二次創作小説

我が子に祝福を


 パタン――
 背後の窓が、突然開け放たれた。
 緑の草の香を含んだ五月の風が室内に流れ込み、ラーナの黒髪をかるく乱す。
 シレジア王妃ラーナは検討中の書類から目を上げて、そっと背後を振り向いた。
「あらまあ」
 窓の外にはバルコニーがある。そこに緑の髪の若い男が立ち、ラーナの姿を見つめていた。
「ずいぶんと変わったご帰還ね。レヴィン」
「不用心ですよ、母上。外に面した窓を背後にして、見張りもつけずに机に向かうなど。背後から暗殺者に狙われでもしたらどうするんですか」
「その心配はないわ。この私の命を本気で奪いたいと思っている者など、このシレジアにはおりません。少なくとも今の時点では」
「しかし叔父上たちは……」
 ラーナはふふと軽く笑い、言った。
「ダッカーたちは、今すぐに争いごとを起こしたいとは思っていないでしょうね。シグルド公子の存在が、彼らの目算を狂わせました。力が拮抗していた以前ならともかく、現時点では私のほうがより強大な軍事力を手にしている。自軍を動かすにはまだ時機尚早、そう思っていることでしょう。でも、私の身に万が一のことがあれば、そのまま戦になだれ込むことになるかもしれない。今、私の身の安全を一番案じてくれているのは、存外ダッカーたちかもしれないわね」
 レヴィンは軽く眉をひそめ、応えた。
「相変わらずですね。……そんな優しげな顔で、なんとも物騒なことをおっしゃる」
「国を支え、守るというのはそういうものですから」
「……そうですね」
「それにして、意外なこともあること。あなたのほうから私を訪ねてくるなんて。私のほうからセイレーンを訪ねた時ですら、すすんでは顔を合わせようとしないくせに」
「たまには私にだって親孝行したくなるときがあるんです。それに、今日は『母の祝祭日』ですから」
「ああ、そうだったわね」
 『母の祝祭日』は、母親を讃える祭日である。日頃の感謝をこめ、今後の健康と幸福を祈り、母親に贈り物をする。贈るのは主に花束であるが、それ以外のものであってもかまわない。もとはグランベルの周辺に見受けられた風習で、シレジアではあまり馴染みのない祝い事だった。しかしグランベルの文化をより進歩的なものと見なし、これを積極的に取り入れようとする者たちにより、近年ではシレジアでも定着しつつある。
「これを……」
 そう言って、レヴィンは、背後から手のひらに乗るほどの小さな花束を取り出した。
 赤い八重咲きのカーネーションが三本に、緑の薄荷の小枝が三本。いずれも丈を短く揃えて束ねられ、ピンクのリボンで結わえられている。
「あら、かわいらしい」
「カーネーションは母への愛を、薄荷は美徳を意味しているのだそうです。同じようなものが街角でたくさん売られていましたよ。最近ではこんな商売も出てきているのですね」
「商売のタネが増えるのはいいことよ。このような場合には、グランベルかぶれも悪いものではないわね」
「どちらかと言えば、どこぞの目端の利く商人が、商機を増やしたくて、グランベルの風習をわざわざ広めようとしたのでしょう」
「そんなところでしょうね。でも、たとえ商売のためであっても、なかなかに気持ちのいい、幸せな風習だと思うの。私は好きよ。だってこうやってあなたが花を贈ってくれるのですから」
 ラーナはふんわりと微笑むと、花束に顔を寄せた。香辛料のクローブを思わせるカーネーションの甘やかな香りと、薄荷の清涼感のある香気が混ざり合い、花束はなんとも心地よい芳香を醸し出している。
「いい匂いね」
 照れ隠しだろうか。レヴィンはついと母から顔を背け、脇に視線を落とした。
「ありがとうレヴィン、とても嬉しいわ。……でも、私に花束を贈るためだけに、ここに来たわけではないわよね?」
 はっとしたような表情を浮かべ、レヴィンは面を上げた。
「……お気づきでしたか」
「あなたがどれほどこの城に戻りたくないと思っているかは、わかっているつもり。こんなふうにバルコニーにいきなり姿を現したのだって、正面の入口から王子として入城するつもりがないからなのでしょう? 『母の祝祭日』の花束を贈るだけならば、他の者に託して済ませることもできたでしょうし。例えばノイッシュなら、よくシレジア城下までやって来るわ。今日だって彼も来ているのではなくて?」
「よくおわかりですね。たしかにシレジアの城下までは、あの男と来ました。彼はフラビアンの館へ行っています。身重で遠出ができないフュリーに代わって、祝祭日の花束を届けるのだと」
 フラビアンはシレジア魔道士協会の長老の一人で、天馬騎士フュリーの父親である。今は亡き国王の私的な友人だったフラビアンは、一貫してレヴィン王子支持の立場を崩さない。清廉で公明正大な人物で、世俗の権力にはやや疎いきらいがあるが、ラーナにとっては裏切りを怖れる必要のない、心からの信頼を寄せることができる人物だった。
「ノイッシュは相変わらず義理堅い人ね。フラビアンも喜んでいたわ。よい息子ができたって。最初は異国の人間に娘を嫁がせることに難色を示していたのだけれど」
「真面目な奴ですからね。フュリーができるだけ快適に過ごせるよう、自らすすんでシレジアに馴染もうとしているようです。最近ではシレジア語の聞き取りにもだいぶ慣れたらしく、あいつの前ではうかつにシレジア語で悪態をつくこともできません」
 シグルドに仕えるシアルフィの騎士ノイッシュは、ラーナの目から見ても好ましい青年だった。
 先年の夏の終わり、アグストリアでの戦いが始まる直前に、彼とフュリーが婚約を望んでいるという書簡がシレジアに送られてきた。
 これは政略的な企てではないか。当初、ラーナはそんな疑惑を抱いていた。
 ノイッシュはシグルドの片腕で、フュリーは王子派の中核を担う有力者の娘だ。家格の釣り合いも取れている。シアルフィ公子シグルドはシレジアと結ぶことを望み、きわめて政治的な意図から、この婚姻を推し進めようとしているのではないか。
 外交使節としてグランベルを訪ねたことのある者が、ノイッシュの兄アンリを見知っていたことも、この疑惑を深める要因となった。シアルフィの有力貴族であるウシュナハ卿の嫡男アンリは、見目よく礼儀正しい優れた騎士として知られており、有能かつ怜悧で、情を抑え理性的にふるまう人物と評されていた。もし弟もその兄と同じような人物であるならば、おのが心に満ち来る愛情ゆえにではなく、主君の政治的な目的を叶えるために、耳触りのよい言葉で愛を語り、恋に慣れない純情な天馬騎士を篭絡したのではないか。
 だが、本人たちの手紙に加え、レヴィンがしたためた書状が添えられていたことによって、この申し出はあくまでごく個人的な思慕の情に基づくものだと、ラーナは結論付けたのだった。
 フュリーが政略の道具として使われることを、あのレヴィンが望むはずがない。レヴィンは政治的な嘘を嫌っている。それに何よりも、フュリーに対し、兄妹のような、あるいはそれ以上かもしれない愛情を抱いていたはずだ。
 運命の転変により、シグルド公子の勢力はシレジアに落ち延び、シアルフィ公子シグルドと彼を取り巻く人々を、ラーナは直接に知るようになった。そして、実際にノイッシュと対面することによって、フュリーの婚姻は純然たる愛情によるものであったのだと得心した。
 ノイッシュは噂に聞くその兄とはだいぶ違う人物のようだった。見目よく礼儀正しいところは兄と似ているようだが、有能かつ怜悧というよりは、誠実で生真面目で偽りの抱けない人物という印象を受けた。何よりも、彼がフュリーに対していかなる想いを抱いているかは、その挙措、そのまなざしから無意識のうちに溢れ出していた。そしてフュリーのほうでも、それは同じだった。
 彼と彼女は、本質的な部分でよく似ているのだろう。その生真面目さも、そのきめ細やかで深い情のあり方も。実の娘のように慈しみ、目をかけていた天馬騎士は、異郷の地で、似合いの一対と呼ぶべき伴侶を見つけ出したのだ。輝くような喜びに包まれ、瞳を見交わす若者たちの姿は、ラーナには眩くすらあった。
「実のところ、フュリーには、レヴィン、あなたのお嫁さんになってもらいたかったのよ。でも、フュリーにとっては、今のほうがよかったのかもしれない。うちのぼんくら息子などより、よほど立派でまともな男性と一緒になったようだから」
「ぼんくらとはひどいですよ、母上」
「あら、否定できるのかしら。勝手に家出して、二年間も音信不通、行方が知れた後もいっこうに我が家には戻ってこなかった親不孝者のくせに」
「それは……」
「そんなあなたがこうして私を訪ねてきてくれた。大切な用事があるのでしょう?」
「報告と、それに絡んだお願いがあるのです」
 本当は最初から気づいていた。今日、レヴィンが訪ねてきたのは、重要な報告があるからに違いない。
 『その事実』を知って以来、この数ヶ月間、ラーナは今日という日が来るのを、ずっと心待ちにしていたのだから。
「生まれたのね。男の子、それとも女の子? 赤ちゃんは……いえ、赤ちゃんとシルヴィアは元気かしら」
「……すっかりお見通しというわけですか」
「大切な孫の出産予定日くらい、私だってしっかり覚えていますよ」
「四日前、子供が産まれました。女の子です。母子ともに元気です」
「女の子なのね。かわいいでしょうね」
「どう……でしょうか。本当にちっちゃくてしわくちゃで、ぐんにゃりしていて頼りなくて。どう言えばいいんだろうか、その……」
 レヴィンは当惑し、考え込んでいるような表情を浮かべ、彼らしくもなく不器用に言葉を連ねる。
「かわいいには違いないのです。あんなに小さいのに、鼻とか口とか、ちゃんと人間のものが揃っていて。それで、全部まるごとちっちゃいくせに、手足の爪なんかも完璧な形をしていて。なんと言うのか……とても不思議な感じです。でも、かわいいと思うのは私が親だからであって、よそから見てもやっぱりかわいいのかどうかなどは、どうもよくわからなくて」
「あらあら」
 いつもなら、軽薄とも思えるほど器用に言葉を操る息子が、迷い、とまどいながら、つたない言葉を連ねている。その言葉に満ち溢れる喜びの気配に、ラーナは思わず顔をほころばせていた。
「いつまでも育ちきらない困った息子だと思っていたけれども、あなたも一人前に親らしい思いを抱くようになったのね。シルヴィアに感謝しないと」
 シルヴィア。彼女の息子が愛するようになった漂泊の踊り子。レヴィンの子を宿し、その母となった女性。
 最初彼女を見たときには驚いた。あけすけで、蓮っ葉で、軽佻浮薄な商売女。うかつにもそう思い込みかけた。そういう類の女が息子に近づき、その心を奪い去ったのかと思うと、怒りを抑えることができなかった。
 だが、彼女と言葉を交わし、落ち着いて見つめなおすことによって、自分の目が偏見によって曇らされていたことに気づいたのだった。
 彼女は最初の印象ほどには軽い娘ではなかった。育ちが育ちなので、たしかに教養はない。だがその言葉には深い洞察と他者への共感があった。彼女の陽気さは浮わついた軽さではなく、闇と悲しみを知りながら、なお光を求め、喜びに向かおうとする強さなのだ。その天与の向日性と、まっすぐに本質を見抜く生得の知性は、好ましくも貴重な資質に思えた。息子は愚かにも騙されたのではない。泥の中に沈んでいた真珠を正しく見出したのだ。心ひそかにそう思いさえした。
「母上は、シルヴィアのことを……」
「あの子自身は好きよ。いい娘さんだと思っている。あなたがなぜ魅かれたのかも、よくわかるような気がする。でも……」
 囁くような声で、ラーナは告げる。
「……シレジアの民は彼女を受け入れはしないでしょう」
「……シルヴィアは、妃になるつもりはないと言っています」
「ええ」
「未来の王妃、そんなものになりたくて一緒になったのではない。ただ傍にいたい、ともに時を過ごしたい、それだけが自分の願いなのだと。自分は立派な王妃になんてなれない、だから、私が他の女性を正妻に迎えても仕方ない。むしろ迎えるべきなのだ。そんなことすら言うのです」
「……賢い人ね、彼女は」
 シルヴィアの想いにラーナは共感を覚えた。愛してやまない存在を他の女に与えるなど、どれほど耐え難いことだろう。だが、どんなにつらかろうと、愛する者を守りたいならば、耐えねばならないことがある。
 祖国を守り、その血脈を守るために、シレジアの王子は妻を得なければならない。そして王子の妻にふさわしい者としてシレジアの民が求めているのは、美しく賢く気品を具えたシレジアの女人だろう。明るくかわいらしい異国の踊り子などでは、決してないはずだ。
「レヴィン、シレジアは排他的な国です。北の果ての閉ざされた土地は、同質のものを尊び、守り続けてきました。そんなシレジアの人々が、ただ愛のみしか持たない庶民の娘を、いえ、肌をさらけ出して踊ることを生業としてきた何者とも知れぬ異邦人の娘を、果たして王子の妻として受け入れてくれるかしら」
「母上……」
「あなたがこの国を嫌い、疎ましく思う理由のひとつは、この国の人々が他ならぬこの私を、必ずしも受け入れてきたわけではなかったから。そうなのではなくて?」
 ラーナは自分のつややかな黒髪をひとつまみ持ち上げると、そっと呟いた。
「もし、私の髪が黒くなければ」
 聞こえるか聞こえないかの、小さな呟きだった。だがレヴィンはぎょっとして表情をこわばらせた。
「私の髪がシレジア人らしい緑色だったならば、たとえあなたが多少ふらふらしていても、ダッカーたちは付け入る隙を見つけることなどできなかったかもしれない。でも、私の髪は黒い。その色は私の中にわずかに流れるイザークの血筋を、人々の眼前にあらわにしている」
 自分の髪の色を、何度呪ったことだろう。そして、息子に自分の髪の色が伝わらなかったことに、どれほど安堵したことだろう。
 夫はラーナの髪を美しいと褒め、幾度となく愛でてくれた。閨のつれづれに、彼女の長い黒髪を手の中に掬い上げ、さも愛おしそうに口づけする。それがどれほどラーナを励まし、慰めていたかなど、おそらく彼は知らなかっただろう。知らないまま、この世を去っていったはずだ。
 シレジアとイザークは隣接している。イザークの民がシレジアに移り住み、血を交えるのは、しばしば起こっていることだ。イザーク人の特徴とされる黒や茶色といった濃い色の髪を持つ者は、庶民の間ではそう珍しいものではない。
 イザークは十二聖戦士のひとりであるオードによって開かれたにも関わらず、蛮族の国家と見なされている。それは、イザークが地理的に辺境に位置するとともに、そこに住まう人々が民族的にやや異なっているからだ。黒い髪と黒い眼を持つ、敏捷で小柄なイザークの民は、独自の文化と剣技を誇っている。彼らは大陸の中央に住まうグランベルやアグストリアの民から見れば、どこか異質な異民族であった。そしてシレジアでもまた、統治の中枢を担う貴族たちは、自分たちをグランベルに近い民と見なし、イザークの民を一段低いものとして扱っていた。
「十六分の一よ、私のなかのイザークの血は。曽祖母の代まで遡って、ようやくたどり着く異民族の血脈。私はシレジアで生まれ、シレジアで育った。イザークのことなど、他のシレジア人が知るのと同程度にしか知らない。でも、そんな私であっても、異邦人のように見なす人々がいる。この国はそんな国なのよ」
「でも、母上は民に愛されています。市井の人々の間では、母上の悪口を聞いたことなどありません」
「ええ、そうかもしれない。素朴な心を持つ人々は、あなたの父上への愛ゆえに、私を受け容れ、賛美してくれることすらある。でも、古くから続く家系を誇る貴族の中には、決して私を愛さない人々がいる」
「私は王子などに生まれたくなかった。優しく賢い母を、ただわずかに異民族の血を引いているという理由で、そねむ人々を同胞などと呼びたくなかった。心から求める人をただ心のままに愛し、ともに在りたいと望むことすら許さない、そんな処になど生まれたくはなかった」
「レヴィン……」
「すみません。こんなこと、口にすべきではないのに」
「……そうね。でも、それは素直で当然の気持ちだと思うわ。表だって口にするのは憚られるものではあるけれど」
 自分はレヴィンを甘やかしすぎてしまったのだろうか。
 レヴィンはいたずら好きで自由奔放だ。興味の赴くままにいろいろなものに目を向け、ひとつのところに留まることがない。
 ラーナは不安に思っている。レヴィンは気まぐれで自分勝手で、我慢のきかないところがある。一国を担う者となるには安定に欠けた、信頼しがたい人物として、人々の目に映るのではないか。
 しかし同時に、レヴィンのそんな気質を愛してもいた。レヴィンはおのれの心に忠実で、いつわりを嫌う。その言葉は軽妙な明るさで満たされ、重く沈んだ心にも喜びと笑いを運んでくる。鋭い舌鋒は虚飾をはぎとり、あられもない真実をむき出しにする。暗雲を吹き飛ばす疾風のように、彼は捉えどころがなく、軽やかで、自由で、残酷で、それでいて優しい。
「あなたは優しい子よ。優しい、風の申し子。風は気ままで、ひとつのところに長く留め置けるものではない。風の性を持つあなたを束縛しようとすることにこそ、本当は無理があるのでしょう。それでも、私たちはあなたに頼らざるを得ない。求めざるを得ない。私たちを守ってくれと。ここに留まり、守りとおしてくれと。あなたには……力があるから」
「力……ですか」
「……ええ」
「三年前、シレジアを出たばかりの頃だったら、そんな言葉にはただ反感しか覚えなかったでしょう。変わった魔道書がちょっとばかり使えるというようなくだらない理由で、未熟で無責任な馬鹿者が王位を継ぐ。なんと愚かなことなのか。そう、うそぶいたことでしょう。
 でも、名もなき吟遊詩人としてさすらい、シグルド公子のもとでアグストリアの戦争に加わって知りました。誰だって死にたくなんかない。空腹はつらい。戦争は恐ろしい。だから、そんなものから守ってくれる存在こそが、民にとっての英雄なのだと。正義なのだと。血統の正しさも、大義名分も、切実に守護を必要としている民草にとっては、本当のところ、どうだっていいものに過ぎないのだと。
 侵略者と呼んでも差し支えない存在だったはずなのに、アグストリアの民はシグルド公子を、いえ、シグルド公子を表看板に掲げたグランベルの支配を歓迎しました。アグストリアの諸侯は盗賊まがいの行為で民の財をかすめ取りましたが、シグルド公子は必要以上にはむさぼろうとしなかったから。いったん戦いが収まった後は、治安を回復し、日々の平和を守ろうとしていたから」
 ああ、この子はちゃんと育っていたのだ。シレジアを出てからのさすらいの日々は、決して無駄ではなかったのだ。
 三年前、レヴィンがシレジアを出奔した時、ラーナは怒り、落胆していた。
 息子はわかっていない。彼がシレジアを黙って立ち去っても、事態は決して解決などしない。ダッカーやマイオスや、彼らに従う旧い貴族たちがいかに熱弁を振るおうとも、フォルセティという明らかすぎる“力”を受け継ぐ存在である以上、庶民は王子レヴィンをこそ求める。なぜレヴィンにはそれがわからないのか。
 だが、ラーナは息子の思いを理解し、納得してもいた。
 シレジアは狭く、澱んでいる。大空を渡る翼を持って生まれた鳥が、遙か彼方へ飛び立たずにはいられないように、レヴィンもまた、広い世界に憧れ、漂泊を求めてやまなかったのではないか。
 三年の年月を経て帰国した彼は、相変わらず自由を求め、束縛を嫌っている。だが、その内面には何らかの変化が兆していた。
 彼はただびととしてさすらい、飢えを知った。戦いに赴き、命の危機にその身をさらした。愛するものを得て、今、人の子の親となった。平穏な日々の尊さを、守りたい・守られたいという素朴な願いの切実さを、身をもって知ったのではなかろうか。
「平和を守るためには力が必要です。そして、十二戦士の血脈は、戦場において、とてもわかりやすい“力”となる。先の戦で、神器と呼ばれる武器が振るわれるのを目にしました。地槍ゲイボルグ、聖弓イチイバル、そして魔剣ミストルティン」
 彼は身近に触れ、知ったのだろう。十二聖戦士の血脈が、ただの伝説などではないことを。その力は強大にして無比。容易に畏怖の対象となり得る、あまりにも明らかな、権威の象徴。
「神器はまさしく“力”そのものでした。実感したのです。あの力があるからこそ、民は血統の正しさを求め、王家に期待の目を向けるのだと。そして私は――私もまた、力を継ぐ者なのだと。自らが望もうが望まなかろうが、そんなことにはおかまいなく。
 だけど聖戦士の血筋なんて、聖痕なんて、むしろ呪いのようなものです。わかりやすい、いや、わかりやすすぎる力だからこそ、人は求め、従おうとする。それを担う者が従うにふさわしい者であるかどうかなど、よく考えもせずに。
 母上、私はこわいのです。
 神器は、たしかに大いなる力です。だが、強大すぎて、人の手には余るものなのではないか、そんな風に思うようになりました。世界を守り、導くための力。でもそれは同時に、世界を乱し、破壊するための力ともなり得ます。
 私はちっぽけで、くだらない人間です。大きすぎる力におののき、たじろがずにはいられない、平凡な人間です。なのに、私の子供も、私と同じように、否応なく聖戦士の血脈に組み込まれている。
 あの小さな赤ん坊もまた、いつの日か、聖戦士の血脈ゆえに、苦しみ惑うかもしれない。今の私と同じように。だとしたら何という呪いを、私は愛しいものに引き継がせることになるのでしょう」
 聖戦士の血脈はむしろ呪いである――
 それは異端に近い考えだ。決して余人に聞かせられるものではない。だが、その言葉はラーナの胸にすんなりと納まった。
 ああ、そうだ。聖戦士の血脈に嫁ぎ、母となった女は、自分の子供に聖痕があらわれるのを心待ちにするとともに懼れる。神器の担い手を産むことは彼女らの義務だ。だが、我が子に与えられるであろう宿命を思えば、それは決して手放しで喜べるようなものではない。
「だから母上、母上の祝福がいただきたいのです。私とシルヴィアの小さな赤ん坊の名前を選び、彼女に祝福を授けてやってほしいのです」
 生まれてきた子供に、その祖父母や聖職者、あるいは両親の主君にあたる者が祝福を与える。それはシレジアでごく普通に行われている風習だ。地位ある年長者が祝福を与えることにより、赤子は望まれてこの世に生を享けた存在であると証明され、庇護を約束されることになる。
「虫のいい話だということはわかっています。シルヴィアは正式な妻ではない。その子供はあくまで私生児です。シレジア王妃の祝福は、嫡出子にこそ与えられるべきもの、そう思われていることでしょう。私はシルヴィア以外の女性を愛するつもりはないけれど、シルヴィアは決してシレジア王妃になろうとはしない。だから私の子供は、私生児にしかなり得ない。
 正嫡だの庶出だのは、所詮人間が作り出した枠組です。ですが血筋は、そんな枠組などに関わりなく受け継がれていきます。私の子供は多くの祝福を必要とする運命に生まれついたのに、私の身勝手のせいで、十分な守りを与えられることなく生きていくことになるかもしれない。だから母上、せめてあなたにお願いしたいのです」
「もともとそのつもりでしたよ」
 緊張した面持ちで、息をつめて母の顔を見つめている息子に、ラーナは優しく微笑みかけた。
「もしあなたが望まなかったとしても、あなたの子供が、いえ、私の初孫が生まれたならば、能う限りの祝福を押しかけていってでも授けたい、ずっとそう思っていました。なのにあなたのほうから申し出てくれるなんて。名づけの権利まで与えてくれるなんて。これに勝る『母の祝祭日』の贈り物などありません。カーネーションの花束ももちろん嬉しかったけれど」
「母上……」
「マーニャたちと相談し、都合のつく吉日を選び出して、セイレーンを訪ねましょう。名づけは……本当に私でいいの? あなたたち自身が望んでいる名前はないの?」
「……ひとつ、望んでいる名前があります」
「あら、それならば、その名前をつければいいじゃない」
「それには母上のお許しが必要なのです。なぜならその名は、母上の名前に由来するものですから」
「私の名前に?」
「リーン。ラーナとその由来を同じくする名前です」
「アグストリア風の響きになるわね」
 ラーナは、愛と命を司る古き女神ラーンに由来する名前である。好まれて名づけられることの多い、かなり一般的な女性名だ。この名はそれぞれの国で、その形を少しずつ変えながら使われてきた。グランベルではラナ、シレジアではラーナ、アグストリアではリーンという形を取るのである。
「私とシルヴィアはアグストリアで出会いました。彼女の正確な出身地はわかりませんが、彼女に由来するものも持たせたいのです」
「リーン……そうね。いいかもしれない」
 シレジアで生きていくには少しばかり異国風の名だ。だが、アグストリアはシレジアの者たちがよい印象を抱いている文明国である。海を隔てた隣国として距離的にも近い。その言葉の響きは、シレジアの人々にとって、異国風ではあるものの、美しく、親しみやすく聞こえるだろう。
「母上、では……」
「私がセイレーンを訪れる時に命名式も行いましょうね。あなたの娘はリーンと名づけられ、祝福されることでしょう」
「ありがとうございます、母上」
 かつて若い母親だったラーナは、愛する人の息子を得て幸せだった。だが息子の手の甲にセティの聖痕が現われた日、さらなる喜びとともに、憂いと、おそれと、かなしみが、新たに彼女に襲い掛かった。そしてその不安な思いは、今に到るまで続いている。
 その息子も、今、新たに親となり、生まれたばかりの我が子の将来を思い、ひたすらにその幸福を祈っている。
 不思議な感慨を持って、ラーナは息子を見つめた。
 もし、この子という存在に恵まれなかったら、私の人生はさぞやつまらないものだったに違いない。
 愛しい息子。時として理解しがたく、不安の尽きない困った存在でありながら、彼の存在そのものがラーナにとっての喜びであり、幸福であり、祝福なのだ。


 我が子に祝福を。その行く手に大いなる幸あれかし。


 祈りの言葉は常にラーナの胸の中にある。
 そしてきっとレヴィンも、幼いリーンに対し、同じ祈りを抱いて、これからの人生を歩んでいくのだろう。


《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2015/05/13
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