二次創作小説

五月の空に

1.

 グラン暦七五八年、五月中旬――

 室内がうっすらと明るみ始めたのに気づき、ノイッシュは書物から目を上げた。
(夜明けか……今日も眠り損ねたな)
 このところ、夜中まともに眠り続ける日が少なくなっている。本当に疲れきった時には夢すら見ずに泥のように眠っているのだから、連日まったく寝ていないというわけではない。ならば、無理に身を横たえ、切れ切れの眠りの末に悪夢に悶え、結局目を覚ましてしまうよりは、自然な眠りが訪れないときは起きたまま夜を過ごし、城の書庫から借り出してきた書物でも読んでいたほうがましだと開き直るようになった。何せ、しなければならないこと、知らなければならないことなら山積みなのだ。
 アグスティ城の書庫は非常に充実している。さすがアグストリア諸侯連合の盟主の本拠地と言うべきであろう。ロプト帝国時代の古文書やかなり専門的な研究書など、他所では見つけることのできないような貴重な書物も数多く収められており、蔵書目録を眺めているだけでも飽きない。
 ノイッシュは卓上に置いてあったランプを消すと、窓辺に寄り、東の空を眺めやった。天頂はまだ瑠璃色を残しているが、地平線に向かって空はほの明るい白藍に変わりつつある。薄紅色の雲が刷毛で刷いたように、うっすらと浮かんでいる。五月の夜明けの空は清澄な空気に満たされ、次第に明るみを増していた。
 薄明の空に、ノイッシュはひとつの影を探していた。いつもこのくらいの刻限に、空を舞う白い翼があることに気づいたのはいつの頃だったろう。そして、深い喜びを持って、その影を追う自分に気づいたのも。
 一度、彼女に尋ねたことがある。なぜ、夜明け時に天馬で空を駆けているのかと。
「毎日きちんと運動させてやりたいのです。でもあまり人目につくのは好ましくないですから」
 だからまだ人々の起きていない、静かな時間にペガサスを駆るのだとフュリーは云った。実のところ、アグスティ城にペガサスナイトが滞在していることを既にマディノのシャガール王は把握しているであろうから、彼女とレヴィンの存在は極秘事項というわけではない。だが、その事実を世間に広く知らしめ、グランベルとシレジアの軍事同盟に関する拉致もない憶測やくだらない噂を生み出すよりは、目立たぬようにしてくれていたほうがありがたいのは確かであった。そして、そういったことを気にかけ、自分を抑え、ことさらにひっそりと過ごそうとする彼女が好ましかった。
 白い翼が空へと舞い上がるのが見えた。やはり今日も彼女は、忠実に日課を守っている。
 天馬は東を目指し、空を駆けていく。東には海がある。そして海の彼方には彼女の祖国がある。
 深い喜びとともに、言い知れぬ痛みと悲しみを抱いて、ノイッシュは白い影を目で追った。
 自分の気持ちがどこに向かっているのか、世間では何と名づけられているものであるかを、彼はよくわかっていた。だが、心が強く求めているものを手にすることはないだろう。いや、手にしてはならないと自分に言い聞かせていた。なぜなら、それは自分にとっては至上の喜びであっても、彼女にとっての幸福とはならないに違いないから。
 彼女の心がどこに向かっているのかも、彼はわかっているつもりだった。いや、彼でなくてもおそらく誰の目にも明らかだろう。彼女が主君として仰ぐ王子に対して抱いているものは、単なる敬意や親愛の情ではない。慎ましやかで控えめではあるが、あまりにもまっすぐなその想いに気づかぬ者はいないはずだ。
 彼女の王子も、決して彼女を嫌っているわけではない。それも何となくわかっていた。王子が彼女の思いを受け入れていないのは、彼女の向こう側に、今の彼にとって避けたいものが待ち構えているのを知っているからだ。何のしがらみもない、ただ一個人としての彼女ならば、きっと王子は愛している。
 王子を追って国を出たのが他ならぬ彼女であったところに、ノイッシュは彼女を遣わした者の意図を感じていた。彼女を遣わした者――すなわちシレジアのラーナ王妃――は、彼女ならば王子を動かし得ると考えている。そして彼女と王子が結ばれることをも望んでいるのではないか。ならば、彼女の想いが叶うことは、周囲から望まれ、祝福されていることなのだ。そこに、自分が踏み込む余地はない。
 第一、今の自分は女性の愛を望んでいい存在ではない。主君とその伴侶を守ると誓ったあの日から、自分自身の幸福は遠いものとなった。誰かと手を携え、ともに生きる道はもう閉ざされている。重く罪深い秘密に、愛する者を引き込むことなどあってはならないから。
 だが、おのれの心は、なんとままならないものなのだろう。望みがないこと、いや、望みを抱いてはいけないことを知っていても、心はどうしようもなく彼女に向かう。
 かつてもそうだった。かつて、やはり同じように望みない想いに身を焦がし、封じ込め、あきらめた。あの頃はまだ幼く、自分の心にすら長らく気づかないでいた。自分の想いがその人に向かっているのを知ったのは、自分には手に入らないものであったことを知った後だった。想いを告げることなくただひたすら自分の中に封じ込めたのは臆病だったからかもしれない。だが、今、夫君の隣で幸せに微笑むその人を見て、結局これでよかったのだと思う。
 それにしても、なんと自分は進歩のないことだろう。ひとつの恋を封じ込め、ようやく過去のものとした後で、また封じ込めるべき想いにとらわれている。手に入らないものをことさらに欲しがる性癖を持っているとは思わないが、融通の利かない、間の悪い生き方しかできない人間なのは間違いない。
(あの方が故郷を離れ、他国へ嫁いでいったのは、今くらいの季節だった)
 もうすっかり明るくなった空を見上げ、ノイッシュはふと過去の記憶を辿る。あれから五年、時間と空間の隔たりは、傷を埋め、想いを少しずつ風化させた。だが、当時の彼は確かに苦しみ、傷ついていた。
 あんな悲しみを、フュリーには味わってほしくない。フュリーは、おそらく自分と似ている。恋に破れることがあったら、彼女はきっと長く苦しむだろう。だから、彼女の想いが叶い、幸せに故郷に帰っていくことを、ノイッシュは願ってやまない。それが自分の恋の終わりであると知っていても。

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written by S.Kirihara
last update: 2014/11/06
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