二次創作小説

若駒駆けて

「こんなところでお目にかかるとは意外です、フュリー殿」
 早春の寒空の下、厩舎の馬たちを眺めていたフュリーは、背後から声をかけられ振り向いた。
「こんにちは、……ノイッシュ様」
 彼から呼びかけられるのは、とても久しぶりのような気がする。
 先日シグルド軍に参入したばかりのフュリーは、シグルド軍に連なる人々の顔と名前をまだ完全には一致させられていない。ただ、この騎士はフュリーが初めてシグルドの軍と接触した時に出会った人物であり、顔も名前もはっきり覚えていた。
 エバンス城での遭遇、そしてその後マッキリー城で催された冬至祭では、ノイッシュから随分と助けられた。だがその後、ノイッシュのほうからフュリーに接触してくることはほとんどなかったように思う。
 フュリーの呼びかけに、ノイッシュは少し考え込むような表情を浮かべた。
「ノイッシュで結構です。あなたから敬称で呼ばれるような立場の人間ではありませんよ。私はシアルフィ公爵家の家臣ですので、ヘイム王家から見れば陪臣にあたります。シレジア王家の直臣であるあなたのほうが、むしろ身分が高いのです」
「でも、シレジアとグランベルでは規模が違います。グランベルの公爵家はシレジア王家と家格としては同じくらいにあたるのでは。それにわたしは客分の新参者ですので……」
 一語一語考え込むように、律儀に言葉を連ねるフュリーに、ノイッシュは柔らかな表情で応えた。
「なんと申しますか、あまりお気づかいなさらないでください。できれば同格の者として扱っていただいたほうが、私としても気兼ねが要らず、助かります」
「は、はい……」
「ところで、なぜこちらに? あなたのペガサス――ソーニャと言いましたか――でしたら、こちらではなく隣の厩舎に入っていると思うのですが」
「私のペガサスの名前を……?」
 意外だった。フュリー自身の名前ならばともかく、この異国の騎士がペガサスの名前までを記憶しており、その所在もきちんと把握しているとは。
 シアルフィの騎士は照れたような、あるいは困ったような表情を浮かべ、応えた。
「ああ、その、私は馬の名前ならすぐに覚える体質のようでして。一緒に踊った令嬢の名前は覚えていない癖に新参の騎士の馬の名前はきちんと覚えていると、アレクにもよく呆れられています。それに、ペガサスはこちらでは珍しいですし、何より美しい生き物ですから」
「他国の方にとっては、ペガサスは珍しいものなのですね」
「ええ。シレジアのペガサスはそう国外に出るものではありませんから。こんなことがなければ、身近で見ることもなかったでしょう」
「そうですね」
 基本的にシレジアは他国への軍事介入を行わない中立の国である。シレジアの象徴たるペガサスナイトが、ペガサスとともに国外に出ることは、外交使節などを除いてはそうあることではない。他国の人間にとってペガサスが珍しいのはあたりまえのことなのだ。自分が国外に出てきた理由を思い出し、フュリーは少しばかり苦い気分になった。
(レヴィン様……早くシレジアに帰っていただきたいのに)
「ですので、つい興味がわいてしまいまして。……ああでも、むやみに近づいたりはしていませんのでご心配なく。ペガサスは男性を嫌うと聞いていますので」
 フュリーの表情が曇ったことを自分への警戒と取ったのだろうか。騎士は懸命に言いつのった。その緊張を解きほどきたくて、フュリーは微笑みながら言葉を返した。
「そんなに心配なさらずとも大丈夫ですよ。いきなり触ったり、無理に背に乗ろうとしたりしない限りは問題ありません。きちんと調教されていますから。でないと、軍馬として用いることなどできませんもの」
「あ……そうですね」
(……なんだろう、この方って)
 改めて言葉を交わしてみると、以前とは随分印象が違うような気がする。もっと厳格な、堅い人物のような印象を持っていたのだが、こう、はにかみがちで一生懸命な姿は、何というか。
(少年がそのまま育ったような……?)
 子どもっぽい、というわけでは決してない。が、思っていたよりもずっと純情で柔らかな心の持ち主のように思えた。
「ごめんなさい、フュリー。お待たせしてしまった?」
 小走りに厩舎にやってきた女性がいた。レンスター王妃エスリンである。
「いえ、わたしも先ほど来たばかりです。エスリン様」
「エスリン様?」
 少し驚いたようにノイッシュが言った。
「もうちょっと早く来る予定だったのだけど……まあでも、退屈はしていなかったのかしら」
 エスリンは訳知り顔でにやにやしながら、言った。
「珍しいものを見たわね。ノイッシュが女の子を口説いているなんて」
「違いますよ。たまたまここでお会いしただけで、そういった類のことではありません」
 困ったような表情でノイッシュが応えた。
「本当? けっこう会話が弾んでいたように見えたけど?」
「ところでなぜ、フュリー殿とエスリン様がこちらへ?」
 エスリンの言葉を半ば無視するように受け流し、ノイッシュは言葉を続けた。
「フュリーがね、乗馬を覚えたいって相談してくれたの。だからわたしが手ほどきしようと思って」
「フュリー殿が乗馬を? ペガサスがいれば十分ではないのですか?」
 不思議そうな面持ちでノイッシュはフュリーに向きなおった。
「ペガサスは……普段使うには少し目立ちすぎるのです」
 フュリーは一語一語考えながら言葉を返した。
「レヴィン様が国にお戻りになるとおっしゃるまで、わたしはレヴィン様のお傍にいたいと思っています。でも、シレジアの者がシグルド様と行動を共にしていることを公にするのはあまり好ましくないのではないかと思い至りました。ペガサスで飛ぶと、シレジア人がここにいると言っているのと同様です。ですから、必要のない限りはペガサスに頼らずにいたほうがいいのではないかと」
「ああ、なるほど」
「それに、シレジアにいてはかなわないことを習得しておくのもいいのではないかと思って。国には普通の馬があまりいないので、馬に乗る術を学ぶことは難しいのです。……おかしいでしょうか?」
「いえ、すばらしいことだと思います。我々の立場にご配慮いただいたことも、新しいことを学ぼうとなさる姿も。しかしなぜエスリン様に? こちらに言っていただければすぐ手配したものを」
「あの……すみません」
「いえ、責めているわけではないのです。気軽にご相談くださればいいのにというだけで」
「そこは女同士のよしみってものかしら? たまたまだけど親しくお話しする機会があって相談してくれたのよね。兄上やあなたたちには、まだ遠慮があるみたいだし」
「そうでしたか」
 誤解であったとはいえ、最初にシグルドの軍に敵対する行動をとってしまったことが、フュリーにとって心の枷になっていた。部隊を指揮する身でありながら、他国の王の言葉を疑いもせずに信じ込んでしまった過去の自分がどうしようもなく恥ずかしい。シャガールの口車にやすやすと乗せられてしまった愚かな女として軽蔑されているのではないか。その思いがシグルドと彼に従う人々と接するときに、奇妙な遠慮として反映されていた。
 レンスター王妃エスリンは、そんな彼女にも隔意を抱かせない、不思議な魅力を持った人物だった。愛くるしい顔に親しみやすい笑顔を浮かべて話しかけられると、いつの間にかわだかまりを抱くことなく自分の思いを伝えることができていた。
「しかし、エスリン様……大丈夫ですか? 乗馬の仕方を他人に教えるなんて」
「やだなあノイッシュ。わたしだっていつまでも乗馬を習い始めたばかりの十二歳の女の子のままじゃないわ。レンスターでも、訓練は続けていたし」
「エスリン様ご自身の腕前にはなんの不安も抱いていません。ただ、他の方に教えるというのが少し……」
「またそうやって馬鹿にする」
 むくれたような表情で、エスリンはノイッシュに殴りかかる真似をした。
「馬鹿になどしていませんから」
 ノイッシュはエスリンの拳を受け止め、穏やかに微笑んだ。
(……?)
 不思議な感じがした。レンスターに嫁ぐ前はシアルフィの公女であったエスリンが、シアルフィの騎士と親しい関係にあること自体は驚くべきことではない。だが、眼前の二人の雰囲気は主筋の姫君と騎士というよりは、もっとずっと親しくて遠慮のないものに見えた。
「その……なにか困ったことがあったらいつでも言ってください。私はラケシス様にお教えするために、向こうの馬場に出ていますので」
「そういえば、ラケシスも乗馬の練習をしているのよね」
「ええ、もともと乗馬はお好きらしいのですが、軍馬を扱う訓練はなさっておいでではなかったとのことなので、基本的なことをお伝えしているところです。さすがエルトシャン王の妹君と言うべきか、短い期間でずいぶん上達なさいました。そろそろ私もお役御免になるのではないかと思います」
「どうかしらね。彼女、あなたのことを気に入ってるみたいだし、当分手放さないかもよ」
「私のことを……ですか?」
 きょとんとした表情で応える騎士を見て、エスリンはさも可笑しそうにころころと笑った。
「相変わらずよね、そういうところ。鈍いのか、気づきたくないことは見ないようにしているだけなのかわからないけど」
「はあ……」
「まあ、いいわ。何かあったらお願いするかも。あなたがいれば心強いわね。先輩」
 そう言って、エスリンはおどけたような仕草で軽く敬礼した。
「しっかりお願いしますよ、後輩」
 ノイッシュもやはり、笑いながら同じ仕草を返す。二人だけに通じる、合言葉のようなものなのだろうか。
「それでは、私はこれで失礼します。ではまた」
 そう言い残すと、ノイッシュは立ち去っていった。
 その後ろ姿を見送りながら、しみじみとエスリンがつぶやく。
「うーん、相変わらずよねえ」
「すいぶんとお親しいのですね」
「……わたしとノイッシュ? そうね、あの人はもう一人の兄のようなものだから」
「そうなのですか」
「ノイッシュはいわゆる名家の出だから、幼いころから顔を合わせる機会は多くて、名前と顔だけは昔から知っていたわ。親しくなったのは、ノイッシュやアレクが見習い騎士としてシアルフィ城で暮らすようになってから。わたしが十二歳の時だった。その頃ちょうど、早くに亡くなったお母様に代わって私を育ててくれていた乳母が亡くなり、兄上はバーハラの士官学校で学ぶためにシアルフィを離れることになって……大切な人たちが次々とわたしの側からいなくなってしまった時期と重なっていたの。さびしかった私は、城にやってきたばかりの見習い騎士たちと一緒に、剣や乗馬の修行に精を出したわ。おかげで貴婦人のたしなみよりも騎士としての振る舞いのほうが得意になってしまって、シアルフィのじゃじゃ馬姫と呼ばれるようになってしまったのだけれど。だからノイッシュとは、兄妹というか、同じ師のもとでともに学んだ先輩後輩というか、そんな感じなのよね。真面目で辛抱強い人だから、いつもわたしの我がままにつき合わせてしまって、ふりまわして迷惑ばかりかけていたような気もするけれど」
 思い出を懐かしむように、エスリンは小さくふふっと笑った。
「さて、無駄話はこれくらいにして、さっそく稽古に入りましょうか。まずは、今日乗る馬を選ばないとね」

 ノイッシュは心配していたものの、エスリンの指導はさほど悪いものではなかった。ただ、説明の順序が前後したり、ペガサスには慣れていても乗馬は初めてであるフュリーにとってはわからないことを見落としていたりといった点はなきにしもあらずではあった。それでも、フュリーを馬の背に乗せエスリンが手綱を引く引き馬での練習はうまくいっていた。
「やっぱり熟練のペガサスナイトだもの。普通の初心者とは違うわね」
 感心したようにエスリンが言った。
「引き馬じゃなくて、自分で動かしてみる? たぶん大丈夫よね」
「は、はい。たぶん……」
 正直言って、あまり自信はなかった。
 基本的な行動は、馬とペガサスでそう違うわけではない。だが、指示の出し方などにおいて決定的に異なる部分がある。ペガサスの場合、ある種の感応能力のようなものが備わっており、主との間に絆を確立することによって心を通わせ、以心伝心で行動を読み取っている部分がある。だが馬はもっと普通の動物であり、そういった類の力はない。しつけられれたとおりの指示を与えて、乗り手の意図を馬に伝えなければならない。
(でも、落ち着いて行動すれば大丈夫。きっと)
 教わった通りに背を伸ばし、手綱を軽く引き気味に持つ。
 馬は並足でカポカポと歩き始めた。
「うんうん、いい感じ」
 が、その時。
 ピィィー
 鳶だろう。甲高い猛禽の声が空高く響いた。
 その声に驚いたのだろうか。フュリーの乗る馬は耳をぐるりと回すと、いきなり駆けだした。
(え……)
 予期しなかった暴走にフュリーは体勢を崩し、前かがみになった。振り落とされまいとして、思わず馬の首にしがみつく。緊張した拍子に思わぬ力が入り、膝で馬の胴を締め付けていた。加速の合図と思ったのだろう。馬はさらに速度を増し、まっすぐに突き進む。
(だめ……おねがい、止まって!)
 手綱を引かなくては。姿勢を立て直さなくては。頭ではわかっていたはずだった。だが体がこわばって動かない。
「背を伸ばして! 姿勢を起こしてください! 力を抜いて!」
 背後から声が聞こえた。
「落ち着いて! 大丈夫ですから! 手綱を引いて!」
 声はどんどん近付いてくる。ちらりと横を見ると、すぐ横をノイッシュが馬で並走していた。
「失礼!」
 ノイッシュはそう言うと、自分の馬をさらに寄せ、フュリーの馬の手綱をつかむと、そのままフュリーの背後に飛び移った。
 ノイッシュは背後から抱え込むように腕をまわし、手綱を取る。馬はしばらく直進を続けたが、徐々に速度を落としていった。
「このままでしばらく失礼します。この子を落ちつけてやらないと」
 背後でささやくようにノイッシュが言った。
「は、はい」
 馬は駆足から速足に移り、リズムを刻みながら走っていた。ノイッシュはそれ以上は速度を落とさず、そのまま馬場をぐるりと回る。
 緊張のあまりこわばっていた体から、次第に力が抜ける。フュリーはほっと息をついた。
「落ち着かれましたか」
「す、すみません」
「いえ、あなたのせいではない。むしろ謝らなくてはいけないのはこちらです」
「でも……」
「いやな予感はあったのです。時々様子を見ていてよかった」
 馬は徐々に速度を落とし、今は並足で歩いていた。ノイッシュはエスリンの傍まで馬を寄せると、そこで馬を止め、その背から降りた。
 ノイッシュは轡を取り、フュリーのほうを向いた。
「降りられますか?」
「はい」
 まだ膝が少し震えている。だが馬の背から降りる動作そのものはペガサスの場合と変わらない。意識して気持ちを鎮めながら、フュリーは馬の背から降りた。
「ごめんなさい、フュリー!」
 泣きそうな表情で、エスリンが歩み寄ってきた。
「エスリン様……どうしてフュリー殿の馬をよりによってカレンにしたんですか」
 困りきったような表情でノイッシュが問いかけていた。
「カレンって、その馬? だって、かしこそうで、きれいで、何となくフュリーのイメージに合っていたし」
「ええ、確かにそれはわかります。私も、フュリー殿がもう少し乗馬に慣れた後だったらカレンを勧めたと思います。でもこの子は初心者には向いてませんよ。繊細なだけに不安定なところがあるし、まだ若くて訓練が不十分で少しわがままだし。アルフィンは空いてなかったんですか? あれならちょっと鈍感で見た目もあまりよくないですが、おとなしくて指示によく従うので、初心者でも安心して乗せられるのですが」
「それってどの子だっけ? 白っぽいおじいちゃんの去勢馬?」
「そう、たぶんそれです」
「……あの子まぬけ面でガニ股じゃない」
「容姿だけで馬を選ばないでください。初心者の訓練用なら、ここの厩舎ではあの子が一番ですよ。それと、いきなりフュリー殿を一人にするのはさすがに早いです。いくらペガサスに慣れている方だと言っても、調馬策を使っての訓練などを入れてからのほうが」
「……うーん」
「とりあえず、大事に至らなくて何よりです。が、お任せするのが限りなく不安になってきました」
「ええ、わたしも……ほんとごめんなさいね、フュリー」
「エスリン様、ラケシス様のお相手をお願いしてもいいですか? フュリー殿のほうは私が何とかしましょう」
「そのほうがよさそうね」
「ラケシス様は、軍馬への指示の出し方も一通り覚えられて、馬の背に乗って武器を使う練習を始められたところなのです。馬上での杖の使い方から始めるのがいいかと思うので、エスリン様にお願いできるなら何よりです」
「あら、それなら本当に交代したほうがよさそう。そういう状況ならラケシスも気を悪くしたりしないだろうし」
「それではカレンはこのままエスリン様がお使いください。私は一旦厩舎に戻りますので」
 そっちは任せたわよ、と言い残し、エスリンは先ほど暴走した馬にまたがると立ち去っていった。
「少しお待ちいただけますか? あいつを捕まえてきますので」
 ノイッシュはそう言って、先ほど乗り捨てた自分の馬のほうに向かっていった。騎士は難なく灰色の大柄な軍馬を捕らえると、その背に跨り、フュリーのところへと戻ってきた。
「お待たせしました。厩舎に戻りましょう」
 ノイッシュは下馬し、手綱の端を掴み、馬を引いて歩き始めた。フュリーもその横に並び、一緒に厩舎へと向かった。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
 歩きながら、ノイッシュが話しかけてくる。
「エスリン様は、カンが鋭く乗り手としても優れた腕をお持ちですが、なんというか、順序立てて論理的に説明をするようなことはあまりお得意ではなく……なので、初めての方に何かを教えるようなことは、いまひとつ向いていらっしゃらないのです。わかってはいたのですが、エスリン様にお任せしたほうが、あなたにとっては気安いのではないかと思い、そのままにしていたのですが……失敗でした」
「いえ、お気遣いくださってありがとうございます。わたしは大丈夫ですから」
「馬は賢くおとなしいですが、体が大きいために危険な生き物だとも言えます。馬に何の悪気もなくても、ちょっとしたきっかけで人が命を失うような事故も起こりかねない。安全を尽くした上でともに歩むべき相手なのです。それにペガサスとは似て非なるものであると思いますし」
「ええ。わたしにも慢心があったのだと思います。ペガサスに慣れているから大丈夫だと思って、つい」
「騎乗の技術そのものに関しては何ら心配はいらないかと思います。ですが、馬という生き物にもっと慣れていただく必要があるのでしょう。書物からの知識ですが、ペガサスは主の心を読み取ることができるとか。馬にはそのような特別な力はありません。何となく気持ちが通じ合うような感覚はありますが……」
「……本当に、いろいろご存知なのですね。おっしゃるとおりです。ペガサスにはそういう力があります」
「今後なのですが、やはりあなたの稽古はその道の達人に任せるべきでないかと思います。アグスティ城の厩舎に、騎士たちに乗馬を教えている指南役がいます。この方にあなたを引き合わせようかと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「わたしの乗馬は思いつきの道楽のようなものです。そこまでしていただくのは恐縮です」
「何事も基礎が大切です。基本を疎かにしないのが、結局上達への早道となります。ただ、あなたは何かと遠慮をなさる方だ。少し人見知りするようでもある。見知らぬ者から教えを受けるのがおつらいようなら、他の方法を考えますが……」
「いえ、ありがとうございます。おっしゃるようにしていただければありがたいです」
「そう言っていただけるなら幸いです」
「あの……」
 フュリーは立ち止まり、ためらいがちに呼びかけた。
「どうなさいました?」
 ノイッシュも足を止め、いぶかしげな表情で振り返る。
「あの、すみません。出会い頭に刃を向けたも同然の行動を取り、その後もなし崩しに押し掛け居候のような状態にあるわたしなどに、そんなにお心を砕いてくださるなんて」
 ノイッシュは黙ってフュリーの顔を見つめた。しばしの沈黙の後、穏やかな声で言った。
「……そんなふうにご自分のことを思われていたのですか?」
「……はい」
「エバンスでは……たしかに驚きました。ですが、事情を知れば致し方ないことだと思いました。むしろ、大切な主君が捕らわれているならば、命を賭してでも取り返そうとするのは騎士としては当然のこと。私自身が同じ立場に身をおいても、やはりあなたと同じように行動したのではないかと思います」
「でも……シャガール王の言葉をそのまま信じてしまうなんて。なんて浅はかだったのだろうと、自分でも恥ずかしくて」
 ノイッシュは首を左右に振り、静かに続けた。
「必死になっているときは、客観的に物事が見えないものです。あなたは部下たちの他に頼るものもなく、この国に来られた。王子に関する情報も乏しく、とても不安に思わていた。そして何よりも、王子の身を案じておられた。そんな中で起こった事です。結果として誤解も解け、皆、無事だったのです。あまりお気になさらぬよう」
「……ありがとうございます」
「王子が早くお心を定められるといいのですが……一国を背負わねばならぬというのは大変なことです。ましてや、身内との骨肉の争いの可能性があるというのは。迷われるのも致し方ないのかもしれません。ただ、シャガール王とグランベルとの関係もいつまでも平穏なままであるとは思えません。他国の争いに巻き込まれないうちに、早く故国に戻られたほうがよいのではないかとは思うのですが……なるようにしかならないのでしょうね」
「そう……ですね」
 さりげない優しさが心にしみる。気休めに形ばかりの同情を寄せるのではなく、フュリーの立場に沿って理解を示し、ひとつひとつわだかまりを解きほぐしていく。その言葉には打算や下心は感じられない。ただただ誠実な善意にあふれているように思われた。
(エバンスでもそうだった。この方は本当に優しい方なのだ)
「もう少しあなたが馬に慣れたら、遠乗りに行かれるといい。アグストリア城からまっすぐ東へいけば、海に行き着きます。そしてその海の向こうには、シレジアがあります。海までの距離は、城からはかなり遠いのですが……」
「シレジア……」
 地理的には、シレジアはアグストリアから遠いわけではない。海峡を越えていけば、いつでも戻れる場所にある。だが、今のフュリーにとって、故郷は遠い場所だった。
 シレジア王子レヴィンを連れて故国へ帰る。それがフュリーに課せられた使命である。しかし肝心のレヴィンにその気がない現在、フュリーが故国に帰るのはいつのことになるのかまったく予想できなかった。レヴィンの側にいられるのだから不満はない、そう自分に言い聞かせてはいるものの、見知らぬ国に住み、見知らぬ人々の間で暮らすことは、やはり心さびしく不安なものであった。
 ふとこみ上げてきた心もとなさを押し隠そうと、フュリーはそっと首を振った。
「お寒いのですか?」
 フュリーの所作に気づいた騎士が、心配そうに声をかける。
「いいえ。シレジアの気候に慣れた者にとっては、これくらいの寒さはどうということはありません」
「アグストリアにはもう春の兆しがありますが、シレジアはまだ寒いのでしょうか」
「シレジアの雪解けは三月も終わりに近づいてからです。今頃はまだ、雪に閉ざされています」
「違っているものなのですね、海を越えればすぐだというのに」
 そう語るノイッシュの声は、どこかさびしそうに感じられた。
「ええ……本当に」
「でも、縁あってここにいらしたのです。致し方ない事情であるとはいえ、ここでの滞在が少しでもよいものであればと思います。無粋な軍隊と行動を共にしているのでは、心楽しいこともそう多くないかもしれませんが」
「いえ、皆さまにはとても親切にしていただいて、楽しく過ごしております」
「それならばいいのですが」
「今日も本当にありがとうございます。いろいろお気遣いいただいて……」
「いえ、大したことはなにも。むしろ危険な目にあわせてしまって申し訳ないと思っています」
「……わたしは、自分の愚かさゆえに、周りに溶け込むことができずにいました。なのにそんなわたしに心を砕き、親切にしてくださいました。そのことがとても嬉しいのです」
 フュリーはノイッシュの顔を見つめ、微笑んだ。
 ノイッシュは一瞬はっとしたような表情を浮かべ、その後ゆっくりと微笑み返した。
「やっと笑ってくださいましたね」
「え……?」
「ずっと、緊張し、周りに気を遣っているような表情をなさっていた。あなたが心安く過ごすことができるなら、これに勝ることはありません」
「……ありがとう、ございます」
 何か、心の中で動くものがあった。温かく、言葉にし難い想いが胸の奥に拡がり、次第に満ちてくる。この想いに何と名づければいいのか、フュリーにはよくわからなかった。今はまだ。

 フュリーの中にきざしたその想いが明確な形をとるまでには、まだ時間が必要だった。だが、それは確かに、彼女の中ですでに育ち始めていた。

《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2014/12/22
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