葉に従った。確かな結果が得られなかったにもかかわらず、その顔は不思議と晴れやかだ。
(約束の日まで、あと二日を残すばかりとなったわりには……)
 妹は落ち着いて見えた。
(あきらめたのか。いや、そんなはずはないな)
 アイラの気性はよく知っている。一度望んだことを簡単にあきらめるような娘ではない。いや、困難であればあるほど、意固地なまでに食い下がる、それがマリクルの知るアイラだった。
(先日までは、あんなにあせっていたというのにな)
 父から武術大会に参加する条件を聞かされて以来、アイラの練習ぶりは鬼気迫るものがあった。約束の日までの日数が減るにつれ、あせりが色濃くなっていくのが手に取るように感じられた。秘剣の習得、それはあせればあせるほど困難になっていく。すでに流星剣をおのれのものとしているマリクルはそのことをよく知っていた。だからことあるごとに妹に言ってはいたのだ。あせるな、と。
 アイラの実力を持ってすれば、いつの日か必ず流星剣をものにすることだろう。だが、今の彼女にはおそらく無理だと、マリクルは思っていた。才能が足りないのではない。努力が足りないのでもない。だが、極意を見いだすには “壁”を越えなければならない。そして壁は、あせればあせるほど高くなっていく。
(何か、ふっきれたのだろうか)
 三日前からだった。アイラの剣からあせりが嘘のように消えたのは。
(この調子ならば……ひょっとしたら)
 アイラはいまだ一度として流星剣を成功させてはいない。だが、明日あたり、父の前で彼女はみごとな流星剣を見せてくれるかもしれない。同情でも希望的観測でもない確かな予感として、マリクルはそう感じていた。

 アイラは森の中を走っていた。
(思ったよりも遅くなってしまった)
 午前の練習を長引かせたせいで、昼食をとる時間が遅くなってしまった。なるべくさっさと食事を終えたのだが、セタンタとの約束の時間はとうに過ぎていた。
 兄との練習は貴重だ。流星剣の極意をその身をもって示せる者は、父マナナンと兄マリクルの他にはいない。
 それでも、兄との練習だけでは得られないものもある。
(あいつは、もう来てるだろうな)
 アイラは金髪の少年の姿を思い描く。三日前に出会った、ソファラの少年。アイラよりわずか二歳しか年長でないのに、ソファラの秘剣「月光剣」を使いこなしている、無口なセタンタ。
(今日こそ、決めてやる!)
 この三日というもの、アイラは彼とともに剣の練習を重ねてきた。試合を行ったときの勝率はおよそ五対三。アイラのほうが分が悪いものの、かなり互角に近い相手だ。いや、セタンタがすでに秘剣を身につけた者であることを考えれば、アイラはかなり健闘している。もしアイラが流星剣を身につけることができたならば、この勝率は逆転するに違いない。
 自分は確実に流星剣に近づいている。今のアイラにはそう信じることができた。
 木立が途切れ、陽光が差し込んでくる。森の中にぽっかりとひらけた広場には、すでに人影があった。
 光の輪の中に、彼はいた。
 太い針葉樹の根元に腰を下ろし、幹に背をあずけている。金の髪は陽光を受け、ひときわ輝いて見える。だが蒼い瞳は閉ざされており、アイラが近づいても気づかないようだ。
(眠っているのか)
 アイラは静かに少年に近づいた。
 アイラが少年の横に腰を下ろしても、少年は目を開かなかった。あまりにも静かなのでアイラは一瞬不安におちいったが、少年の胸が規則的に上下していることに気づき、ほっと胸をなでおろす。
 よく見ると、少年の目の周りには、うす黒い隈があった。顔色も、心なしか青ざめているような気がする。
(疲れているのだ)
 自分のせいかな、と、ふとアイラは思った。思えばこの三日、少年は実によくアイラにつき合ってくれた。彼には彼の生活があり、アイラと稽古をする以外にもやるべきことがあったに違いない。そんなことは今まで考えもしなかったのだが。
(悪いことをしてしまったかもしれない)
 少年はソファラの住人、客人だ。少年がどこに逗留しているのかアイラは知らなかったが、少なくともふだんの住まいとは違う、慣れない環境にいるには違いない。何かと疲れることも多いのではないだろうか。
 セタンタがその手に一輪の白い花を握っているのに、アイラは気づいた。この広場のそこかしこに咲いている、地味な花だ。
(花などに興味のある奴だったのか……)
 何気なく、アイラは自分の横に生えていた、同じ花を摘み取った。よく見ると五弁の花びらは真っ白ではなく、薄い銀色の筋が通っている。冠状の花蕊は金色で、顔を近づけるとひなたくさい花粉の香りの奥から、すずやかな芳香がただよってくる。
(目が覚めたとき、持っている花の数が増えていたら、驚くかな)
 くだらないいたずらだ、と自分でも思った。だが、そんなふうに戯れてみるのも悪くない。柄にもなく、アイラはそう思った。
 自分の摘んだ花をセタンタに握らせようして、アイラは彼の手に触れた
 あつい。
 はっとして、アイラは手を引いた。そしてセタンタの額に自分の手を押し当てる。
 額は燃えるようだった。
(疲れて寝ていたんじゃない。病気なんだ!)
「セタンタ、大丈夫か、セタンタ!」
 反射的にゆり起こしていた。
「………アイラ?」
 セタンタはゆっくりと目を開いた。いつもよりぼんやりとした目だ。だが意識ははっきりしているようだ。アイラはほっと息をついた。
「大丈夫か?」
「眠ってしまったようだ。……すまない」
 そう言ってセタンタは立ち上がろうとした。だが、立ち上がりかけたところで、ぐらりと前へ倒れこむ。
「あぶないっ!」
 アイラはあわてて彼の体を支えようと腕を差し出した。少年の体はぐにゃりとアイラの腕の中に投げ出された。
「うわっ……」
 少年の体の重みを支えきれず、アイラは地面に倒れ伏す。だが地面に衝突する寸前で、どうにか後ろに手をつき、体を支えようとした。
 とりあえず地面への激突はまぬかれたものの、二人分の体重を支えるには体勢が悪すぎた。少年に押し倒される格好で、アイラは地面に押し付けられていた。
(えっ――)
 意味もなく、アイラはどぎまぎした。
「す、すまない!」
 セタンタはあわててアイラから離れ、身を起こそうとする。
「ば、ばか、急に動こうとするとまた……」
「うっ……」
 めまいを起こしたらしい。少年は起き上がるどころか、もう一度倒れこんできた。
「落ち着け――」
 それは少年に言ったのか。それとも自分自身に言い聞かせたのか。
「急に動いてはダメだ。しばらくじっとしていろ。わたしは……大丈夫だから」
「すまない……」
 少年は目をつぶり、体の力を抜いた。その体の重みがどっとアイラの上に加わる。
 少年の体の温度が、息づかいが、感触が、じかに伝わってくる。
(うわっ、お、重いな。そりゃこいつは男だから、筋肉なんかもけっこうごつごつしていて……って何考えてるんだ、わたしは。
 ええと、これはその、あれだ、不可抗力ってやつだ。そもそもこいつが病気のくせにふらふら出歩いたりするからであって……)
 なぜか言い訳がましい言葉が頭をちらつく。
 自分の鼓動が、いやにはっきりと感じられる。
 その鼓動に重なるように、セタンタの心臓が脈打っている。
(くそっ、いったいどうすればいいんだ!)
 アイラは大きく息を吸い込み、吐き出した。
 そしてそろりと体を動かし、どうにか少年の体の下から這い出す。
 立ち上がって一度大きく体を伸ばしてから、アイラは少年のかたわらにしゃがみこんだ。そして少年の体の下に腕を差し入れ、静かに少年をあお向けに寝かせなおす。
「本当にすまない……」
 目をつぶったまま、少年は弱々しくつぶやいた。
「おまえは、バカか――」
 アイラは思わず少年をどなりつけていた。
「なんだってこんな状態で、ここに来た。病人はおとなしく寝ていればいいものを!」
「……わからなかった」
 小さな声で、少年が答えた。
「何――?」
「お前に連絡する方法がわからなかった。それに、自分の体がこんな状態だとも――」
 アイラはきょとんとして、少年を見つめた。
(こいつって、こいつって……)
 なんとも言えない感情が湧きあがってくる。どなりつけてやりたいのか、笑い飛ばしてしまいたいのか、それとも、泣きながら抱きしめてやりたいのか、なんだかよくわからない、むずむずする気持ちが。
「お前……ほんとうに、バカだな」
 とりあえず、口にできた言葉はそれだけだった。
「迷惑をかけた。すまない……」
「そんなに詫びるな」
 そう答えると、アイラは立ち上がった。
「アイラ――?」
 空気の動く気配を感じたのか、少年は目を開けた。
「人を呼んでくる」
 アイラは少年の顔を見下ろし、言った。
「お前は動けそうにないし、わたしの力ではお前を運ぶのは無理だ。城へ戻って、人を呼んでくる」
「……必要ない。しばらくじっとしていれば、自分で……」
「無茶を言うな」
 なだめすかすような調子でアイラは言った。
「病人が人の手をわずらわせるのはどうしようもないことだ。だからせめておとなしくしていろ。無理に動こうとされると、かえって迷惑だ」
「………」
「静かにしていろ。すぐに戻る」
 そういい残すと、アイラは走り出していた。

 兄を連れて再び森の広場に来たアイラは、そこにまだ少年が寝ているのを目にして、ほっと息をついた。無理をしてでも立ち去っているのではないかと懸念していたのだ。
「こいつなんだ、兄上」
 アイラの声を聞きつけたのか、少年が目を開けた。
「気づいたか」
 マリクルが少年に声をかける。
「あなたは……」
「アイラの兄だ」
「マリクル王子……!」
 驚いたように問いかける少年に、マリクルは無言でうなずいた。
「そなたをイザーク城へ連れて行く」
 そう言うと、マリクルは少年を抱き上げた。
「こ、こんなこと。降ろしてください。自分で歩きます」
「無理を言うな。自分で動けるならば、とうに立ち去っていただろう?」
 横から口をはさんだアイラの言葉に、少年は沈黙で答えた。
「まさか城までは抱いてゆかぬ。森のはずれに馬を待たせてあるのだ」
 笑いながら、マリクルは言った。
「それとも、城ではなく、そなたらの逗留している宿へ連れていったほうがよいか、ソファラのセタンタ」
「おれの名を……?」
「アイラから聞いた」
 セタンタが自分のほうを振り返ったのにアイラは気づいた。その視線には心なしかとがめだてているような感じがあった。
「宿へ……お願いします」
 あきらめたような口調でセタンタは答えた。
「わかった。ところで、どこに逗留しているのだ?」
「中央通りの……銀鈴亭という宿に……」
 セタンタは、城下でも屈指の高級旅館の名を告げた。
「なるほど、ソファラのコナル卿はなかなか豪勢だな。親族の館の片隅に間借りするよりは、金子を払って王者のふるまいをなさるのを好まれるか」
 マリクルの口調は何気なかったが、少年はその言葉に気色ばんだ。
「コナル様のお考えではありません。手配されたのは、ブラァン様です」
「ふむ、ソファラの世継ぎは父君に代わり、差配を行うようになったか」
「セタンタはなぜ、父や兄に様をつけて呼ぶのだ? お前もコナル卿の息子なのだろう?」
 セタンタの言葉づかいに違和感を覚えたアイラは何気なく尋ねた。
「アイラ、それは」
 マリクルが慌ててたしなめる。
「おれは……」
 少年は苦しそうな表情を浮かべ、言葉を詰まらせた。
「おれの母はコナル卿の正式の妻ではありません」
「アグストリアから来た旅芸人の歌姫をコナル卿が寵愛し、庶子をもうけたという話は聞いていたが、そなたのことなのだな」
 マリクルの言葉にセタンタはうなずいた。
「コナル様は……こんなおれを息子と呼んでくださいます。剣を使うことも教えてくださいました。ですが……」
「ブラァンか……」
 黙り込んだ少年の顔を見て、マリクルは嘆息をもらした。
「あいつにも困ったことだ」
「……おれは、妾の子です。コナル様の温情に甘え、差し出た真似をしているのはおれのほうなのです。ですから……」
「そんなことを言うな」
 それまで口をつぐんでいたアイラが、唐突に言った。
「お前もまたソファラの息子ではないか。お前は強いのに……その剣の腕がなによりの血の証だというのに……。ブラァンとかいう奴は、おまえの兄なのに!」
「兄だからだ」
 マリクルがはっきりとした口調で言い切った。アイラは驚いた表情で兄の顔を見上げた。
「彼がソファラの子であると熟知しているからこそのふるまいなのだよ、アイラ。
 ブラァンはおそれているのだ。彼が弟であるから、月光剣を継ぐ者であるからこそな」
「どうして……」
 マリクルは厳しい表情を浮かべて言った。
「わたしはブラァンと剣を合わせたことがある。ブラァンは悪くない剣士だ。しかしセタンタがこの若さですでに月光剣を使いこなしているのがまことならば……ブラァンは、セタンタには及ぶまい。
 ブラァンは……よく言えば、誇り高い男だ。そして血の純粋さに高い価値を見いだす輩でもある。認めたくないであろうな。妾腹の弟がリボーの姫を母に持つ自分よりも強いなどとは。
 そしておそれてもいるのだろう。
 われらオードの末裔は力をこそ尊んできた。正嫡の兄より妾腹の弟が優っていると知れば、弟に家督を譲ることとてあり得ぬ話ではない。
 だからそうはさせぬ。弟とは認めぬ。父とは呼ばせぬ。
 ソファラを継ぐべきは誰であるかを明らかにする。それゆえの、扱いなのだ」
「おれは……家督など望んではいないのに」
 セタンタは弱々しくつぶやいた。
「で、あったとしても、ブラァンは信じぬであろう。
 いや、おそれを消せぬのだ。おのれを凌駕するものが身近にあることに耐えられない。誰にでも――そう、このわたしにも――そのような思いがないわけではない。わたしとて、幼い妹のすこやかな才能をうとましく思う瞬間がないとは言えぬ。だがそれ以上に、妹をいとおしく思っている。しかし、ブラァンはそう感じてはいないのであろうな」
「おれは……ただ……」
 セタンタの表情がこわばり、つぶやきは途中で飲み込まれた。彼が泣き出すのではないかと、アイラは思った。
「ごめん、私、何も知らなくて……」
「いや……説明してなかったおれのほうこそ……」
 困惑したように、セタンタが答える。
「しかし、やはり城に連れ帰った方がよいかもしれぬ。ブラァンがそなたに充分な看護を与えるかどうか、怪しいものだ」
「大丈夫です……おれは……」
「だといいのだが」
 マリクルは大きく息をついた。
 それきり三人は言葉を交わすことなく、黙々と森の道を抜けていった。

 イザーク城下の目抜き通りにある銀鈴亭は、たしかになかなか瀟洒な店構えをしていた。
 扉を開け、中に入っても、酒場や安宿にありがちな異臭は感じられない。漆喰の壁はあくまで白く、すすや蜘蛛の巣とはまるっきり疎遠であるようだ。床に敷かれた清潔な葦の葉を踏むと、わずかに青くさい香りがただよう。
「これは、マリクル王子!」
 マリクルの顔を認め、カウンターの奥にいた小太りの中年男が転がるように出てきた。男の禿げ上がった頭はランプの光を受け、てらてらと光っている。この銀鈴亭の主人だろう。
「ソファラのコナル卿がこちらに逗留されていると聞いたのだが」
「は、はい、確かに」
 主人はかしこまって答えた。
「この少年はソファラの一行の者であるらしいのだが……病を得、出先で倒れたのだ。とりあえずここまで連れてきたわけだが……」
「これは……! すぐコナル卿にお知らせいたします」
「それから医師の手配も頼む」
 マリクルがそうつけ加えるのを耳にし、セタンタが異議を挟もうとする。
「王子……わたしは医師にかからずとも……」
「病の身で何を言う。よけいな心配はするな」
 マリクルは穏やかな、だが逆らうことを許さない調子で言った。
「よいな、主人。医師を呼ぶのも忘れぬように」
「は、はい」
 宿の主人は下働きの少年を呼びつけ、医者を呼びに行かせた。
「ではわたくしはコナル卿に……」
 そう言って主人が階段を上がりかけたとき、階上からひとりの若い男が姿を現した。
「あ、ブラァン様」
 階段を上がりかけていた主人が男に声をかける。
「何やら騒がしいが……何かあったのか」
「い、いえ、それが……」
 主人が話しかけたとき、マリクルが声を発した。
「ブラァン殿?」
 声のした方角を見下ろしたブラァンは、アイラたちの姿をみとめ、あわてて階段を降りてきた。
「マリクル王子、なぜこちらに……セタンタ!」
 ブラァンはマリクルの背に負われたセタンタに目を留めると、鋭い声をあげた。
「森の中で倒れていたらしい。妹が見つけたのでな」
「申し訳ありません。この者がとんだご迷惑をおかけしたようで」
「いや。セタンタには妹が世話になったようだし」
「妹君が?」
 ブラァンは初めてアイラに目を向けた。
 意地悪そうな男だ、というのが、アイラの第一印象だった。
 ブラァンは整った顔立ちの長身の男で、物腰も柔らかい。しかし直感的にどうにも「気に食わない」感じがする。先ほどの兄とセタンタの会話がブラァンに対する印象に影響を与えていることは否めないが、どことなく酷薄そうな、いやな感じの目つきをしているように思えるのだ。
「これは……アイラ姫」
 ブラァンはアイラに丁重な礼をした。
「はじめまして、ブラァン殿」
 アイラはそっけない返事を返した。
「いえ、以前お小さいときにお目にかかったことがあるのですが……覚えてはいらっしゃいませんか」
 会ったことがあるのかもしれない。だが、たいして印象に残っていないことだけは確かである。
「あの頃姫はまだ五つでしたか。……お美しくなられた」
 やめてくれ、とアイラは言いたくなった。
 五歳の時の記憶など、残っているはずもない。お美しくなられた、などという言葉もおざなりなお世辞にしか聞こえず、ただうっとうしいだけだ。
「覚えていなくて申し訳ない」
 不快さはひとまず心の奥に押し込んだつもりだったが、アイラの返事はどことなくぎこちないものとなった。
「それよりも病人を何とかしたほうがいいと思うのだが。わたしは彼には大変世話になっている。それ以上健康を損ねるようなことがあっては気がかりだ」
「おっしゃるとおりです、姫。しかし、セタンタはいったいあなたに……?」
「わたしの剣の稽古につきあってくれた。おかげでわたしはずいぶん助かったのだが、無理をさせたのではないかと心配している」
「剣の稽古……ですか」
 ブラァンは微妙に含みのある調子で問いかけた。
「ああ、そうだ。彼はなかなかの使い手だな。コナル卿もブラァン殿も、さぞかし鼻が高いことだろう」
「それは……」
 ブラァンの表情がゆがんだ。
「アイラ」
 たしなめるようにマリクルが声をかけ、背に負ったセタンタを示した。
「私は早くこの荷物を下ろしてしまいたいのだがな」
 マリクルはブラァンの方に向き直り、続ける。
「それで、この少年をどこへ連れていけばいい? ブラァン殿」
 ブラァンははっとしたような表情を浮かべた。
「これは……王子にそのような者を背負わせるとはとんでもないことを。
 おい、誰かおらぬか!」
 ブラァンが階上に向かって声をかけると、下仕えと思しき男が姿を現し、ブラァンの指示を仰ぐ。
「王子からセタンタを引き取り、部屋へ連れて行くがよい」
「いや、人の手を煩わせるまでもない。このまま私が行こう」
「しかし……王子」
 ブラァンは困惑したように言った。
「世継ぎの王子たる方が下僕の子を負うなど……」
 思わず抗議の声をあげようとしたアイラを、マリクルがそっと手で押し戻す。
「別に彼が何者であろうともかまわぬ。妹に親切にしてくれた者への返礼だ」
「……王子、降ろしてください」
 セタンタが口を開いた。
「しかし……」
「もう……大丈夫ですから。ご迷惑を……おかけしました」
 そう言って、セタンタは自らマリクルの背から降りようとした。しかたなくマリクルは床に屈み、少年を降ろした。
「大丈夫なのか」
 ふらつきながら床を踏む少年に、アイラは声をかけた。
「大丈夫」
 少年は微笑みかけた。しかしその笑みがむりやり作り出したものであることは、いやでもわかる。
「セタンタ、おれにつかまれ」
 ブラァンに呼びつけられて出てきた男が、そっと声をかけた。
「すまない」
 セタンタは男の言葉に素直にしたがい、身を持たせかけた。
「ひどい熱だな……動けるのか」
 セタンタの体を支える男が、驚いたように言った。
「なんとか……」
「早く上へ行け」
 ブラァンがぞんざいに命じる。
 男に支えながら、セタンタは一歩一歩階段を上がっていく。その様子をアイラははらはらしながら見送った。
「ではこれでわれらは失礼しようと思うが」
 セタンタと男が階段を上りきるのを見届け、マリクルが口を開いた。
「医者の手配をしておいた。あの者に診察を受けさせるように。こちらが勝手にしたことゆえ、支払いは私の方に回すがいい」
「そのようなお気遣いを……」
「なに、気にすることはない。当たり前のことだからな。では」
 マリクルはブラァンの返事を待たずに踵を返し、立ち去った。アイラはブラァンに一礼すると、あわてて兄の後を追う。
 宿を出、しばらく歩いてから、アイラは兄に声をかけた。
「何だったのだ、あのブラァンという男。セタンタは大丈夫なんだろうか」
「大丈夫ではないかもしれんな」
 マリクルは前を向いたまま答えた。
「ああいうことではないかと思っていたが……予想以上にブラァンはあのセタンタに厳しくあたっているようだ」
「兄上! それでは……」
「アイラ、お前の発言も不注意だったぞ」
「兄上?」
「ブラァンの前でセタンタの腕前をほめるなど」
「だが事実ではないか!」
 マリクルは厳しい表情でアイラに答えた。
「事実だ。だからこそ問題なのだ」
「どうして……!」
「事実だからこそ、ブラァンはセタンタを憎み、おそれる。人には……男にはそういう側面もあるのだ、アイラ」
「でも……」
 反駁しようとして言葉を詰まらせるアイラを、マリクルはまぶしそうに見つめ、言った。
「お前は幼いな」
「え……?」
 アイラはきょとんとして兄を見つめ返す。
「それとも強いのか。
 純粋に相手を見つめ、受け入れ、その器量を讃えることができる。それがどんなに稀有で、輝かしいことであるか、お前はまだ気づいてさえいないのだな」
 そう言って、マリクルはアイラの頭をくしゃりとなでた。
 その手のあたたかさが、アイラは嬉しかった。

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written by S.Kirihara
last update: 2014/09/12
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