二次創作小説

五月の空に

6.

 グラン暦七五三年、五月中旬――

 シアルフィ城の古い望楼で、ノイッシュは夜明けの空を見上げていた。
 あの初冬の夕暮れから、半年近くの時間が流れていた。明日、エスリンはシアルフィを離れ、レンスターへと嫁いでいく。
 バーハラに向かう前にエスリンが抱えていた不安は杞憂に終わった。バーハラの社交界に参加したエスリンは、その愛らしさと闊達さで多くの貴公子たちを惹きつけ、年若いながらも人気の高い貴婦人のひとりとなった。そして、新年を祝う舞踏会で、エスリンは運命の恋に出会う。
 その夜のことをノイッシュは今でもよく覚えている。
 シグルドに仕える者として、ノイッシュもその舞踏会に出席していた。シグルドによってレンスター王子キュアンと引き合わされたエスリンは、まさに目と目が合った瞬間、電撃が走ったかのように彼に心を奪われた。それはあまりにもわかりやすい、一目惚れの瞬間だった。舞踏会の間中、エスリンの瞳は常にキュアンの姿を追い、キュアンもまた、エスリン以外の女性を踊りに誘うことはなかった。
 実はキュアンとエスリンはこの時が初対面だったわけではない。舞踏会での出会いよりも二年前、エスリンが十四歳の時にシグルドを介して二人は一度顔を合わせている。だがその時エスリンはまだ幼すぎたのか、そういった思いが芽生えることはなかったらしい。ただし当時十八歳だったキュアンのほうでは、エスリンに好印象を残しており、ずっと再会を楽しみにしていたのだという。
 彼らの恋はあっという間に深まった。冬の社交シーズンのうちに二人の婚約は確実なものとなり、シアルフィ公国とレンスター王国の間で、結婚にまつわる様々な約定が取り交わされた。四月にはキュアン本人がシアルフィを来訪し、エスリンの日常を垣間見ようとした。恋人たちは連れ立って遠乗りに出かけたり、海を渡り商業都市ミレトスへの小旅行を楽しんだりと、結婚前の甘やかな日々を満喫していた。それらのすべてを、ノイッシュは鈍い痛みとわずかな安堵を抱え、ただ見守っていた。
 キュアンは理想的な婚約者だった。血筋も家柄も、本人の才能や人柄も、どこにも瑕がない。バルドの血の流出を憂えていたシアルフィの重鎮たちも、このノヴァの血を引く王子には納得せざるを得なかった。周囲の人々は手放しで恋人たちを祝福していたし、何よりも本人同士が深く愛し合っていた。彼らの未来は光溢れ、いささかの翳りもないように思われた。
 キュアンはエスリンを高く評価していた。彼女の気質や容姿はもとより、その気丈さや騎士としての技量も賞賛してやまなかった。自分を全面的に肯定してくれる恋人の存在に、エスリンはエーディンに代表されるようなたおやかな女性に抱いていた劣等感を払拭し、どこか自信なさげだった少女から脱して、輝くばかりの貴婦人へと成長した。まるで蛹から脱皮する蝶のように、エスリンは半年足らずの間に、艶やかに花開いていった。
 エスリンは幸福を見つけたのだと、ノイッシュは思った。彼が働きかけるまでもなく、運命はエスリンに幸福な未来を約束している。あとはただ、彼が自分の心を封じ込めればいい。それですべてはあるべきところに収まるだろう。

「あなたがここにいるなんて思わなかった」
 突然、背後から声をかけられ、ノイッシュは振り向いた。
「エスリン様……おはようございます」
「おはよう、ノイッシュ。まさか徹夜じゃないわよね」
「違いますよ。幼い頃からの習慣で、早くに起きる癖がついているのです。それに、夜明けの空を見るのは好きですから」
「そう、あなたらしいわね」
「エスリン様は、なぜ……」
「ここからの眺めも、今日で見納めになってしまうもの」
「ああ……そうでした」
「お母様は、この塔からの眺めがお好きだった。昔、ばあやがそう言っていたの。シアルフィの城下を一望できるこの望楼に登り、シアルフィを守る者としての決意を確かめていたのだと。わたしはお母様を知らない。だけど、だからこそ、わたしはお母様に憧れていた。お母様を想う時は、この塔に登りたかった。危険だからって、反対されていたけれど」
「確かに……危険ですね。本来、もう使うべき場所ではありませんし」
「ノイッシュは、なぜここに?」
「私は、空が好きなのです。ここは、この城で一番空に近いですから」
「そうだったわね。そう言えば昔言ってたっけ。子どもの頃は、空を飛びたいと思っていたと。もしトラキアに生まれていたならば、竜騎士になりたかったと」
「よく覚えていらっしゃますね、そんな昔の話を」
「印象的だったの。とても……ね」
 その話をしたのは、初めてこの塔の頂上でエスリンを見つけた時だけだったはずだ。ノイッシュは騎士見習いとしてこの城に来たばかりで、エスリンは乳母と死別したばかりだった。生まれてすぐに母を喪ったエスリンにとって、この乳母は実の母にも等しい存在だった。哀しみに耐えかねたエスリンは、亡き乳母を偲び、この望楼でひとり泣いていた。
 哀しみに沈む少女を、ノイッシュはただなぐさめたかった。空の雲を様々なものに見立ててみせたり、自分の子ども時代の他愛もない夢を聞かせたりと、彼にできる範囲で一生懸命少女の気分を盛り立てようとした。少女は黙って彼の言葉に耳を傾け、そして最後に笑ってくれた。その笑顔はあまりにも眩しく、愛おしく、忘れがたいものとなった。
(思えば、あの時から俺はエスリン様に惹かれていたのだろう……)
「あなたにはずいぶん助けられたわね。迷惑もいっぱいかけてしまったけれど」
「迷惑などではありませんでしたよ。確かにエスリン様は、言い出したら聞かない方ですし、いきなり行方をくらますのがお好きでしたし、ひやひやさせられたことは多々ありましたが」
「……それ、普通に迷惑だったって聞こえるんだけど」
「迷惑では決してありませんでした。なぜなら、とても楽しかったので」
「ノイッシュ……」
「お健やかにお過ごしください。エスリン様。常にあなたの幸福をお祈りしています」
「ノイッシュ、あなたは……ううん、何でもない」
「エスリン様?」
「ノイッシュ、あのね、わたしが言うことではないのかもしれないけど、あまり無理しないでね。そして、もう少しだけわがままになってもいいと思う。あなたは、アンリやウシュナハ卿に、いいえ、周囲の皆に気を遣い過ぎている。そんなに、自分を押し殺そうとしなくていいから。空を好きなあなたのままでいていいから。シグルド兄様やアレクは、そんなあなたが好きなのだと思うから」
 ノイッシュは黙ってエスリンの顔を見つめた。彼女の言葉に含まれている言外の意味を量りつつ、ふともはや叶うこともなくなったであろう夢の残滓が、泡沫のように胸の裡に浮かび来るのを感じた。もし自分が我を通し、キュアンと出会う前のエスリンに想いを告げていたならば、エスリンは今とは違う未来を選び取っていたのだろうか。
 だが、もはや選択はなされ、未来はひとつの形に定まった。そしてここから拡がる未来はエスリンにとって幸せなものになるはずだ。彼女は望まれ、祝福された花嫁となる。優れた夫とともに豊かな国を治め、恵まれた王妃と呼ばれるだろう。
 五月の空は晴れ渡り、空は明るい光で満たされていた。この空の輝きのように、彼女の未来は光溢れるものであるのだろうと、ノイッシュは信じていた。

《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2014/11/06
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