二次創作小説

五月の空に

3.

 その翌日――

 夕餉を終え、自室に戻ってきたアレクは、戸惑っていた。
(あれ? ノイッシュの奴、先に戻っていたんじゃないのか?)
 室内は明かりが灯されておらず真っ暗で、暖炉の火も静まったままだ。
(夕餉の席でも見かけなかったな。また今日も昨日に続いて自宅に帰っているのか)
 ただ、律儀なノイッシュが同室のアレクに何も云わずに自宅に戻るというのは、少し考えにくい。
(そういや、今日一日様子がおかしかったが……体調でも悪いのだろうか)
 今日のノイッシュはどことなく常より精彩を欠き、集中力も乏しかった。時々ぼんやりとあらぬ方を眺めて考え込んでいたりと、日頃の彼とはどうも様子が違っていた。
(まあ、いないものは仕方ない。とはいえどっかで倒れていたりしたらまずいな……)
 などと考えつつ、扉の傍の小卓に置かれたランプに灯をともす。
 柔らかな明かりが、ぼんやりと室内を照らし出した。
 暖炉に近づき、おき火をかき立てる。炎があかあかと燃え上がったのを確かめ薪を足すと、室内はようやく熱を取り戻し始めた。
 壁面の照明にも灯をともそうとして、アレクははっとした。
 窓際の机の傍に、人影があった。
「なんだ、戻ってたのか。明かりもつけずにどうした?」
「……アレク?」
 話しかけられて初めて気づいたのだろうか。ノイッシュは緩慢な動作でアレクの顔を見上げた。
 その顔を見て、アレクはぎょっとした。
「おい、どうした?」
 生気がなく、うつろな表情で、ノイッシュはぼんやりと座っていた。こんな表情の彼は見たことがなかった。まるでひどい暴力を受けたのに、その痛みすら自覚せずひたすらに当惑しているような、感情をどこかに置き忘れたかのような顔。
 よく見ると、机には酒瓶と酒杯が置かれている。
「ちょっと待て。お前、何てもん飲んでるんだ!」
 以前、市の日にミレトスの行商人から買い求めたシレジアの火酒の瓶がそこにはあった。好奇心で試してみたものの、あまりの強さに持て余し、最初に二人で飲んだ日から手つかずで放置していたはずだ。それが今、瓶の半分程度まで中身が減っている。
 ノイッシュには普段酒をたしなんでいる様子はない。アレクにもこの酒を飲んだ覚えがない以上、夕刻から今までの間に、ノイッシュがひとりでこれだけの量を飲んだということになる。
(よく酔いつぶれてないな。というか、どうしちまったんだ、こいつ)
 普段のノイッシュは、度を越して酒を飲むようなことはない。おそらくもともと酒に強いのだろうが、決してはめをはずさず、適度にたしなむ姿しか見たことがなかった。
「……ああ、うん。これなら酔っ払えるかと思ったんだが、あんまり効かないな」
 ノイッシュは相変わらず表情の消えた顔で、淡々と応えた。
「……いったい何があった?」
「……特には何も」
「そんなはずないだろう!」
 ノイッシュは机の上の酒杯に酒瓶から継ぎ足し、口元へ運ぶ。
「おい、いいかげんにやめておけよ」
 何もないはずなどない。ノイッシュの様子は明らかに尋常ではない。
「……家で、父と兄が、エスリン様の嫁入り先の話をしていた」
 空にした酒杯を机の上に置き、唐突にノイッシュが口を開いた。
「この冬、エスリン様はバーハラの社交界にデビューする。それはエスリン様が、花嫁候補としておおやけに貴公子がたにお披露目されることを意味している。これは、まあいい。前からわかっていたことだ。だが、父は、いや、シアルフィの重鎮たちは、エスリン様がよその公爵家や王家に嫁ぐのではなく、シアルフィ内のしかるべき家に降嫁されることを望んでいるらしい」
「ふむ……」
「バルドの血を受け継ぐ者は少ない。シグルド様とエスリン様のほかには、先代シアルフィ公爵の妹君の孫にあたるオイフェのほかに、これといった人物がいないような状況だ。だからバルドの血を他家へ流出させるのではなく、有力な家臣にエスリン様を嫁がせ、万が一の状況に備え、血族をシアルフィ内部に残しておきたい。そういうことらしい。それで、その婿候補の第一位とされているのが……俺の、兄だ」
(ああ、やはりな……)
 途中まで聞いて、おおよその話の流れは予測できた。ノイッシュの兄アンリは、次代のシアルフィ公爵家の中枢を担う人物と目されている。エスリンの婿候補をシアルフィの家臣団から選ぶとすれば、ウシュナハ卿の嫡子であるアンリがまず筆頭に挙がるであろうことは、誰の目にも明らかだ。
「それを聞いて、俺は……兄を妬み、羨んだ」
 ノイッシュは感情のない、乾いた声で笑い、言葉を続けた。
「家を継ぐ身であれば、あの方を望むことも許されるのか。俺は今まで、兄の才能を羨んだことならあるかもしれないが、兄が長子であることを羨んだことはなかった。自分が次男であること、父の跡継ぎではないことを、特に問題なく受け入れてきたつもりだった。兄こそ跡継ぎにふさわしい、そう思っていたはずだった。なのに、その話を聞いて思った……どうして、自分は長子ではないのだろうと」
「お前……」
「……エスリン様が、いつかどこかに嫁いでいくことはわかっていた。だが、それはもっと後になってから、どこか遠くへ嫁がれるのだと、根拠もなく思っていた。あの方が俺の家に、俺の兄の妻としてやってくるなど……同じ館に起居し、あの方を義姉上と呼ぶ……そう考えるだけで、こんなに胸がざわつくとは……俺は……」
「だが、バイロン卿やシグルド様はどう考えておられるのだ。そして肝心のエスリン様は」
「バイロン卿は、エスリン様が望む方の許へと。シグルド様は、特に何もおっしゃってはいないが、ご友人のレンスターのキュアン王子を薦めたいと思っておられる節がある。そしてエスリン様は……エスリン様のお心はわからない」
「お前とエスリン様は親しい」
 エスリンは、若い騎士や見習い騎士たちに交じって武術の鍛錬を積むことを好んでいる。当然のように、若い騎士たちと触れ合う機会が多く、彼らと親しい関係にある。中でもノイッシュにはよく懐いており、実の兄のシグルドとよりも親しいのではないかと思われる時すらある。
 無理からぬことだ、とアレクは思う。ノイッシュは礼儀正しく気立ても良く、見目も優れた若者だ。のみならず、エスリンがもっとも孤独だった時期に、彼女の傍近くにいて彼女に思いやりを示した人物でもある。兄のようでいて兄ではない親しい異性、思春期の少女にとって、それがどんな存在であるかは、想像に難くない。
 一方のノイッシュにとっても、エスリンは憎からぬ存在であるはずだ。傍で見ていれば、彼がいかにエスリンを大切に思っているかは嫌でもわかる。いやむしろ、ノイッシュが今まで自身がエスリンに対して抱いている気持に無自覚であったらしいことのほうが驚きだった。
「……アンリ様よりもお前のほうが、いや、シアルフィの若者の中ではお前が一番エスリン様の近くにいる。だから、エスリン様ご自身の気持ちを問うというならば……」
「言うな! それは望んではならないことだ。しかも、親しいといっても、そういう意味での親しさではない。決して!」
 それまで感情もなく淡々と語っていたノイッシュだったが、首を激しく振り、抑えてはいるが激した声で否定した。
「国は、秩序によって支えられている。長幼の序を侵し、兄の得るべきものを奪うなど、あってはならないことだ」
「だがしかし、それではエスリン様のお気持はどうなる」
「エスリン様は、ご自身が望み、周囲からも望まれた所に嫁すのがふさわしい。そしてその相手が俺であるはずがない。少なくとも、俺は周囲から望まれている相手ではない。そんなことはわかっている。わかっているはずなのに、どうして!」
(わかってはいるがわりきれない。そうだよな……)
 人の心がたやすくわりきれるものであるなら、誰も苦しみはしない。
 周囲から望まれないことを押し通そうとするならば、無理が生ずる。ノイッシュはそういった無理を押し切ってなおも自身の欲望を実現させようとする男ではない。騎士らしい騎士として育てられたノイッシュに選べる道は、自分の心を封じ込め、彼の姫君を、姫君のために用意された王子様に手渡すことだけだろう。だがその王子様が、自分と同じ血と顔を持つ、自分の似姿のような男であったとしたら。それはあまりにも皮肉で、あまりにも耐えがたいのではないか。
 だが、ノイッシュは、彼よりもさらに周囲から望まれるはずもない男もいることに気付いているだろうか。自分の思いを早くから自覚しながらも、望んでも叶うはずがないことを悟って最初からあきらめ、ことさらにエスリンから距離を置き、無理にでも他の女に目を向けようとし続けている男だっているということに。
(ままならないよな……本当に。俺もお前も)
「まだ何かが決まったわけじゃない。バーハラで、エスリン様がどこかの貴公子に見初められるかもしれない」
「そうだな……」
「それはそれでつらいかもしれないが、アンリ様の妻となるエスリン様を見るよりはましなのではないか」
「ああ……」
 相槌を打ちながらも、ノイッシュはぎゅっと拳を強く握りしめる。
「う……」
 突然、ノイッシュが口元を押さえ、体を丸めこみ床にかがみこんだ。
「あ、おい?」
「……気持ち……悪い」
「ちょっと待て。桶を取ってくるから。少し我慢できるか?」
 慌ててアレクは、部屋の隅に置いてあったはずの桶を探す。
「ほら」
 床にしゃがみこんでいるノイッシュに桶を渡すと、ノイッシュは桶を抱え込み、後ろを向いて激しくえずいた。
(平然としているように見えたが、やはりかなり酔っていたか)
 そうかもしれない。正気であったなら、そもそもこの話を切り出すこともなく、黙って自分の中にすべて閉じ込めていただろう。
 苦しそうに吐き続けるノイッシュの背を、アレクは軽くさする。
「す……まない……」
「気にするな。全部吐いてしまえ」
「こんな……無様な……」
「そう思うなら、こんな飲み方はもうするな」
「ああ……」
「まったく無茶なことを……食事もとらずに、あんな強い酒をがぶ飲みするなんて。体を壊すぞ」
 涙を滲ませながら、ノイッシュは返事もせずに吐き続けている。その涙は、生理的な苦しさから来るものだけではないに違いない。
 もう出てくるものが何もなくなってしまったのだろう。ノイッシュの動きが止まった。
「水、持ってくるから少し待ってろ」
 アレクは立ちあがると、自分の空間として使用している一角に歩み寄った。ベッドの横に置いてある水差しからコップに水を注ぎ、ノイッシュの横に戻る。
「口をすすいだら、今夜はもう寝てしまえ。後始末はしておくから」
「……すまない」
 頬に涙を伝わせながら、ノイッシュは振り向かずに返事をする。
「ほら」
 水の入ったコップを手渡すと、ノイッシュは口に水を含みすすいで、先ほどの桶の中に吐き出した。
「……ありがとう」
 ふらつきながら立ち上がったノイッシュは、手にしていたコップと桶を机の上に置くと、自分のベッドに不確かな足つきでよろよろと歩いていった。

←BEFORE / ↑INDEX /↑TOP / NEXT→


written by S.Kirihara
last update: 2014/11/06
inserted by FC2 system