二次創作小説

その前夜

1.

 兄の瞳が、僕はいつもこわかった。
 兄はけっして残酷な人間でも冷酷な人間でもない。それは僕にもよくわかっていた。
 世間の人々による兄の肖像は、むしろ酷薄で目的のためには手段を選ばぬ人物として描き出されることが多かったが、僕は、いや、少なくとも僕と僕の母だけは、あの冷酷とすら受けとられかねない冷静さが仮面にすぎず、その下にあふれんばかりの情愛や熱情が隠されていることを知っていた。知っていたはずだった。
 幼くして父母を失い、数知れぬ異腹の兄弟姉妹と不名誉のみが残された家名を受け継がねばならなかった兄は、たったひとりの例外をのぞき、すべての妾腹の兄弟を臣下に降格するか、秘密裡に葬り去ったという。たったひとりの例外――それこそがほかならぬこの僕、ヴェルトマーのアゼルなのだが。
 兄はいつも“正しい”人だ。私情を交えず公正で、おのれにも他人にも甘えることがなく、常に厳しい態度を崩さない。その厳しさが、僕にとっておそろしかった、と言えるかもしれない。
 兄は才能のある人だ。それを認めない人間はいないだろう。
 魔道士としての才はもちろんのこととして、ヴェルトマー公国の当主として、あるいはグランベル王国の重鎮として、老獪な政治家たちの間にあっていささかもひけを取ることなく――むしろ彼らを手玉にとり、自らの地位を確かなものとするしたたかさをも具えている。戦士としても、政治家としても、兄はずば抜けて優秀な人物なのだ。身内のひいきを差し引いても、僕はそう思わずにはいられない。僕がその軍門に身を寄せ、ともに戦ってきたシグルド公子よりも、おそらく兄のほうが上をいくのではないか。
 それでもシグルド公子にはあって、兄にはないものがある。
 シグルド公子のもとでは、僕はおびえないでいられる。おのれを肯定することができる。だが、兄のもとでは、僕は常におびえていた。自分を恥じ、受け容れることができなかった。
 僕は兄の瞳がこわかった。
 いや、正確には、兄の瞳に自分がどう映っているかと想像するのがおそろしかった。兄に期待されながらも、その期待が結局失望に終わってしまうことが、恥ずかしく、どうしようもなくつらかったのだ。
 僕は兄のように優秀ではない。だが、兄は無言のうちに、僕に同じ高処に昇ってくることを要求する。
 兄にはわからないのだ。才能の劣る者にとって、より高くへと望まれることが、いやそもそも“期待をかけられる”ということが、どれほどおそろしく、苦痛なことであるのかが。
 こんなものは弱音に過ぎず、努力をしない者の言い訳でしかないのだろう。兄はけっしてただ単に“恵まれて”いたわけでなく、努力を欠かさぬ人であったのだから。だがその兄の努力ですら、“努力できる”という才能の賜物ではないかと思わずにはいられない。
 兄は非凡であり、僕は凡庸だ。そう認めてしまえば僕は楽になれるのに、兄はそれを許してくれない。いや、兄が僕をどのような人間として捉え、僕に何を望んでいたのか、本当のところ僕にはわからない。そう、誰にもわかりはしない。ある人間がその本心で何を望み、何を考えているかなど。
 だから兄の瞳の中に期待と失望を読み取ったのは、あくまでこの僕でしかない。自分と兄が“違う”ことを認められず、おびえることしかできなかったのは、他でもない、この僕だったのだ。
 兄のもとを離れることによって、初めて僕は、どれほど自分が縛られていたのかということに気づいた。そしてあるときティルテュの瞳の中に、僕は兄の瞳に映っていたアゼルとは、すこし違ったアゼルの姿を見出すことができた。
 僕は癒され、解放され、認め、受け容れた。ティルテュを、そして僕自身を。どうしようもなく“僕”でしかない、このアゼルという人間を。
 ヴェルトマーのアゼル。それがつまるところ僕の名前だ。
 アルヴィスの弟、ティルテュの夫、アーサーと今から生まれてくる子どもの父親、ファラの末裔たる炎の魔道士。そういった属性をすべてひっくるめて、僕は僕になる。アルヴィスの弟であることは、結局、僕のほんの一部に過ぎないのだ。
 それでもその一部がどれほど大きなものであることか。その部分に耐え切れなくなったからこそ、僕は兄に無断でバーハラを去り、シグルド公子の軍に奔ったのではなかったか。
 蛮族にさらわれたエーディンを助けたかった。それは確かに真実だ。だけどシグルド公子の軍に加わった理由はそれだけでは十分ではない。
 そう、今こそ認めよう。あのとき僕は逃げたのだ。兄のもとから。
 でも、今なら兄と向かい合うことができるのかもしれない。向かい合い、そして差し出すことができるのかもしれない。僕のこの手を。いや、僕という存在そのものを。


 あなたのもとから逃げ出したのは、おそろしかったからなのです。あなたに軽蔑されることが。あなたに見放されることが。
 あなた以上に大きな存在は、あの頃の僕にはなかったのです。だから逃げ出さずにはいられなかった。あなたの影に押しつぶされ、見えなくなってしまった自分自身を見つけ出すために。
 でも僕は気づきました。見つけました。だから戻ってきました。いいえ、ここまでやってきました。
 あなたを誇りに思います。あなたを尊敬しています。そしてあなたを愛しています。
 兄弟として。家族として。そしてひとりの人間として。
 僕の手はあなたにとって必要ですか。
 僕の力など、あなたにとっては微々たるものに過ぎないかもしれないけれど、それでもあなたが必要とするならば、あなたにこの手を委ねましょう。僕の守りたいものと、あなたの得ようとするものが相反しない限りにおいて。
 そう、僕には守らなければならないものができました。妻と子どもです。お笑いになりますか。僕のような子ども子どもした人間が、もはや夫であり、父親であるということを。
 でも彼らの存在が僕をこの世に繋ぎ止め、生きることに意味を与えてくれている。それもまた事実です。僕は彼らにとって必要な人間であり、彼らにとって僕は必要な人間なのです。少なくとも、今、僕はそう感じています。
 彼らを守りたい。彼らの未来を明るいものとしたい。そのためならば、僕は戦うことができる。たとえその戦いの先にあるものが“完全なる正義”などではなくても。
 何が正しくて何が間違っているのか、ときどき僕にはわからなくなります。
 シグルド公子は叛逆者と呼ばれていましたが、今、その汚名は晴らされようとしています。バーハラに到着すれば、僕たちはもう“叛逆の徒”ではなくなっているという話です。なんだかわけがわからない気分です。
 そもそも僕らがなぜ叛逆者と呼ばれていたのか、いまだに僕にはさっぱり飲み込めていません。シグルド公子の対応には、政治的にいささかまずい点があったかもしれないと、さすがに僕も感じないではないのですが、それでも彼に叛逆の意図などひとしずくもなかったことは、明らかであるように思うのです。
 でも現実には、僕らはランゴバルト卿を倒し、レプトール卿を倒し、そして今、ここにいます。
 叛逆者という名を与えられた時点では、実際にはその名にふさわしい罪はなにひとつ犯していなかったというのに、汚名が晴れる今となってみれば、僕たちは同国人の血で染まった手を持っている、というわけです。皮肉なものですね。
 それに汚名が晴れたところで、亡くなった人が戻ってくるわけでも、かなしみが消えるわけでもありません。レックスの、そしてティルテュのあのかなしみを、どうやって償えばいいのでしょう。
 レプトール卿との戦いの場にティルテュがいなかったことに、僕は少しだけ安堵しています。二人目の子供を授かったばかりの彼女はシレジアに留まり、この春の戦には加わりませんでした。だがやがて彼女のもとにも届くのでしょう。彼女の父が、彼女の夫と彼女自身が身を置いている軍勢によって討ち果たされたという話が。
 こんなことは早く終わりにしたいものです。だからバーハラへの凱旋は僕らにとって待ち望んでいたものなのです。それなのに、僕はその日が来るのが何だかおそろしい。
 いまだにあなたの瞳に触れることをおそれているのでしょうか、僕は。
 確かにそれもあるのでしょう。ですがそれだけでは説明のつかない、漠然とした不安が、今、僕の中にあります。
 たぶん杞憂だということはわかっています。あなたはバーハラにあって、王女の夫として国政に携わっていると聞きました。ランゴバルト・レプトール両卿亡き今、病弱な国王陛下に代わりグランベルを実質的に動かしているのは、あなたです。ならばおそれを抱くのは、あなたを疑うということに他ならない。
 僕はあなたが心正しい人であることを知っています。
 僕らの父は尊敬するに値しない人物だったから、あなたは誰からも尊敬される人物になろうとした。私情を仕事に絡めたり、小暗い陰謀を企てたりすることは、本当はあなたの好むところではない。必要とあれば、目的のためには手段を選ばぬ方であることはわかっているつもりですが。
 僕はあなたを信じます。
 今、このヴェルトマー城にいる僕の仲間たちは必ずしもあなたを信じてはいないけれど、でも僕だけは、あなたを信じます。
 なぜなら、あなたにとって僕は“例外”だったから。僕を“弟”と呼んでくださったこと。それこそがあなたの示しうる最大限の好意ではなかったかと、僕は最近、気づいたのです。気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。あるいは、僕の母へのあわれみゆえの措置だったのかも。でも例外を作ることを嫌うあなたが唯一もうけた例外、それが僕、なのだとしたら。
 思い上がっているのかもしれません。でも、僕はそう信じることにしました。少なくとも、僕にとってあなたは特別な存在なのですから。期待されることも、失望されることもどちらもこわくて仕方がなかった。なぜならあなたに認めてほしかったから。僕があなたにとって意味のある存在であると、そう思いたかったから。
 でも、僕が僕であり、あなたがあなたである以上、僕があなたの真意を知り得ることはないのかもしれません。だったら、僕は僕の瞳の映し出したものを、僕の真実として受けとめましょう。
 ヴェルトマーのアルヴィス、わが兄上。僕はあなたを慕い、信じます――。

 生まれ育ったヴェルトマーの城のバルコニーに立ち、僕は心の中で兄に語りかけていた。
 城は僕が去ってから、何一つとして変わっていなかった。グランベルは、いや僕は、こんなに変わってしまったというのに。
 世界は戦いに満ち、そして僕は戦いを――つまりは人が殺しあうことを――知ってしまった。手を汚しても守りたいと思うものを得てしまった。
 だが本当は何も変わってなどいないのだろうか。僕はあいかわらず、期待を裏切ってしまった兄ともうすぐ会わねばならないことに怯える、あの小さな子どもにすぎないのだろうか。
 空には星が満ちていた。その光は遠く、あくまで冷たい。昔、この場所で眺めたときと同じように。
 あの頃は、星への距離がそのまま僕と兄との距離のように感じられたものだった。そして今は……今はどうなのだろう?


 漠然とした不安を抱いたまま、僕は星を眺め続けた。


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written by S.Kirihara
last update: 2015/03/10
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