二次創作小説

運命の女

〜Fam Fatale〜

 砂塵舞うイードの砂漠を、騎馬の一隊はのろのろと進んでいた。
(砂漠というのは、どうにもいただけないな)
 ベオウルフは眉をしかめた。
 半生を放浪の傭兵として送ってきた彼は、野外生活には慣れている。だが実のところ、砂漠の行軍は今回が初めての体験だった。
 さえぎる影のない砂の海の面を、太陽はじりじりと灼きつける。砂から立ち昇る熱気に、じんわりと汗がにじみ出る。まだ雪深いシレジアを後にしたのがついふた月まえのことだったとは、にわかに信じがたいことだ。
 暑いだけではない。舞い上がる砂があちこちから入り込んできて、実に不快である。
(俺ですらこうなのだ。ラケシスは――どう思っているのか)
 ベオウルフは傍らで馬を進める女性を眺めやった。金の髪の王女はまっすぐに前を見つめ、黙々と行軍を続けていた。
 変わったものだ――と、ベオウルフは心の中でつぶやいた。昔の彼女なら、とうの昔に音を上げていただろう。少なくとも、不平のひとつは口にしていたはずだ。だがこの変化は、頼もしいというよりは、むしろ痛ましいものに思われてならない。
 やんごとなき姫君として育った彼女は、かなりわがままな女だった。特に身体的な不快感への耐性が低く、ちょっとした不都合にいちいち不平をもらしていたものだ。
 いつの頃からだろう。彼女がおのれの苦痛を口にすることがなくなったのは。自分本位のわがままや甘えを、感情のままに人にぶつけることがなくなったのは。
(問い返すまでもない――)
 答えはわかりきっていた。あの時からに決まっている。彼女が兄を失い、そして彼を選んだ、あの時からに。
「あなたなら、バカな死に方は選ばない。私を置いていったりしない。そうでしょう?」
 涙の涸れ尽くした瞳で彼を見つめ、しぼり出すようにささやきかけたラケシス。あの時のラケシスの声が、今でも耳から離れない。
 彼女を抱きとめ、是と応えたのは、痛々しい姿を見るに忍びなかったからだ。笑顔を取り戻して欲しかった。彼女を傷つけるすべてのものから守ってやりたかった。たとえ彼女が彼を――彼だけを見つめていないとしても。
 だが。
(結局、俺はこの女を守れなかったのか……)
 いつも笑っていて欲しかったのに。無垢なままでいて欲しかったのに。幼く、わがままであってかまわないから。それなのに彼女は絶望を知り、光り輝く笑顔を失い――守られるだけの姫であることに甘んじず、自ら戦う戦士となった。
 それはそれで頼もしいし、女としての味わいが出てきたとも思う。だが失われたものを思う時、心のどこかが痛む。
(この女にとって、俺は何だったのだろうな)
 彼女が彼を伴侶に選び、二人の間に子どもが生まれた。それは揺るぐことのない真実だ。だが、自分が彼女にとっての唯一の存在ではないことを、彼は知っている。いや、最初から承知の上で、あえて彼女の伴侶となった。
 彼女が彼を愛していないとは思わない。それなりの愛情、それなりの絆が二人の間には存在している。だが、彼女にとって一番大切な男は、たぶん彼ではない。あの時も、そして今でも。
(俺は……まあ三番目といったところか)
 自分と彼女の間には、二人の男がいる。そうベオウルフは思っている。
 一人目は問題にしても始まらない。エルトシャン。彼の親友にして彼女の最愛の兄。誰もエルトシャンを超えることなどできないだろう。彼が優れた男だったからではない。死んでしまった男だからだ。死せる者は美化されることはあったとしても、幻滅されることはない。決して崩れることのない偶像に、どうして太刀打ちできようか。
 だが、死者は温かい手を持ってはいない。彼女が泣いているときにその涙を拭い、抱きしめてやるのは、結局は生きている者だ。
 だから問題なのは……二人目の方。
(あの頃ラケシスが恋していたのは、俺ではなかった)
 それは最初から承知していた。エルトシャンが非業の死を遂げる前、ラケシスの瞳が追いかけていたのは、ベオウルフではなかった。兄エルトシャンの親友としてそれなりの信用を得ていたとはいえ、恋の対象として選ぶにはベオウルフはあまりにも自分とはかけ離れた存在だと、彼女は思っていたに違いない。彼女が慕っていたのは、誰の目にもより彼女に近い男だった。彼女と同い年の、レンスターの騎士の家に生まれた寡黙な少年。
 あの恋は今も終わっていない。そもそも始まってすらいなかったに違いない。
 予感と、交し合う視線。存在していたのはそれだけだった。
 幼く、恋を知らぬ者同士の、初心でささやかな想い。周囲で眺める大人たちはみな気づいているのに、本人たちだけが気づかない、面映ゆくもどこか痛々しい、そんな思慕の情。それでも、始まることも終わることもなかったその恋が、埋み火となって今でも彼女の胸で眠っていることを、ベオウルフは知っている。
(承知していたつもりだったがな……)
 ベオウルフは思わず苦笑をもらした。
 手に入れてしまえば忘れるだろう。そんな安易な考えを抱いていたわけではなかった。だが、心のどこかでそれを期待していたことも否定できない。
 彼女の想いは知っていた。なぜあの男ではなく、自分の所に来たのかもわかっていた。
 あの男は似すぎているから。彼女の兄に。そして彼女自身に。
 自分の気持ちをいつわるなと、突っぱねることもできたはずだった。だが彼はそうはしなかった。
 彼女を守りたかったから。そして何よりも……彼女が欲しかったから。
 あの男では彼女は守れない。少なくとも、彼女をエルトシャンの呪縛から解放することはできないだろう。
 あの男は生まれついての騎士だ。主君か、それとも自分の女かと問われれば、迷った末に主君を選ばざるを得ない。そういう人種だ。
 彼女もそれを知っていた。だからああ言ったのだ。
「あなたなら、バカな死に方は選ばない。私を置いていったりしない。そうでしょう?」
 バカな死に方を選び、彼女を置いていく男。それがエルトシャンだけを指しているのではないことが、どうしようもなくわかってしまった。
 実際、あの男は彼女を置いていった。主君とともに、自分の祖国へ帰っていった。彼女の心は自分にはないと思い込んだままで。
 だが、もし選ばれていたら、あの男は彼女のために残っただろうか。いや、そうはならなかっただろう。おそらく今と同じ道を選び、彼女は孤独なまま取り残されたに違いない。
 それはあの男の責任ではない。仕えるべき主を持つ騎士としてはごくまっとうな選択だ。だが、それでは彼女は救われない。
 彼女はあの男の名を口にしない。その名は彼女にとって禁忌となっているのだ。想いが失われたからではなく、今なお強く根深いものであるがゆえに。
 そんな彼女を見ているのがつらくないわけではない。自分だけを見て欲しいと、望まなかったといえば嘘になる。それでも、いっそ手に入れなければよかったとは思わない。
 彼女の与えてくれたものは、彼女によって味わわされた痛みよりもなお大きかったから。
 闇に浮かび上がる白くあたたかな肢体。きれぎれに漏らされる甘い吐息。すべてを許しきったように胸元にもたせかけられた小さな頭。だが何よりも彼を魅惑してやまないのは、その瞬間に彼女が浮かべる恍惚の表情。普段の王女然とした、取り澄ました姿からは想像だにできない痴態の数々を彼は知っている。いや、彼が教えるままに彼女は花開いていったと言ったほうが正しいだろうか。最初は恥じらいのあまり、堅くぎこちなかった蕾が、体を重ねるごとに開き、やがて爛熟していく。手馴れた商売女たちとの逢瀬からは得たことのない、狂おしくもどこかやさしい情愛は、彼が初めて知るものだった。
 あるいは乳飲み子を見つめる柔和な表情。母のみが持つ、穏やかですべてを許しきったような笑みは、時として腕の中の赤子だけではなく、その子の父親たる彼にも向けられた。平穏な家庭生活や乳臭い子ども、そんなものは自分には無縁な、むしろ唾棄すべきものと思っていた。だが実際に手にしてみると、それはおそろしいほどに貴重で、輝かしく、喜ばしいものだったのだ。自分の自由を代償に家族に束縛されるなど、せせこましくておおよそつまらない生き方だと思っていたベオウルフにとって、それは小さからぬ衝撃だった。
 彼女を手に入れたことによって生じたものは予想を超えて豊かで、実り多かった。だがそれでも――あるいはそれゆえに――彼女のすべてを自分が手にしているわけではないという認識は、無視するにはあまりにも苦い。
(それでもこの女は俺の傍らにいてくれた)
 ラケシスはベオウルフと馬を並べ、戦っている。だが彼女の心のすべてが、ここにあるわけではないはずだ。心を寄せずにはいられない者たちが、彼女にはいるのだから。イザークへ落ち延びたデルムッド、北トラキアのどこかにいるはずのエルトシャンの遺児、そして――
(ラケシスが与えてくれたものに報いるために、俺は何ができるのか)
 王都バーハラに近づくにつれ、戦は激しくなるだろう。いつまで生きていられるかわかったものではない。激戦の中にあっていつ果ててもおかしくなかったのは、今までも同じだったには違いない。それでも不思議と死ぬ気はしなかった。だが、今回は違う。傭兵としての勘が、彼に暗い未来を告げている。道はバーハラの彼方へは続いていないかもしれないと。
 せめて彼女には生き残って欲しいと、ベオウルフは望まずにはいられない。自分とともに暗黒の未来へ続く道を歩むのではなく、どこか遠くで、本当の笑顔を取り戻して生き続けて欲しい。そのとき彼女の傍らに立ち、彼女を守る者は、自分でなくともかまいはしない。もし、彼女がしあわせであるならば。
 なぜ自分はこの軍を離れないのだろう、と、ベオウルフはふと思った。かつての自分なら、報奨金のかたをつけ、さっさと契約を白紙に戻していたに違いない。実際、今そう申し出たならば、シグルド公子は無理に引きとめようとはしないだろう。騎士たちの中には彼の不忠を悪しざまに言う者もいるだろうが、契約に対する義務感ならばともかく、忠誠心などもとより持ち合わせていない彼にとっては、そんな誹謗中傷など痛くも痒くもない。
 ラケシス、エルトシャン、そしてデルムッド。彼を今ここに留めているのはおそらくこの三人なのだ。
 守るべき愛しい女と、思いを遂げることなく散った友と、自分の息子。彼らに対し恥じるところのない、彼らが誇りとすることができる人間でありたい。その思いが、今の自分を動かしている。
(すっかり縛られちまったな……まるで主を持つ騎士のように)
 苦笑せずにはいられない。自由な傭兵とうそぶいていた自分が、ひとりの女とそのゆかりの者たちにこんなにも強くとらわれ、縛りつけられてしまうとは。おのれの命や欲望よりも、貴重に思う何かを見出すことになろうとは。
(だが、これはこれで気持ちのいい状態だってんだから、世の中わからないもんだ)
 束縛されることが何よりも嫌いだった。ひとところに止まって、澱んでしまうのが厭だった。だから定まった主を持つつもりはなかったし、一人の女に操をつくすなど考えもしなかった。金になる仕事を引き受け、気に入った女とその場限りの関係を楽しむ。それが彼の生き方だったはずなのに。
(たったひとりの……運命の女、か)
 そんなものは騎士道で頭のいかれた連中が話すたわごとだと思っていた。だが、彼はたしかにそう呼べる女と出会ってしまったようだ。ひとりの男の生き方と信念をがらりと変えてしまう女。剣を捧げ、命を捧げ、それでいてその代償を求めようとは思いもしない、たったひとりの女に。
(おまえと出会ったことは、俺にとって幸運だったのか、不運だったのか)
 漫然と平穏に生き抜くことが幸いなら、彼女は不運の使者でしかないだろう。しかし、短く苦痛に満ちた人生であっても、燃焼しきって生きることが幸いならば、彼女はおそらく幸運の女神。
 ベオウルフは思いのたけを込め、彼女を見つめた――


「ベオウルフ……?」
 横に並ぶ男の視線に気づいたのだろうか。ラケシスは顔を傾け、いぶかしげに問いかけた。
 ベオウルフは大きく息を吸い、言葉をつむぎだす。
「ラケシス、もし俺に何かあれば、レンスターに行ってくれ」
 ラケシスは大きく目を見開き、まじまじとベオウルフを見つめ返した。
「レンスターには、フィンと、キュアンの子がいる。彼らを助けてやってくれ……俺に代わって」
 ラケシスは一瞬、意味を把握しかねるような表情を浮かべた。ベオウルフにフィンやキュアンの子どもを助けるべき義理などない。なのに、なぜこんなことを言い出したのだろう。そう尋ねたいに違いない。だが、次の瞬間、ラケシスははじかれたように叫んだ。
「そんなことを言わないで! 行くときは……行くときはあなたも一緒です!」
 ベオウルフは無言で首を振り、言葉を継いだ。
「ラケシス、おまえにはすまなかったと思っている」
「どうして……」
「おまえの気持ちは知っていた」
 ラケシスの顔から、すっと表情が消えた。
(そう、おまえの気持ちは知っていた……)
 ラケシスが彼の言葉をどう捉えたかはわからない。だが、彼女は無言で彼を見つめている。
「元気でな。短い間だったが、楽しかったぜ」
 そんな言葉ではとても言い尽くせない。どれほど彼女を愛し、どれほど彼女に感謝し、どれほど――囚われているかは。だが、そのことに気づかないでいて欲しい。かりそめに情をかけ、弄んだのだと思われたほうがどれだけ楽か。それならば彼女はベオウルフとの絆に捉われることなく、立ち去ることができるだろう。今もかの地で彼女に思いを寄せているに違いない、あの男の許へ。
 ベオウルフは馬を反し、ラケシスから離れた。
「待って、ベオウルフ!」
 ラケシスが必死に呼び止める声が聞こえる。だが、ベオウルフは振り返らずに馬を進めた。
「待って、お願い……」
 ラケシスは無理やりに馬を走らせようとした。だが、砂漠の砂に足をすくわれ、ぐらりと上体が大きく揺れる。バランスを失い、ラケシスは馬から振り落とされそうになった。
「あっ……」
 ベオウルフは慌てて引き返すと、ラケシスの馬の手綱をつかんで体勢を引き戻す。
「バカやろう! なんて無茶をする」
「バカとは何よ!」
 間髪入れず、ラケシスが怒鳴り返す。
「バカなのは、どっちよ……」
 ベオウルフの胸をこぶしで叩きながら、涙交じりの声でラケシスはつぶやいた。
「あなたを……愛しているのに」
「……知っているさ、それも」
 ベオウルフはぼそりとつぶやいた。
「だけどな、おまえは行く。行かなくちゃならないんだ」
「ベオウルフ……?」
「覚えておいて欲しい。これは俺が望んだことだ。だからおまえは……おまえは堂々と行けばいい。レンスターへ。
 心のままに生きろ、ラケシス。それこそが俺の望みだ」
 ラケシスはじっとベオウルフの顔を見つめていた。だがやがて口を開き、云った。
「……死なないで、ベオウルフ。わたしを置いていかないで。そして一緒にいきましょう」
「ああ、そのつもりさ……」
 かなうことならばそうありたいと、ベオウルフは心の底から望んだ。この女とともに歩み続けること、それに勝る望みなど、実のところありはしない。
 だが、暗黒の予感は、抑えようもなく彼の胸を支配していた――

《fin》


written by S.Kirihara
last update: 2014/09/12
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