二次創作小説

剣持つ乙女

7.

 エバンス到着の翌日、エスリンはラケシスを遠乗りに誘った。
 乗馬服や馬具の用意がないことを理由に断ろうとしたラケシスだったが、エスリンに押し切られ、いつの間にやらエバンス近郊の森に出かけることが決まっていた。
 ラケシスは乗馬が好きだ。ノディオンでも乗馬には時間を割いてきた。ただ、騎士と呼ばれる人々のように、軍馬を乗りこなして馬上で武器を振るうような訓練は積んでいない。
 今回、ノディオンからエバンスに移動する時も、兄エルトシャンは愛馬にまたがって道を往ったが、ラケシスは馬車を使っている。アグストリアの貴婦人は、普通は騎乗して旅したりはしないものなのだ。そのため、使い慣れた乗馬の道具はノディオンに置いてきてしまっている。
 さすが騎士の国シアルフィと言うべきか、エバンス城には馬具の類は数多く用意されており、ラケシスは身に合うものを見繕うことができた。
 遠乗りの一行に加わったのは、レンスターの見習い騎士フィンと、シグルドの遠縁にあたるという少年オイフェだった。加えてシアルフィの騎士から何名かが護衛として同行することになっていた。シグルド、エルトシャン、キュアンの三人は旧交を温めるのに忙しく、エスリンたちに同行するつもりはないようだった。
 護衛の騎士たちを率いているのは先日見かけた金髪のノイッシュだ。忙しいという話だったのに、このようなことに時間を割いてもいいのだろうか。そう問いかけるラケシスにエスリンは笑って答えた。
「ノディオンの姫君の護衛は、優先順位の高い重要な任務よ。信頼のおけるものでないと任せられないわ。いろんな意味で彼が一番『安全』だとお兄さまは思ったんでしょうね。それに、ノイッシュにもちょっと息抜きが必要だろうし。ずっとエレインと一緒では、さすがに参ってしまうんじゃないかしら」

 夏のヴェルダンの森は美しい。
 森と湖の国と呼ばれるヴェルダンの北にあるエバンスは、緑の多い土地である。城から南に向かって少し進めば、すでにうっそうとした森が広がりはじめている。ただ、この辺りはヴェルダン中央部の森林地帯に比べれば、まだ木々の群れは浅いのだという。
 夏至を少し過ぎた今はともすれば日差しがきつく、明るく爽やかであるのを通り越し、汗が滲み出すような暑さを感じる。
 埃の立つ街道を往き過ぎ、森のとば口に踏み込むと、広がる木陰がひときわ心地よく感じられた。
 時に早駆けし、時に速度を落としてゆっくりと馬を進めながら、一行は森の中に入っていった。

 ラケシスは遠乗りを楽しんでいた。
 気づけばエスリンとはすっかり打ち解けており、気がおけない間柄となっていた。
 付き従うオイフェとフィンは、騎士となるべく修行を重ねているだけあって、馬の扱いは確かだった。
 シアルフィのオイフェは明るい気質のようで、ややはにかみながらも折に触れ声をかけてくる。不躾にならない距離を取りながも、かしこまりすぎずに打ち解けるさまには、年頃よりも少し大人びた気遣いが感じられた。
 一方、レンスターのフィンはあくまで寡黙で、ラケシスに積極的に近づこうとはしてこない。そのふるまいは礼儀正しいがどこかぎこちない。緊張しやすく打ち解けにくい性質なのかもしれない。
 誰に気兼ねすることなく思いっきり馬で駆けるのは爽快だった。森の木々の葉色は目にも鮮やかで、吹き抜ける風は緑の香気を含み、しっとりとしてすがすがしい。

 午後を少し過ぎた頃、森の中にぽっかりと開けた草むらで、一行は休憩を取った。
 楽しんではいたものの、ラケシスは少し不都合を感じていた。靴擦れである。
 今ラケシスが履いている靴は、エスリンから借りたものだった。サイズはほぼ合っているはずなのだが、履き慣れない靴はやはり足に合わず、次第に苦痛をもたらすようになっていた。
 馬に乗っている間はよかった。しかし馬から降りて歩き始めると、どうにも右足の小指が痛む。
 木陰に敷物を広げ、昼食を食べた。固く焼いたパンとヤギの乳のチーズに、去年の秋に収穫したリンゴという献立は、貴人の食事としては質素だった。だが、体を動かした後に澄んだ空気の中で口にすると、この上もなく美味で贅沢なもののように感じられた。
 ただ、座って食事をとっている間も、足は相変わらず痛んでいた。いっそ乗馬靴を脱ぎ捨ててしまいたいと思いながらも、知りあって間もない人々の前でそれを実行に移すことは憚られた。

 食事に使った器やナプキンを片づけているときだった。
「ラケシス様」
 ノイッシュが傍に歩み寄り、声をかけてきた。
「足を痛めておられるのではありませんか?」
 なぜわかったのだろう。驚きのあまり、ラケシスはぽかんとした顔で彼を見上げた。
「……なぜ?」
「軽くですが、右足をひいておられましたので。とりあえずできる範囲で手当ていたします。靴をお脱ぎください」
 ラケシスは頷き返すと、靴と靴下を脱いだ。
 ノイッシュは自分の馬のところへ行くと、鞍袋から何か取り出して戻ってきた。
「失礼いたします」
 ノイッシュは手にしたハンカチを軽く水筒の水で濡らし、ラケシスの足を拭う。
「ああ、これは痛かったでしょう。ずいぶん我慢なさっておられたのですね」
 そう言うと、脇に置いてあった小さな袋から平べったい器を取り出し、皮のめくれ上がった小指に軟膏を塗りつけた。
 ひんやりとした感触が心地よく、わずかにこそばゆい。
 すっきりした香草のような匂いが、ふっと鼻腔をくすぐった。
(ああ、これは)
 覚えのある匂いだった。エルトシャンからもよく同じ匂いが漂っている。
「タチジャコウソウ、ですか?」
 唐突に話しかけられ、ノイッシュは驚いたような表情を浮かべて顔をあげた。
「この塗り薬の成分です」
「はっきりとは知りませんが、そうですね。タチジャコウソウ、ラベンダーにオトギリソウ。それとチョウジが少し。そんなところでしょうか。詳しくは知らないのです。母方の祖父が調合したもので、傷や打ち身によく効くので愛用しているのですが」
 ノイッシュは軟膏の器に蓋をして袋にしまうと、今度は包帯を手に取って手早く巻きつけた。
「今日はもうあまり無理をなさらないように。そして戻られてからもう一度きちんと手当てをなさってください」
 そう言い残すと、ノイッシュはさっと立ち上がり、自分の馬のほうへ戻っていった。
(あ……)
 ノイッシュが立ち去った後で、礼を言っていなかったことに、ラケシスは気づいた。

「こういうことには気のつく人ではあるのよね。とんでもない朴念仁のくせに」
 気づくとエスリンが横に立っていた。
「エスリン様、あの方は」
「ああ、いつもわりとあんな感じかしら。新人騎士の様子だとか、馬や猟犬の健康状態だとか、そういうのにはきちんと気を配っているみたい。健康じゃないと行軍にさしさわるから、必要なことではあるのだけど」
「そうなのですね」
「優しいことは優しいのよね。でも、自分の態度が人にどんな影響を及ぼすか、わかっていないようなところがあるから」
 エスリンの声には親しみと、軽い苛立ちのようなものが入り混じっていた。
「時々ちょっといらっとしてしまうの。あんなふうに扱われて女の子がどんな気持ちになるか、もう少し想像できるような人だったら、こんなにやきもきさせられないのに」
「それはどういう……」
「なんというか、普通にかっこいいじゃない。さっと気づいてすっと手助けして、礼も期待せずに去っていく。計算でも何でもなくて、それを当たり前にやってのける。でも実際のところ、そこには特別な意味なんか何もなくて。ただ、傷ついた部下や動物にするのと同じことをしているだけで。だけど、助けられた女の子のほうは……」
 言いかけてエスリンはふと口を閉ざした。
「ああ、変なことを言ってしまってごめんなさい。ちょっと昔のことを思い出してしまって」
「何かあったのですか?」
「とりたてて言うほどのことは何も。ただ、わたしがまだ幼くてさびしくて人恋しく思っていた頃、いつも傍にいて、手を差し伸べて、励ましてくれた人だったの」

 エスリンは言葉を切り、空を見上げた。
「昨日、ラケシス様は、女性の騎士はシアルフィでは多いのかと聞いておられましたね。たしかにシアルフィでは女性の騎士はそう珍しいものではない。でも、わたしが騎士としての修業を積むことは、あまり歓迎されてはいなかったの。
 よく怒られたわ。お父さまにも行儀作法の先生にも。ダンスの先生には、『そんな豆だらけの手をしているようでは、相手にしてくれる貴公子などあらわれるわけがない』とすら言われた。でも、そういった言葉にしょげているとき、ノイッシュが言ったの。
 『その手は試金石となるでしょう。その手を価値あるものと思う男ならば、エスリン様の真価を見損なうこともない』って。
 その言葉にわたしは励まされたわ。騎士でありたいと思うわたしを認めてくれる人だっているはずだ。そう思えるようになったの。そしてわたしはキュアンと出会えた」
「その手は試金石となる……」
 それは新鮮な考え方だった。
 かくあらねばならぬと定められた鋳型に自分をはめて理想的な花嫁となるのではなく、かくありたいとおのれ自身が望む姿を認めてくれる相手を選びとる。だが、そのような『自由』は、果たしてノディオンのラケシスには許されるだろうか。
 ラケシスはエスリンとは違う。素直で闊達で愛に恵まれた嫡出の公女ではない。生意気で意地っ張りでひねくれた――売女の娘。
(それでも、もしエルト兄さまのような人が傍にいて、わたしを導いてくれるなら)
 視線を上げると、少し離れた場所で馬の様子を確認しているノイッシュの姿が目に入った。
 木漏れ日を受けて黄金に輝く髪。いまだ鼻腔に残るタチジャコウソウの香り。
(あの方は兄さまではないわ)
 彼の示した親切には、たぶん深い意味などない。傷ついた動物にも同じことをするとエスリンも言っていた。それでも――

 何か、希望のかけらのようなものが胸に宿るのを、ラケシスは感じた。
 思うに任せないことばかりだと思っていた。だが、世界はラケシスが知るものよりも、ずっと広かった。
 悪意を抱き、欲望もあらわに近づいてくる者がいる。その傍らで、善意を傾け、手を差し伸べてくれる人もいる。
(どうすれば、わたしはわたし自身を歪めることなく、ノディオンの娘として生きられるだろう)
 どのようにあることを人から望まれているか、ではなく、どのようにありたいと自分自身が望んでいるか。
 おのれの心の声に耳を傾けよう。深淵をのぞきこんで叶わぬ願いに絶望するのではなく、目を開いて世界を見つめなおし、希望の光を探そう。
 忘れ去っていた古い夢が蘇る。剣を取り、馬を駆り、人々を守る。騎士として生きることこそが、自分が一番最初に抱いた夢ではなかったか。
(わたしはヘズルの血族なのだ)
 剣を取り戦うことを志すならば、その血は大きな力を与えてくれるかもしれない。血を継ぐ者を生み出すための器としてのみ存在するのではなく、黒騎士ヘズルの末裔として、自ら剣を取って戦い、価値を示していく。それもまた、ひとつの生き方なのではないか。

 風が吹き、木々を揺らす。生い茂る葉の影も、風の流れに合わせて踊るように揺らめく。
 夏の日差しはどこまでも明るく、緑薫るエバンスの森を白い輝きで満たしていた。

《fin》

←BEFORE / ↑INDEX /↑TOP


written by S.Kirihara
last update: 2016/05/02
inserted by FC2 system