二次創作小説

その前夜

2.

 扉をノックする音がした。
 バルコニーにたたずみ、星を眺めていたアゼルは、はっとわれに返る。
「アゼル様、よろしいですか」
 扉の向こうから話しかけてくる声には聞き覚えがあった。
 アゼルは扉に近づき、そっと開く。そこにたたずんでいたのは、アゼルが予想したとおりの人物だった。
「アイーダさん……? どうしたんですか、こんな夜更けに」
「お伝えせねばならないことがあります。アルヴィス様からの伝言……いえ、命令です」
「兄上の命令……?」
 廊下は闇の帳に包まれており、赤毛の女将軍の顔を定かに見て取ることはできない。だが、その声には何か切迫したものがあるように、アゼルは感じた。
「入ってもよろしいでしょうか」
 アイーダの問いかけに、アゼルはどぎまぎしながら応える。
「え、あの……それは……用事ならば仕方ないですけれど、こんな時刻にひとりで男性の部屋にいらっしゃるのは……その……ちょっと。いえ、別に僕があなたをどうこうしようとか、そういうんじゃないですけど、後で変な噂とかになったら困るし……ええと」
「ああ、それは」
 アイーダはくすりと笑った。
「アゼル様もずいぶん大人になられたのですね。そういう心配をあなたとの間に持つようになるなど、思いもしませんでしたわ。アゼル様は私にとって……そう、弟のようなものでしたから」
 弟のような存在。たしかにそうだった。
 兄の片腕と呼ばれるこの女将軍を、アゼルは昔からよく知っていた。
 アゼルの覚えている限り、アイーダは常にアルヴィスのかたわらにあった。ヴェルトマー家に代々仕える譜代の家臣の家に生まれたこの勝気な女性は、若い主君に心酔し、その才能と情愛のすべてを彼に捧げていた。アルヴィスもまた彼女の才気を高く評価し、アイーダを好んでそば近くに置いていた。その親密さのゆえに、二人が恋人同士ではないかという噂がささやかれていたが、アゼルにはその真偽のほどはわからなかった。
 アゼルが知っていたのは、人をあまり寄せ付けたがらぬアルヴィスが、アイーダに対しては垣を築くことなく接していたことと、アイーダが主君と家臣という関係以上の敬意と親愛の情をアルヴィスに示していたことだった。ただ、彼らの絆はたしかに並々ならぬものであるようだったが、男女の仲、という言葉から連想されるような生臭さをそこに感じることは、いささか難しかった。もっとも当時のアゼルに男女の機微がどこまで理解できていたかは、怪しいものであるのだが。
 アイーダはアゼルに対しても親切だった。王家直属の貴族に限らず、ヴェルトマー家直属の家臣の中にも、妾腹の庶子であるアゼルを軽んじる者は少なくなかったのだが、アイーダは常にアゼルをヴェルトマー家の一員として扱った。とは言え、それはあくまで「アルヴィスの弟」としてのアゼルを尊重するものであり、アゼル本人の資質を評価してくれているわけではないことに、アゼルもうすうす気づいていた。それでも、アイーダはアゼルにとって比較的気安い年上の女性、まさに姉のような存在だったのだ。
「なにかこみいった話なのですか。立ち話ではまずいような?」
「ええ……まあ」
 応えるアイーダの口調はどこかあいまいだった。だが、否とは言わせぬ響きがそこにはあった。
「……入ってください」
 仕方ない、といった調子でアゼルは応え、アイーダを自室に招き入れた。
「それで、兄上の命令とはいったい……?」
「アゼル様、あなたは明日シグルド公子とともにバーハラへ向かわれる必要はありません。このヴェルトマー城に留まり、わたしに代わって城代の任に就くように。そうアルヴィス様はお望みです」
「え? でも……」
「アゼル様もご存知のように、アルヴィス様はヘイム家の王女とご結婚なさいました。つまり、今後は王女の伴侶としてバーハラ城でこのグランベルを統治することになります。ですから、ヴェルトマー家はアルヴィス様の唯一の弟君であらせられるアゼル様、あなたに一任されるとのこと」
「僕が、ヴェルトマー家を……?」
「ええ、アゼル様以上の適任者はいないはずですわ」
 アゼルは大きく息をついた。
「……そう、確かにおおやけにされている家系図を見る限りでは、それは僕の役職だね。でも……血統なんてのは、けっこういいかげんなものなのに、ずいぶんと拘束力を持つものだな」
「アゼル様?」
「アイーダさん、自分で言うのもなんだが、僕は人の上に立つような器じゃない。あ、いや、別に卑下しているつもりはないよ。だけど、それくらいは自分でもわかる。僕は一介の魔道士としてはそれなりだと思う。そういう意味では、ヴェルトマーの名を名乗って恥ずかしい存在ではないとも。でも、城の主が務まるかといえば、また別問題だ。僕は……そういうのには向いていない。むしろあなたの方が適任だ。兄上だって、それくらい気づいているはずだろうに」
「……報いたいのですよ」
 アイーダは静かに呟いた。
「え……?」
「アルヴィス様は報いたいのです。あなたという存在に。何とかして、目に見える形で。あなたはあの方にとっておおやけにできる唯一の肉親だから」
「それは……でも……」
「あの方は愛情深い方です。誰に対してもそうだというわけではないですが。でも、愛し愛されることにあれほど飢えている方を、私は他に知りません」
「アイーダさん?」
「シギュン様、アゼル様、そして今はディアドラ様……。あの方はいつも求めていらっしゃる。代償も条件もなく、ただひたすらに信じることのできる“家族”を」
「……ディアドラ様?」
 耳慣れない名前、いや耳慣れてはいるもののここで耳にするはずもない名前に、アゼルは思わず反応した。
「ああ……クルト王子の姫君です。お美しい方です。どこかはかなげな……やさしい面差しの姫君」
「兄上の奥方……だね。じゃあ、兄上はその方を愛していらっしゃる?」
「ええ、そうです。意外でしたか、そんな顔をされるなんて」
「僕はてっきり……政略結婚なのだと」
「確かに事実関係だけを聞けば、そう思われるのも無理はありませんわね。でもそうではないのです。ディアドラ様の身許を知らぬうちから、アルヴィス様はあの方を愛していらっしゃいました。おそらく、初めて出会ったそのときから。ディアドラ様は記憶を失った状態で、このヴェルトマーの城下をさまよっていました。アルヴィス様と出会ったのはほんの偶然で……でも、それは決定的な出会いだったのです」
「アイーダさん、あなたの」
 寂しげな表情で語るアイーダに、アゼルは思わず問いかけていた。
「あなたのことは。兄上は……」
「私……ですか? 私はあの方の部下です。忠実な、おそらくは最も信頼のおける、部下。それ以上でもそれ以下でもありませんわ」
「でも、あなたはいつだって兄上のそばにいた……」
「ええ、物理的な距離では、あの方と一番近いところにいたのは私だったのでしょう。でも、あの方が本当に求めているものを、私は持っていなかった。あの方の心の深奥によりそうことは、私にはできなかった……」
「アイーダさん……」
「私のことなどどうでもいいのです。今は……あなたのことを話すときですから。アゼル様」
「……うん、わかったよ」
「アゼル様?」
「僕がヴェルトマー城の主となる。それはわかったよ。向いているとは思えないけど、兄上がそう望んでいるならば、僕は全力を尽くす。でもそれはバーハラで兄上に会って、再びここに帰ってきてからのことだ」
「え?」
 アイーダはぎくりとしたように問いかけた。
「けじめをつけておきたいんだ。僕は兄上の命に逆らう形でシグルド公子の軍に参加した。別に兄上に逆らおうと思ったわけじゃない。でもあのとき兄上に無断でシアルフィに向かったのは確かだ。あんな大がかりな戦いになったのは予想外だったけれども、帰ろうと思えばいつでも帰ることができたはずだった。少なくとも、叛逆者の烙印を押されてシレジアへ亡命するまでは。だけど僕はそうはしなかった。僕は自分の意志で、シグルド公子とともに戦ってきた。だから、最後まで公子と一緒に行きたい。シグルド軍の一員として兄上に対面し、そしてヴェルトマーに戻る。そうしなくては、僕は筋が通せない」
「いけません、アゼル様!」
 蒼白な顔でアイーダは言った。
「バーハラへ行ってはいけません。アルヴィス様は、あなたがそのようなことをするのを望んではおられません」
「……どういうこと、それは?」
 アゼルは不審な面持ちで問いかけた。
「アルヴィス様は……あなたにこの城に留まるようにと」
 アイーダは今にも泣き出さんばかりに懇願する。
 何かが、おかしい。
 アイーダはなぜこんなに必死になって彼を止めるのか。
 バーハラへアゼルが行く。そこに何か不都合なことがあるとでもいうのか。
 何か……不都合な……?
 暗い予感を押さえこみ、アゼルは言葉を紡ぎ出そうとする。
「アイーダさん……僕は……」
「アルヴィス様に逆らってはいけません。あの方の言葉を違えることは、あの方にとっては裏切りに等しいのです。あの方は愛情深いけれども、いえ、愛情深いからこそ、裏切りはけっして許さぬ方。ですから……ここに……ヴェルトマーに……そうしなければあなたは……そしてあの方も……」
 アゼルは静かに言った。
「だけど僕は……僕は決めたんだ。僕は無断で兄上の許を去った僕のままじゃない。僕は僕の戦いをなかったことにはできない。だから僕は……僕は明日バーハラへ行く。その結果は、すべて僕自身が受け止める。だから……」
 アゼルはアイーダに微笑みかけた。
「あなたは何も気にしなくていいんだ。アイーダさん」
 アイーダは無言でアゼルの顔を見つめた。アゼルもまた、アイーダを見つめ返した。
 どのくらい沈黙が続いただろうか。
 先に沈黙を破ったのはアイーダだった。
「アゼル……様。……あなたは……真にあの方の弟です。今まであなたがあの方に似ているなど思いもしなかった。ですが、あなたが本気で何かを望んでいるとき、その望みに逆らうなど、私にはできそうもない。あなたの望むままにお行きください。私は……私はあまりにも無力です」
 そう言うと、アイーダはがくりと肩を落とし、部屋を去った。
 ひとり残されたアゼルは、アイーダの言葉の意味を考え続けていた。


 胸に湧き上がる暗い予感を、必死で押さえつけながら。


《fin》

←BEFORE / ↑INDEX /↑TOP


written by S.Kirihara
last update: 2015/03/10
inserted by FC2 system