光の翼
ブラギの塔の最上階で、エッダのクロードは呆然としていた。
(神よ。運命が変えられないというならば、なぜ、それを私にあらかじめ伝えようとするのですか。神ならぬ身には祈ることしかできないというのに)
アグストリアの北部に隠されるようにして立つブラギの塔は、エッダ教団の聖地である。
クロードがこの塔を訪れたのは、「謎」の答えを求めたからだった。
神秘的な啓示と現実的な推測、ふたつの側面から、クロードはある疑念を胸に抱くようになっていた。
ブラギの塔でブラギの末裔たるクロードが祈りを奉げたならば、もっと鮮明な託宣を得ることができるのではないか。そう期待して、すでに戦火の広がったアグストリアまで危険を顧みることなく足を運んだ。
だが、得られた答えは――あまりにも絶望的なものだった。
ブラギの神託――たしかにあれは真実なのだろう。
クロードは神託の真偽を疑っているわけではない。クロードが人としての知恵によって推測したものもまた、同じ方向を示している。
それでも、神託の内容は衝撃的なものだったのだ。
(ともかく、シグルド公子のところに戻らなければ)
なるべく早く、真実の一端をシグルドに伝えよう。
備えなくてはならない。絶望の未来はすぐそこまで来ている。運命を覆せるとは思わない。それでも、何もしないまま、このまま手をこまねいているわけにはいかない。クロード自身の運命もまた、シグルドのそれと分かちがたく結びついているのだから。
ふと窓の外を見やると、遠くに何か、ちらりと光るものが見えた。
(あれは……)
窓辺に寄り、遠方に目を凝らす。
光るものは鳥影とよく似ている。だが鳥よりももっと大きいのだということに、クロードは気づく。
(白く輝く……翼?)
鳥ではない。あれはペガサスだ。
そう気づくまでに、少し時間がかかった。
だが、光る翼の正体を悟ると同時に、クロードは塔を下る階段へと急ぐ。
「神父様」
外へと続く扉を開けると、フリージのティルテュが不安そうな表情で振り返った。
「お祈り、終わったんですよね」
「ええ」
「よかったあ。あたし、待ちくたびれちゃった」
「待たせてすみません。それよりもティルテュ、変わったことはありませんでしたか?」
「今のところはまだ。でも……えっ」
鳥の羽ばたきのような音が、ふたりの耳を打った。
羽ばたきの音とともに、地上に影が射し込む。
ティルテュは驚いたような声を洩らして振り返り、空を見上げた。
「ペガサス……?」
一頭のペガサスが今まさに、クロードとティルテュのいるところから十歩と離れていない地点に舞い降りようとしていた。
「エッダのクロード様ですね」
ペガサスの背から降り立った女騎士は、クロードにそう尋ねかけてきた。
「フュリーと申します。シグルド公子のお言葉に従い、お迎えにまいりました」
「シグルド殿の……やはりそうでしたか」
塔へと向かう前に、シアルフィのシグルド公子が言っていた。
――ブラギの塔は長く聖地として崇められてきた。だが、今はもう安全とはほど遠い場所となっている。付近の海域には海賊が巣食い、巡礼に訪れた旅人を襲うこともあるという。
アグストリアの戦乱が激化してからは、海賊の動きはさらに活発になっている。正直言って、ブラギの塔へ向かうのは勧められたものではない。クロードの身が案じられてならない。
情勢がより危険なものに変化した場合は、必ずクロードのもとへ人を遣わそう。
「急がなくてはなりません。上空から見ました。このあたりは海賊たちに囲まれようとしています。なるべく早く脱出して、シグルド様たちと合流しましょう」
フュリーの言葉に、ティルテュが息をのむ。
ティルテュの緊張を感じ取ったのだろうか。フュリーはふと表情を緩め、ティルテュに微笑みかけた。
「大丈夫です。力を尽くしてお守りいたします。おまかせください」
そう語るフュリーの表情は、一見、余裕に満ちたもののように見えた。
だが、クロードは気づく。
(ああ、この人は……)
精一杯気丈にふるまっている。だがその声は、その肩は、わずかではあるが震えている。
彼女もまた緊張し、恐れている。
それでも微笑みを浮かべ、クロードたちを安心させようとしているのか。
「フュリーさんとおっしゃいましたね」
クロードもまた、笑みを心がけながら口を開く。
「なるべく足手まといにならないようにがんばりますよ。ティルテュも私も」
はっとしたような表情を浮かべ、フュリーは言葉を返した。
「クロード様……そんな、足手まといだなんて」
クロードは静かに首を振り、言い添えた。
「私たちが戦いに慣れていないのは事実です。でも、がんばりますから。大丈夫ですよ、きっと」
フュリーによれば、シグルドは五日ほど前にシルベールを陥落させ、上級王シャガールを討ち取ったらしい。
それはすなわち、アグストリアの支配権が現在の王家から失われ、グランベルに移ったことを意味している。
ならず者はこういった権力の推移に敏感だ。シルベール陥落とともに、オーガヒルの海賊は各地への侵略を始めている。シグルドは海賊の動きを抑えるべく、マディノを経由してオーガヒルへと向かっている。
海賊の本拠地は、ブラギの塔の東に位置している。シグルドと最速で合流するにはまっすぐ東へ向かえばいい。そうフュリーは語った。
海賊の目をかいくぐりながら、一行は東へと向かう。
すでに何度か海賊の襲撃を受けている。そのたびにフュリーと、そしてティルテュが、敵を退けていた。
(なにか適当な魔法書と、もう少し小回りのきく杖を用意しておくべきでした)
戦いにおいては、クロードはほとんど役に立っていない。
ハイプリーストであるクロードは、魔道書の力を使って戦う訓練も積んでいる。だが、今は魔道書を持っていない。
クロードが携えているのはリザーブの杖と、そしてブラギの塔で見つけた聖杖バルキリー。どちらも大きな力を秘めた杖だが、こういった小競り合いで役立てられるようなものではない。
(望まざる戦いであっても、降りかかる火の粉は払わねばならないのに)
覚悟不徹底だった。クロードは内心で歯噛みする。
(せめて何か、私にも役立てることはあるだろうか)
正直情けなかった。
伝説の聖者のように、徒手空拳で荒くれ者に説法を垂れ、神の教えに帰依させる。そんな奇跡が使えたならば。だが現実はそうはいかない。
(今はただ、逃げきることを考えよう)
自己憐憫にひたっている暇はない。生きてシグルドと合流しなければ。
そう自分自身に言い聞かせて、クロードは前へと歩みを進めた。
「クロード様!」
合流を果たしたクロードのそばに、シグルドが騎乗したまま駆けつけてきた。
「ご無事でしたか。海賊が動き始めたと聞いて、心配していたのです」
「はい、ティルテュと、そしてフュリーさんのおかげでなんとか。それよりもシグルド殿、大切な話があるのです」
「ええ。ですが、まずは休憩なさってください。一刻を争う緊急の話ならば別ですが」
「そこまでではないかもしれません。しかし、なるべく急いだほうがいいでしょう」
「そうですか。ではすぐにうかがいましょうか」
そう答えてから、シグルドはクロードの背後に控えていたフュリーに視線を移した。
「すまなかったね、フュリー。こんな仕事を頼んでしまって。大変だったろう。レヴィンも心配している。早く会いに行ったほうがいい」
「ありがとうございます、シグルド様。さいわい、取り立てて言うほどの危険はありませんでした」
「そうか、ならいいのだけれど」
「はい。それではわたしはこれで」
フュリーは頭を下げると、いそいそと立ち去っていく。
(レヴィン……?)
どこかで聞いたことのある名前のような気がする。
フュリーの後ろ姿を見送りながら、クロードはふと思い当たる。
(たしかシレジアの王子の名前は、レヴィンと言ったはずだ)
思えば、シグルドのフュリーへの態度には、少しばかり気にかかる点があった。
シグルドは彼女に「命じて」はいない。「依頼して」いるように聞こえた。
(彼女はシグルド公子の部下ではないのだろうか)
そもそも、シレジアにしか存在していないはずのペガサスナイトがシグルドの軍に身を置いているのは、いかにも奇妙なことだ。
今までは目下の危険に気をとられていて、彼女の身元について深く考えたりはしなかったのだが。
(いや、詮索はあとでいい。今はシグルド公子と話をしなければ)
クロードは気持ちを切り替えて、目の前で待っているシグルドに視線を戻した。
クロードらが合流した翌日、シグルドは海賊の本拠地を陥落させ、オーガヒルの平定を果たした。
だが、時をおかずして、思いもよらない報せがもたらされた。
グランベル本国から大軍が押し寄せ、シグルドを反逆者として弾劾したのだ。
これこそが、クロードの恐れていた事態だった。
グランベルの中枢を掌握しているドズル公爵ランゴバルトとフリージ公爵レプトールがシグルドを反逆者に仕立て上げようとしていることを、クロードは察知していた。危険をおしてブラギの塔へ向かったのは、神の託宣によって、両公爵の陰謀を明らかにするためだった。
だが、陰謀の存在を知りながらも、結局クロードは間に合わなかった。
シグルドとクロードが動くよりも先に、ランゴバルトらは国王アズムールを籠絡し、軍を動かしたのだ。
シグルドは退路を断たれ、のっぴきならない状態に置かれた。
そんなシグルドに救いの手を差し伸べた者があった。
シレジア王妃ラーナがシグルドを保護することを申し出てきたのだ。
シグルドと彼を取り巻く人々はラーナ王妃の誘いに乗り、海を越えてシレジアへと亡命する。
クロードもシグルドとともにシレジアに逃れた。ランゴバルトらの策謀により、彼もまた、反逆者のひとりと呼ばれるようになっていたからだ。
こうしてシレジアでの亡命生活が始まった。
シグルドの一行がシレジアに到着したのは冬の初めだった。
北国シレジアの冬は厳しい。慣れない土地で最初に迎える季節がよりにもよってその厳しい冬であったことは、決してありがたいこととは言えなかった。
それでも、人は慣れるものである。
追われる者ゆえの不安にも。慣れない土地の厳しい気候にも。
シレジアで流れる時間は穏やかだった。
しんしんと降り積もった雪が外界のざわめきを吸い込んでしまうように、シグルドたちはこの雪深い土地で、ひとときの静穏を得ていた。
クロードの日常は、一見穏やかなものだった。
祈りと鍛錬を中心として、日々規則正しい生活を続けている。
だがその心の裡は決して穏やかなばかりではなかった。
あの日、ブラギの塔で授けられた神託は、いまだクロードの心に暗い影を投げかけている。
神託の内容は、おおむねシグルドに明かしてある。
だが、誰にも話すことなく、ただおのれの胸のみにしまい込んでいる部分があった。
――戦いは我々の敗北で終わるだろう。
戦いの終局で、ほとんどの者はその命を落とす。
子供たちの育つ姿を見ることもなく、我らは絶望のうちに世を去るのだ――
誰かに語るべきなのだろうか。
勝利を得ることなく、ただ未来への礎となるのみ。それが自分たちの運命なのだと。
だが、教えてどうなるというのだ。知ったところで、運命は変わらないというのに。
幼い頃からクロードは、ごくたまにではあるが、突如として白昼夢のようなものにとらわれることがあった。
それが何を意味しているのか、最初はわからなかった。
だが、回数を重ねるにつれ、クロードは知るようになる。
自分の視ているものは、まだ起こっていない未来の断片なのだ。
そういった幻視は神の啓示なのだと、エッダの司祭たちは説明した。ブラギの血を色濃く継ぐ者のみに授けられる、神より賜りし聖なる力なのだと。
それが本当なのか、実のところクロードにはわからない。
自分に与えられたものは「神」に由来するものなのか。それとも魔法と同じように、不可思議ではあっても全能ではない「定命のもの」の領域にあるものなのか。
幻視は気まぐれで制御不可能だ。突如として訪れ、クロードを翻弄し、混乱させる。
慣れるまでは、事実と白昼夢の区別すらあいまいだった。
まだ起こっていないことをまるで過去の出来事のように語る少年に、周囲の者はぎょっとさせられたものだった。
やがてクロードは、自分の幻視が予知と呼ぶべきものであることを知る。
未来の出来事をあらかじめ知ることができるならば、これを避け、あるいは改変することができるのではないか。誰しもが一度はそう考えるだろう。
だが、クロードは、それが不可能であることを次第に悟ってゆく。
幻視はあやふやで断片的だ。いつ、どこで起きることなのか、限定するのは難しい。
そして、たとえ限定できたとしても、やはり未来は変わらない。起こるはずだった出来事を回避しても、なぜか結果はやはり同じところに落ち着く。そういうものであるらしい。
未来を知ったところで運命は変わらない。
幼いころから何度となく、クロードはそのことを思い知らされてきた。
だが他の者たちはどうだろう。
もし運命を知ったなら、たとえ変わらないのだと言われても、変えようとしてもがくのだろうか。
もがき、苦しみ、だがその先にあるものは、どうあがいても変えられないのだという、絶望。
――神よ、善き道をお示しください。希望を絶やさないでください。
その祈りの向かう先にあるのが本当に「神」なのか、実のところクロードには自信がない。
――もしかしたら自分は、ただおのれの心の平穏を得るために祈りを利用しているだけなのかもしれない。
エッダ家の当主は、エッダ教団に対し、大きな影響力を持つ。加えてクロードはエッダ教団の高司祭でもある。
清らかで敬虔な、神に近い存在。エッダ教を奉じる人々にとって、クロードはそう映っているはずだ。だがクロード本人は、常に神に対する「疑い」をも、胸の裡に秘めていた。
それでも、すべての思いを飲み込んで、クロードはただ祈る。
そして時々おのれ自身に問いかける。
自分は弱いのだろうか。ずるいのだろうか。
自分の迷いや疑いを、誰かと分かち合いたい。そう思うのは間違っているのだろうか。
そしてもうひとつ、クロードを悩ませているものがあった。
「おはようございます、クロード様」
「おはようございます、フュリーさん」
朝の祈りを終えて礼拝堂から戻るクロードは、朝の鍛錬から戻ってきたばかりのフュリーと廊下ですれ違い、挨拶を交わす。
それは朝の恒例行事のようなものだった。
クロードは規則正しい日々を送っている。だが実は、クロードの日課の多くは、こっそりとフュリーの日課にすり合わせてある。
最初は偶然だった。しかしクロードは少しずつ、偶然を必然にすり替えていった。
一緒に何かをするといったことはない。すれ違い、顔を合わせ、挨拶を交わす。ただそれだけだ。
だが、ただそれだけのことが、なぜかとても貴重で幸福なもののようにクロードには思える。
自分の心の動きが何を意味しているのかわからないほど、クロードは幼くはない。
これは人が恋と呼ぶものだ。
けれども、クロードはみずからの思いを成就させることは諦めていた。いや、諦めようとしていた。
フュリーが誰を求めているのか、クロードは気づいている。
彼女の瞳が追いかけているのは、シレジアの王子レヴィンだ。
だが彼女は、自分の気持ちを表に出そうとはしない。
臆病なのか、自信がないのか、それとも、やさしすぎるのか。
人によって捉え方はさまざまだろう。
クロードは思う。
彼女は相手を慮ることに心を砕きすぎて、自分の望みを叶えることは二の次になっているのだ。
彼女にしあわせになってほしい。クロードはひたすらそう願っている。
遠くない未来、シグルドは敗北する。できることならその運命にフュリーを巻き込みたくない。
時折、彼女を含んだ幻視が浮かび来ることがある。
――緑の髪の赤ん坊を胸に抱き、微笑んでいるフュリー。その表情はやすらかで、喜びに満ちている。
きっとこれは、彼女自身の子供なのだ。
赤ん坊の父親の姿は見当たらない。赤ん坊の髪は彼女のものと同じ色をしている。髪の色から父親を割り出すのは難しい。
場面が移り変わる。
空が燃えている。
赤く染まった空から、魔法の隕石が次から次へと降り注いでくる。
剣戟の音。軍馬のいななき。折り重なる屍。
幾度となく訪れている幻視だ。
いつ起こる出来事なのかまではわからない。だが、どこで起こることなのかはわかっている。
目の前にそびえる城は、かつて慣れ親しんだ場所だった。
王都バーハラの城門前の広場。閲兵式や凱旋式の場として知られていたそこは、今や戦場と――いや、殺戮の場と化している。
ふと空を見上げると、彼方に光る小さな影がある。
紅蓮の空にただひとつ、くっきりと輝く、白い翼。
それが何であるか、いや、誰であるか、疑うはずもない。
(いけない。あなたはここにいてはならないのに)
彼女があの殺戮の場に居合わすことのない運命。それこそがクロードの望むものだ。
自分やシグルドはしかたない。これは自分の運命であり、シグルドの運命なのだから。
だが、彼女は。
フュリーはシレジアの人間だ。グランベルの人間ではない。
シレジアに残れば、彼女は生き延びられるかもしれない。生き延び、しあわせをつかむかもしれない。
だがシグルドと、いや自分とともに歩めば、彼女の未来もまた闇に沈むだろう。それはあってはならないことだ。
だから彼女には触れるまい。近づくまい。
シレジアの大地で、シレジアの人々と共に平穏に生きる。それこそが彼女の運命であるべきなのだから。
そう思っているはずなのに、クロードは心のどこかで願ってしまう。
もし彼女が気づいてくれるならば。応えてくれるならば。
クロードは今日も日課を崩さない。
すれ違い、挨拶を交わし、そしてその姿を見送る。
そんな毎日を繰り返しながら、時間は緩やかに流れていった。
春分を過ぎると、シレジアでも雪解けが始まる。
寒さは変わらず続いているが、陽光はどこか明るく、まだ深い雪を割って早春の花が顔をのぞかせ始めている。
セイレーン郊外の山道で雪崩が起きたという報せがシグルドのもとにもたらされた。
シグルドは山道の復旧を命じると共に、孤立した山間の村を支援するよう指示を下した。
陸路は閉ざされているが、ペガサスならば空を往くことができる。フュリーに率いられたペガサスの一部隊が、救援の物資を空から運び込むこととなった。
司祭にして癒し手であるクロードもまた、ペガサス部隊に同行して、山間の村へと向かった。
小さな村だった。
森の開けた場所に、十軒足らずの小さな家が寄り添いあうように建っている。
空から舞い降りたペガサスたちを、村人たちは伏し拝まんばかりに迎え入れた。
さいわい、雪崩に巻き込まれて怪我をした者はなかった。ただ、長く続く冬で栄養不足に陥って衰弱している者や、体調を崩している者も少なくなかった。
クロードには薬師の心得もある。不調を訴える村人を診察して、必要に応じて薬を処方していった。
「これをどうぞ。クロード様」
村人の診察をあらかた終え、ひと休みしているときだった。
「フュリーさん?」
「村長さんの奥様からです」
そう言って、フュリーはテーブルに湯気の立ったマグをふたつ並べる。
「これは……?」
「林檎のシロップを香草茶で割ったものです。このあたりではよく飲まれているんですよ」
そう言って、フュリーは椅子に腰を下ろし、自分に近いほうのマグを手に取った。
「なるほど」
クロードもまたマグを取り上げ、口元に寄せる。
飲み物を口に含むと、ふっと体が温まる。同時に、自分がいかに冷え込み、疲れていたのかということにも気づかされた。
「林檎と蜂蜜と……薄荷にカミツレ、それと生姜、でしょうか。温まりますね」
「でしょう? ちょっとお薬みたいな感じもするんですけど、懐かしい味なんです」
そう言ってフュリーは頬を緩めた。
柔らかい表情だ。なのに、どこか陰りがあるようにクロードは感じた。
見れば目の下にはくまが浮かび上がっている。顔色もよくない。かなり疲れているのだろう。
ペガサスナイトを率い、村人たちの救援を行っていたのだ。疲れていないはずがない。だが、単なる疲労以上の何かを、クロードはその表情から感じ取っていた。
「ありがとうございます、クロード様。こんな人の行き来の少ない村でしょう。みんな、とても不安だったのです。ただ物を届けるだけではなく、クロード様が一緒に来て、村の方たちを診てくださって、ほんとうにありがたいと思っています」
「感謝すべき相手は、シグルド公子であり、ラーナ様です。シグルド公子が提案し、ラーナ王妃が物資や人員をお貸しくださったからこそ、こうやってここに来ることができたのです」
「それでも、実際に足を運んでくださったのはクロード様なのですから」
「それを言うなら、フュリーさん、あなたこそ」
「わたしはシレジアに仕える騎士です。騎士として、祖国の人々のために働くのは当然のことですから」
「同じことですよ。自分の持てる力を、自分の職分に応じて使う。それだけのことです」
(きれいごとを並べたてるものだ。我ながらあきれてしまう)
山間の村に救援の手を差し延べたのは、そうすることによって地元の民が少しでもシグルドに懐けばいいと判断したからだ。
シグルドの一行は、シレジアにとってはよそ者、やっかいものだ。好意的に受け入れてもらうためには、心してよい印象を与えなければならない。
そしてクロード自身がこの村に来たのは――救援部隊を率いていたのがフュリーだったからに他ならない。
彼女のそばにいたかったのだ。彼女の姿を見ているのが嬉しくて、彼女の役に立ちたくて。
それに何より、彼女のことが心配でならなかったから。
「お疲れなのではありませんか、フュリーさん」
「え……」
「顔色があまりよくありません」
「そう……でしょうか」
「近頃ずっと、あまり元気がないように見えます」
「いえ、そんなことは」
「ちゃんと休んでおられますか。寝苦しいとか、そういったことは」
そう問いかけると、フュリーははっと顔をこわばらせ、目を伏せた。
「……そうですね。すこし、寝つきが悪いかもしれません」
「ええ」
(あなたを悩ませているのは、レヴィン王子なのでしょう?)
そう問いかけたい衝動を、クロードはぐっと抑え込む。
クロードは司祭として、人々から相談を受けることが多い。単に聖職者だというだけではなく、どこかじっくりと親身に話を聞いてくれそうな印象があるのだろう。心の悩みをクロードに明かす人間は少なくない。
だから、クロードは知っている。
レヴィンは今、恋をしている。
どういう巡りあわせでそうなったのかはわからない。だが、クロードがバーハラから連れてきた娘とシレジアの王子は、この冬の間に互いを想い合うようになっていた。
ティルテュの父親であるフリージ公爵レプトールは、シグルドと対立関係にある。シグルドを保護しているシレジア王妃ラーナにとって、フリージ家の人間は対応の難しい相手だ。気軽に婚姻関係を結べるような対象ではない。王子レヴィンと公女ティルテュの恋は、シレジアにとって決して望ましいものではないだろう。
シレジアにとって、だけではない。
個人としてのフュリーにとって、レヴィンが他の女性とそういった間柄になることは、つらくないはずがない。
「ときどき思うのです。わたしがもっと強くあればよかったのではないかと。レヴィン様と再会してすぐに、レヴィン様をシレジアに連れ戻すことができていれば。わたしの甘さが、今のシレジアの状況を招いたのかもしれない……」
「ですが、その場合、シグルド公子がシレジアに逃れることはなかったでしょう。逃れる先もなく、アグストリアで敵方の手に落ちていたことでしょう」
「クロード様?」
「起こらなかったこと、起こせなかったことを悔やんでもしかたありません。むしろフュリーさん、あなたと王子がシグルド公子のもとにいたからこそ、我々はシレジアに来ることができたのです。シレジアにとっては、それは不幸な出来事だったのかもしれませんが」
「いいえ。いいえ、そんなつもりでは」
「何が正しくて、何が間違っているかなど、ひとりの人間に見通せるものではありません。我々にできることは、最善と思える道を、ただ誠実に選び取ることだけです」
おのれの言葉に、クロードははっとする。
何が正しくて何が間違っているかなど、神ならぬ身に見通せるわけがない。
ならば、破滅の運命に巻き込むまいとして彼女から遠ざかろうとすることも、また無意味なのではないか。
「でも……」
「誠実に、というのは難しいものですね。私たちには常に我欲がある。どこまでも自分勝手で、おのれ自身の都合に左右されてしまう。それでも私は信じています。いえ、信じたいのです。人の幸福を願ってなした行為が、悪しきものであろうはずがないと。
フュリーさん、あなたはいつだって、そばにいる人々の幸せを願っている。それを甘さと呼ぶ人もいるかもしれない。でも、違うのです。それはやさしさであり、そのやさしさによって、多くのものが救われている」
「そう……なのでしょうか」
「たとえば、この村のことでもそうでしょう? 民を助けるのはシレジアの騎士としての義務、そうあなたはおっしゃる。でも、義務というならば、もっとおざなりに、ただ物資を運ぶだけでも十分なはずです。心を砕き、ひとりひとりに丁寧に応対する。それは、あなたならではの行動です。あなたのやさしさを、あなた自身が否定しないでください」
フュリーは無言のままクロードを見つめていたが、その瞳から涙があふれ、頬をつたって流れ落ちた。
「あ……」
フュリーは恥じたように顔を伏せ、マグを左手に持ち替えると、空いた右手でそっと涙をぬぐう。
「すみません。恥ずかしいところを」
「いえ。恥ずかしいことなど何も」
「昔からよく言われました。泣き虫フュリーって。こらえ性がないんですよね」
おどけたような調子でそう言うと、フュリーは顔をあげ、笑みを浮かべた。
無理やり作り出した、はにかんだような泣き笑いの表情。
その表情が、クロードの胸を締めつける。
「無理を、しないでください」
思わず、クロードは口走っていた。
「私はあなたに泣いてほしくない。あなたに笑っていてほしい。でも、無理に笑おうとはしないでください。泣いたって、いいんです。泣きたいときには」
(どうして、この人はこんなに)
もう、自分を抑えられそうもなかった。
クロードは立ち上がると、手にしていたマグをテーブルの上に置いた。そして、向かい合って座るフュリーのそばに歩み寄り、その頬をそっと自分の手で覆い、ささやくように言った。
「あなたが、好きです。だから、あなたには、あなた自身を大切にしてほしい」
目を見開いて、フュリーはクロードを見つめ返す。
「クロード様?」
「あなたの負担になるようなことは求めません。ただ、知っていてください。あなたがしあわせであることが、私にとっての喜びなのだということを」
(こんなことを言われて負担にならないはずがない。そんなことはわかっている。これは私のわがままだ)
驚いたような表情で、フュリーはクロードを見上げている。
その表情にあるのはただ驚きばかりで――嫌悪や否定はうかがえない。
やがて驚きの表情は、はにかんだような笑みへとゆっくりと移り変わってゆく。
「クロード様、わたしは……」
考え込みながら、フュリーは言葉を発した。
「嬉しい、のです。とても。でも、どうお答えしていいのかわかりません」
「見返りを求めているわけではありません。ただ、知っていただきたかっただけなのですから」
その言葉に含まれている偽りを、クロードは自覚している。
見返りを求めない。負担になりたくはない。それ自体は偽りのない本心だ。
だが、好意を告白するという行動そのものが、相手に返答を迫るものとなるだろう。
「待っていただいても、よろしいですか」
「ええ、もちろん」
「わからないのです。とてもうれしくて、温かい気持ちがして。それは確かなのですけれど、今感じているこの気持ちがどういったものなのか、わたしにはまだ」
「私の思いは変わりません。ですから、答えを急がないでください」
「はい……」
本当は答えが欲しくてたまらない。目の前にいる彼女を、逸る思いのままにただ抱きしめてしまいたい。
自分の中にあふれ来る衝動に半ばあきれながら、クロードはそっとフュリーの頬から自分の手を離した。
そのとき、ふいに幻視が訪れた。
現実の風景に重なるようにして、もうひとつの風景がクロードの目の前に立ち現れたのだ。
――雪に覆われた大地に、クロードは立っていた。
その横には幼い男の子がいて、クロードの右手をしっかりと握りしめている。
男の子の髪は鮮やかな緑色をしている。フュリーの髪と同じ色だ。
「あ!」
男の子は顔を上げると、繋いでいないほうの手で空を指差した。
つられるように、クロードは空を見上げる。
くっきりと晴れ上がった空はどこまでも透明で、青く遙かに広がっている。
その空の果てに、何か、ちらりと光るものが見えた。
鳥影とよく似ている。だが鳥よりももっと大きいものであるはずだ。
「おかあさま!」
男の子がうれしそうに叫ぶ。
冬の澄み切った青空の中、白く輝く翼。あれはペガサスの翼に違いない。
光の翼がクロードのすぐそばに、今まさに舞い降りてこようとしていた――
「クロード様?」
いぶかしむような声で、フュリーが呼びかけてくる。
同時に幻視はかき消え、クロードは現実に引き戻された。
「ああ、すみません。なんでもないのです」
そう答えながら、クロードは考える。
この幻視は予知なのだろうか。それともただ、自分の希望を映し出したものにすぎないのか。
クロード自身にもはっきりとはわからない。
それでも、何か明るい予兆のようなものが胸の奥に広がっていくのを、クロードは感じていた。
《fin》