二次創作小説

騎士の娘

2.

グラン暦七四九年、ノディオン――

「クロエが、騎士ベルナールの娘が亡くなった」
 留学先のグランベルから一時的に呼び戻され、父王に謁見したエルトシャンに、ノディオン王マルクはそう告げた。
「クロエが……?」
 それは、あまりにも懐かしい名前だった。
「うむ。そなた、クロエを覚えているか?」
「はい。幼少のみぎり、あの方にはよく面倒を見ていただいたものです」
 騎士ベルナールはノディオン王マルクの股肱の臣である。さほど格式のある家柄の者ではないが、謹厳実直な性格と確かな腕前を備えた優れた騎士であり、ノディオン王家に衷心より仕える比類なき存在だ。その娘クロエは、女性でありながらも叙勲を受け、騎士としてノディオン王家に仕えていた。エルトシャンの父マルクとは幼馴染の関係にあたり、特に親しくしていたという。だが、九年前、健康を害したという理由で、父であるベルナールの領地に隠棲していた。
 クロエがノディオン王宮を去ったことを、エルトシャンは残念に思っていた。クロエは控えめだが誇り高い、美しくも心優しい女性だった。のみならず、騎士としての技量も確かで、幼いエルトシャンに剣技や馬術の手ほどきをしてくれたものだった。
 エルトシャンの母レオンティーヌはなぜか彼女を毛嫌いしていた。だが、エルトシャンは、権高で神経質な母よりも、穏やかで控えめなクロエのほうが好ましいとすら思っていたものだった。
「クロエは娘を遺した。その子はお前の妹に当たる」
「……なんですって」
 思わずエルトシャンは反駁していた。
(あの噂は……真実だったのか)
 父とクロエが男女の関係であったのではないかという噂は、エルトシャンも耳にしたことがあった。そう思われても仕方ないほど、かつての彼らは親密であったらしい。何よりも、マルク王とその正妃レオンティーヌの関係が破綻しているらしいことは、王家の内情を知るものであれば、誰しもが気づく所であった。だが、クロエは九年前に宮廷を去り、以来マルク王の前に姿を見せたことはない。
「公的には、クロエの娘はその父ベルナールの子、すなわちクロエの妹であるとされている。娘の子を私生児にはしたくないという配慮から、ベルナールがそのように計らったのだ。だが、その子を産んだのは確かにクロエで、父はこの私だ。子供は今年で八歳になる。名はラケシスという」
「八歳……では、クロエが宮廷を去ったのは」
「子供を宿したからだろう。私にすら知らせず、一介の騎士の子として娘を育てることをクロエは選択した。私が娘の存在を知ったのは、つい先日のことだ」
「このようなことを申し上げるのは何ですが、それは確かに父上の子なのですか?」
「間違いあるまい。クロエは美しいが、複数の男と同時に関係を持つような女ではなかった。何よりも、その娘にはヘズルの血が強く表れている。聖痕こそないが、見まがうはずもないほど、お前や私によく似ている」
「お会いに……なられたのですか」
「正式な対面はしていない。だが、クロエが危篤状態にあると知り、先日、ベルナールの所領に赴いた。その折に、娘とも顔を合わせている」
「父上は、その子供をどうなさるおつもりなのですか?」
「我が許に引き取り、王女として認知する。あれは間違いなく私の娘だ。正式に王女として育て、教育を施し、いずれはノディオン王女としてしかるべき所へ嫁がせる。レオンティーヌは歓迎せぬであろうが、譲るつもりはない。お前にも、我が跡取りとして、そして兄として、妹の存在を認めてほしいと思っている」
 否とは言わせない口調で、マルク王は言った。
「それは……」
 エルトシャンは返答に詰まった。
「……とにかく、その子供に、私の妹に、一度会わせてください」
「もとよりそのつもりだ。お前を国に呼び戻したのは、私の名代として、ベルナールの所領に行ってもらいたいからだ。私みずから赴きたいところだが、無駄に波風を立てるわけにはいかぬ。私が出向いては、ベルナールもかえって迷惑を被ることだろう。だが、お前が行く分には、さほど問題にはなるまい。ラケシスとも、そこで会うことができるはずだ。そして、ラケシスを伴い、このノディオンに戻ってきてもらいたい」
「わかりました。明日にでも出立いたしましょう」
「頼んだぞ」
 では、と応え、立ち去ろうとしたエルトシャンを、マルク王は呼び止めた。
「エルトシャン!」
 振り向き、父の顔を見返すエルトシャンに、マルク王は言った。
「すべては私の不徳の致すところ。お前にとっては受け容れがたいことであろうな。……すまない」
 エルトシャンは父の顔を黙って見詰めた。しばしの沈黙の後、エルトシャンは呟くように言った。
「父上が謝られるべきは、私ではないのではないですか?」
 エルトシャンの声は小さく静かだった。だが、マルク王は激しく打ち据えられたかのように、その言葉におののいた。
 失礼いたします。そう呟くとエルトシャンは踵を返し、父王の前から辞した。

(どうして……どうしてこんなことに)
 自室に戻ったエルトシャンは、くずおれるように寝台の上に伏した。
 自分の中に巻き起こった、この嵐のような感情を、どう扱ったらいいのだろう。
 父の前ではどうにか平静を保っていた。だが一人になった今、荒れ狂う思いを押さえつけることはもうできなかった。
 自分の恋に溺れ、母を裏切った父が憎い。父の想いを容れ、結果として母を愚弄したクロエが憎い。なによりも母が憐れだ。そして何も知らずに生きてきた自分自身の愚かさに、反吐が出そうだ。
(俺は何を見ていた。父と、クロエと、そして母。真実はいつもすぐそばにあったのに)
 青年の潔癖さで、エルトシャンは、父とその恋人の行為と、その結果として生じたものを、受け容れがたいと感じていた。自分のことを限りなく愛してくれる母を思うと、それを踏みにじった父に憎しみを覚えずにはいられない。だが同時に、男としての父の想いも理解できてしまう。
 エルトシャンはクロエが好きだった。幼いエルトシャンに初恋と呼べるものがあったとするならば、それはあのクロエに向けられた想いだったかもしれない。
 容貌の細部などはもう思い出せないが、彼女の手のぬくもりを、優しいその声を、エルトシャンは幾度となく懐かしんだものだ。彼女がいなくなってどれほどさびしかったことか。戻ってきてほしい、そばにいてほしいと、何度思ったことか。
 加えて、父と母との間に精神的な繋がりがないことも、エルトシャンは知っていた。
 エルトシャンの母レオンティーヌは、アグスティ王家の出身である。
 彼女は現国王イムカの従妹にあたる姫君で、純粋に政略的な理由でノディオン王家に嫁してきた。もし、エルトシャンの下に子供が生まれていたら、その子はアグスティ王家に引き取られるはずであった。ノディオン王家に移ってしまったミストルティンの継承者を何とかしてもう一度アグスティ王家に戻そうとする試みは幾度となくなされていたが、この政略結婚もその一環であった。
 レオンティーヌはアグスティ王家の血筋をおのれの心の支えとする、誇り高い女性である。激しい気性と深い情愛を秘めた彼女は、最初はマルク王の愛を一途に求めていたらしい。だが、レオンティーヌの想いが報われることはなかった。
 母はどれほど苦しんだろう。苦しみ、呪ったことだろう。だが、母の想いに応えられなかった父を責めることも、エルトシャンにはできなかった。エルトシャンもまた、クロエに惹かれると同時に、母の強すぎる情愛にたじろぎ、息詰まる思いを抱えていたからだ。
 単純に誰かを責め、誰かを憎むことができればことは簡単だ。だが、それが叶わないからこそ、苦しみが生じる。
(妹は……ラケシスは、どんな少女なのだろうか)
 今しがたその存在を知ったばかりの妹に、エルトシャンは思いを馳せる。
 ヘズルの血を強く引いている、と父は言った。おそらくクロエより父に似ているのだろう。
 妹であるというその少女を、自分はどう受け止めればいいのだろうか。
 父の不実の証として憎むのか。同じ血を持つ者としていとおしむのか。それともクロエの忘れ形見として……
(少なくとも、彼女には何の罪もないのだ)
 責められるべき者がいるとするならば、彼女を世に送り出した者たちだ。だが、彼女を見るたびに、父も母も、そして自分も、父とクロエの罪と裏切りを思い出すだろう。
(クロエの選択は賢明だった……)
 自分とマルク王の為したことが、どのような影響を及ぼし、どのような感情をもたらすのか、クロエは理解していたのだろう。だからこそ、隠れるように身を引き、自分の父の所領で娘を育てた。父の恋人であったと知った今でも、自らが身を引くという選択を行ったクロエに、エルトシャンは共感と好意を寄せずにはいられない。
 クロエの娘はヘズルの血族、野に置くには、あまりにも重い意味を持つ血を受け継いでいる。クロエは恋人を案じ、娘を愛するからこそ、ただの騎士の娘としてその子を育てようとしたのかもしれない。しかし、クロエの死とともに真実はあらわになり、その娘は本来の身分を与えられようとしている。
 妹の人生はきっと困難なものになる。正妃レオンティーヌがクロエの娘を受け容れるはずがない。レオンティーヌに限ったことではない。たとえ王女として認知されても、彼女は妾腹の子としての処遇に甘んじることになる。低く扱われ、愚弄を受けることもあるだろう。
(俺は……妹の味方になるべきなのだろうな)
 エルトシャンの理性はそう告げている。兄として彼女を守り、その将来に心を砕く。それこそが最も望ましい道であるに違いない。
 それがたやすいことであればよいのにと、エルトシャンは祈るような気持ちで思った。クロエの娘が愛しやすい少女であってくれればよいのに。彼女を父の裏切りの証と見なすのではなく、自分の妹として受け容れ、家族として親しむことができるように。
 ただ父を憎み、母を憐れむのではなく、責任感と家族としての愛情をもって、妹を受け容れよう。まだ見ぬ妹を想い、エルトシャンはそっと心に誓った。

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written by S.Kirihara
last update: 2015/01/22
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