FE聖戦20th記念企画

風の戯れ


「もう、やんなっちゃう」


 マディノ城の庭園を所在なく歩き回っていたレヴィンは、ちいさなつぶやきを聞きつけて思わず振り返った。
 娘がひとり、水の枯れた噴水のふちに腰かけ、どんよりと曇った秋の空を見上げていた。


(あの子はたしか……)


 昨日、グランベルからこの城にやってきた客人のひとりだったはずだ。フリージ家の公女だと聞いた覚えがある。


(こんなところで何してるんだ)


 彼女とともに来たエッダ家のクロードは、昨晩も今朝になってからも、シグルドやキュアンらとずっと話し合っている。
 実のところ、レヴィンも一緒に話を聞くようにとシグルドから声をかけられていた。だが、身分を隠している事実を指摘して、レヴィンは同席を断っている。


 今のレヴィンはあくまで旅の吟遊詩人、シレジア王家とは何の関わりもない存在だ。


 アグストリアとの戦いが始まってしまった現在、レヴィンの対応は無理のないものと言えた。
 シレジアはあくまで中立を保つべきである。なのに、シグルドの軍のなかにシレジア王子が混じっていることをおおっぴらしてしまっては、シレジアにとってあまり都合のよくない事態が起こりかねない。


(まあ……面倒だからってのが本音ではあるんだが)


 クロードの持ち込んだものはややこしい政治がらみの話に違いない。そういった事柄からは可能な限り遠ざかっていたかった。


(そういや、あの子はなんでアグストリアに来たんだろう)


 フリージ家の当主にしてグランベルの宰相であるレプトールは、シグルドの父とは政敵にあたるような関係だと聞いている。だとしたら、フリージの公女はシグルドから見れば敵の娘ではないのか。
 戦時下にあるアグストリアまでわざわざ足を運んだのは、何か重要な情報を握っているからなのか。だが、それならば、当然シグルドたちの会談に参加しているだろう。こんなところで油を売っているはずはない。


「たいくつ……」


 足をぶらぶらとさせながら、娘はつぶやく。


「んー……」


 首をかしげ、考え込むような様子を見せると、娘はほどけかけていた頭のリボンに手を伸ばした。結びなおすのかと思いきや、するりとほどいて、端からまるめたり、また伸ばしたりと、手の中でもてあそびはじめる。


 そのときだった。
 突然、強い風が吹きつけて、娘の羽織っているショールをまくりあげた。あわててショールを押さえようとした拍子に、うっかり取り落としたのだろう。娘の手からリボンが離れ、あっという間に風にさらわれて空へと舞い上がる。
 風にあおられ、赤いリボンはひらひらと飛んでゆく。そして、噴水のそばに生えている木の梢に引っ掛かった。



「ああもう!」


 娘は軽く悪態をついて立ち上がると、木の根元に歩み寄り、梢を見上げると背伸びして手を伸ばす。だが、込み合う枝が邪魔をしてリボンには届かない。
 娘はショールを軽くたたんで地面に置くと、軽く足を曲げ、はずみをつけてぴょんと飛びあがった。だが、やはりリボンの引っかかった枝には届きそうもない。


「……ほんと、やんなっちゃう」


 そうつぶやく娘の声は、今にも泣き出しそうに聞こえた。


(あそこなら、そうだな。こうして、こっちの角度から風を当てれば……)


 レヴィンはそっと一歩踏み出し、小声で呪文の詠唱を開始した。


 突如、軽い突風が巻き起こる。
 風は赤いリボンの引っかかっている梢を下から押し上げるように吹き寄せ、目当ての枝だけを軽く揺らした。リボンはふわりと枝から離れて宙に浮かぶと、ひらひらと風に乗せられて、正確にレヴィンの手の中に舞い降りてきた。


「えっ?」


 驚きの声を漏らして、娘は振り返る。そして赤いリボンを手にしたレヴィンを見て、目を見開いた。


「姫君のリボンならばここに。さあどうぞ」


 レヴィンはおどけた調子で一礼すると、娘に歩み寄り、リボンを差し出した。
 ぽかんと口をあけて、娘はレヴィンを見返す。


「うそ……」


 小声でつぶやく娘に軽くウィンクして、レヴィンは娘に笑いかけた。


「あなた、魔道士なの?」
「いや、俺は吟遊詩人だ。まあ、ちょこっと魔法を使ったりもするが」
「うそ。ちょこっとじゃないでしょ。あんなふうに細かく魔力を制御するのって、すごく難しいのに」


(そうか。この子はトードの血を引いているんだった)


 フリージ家は魔法戦士トードを祖に持つ家柄だ。その血を受け継ぐ娘ならば、幼いころから魔法に親しんで育ってきたに違いない。
 まずいことをしてしまっただろうか。
 別に自分の魔法の腕前を自慢するつもりではなかった。高い枝に引っかかったリボンを取るのに一番簡単な方法として魔法を使っただけなのだが。


「風の精霊が味方してくれているから。俺はそういう体質なんです、姫君」
「風の精霊が?」
「そそ。だからちょこっとお願いするだけで、けっこうな魔法が使えたりする」
「……ふうん?」


 首をかしげながら、娘はつぶやいた。


「……ずるいなあ」
「え?」
「そんな理由で魔法が得意だなんて、ずるい。あたしなんて、ううん、アゼルやあたしは、ちっちゃい頃からいっぱい魔法の練習をしてきても、なかなか上達しなかった。お父さまやお兄さまとは違う。そう思い知らされてばかりだった。それなのに」


 そう語る娘の声は、本当に悔しそうだった。


(しくじったな)


 シレジアの王子にして神器フォルセティの継承者。そのことを悟られてはまずいからと、ふと思いついたことを適当に口にした。だが、それは誠実な態度とは言えなかった。
 レヴィンとて理解している。魔法の習得は、そんなに簡単なものではない。
 持って生まれた素質に加えて、正しい知識の習得やたゆまぬ鍛錬、そういったものが要求されるものなのだ。
 自分は並はずれて素質に恵まれている。その自覚はあった。人から見たら羨むべき存在であるだろう。そんな自分が、持てる力をいかにもささいなもののように語るのは、驕りだと思われても仕方ないのかもしれない。


「あ、うん。あんまり気にしないで」


 レヴィンの困惑を感じ取ったのだろうか。娘はさらりとそう言うと、レヴィンに微笑みかけてきた。


「リボン、取ってくれてありがと。あんなところに引っかかっちゃって、どうしようかと思ったの」
「いや……」


 たいしたことじゃない。そう続けようとして、レヴィンはその言葉を飲み込んだ。
 下手な謙遜はかえって人を傷つける。そう気づかされたばかりではないか。


「役に立ったならよかったですよ、姫君」


 そう答えて一礼し、ふと思い出したようにつけ加える。


「見れば、姫君は退屈しておられる様子。どうですか、吟遊詩人の芸などは」
「え?」
「俺もヒマなんだ。戦争の後始末やら大事な話し合いやらで、ほかの連中は大忙しなんだが、しがない吟遊詩人にはこれといった任務もなくてね」


 嘘ではない。実際、レヴィンは暇だった。
 なまじ一国の王子であるだけに、レヴィンの立場には面倒なものが多く含まれている。
 表だって名を出せない以上、責任ある立場には就かせられないが、さりとて、雑務を任せるには遠慮が多い。シグルドはそう思っているらしい。
 それでも今までは魔法の訓練に携わったり、それこそ吟遊詩人として芸を披露したりしていた。だが、今この瞬間はそういったことも求められていない。
 だからこうやって、占領直後の城の中を探索がてら歩き回っていたわけなのだが。


「そうなんだ?」
「ああ、そうなんだ。どうだ、笛なら今ここでも。歌物語とかだと、楽器を取りに戻らないといけないが」
「じゃあ、とりあえず笛、かな」
「かしこまりました。姫君」
「あのね、姫君、じゃなくて、ティルテュって呼んでくれないかな? 姫君って呼ばれるの、なんだか……むず痒くて」
「承りました。では、俺のことはレヴィンと」
「うん。知ってる」
「え?」
「昨日の晩餐のとき、演奏してたでしょ。なんとなく気になって名前覚えたの。あたし、記憶力はいいほうなんだから」


 そうなのか。
 レヴィンの側では、彼女のことをただフリージの娘とだけ認識していた。名前も聞いていたはずなのだが、さっぱり覚えていなかったのだ。


「そうか、光栄だな」


 そう答えると、レヴィンは噴水の縁に腰掛けて、懐から笛を取り出す。ティルテュもレヴィンのすぐ横に腰をおろして、催促するようにレヴィンを見上げた。



 ティルテュに請われるままに、レヴィンは曲を吹き続けた。
 ティルテュはレヴィンの顔にじっと目を据え、曲を聴く。一曲終わると、次の曲を求める。
 彼女はあまりしゃべらなかった。だが、退屈しているわけではないようだ――むしろ、大いに楽しんでいるらしい。そのことは、なんとなく伝わってきた。


「ねね、ちょっと話をしてもいい?」
 何曲吹き終わった後だったろうか。唐突にティルテュが話しかけてきた。
「うん? かまわないが……いったい?」
 面喰って答えるレヴィンに、ティルテュは答える。
「ん……なんでもないんだけど、ちょっと誰かに話してみたくなって」
「俺でいいのか?」
「うん。あなた、ちゃんと聞いてくれて、それでいて黙っていてくれそうだもの」
「何でそう思った?」
「なんとなく……でも、間違ってないでしょ?」
「ずいぶん高く買ってくれてるんだな」
「そう思う?」
「まあな」


 レヴィンは少なからず驚いていた。
 レヴィンは軽薄な人間だと思われることが多い。そう思われても仕方ないとも自覚している。実際には、個人的な事情をあれこれ詮索して回ったり、軽々しく噂を振り撒いたりするような真似は決してしない。したくもない。
 だが、レヴィンのそういった部分に気づく人間はそう多くはない。表に見せている軽い態度と、吟遊詩人というなりわいからか、口の軽い、信用の置けない人間だと思われるらしい。
 なのにフリージのティルテュは言う。
『ちゃんと聞いてくれて、それでいて黙っていてくれそう』な人間だと。


「ここに来たのはね、バーハラにいてもしかたないって思ったからなの」
 そう前置きして、ティルテュは自分がアグストリアにやってきた理由をぽつりぽつり語り始めた。


 王都バーハラでの生活は、ティルテュにとってつまらないものだった。
 戦争が始まって以来、父と兄はどこかおかしい。落ち着きがないし、なにか大切なことを隠しているようにも思える。
 それに、兄嫁がともかくひどい女なのだ。美人には違いないのだが底意地が悪く、なにかにつけてティルテュや妹のエスニャにつらくあたる。だが兄にとっては愛しい妻であるらしく、苦情を言ってもとりあってもらえそうもない。
 加えて、今では友達と呼べるような人間も少なくなっていた。幼馴染のアゼルとレックスは、そろってシグルドの軍に加わっている。バーハラに残っている人間の中でティルテュが気を許せる相手は、妹のエスニャと、エッダ家の当主クロード神父くらいだ。
 そのクロード神父がシグルドを訪ねてアグストリアへ行くという。ティルテュはクロードについていきたいと思った。争い事が苦手なのにも関わらず、荒れた土地に向かおうとしているクロードが心配だったし、バーハラにいても――いたたまれないことばかりだったから。
 シグルドとはさほど親しいわけではない。だがシグルドのもとには、ティルテュにとって気が置けない友人たちがいる。彼らに会えば少しは楽しい気分になれるのではないか。



「……って思ってたんだけどね。アゼルもレックスもてんで冷たいんだから。あたしのことなんて、ちっとも気にかけてくれやしない。無理もないのかなあ。恋人ができちゃったら、幼馴染の女なんて、邪魔なだけかもしれないし」


(恋人、ね)


 たしかにそうなのかもしれない。
 ヴェルトマー公子アゼルは、ノディオンの王女ラケシスといい関係になっているらしい。
 アグストリアとグランベルの戦争が戦争がはじまった今、ラケシスは複雑な立場に立たされ、日々不安にさいなまれている。そんな彼女を支えようと、アゼルは必死になっているはずだ。


 そしてレックスはといえば。


(思ったよりも手の早い奴だったな……)


 少しほろ苦い気分で、レヴィンはそのことを思い出す。
 この戦が始まる直前のことだった。踊り子のシルヴィアが体の不調を訴えるようになった。
 診察を受けたところ、どうやら妊娠しているらしいことがわかった。
 そして、シルヴィアのお腹の子どもの父親として名乗りを上げたのは、ドズル公子レックスだった。


 ふたりがそういう関係ではないかと、うすうすレヴィンは察していた。だが、こんな形ではっきり目の前に突きつけられるのは、正直、あまり面白くはなかった。
 シルヴィアと自分は踊り子とその伴奏者、芸を通じた相方同士だ。
 ふたりの関係はあくまで相方であって、いわゆる恋人同士ではない。心を重ね、体を重ねる相手は他に選ぶべきだ。そう思ってきたつもりだった。
 だが実際に、彼女が別の男を恋人として選んだのだという事実を目の当たりにしてみると、レヴィンは思った以上に衝撃を受けたのだった。
 心のどこかでシルヴィアは自分のものであると考えていたのかもしれない。少なくとも出会った当初は、そういう気配がレヴィンとシルヴィアの間にあったことはたしかなのだ。
 レヴィンの思いはともかくとして、そういった事情でレックスは取り込み中だ。よそに気を回すような余裕はとても持てないだろう。


 ティルテュの幼馴染たちはそれぞれの事情を抱えていて、ティルテュにかまっていられるような状態ではない。ティルテュには気の毒だが、それが現実だった。


(あてがはずれたんだろうな)


 レヴィンは目の前の娘に同情していた。
 話の節々から察するに、ティルテュは語った内容よりもさらに、身の置き所のないやりきれなさを感じていたのではないか。
 レヴィンにも思い当たることがある。
 父が死に、叔父たちがレヴィンの即位に反対の意向を示したあの頃、自分はどう感じていただろう。
 逃げられるなら逃げてしまいたい。そう思ったのではなかったか。
 ティルテュもまた、そういった思いを抱えて、このアグストリアにやってきたのではないか。


「家を出るのも、悪いもんじゃないぜ」
 目の前の娘を励ましたかった。だが何と声をかけたものかと迷った挙句、ようやくレヴィンはそう言った。
「え?」
「今まで見えなかったものが見えてくる。がんじがらめになって、身動きが取れなくなるくらいなら、思い切って動いてしまえばいい。まあ、危ないことや、つらいことだってあるけれど」
 無責任だろうか。
 アグストリアはすでに戦場になっている。バーハラに戻り、父や兄の庇護のもとで暮らしたほうが安全に決まっている。
 だが、この娘はすでに自分で最初の一歩を踏み出した。無理やり家に追い返そうとするのではなく、彼女の選択を支持し、励まし、力づけたほうがいいはずだ。
「うん、そうよね」
「まああれだ。アグストリアはもう安全な場所じゃない。クロード神父の護衛はほかの誰かに任せて、このままシグルド公子のところにいたほうがいいかもしれないが」
「ん……でも、もう決めたことだし。神父さまのことも心配だし」
「神器の継承者でハイプリーストなんだろ。本気を出せば強いはずだぞ」
「そうかもしれないけど、でもあの方、ほんとに荒っぽいことには向いてないから」
「そうか」
 彼女の心は固く定まっているようだ。口出しすべきではないだろう。


(だがな、無害そうな面をしているが、あの神父だって若い男だ。そういった“心配”はしなくていいのか)
 もっとも、それこそが彼女の望みなのかもしれないが。
 そう思い至ったとき、なぜか、レヴィンの心の奥底に、ちいさなざわめきが生まれた。
(俺には関係ないことだ)
 自分自身に言い聞かせるように心の中でつぶやいて、レヴィンはふと浮かび来たざわめきを打ち消したのだった。



 次に彼女と会ったのは、ふた月ほど後のことだった。


 シルベール城を陥落させ、上級王シャガールを討ち取ったことにより、アグストリアはグランベルの支配下に収まった。この混乱に乗じて北の砦で不穏な動きを見せ始めたオーガヒルの海賊を打倒すべく、シグルドは軍を返し、マディノ城周辺に集結させた。
 レヴィンはブラギの塔周辺の情勢を案じていた。ブラギの塔はオーガヒル海賊の支配する領域にある。シグルドもそのことは気にかけているようで、シルベール城陥落直後に、ペガサスナイトのフュリーにブラギの塔へ向かうよう、指示していた。
 単独で海峡を越えていったフュリーもさることながら、レヴィンはティルテュのことが気にかかっていた。あの日、マディノ城の中庭で、レヴィンの笛に耳を傾けていた娘。ほんのひとときの触れ合いだったが、なぜか彼女のことが強く心に残り、今も忘れることができない。



 オーガヒル北にある海賊の砦に攻め込む前日のことだった。
 ブラギの塔方面から戻ってきたフュリーがシグルドの軍に合流した。
 フュリーはエッダのクロードとフリージのティルテュ、それにオーガヒルの親分を名乗る女戦士を伴っていた。
 フュリーの軍装は汚れ、傷ついていた。白いペガサスの体にはところどころ、返り血らしき茶色い汚れがこびりついている。
「無事だったか」
 レヴィンが声をかけると、フュリーはにこりと笑って答えた。
「わたしは大丈夫です。レヴィン様、おそばにいられず申し訳ありません」
 気丈な声だ。だがその声に深い疲れが隠されていることに、レヴィンは気づく。
「気にするな、俺のほうには何も問題はなかった。お前こそ大変だっただろう」
「いいえ。言うほどのことは」
「ならいいが」
 フュリーは素直なようでいて素直ではない。嘘のつけない性分ではあるが、自分の困難や苦労は極力見せないようにふるまう。本当は厳しい戦いを潜り抜け、疲労の極致にあるはずだ。
「ちゃんと休んどけよ」
 フュリーにねぎらいの言葉をかけながら、フリージのティルテュのことが、ふとレヴィンの心をよぎる。
 騎士であるフュリーですらこうなのだ。あの戦い慣れしていない娘は、どうしているだろう。


 シグルドの座す本陣に向かう途中で、レヴィンはティルテュの姿を見かけた。
 彼女はアゼルとレックスに囲まれて談笑していた。
 遠目からでもずいぶんと汚れているように見える。だが漏れ聞こえる彼女の声は明るく、元気そうだ。
(大丈夫そうだな)
 幼馴染たちも、今回は彼女のことを優先的に労わっているようだった。そのことに安堵しつつも、ふと、ちくりと痛むようななにかが、レヴィンの心をよぎっていった。


 海賊の砦を陥落させて間もなくのことだった。とんでもない報せがシグルドのもとにもたらされる。


 ――アグスティ城周辺にグランベルの軍勢が集結している。軍を率いるのはドズル公爵ランゴバルトとフリージ公爵レプトール。
 彼らはこう主張している。
『シアルフィ公子シグルドは逆賊である。その父バイロンは、イザーク遠征の途にある王子クルトを弑逆した。シグルドもまた、父と謀って王国をわがものとしようとしているのだ』と――


 予期せぬ事態ではなかった。クロードから受け取った情報により、ランゴバルトとレプトールが不穏な動きを見せていることを、すでにシグルドは承知していたからだ。だが、シグルドの予測を超えて彼らの動きは早く、そして、致命的なものとなった。


 しかし、事態の急変に呆然とするシグルドに、救いの手を差し伸べた者があった。



「お久しぶりです、レヴィン様」
 居並ぶ人々の前で、彼女はレヴィンにうやうやしく頭を下げた。
「マーニャ……」
 マーニャはシレジア四天馬騎士の頂点に立つペガサスナイトで、ラーナ王妃の信頼も厚い。シレジア天馬騎士団の要とも言うべき存在である。
 三年ぶりの再会だった。シレジアを出てからも、彼女を忘れたことなどなかった。
「ラーナ様はいつも王子の身を案じておられます。これまで王子をお守りくださったからこそ、王妃はこのような形でシグルド公子への援助を申し出ておられるのです。そのことをどうかご理解ください」
 人々の面前であるにもかかわらず、マーニャは包み隠さず述べる。
 シレジア王妃ラーナの真意を。そして、レヴィンの真の出自を。
「シグルド公子とともに、シレジアへ。王子、それが我らの望みです」


 もう逃げられない――


 レヴィンはそっと目を閉じる。
 だが次の瞬間、目を見開いてマーニャを正面から見据え、言った。


「わかった、マーニャ。俺もシレジアへ帰ろう」



 オーガヒルの砦近くの港では、出航の準備が整えられていた。
 アグスティ城やシルベール城に駐屯していた者たちも、すでにマディノ周辺まで移動してきている。彼らはマディノから船出し、別便でシレジアへ向かうことになるだろう。
 慌ただしく旅支度を整える人々の間に、レヴィンはティルテュの姿を見かけた。
(まだここに残っていたのか)
 アグスティに押し寄せているグランベル軍を率いているのは、彼女の父レプトールだ。
 父のもとに戻ったのではないかと思っていた。彼女がいまシグルドの軍と行動をともにしているのはなりゆきに過ぎない。反逆者の烙印を押されてまでシグルドに同行しなければならない理由はないはずだ。
 シグルドの軍には、レプトールの娘である彼女を不信の目で見る者も少なくない。
 今ならまだ間に合う。アグスティにいる父と合流することもできるだろうに。


「いいのか、このままシレジアに向かっても」
 ティルテュの傍らに歩み寄り、レヴィンはそっと声をかける。
「レヴィン……王子?」
 とってつけたように添えられた王子という呼称に、レヴィンは顔をしかめる。
「レプトール卿はすぐそばまで来ている。今なら戻れないわけじゃない」
「……あたしは邪魔?」
 静かな、だが激しさを潜ませた声でティルテュは言った。
「お父さまたちが何かたくらんでることは知ってた。だけど、それが何なのかはわからなかった。今、わかってみて思った。お父さまは間違ってる。だから、あたしは戻りたくない」
「だが、一緒に来れば反逆者と呼ばれることになる。それでもいいのか」
「戻っても、あたしには居場所なんてない」
 その声の悲痛さに、レヴィンは言葉を失う。
「お父さまを信じたかった。でも、裏切ったのはお父さまのほうよ。あたし、わかるもの。シグルド様やクロード様のほうが正しいって」


 ――裏切ったのはお父さまのほうよ。


 ティルテュの叫びは、レヴィンの中で自分自身のものと重なっていた。


 父王が亡くなった直後のことだ。
 レヴィンのもとに刺客が送られてきた。
 誰の手によるものかは、疑うべくもなかった。
 叔父はただ、自分の即位を疎んじているだけではなかった。ひそかに刺客を用意し、レヴィンの命を奪おうとしたのだ。
 もうたくさんだ。そう思った。
 何もかもが疎ましかった。母の愛情も、民の抱く期待も、そして叔父の中に芽生えた、どす黒い思惑も。
 叔父がまったく尊敬できないような人物ならばよかった。だが、そうではない。
 叔父は叔父なりに祖国に対する理想を持っている。為政者としての力量も具えている。まだレヴィンが幼かった頃には、心温まる交流を持ったこともある。
 なのに、その叔父に、お前はこの国の王にふさわしくないと宣告された。生きていてはならないと、無言のうちにそう伝えられた。


(先に裏切ったのは、叔父上のほうだ)


 だからシレジアを離れた。いや、シレジアから逃げた。
 シレジア王子として真っ向から対処するならば、レヴィンは叔父を討たねばならない。しかし、それは当時のレヴィンにとって、受け入れがたいことだった。


(だが、俺は今、シレジアに戻ろうとしている)


 それは王子として、再び叔父たちと向き合うことに他ならない。王子として生きる先にあるものを、受け容れることに他ならない。
 今だってつらくて仕方がない。まだ逃げる先があるならば、逃げ出したくてたまらない。
 だが、レヴィンにはもう逃げ場はない。


(せめてティルテュには、逃げるところがあればいいのに)


「なら、来いよ、シレジアへ」
 逃げ続けることはできないかもしれない。いつかティルテュもまた、フリージ一族と向き合い、帰属か訣別かを選ばなくてはならなくなるかもしれない。
 それでも、ひとときのやすらぎであってもいい。彼女が居場所を得て、微笑むことができるならば。


「シレジアは美しいところだ……けっこう寒いけどな」
 この娘にシレジアの四季を見せてやりたい。ふとレヴィンはそう思った。
 吹雪のあとに輝く満天の星を。雪を割って花開く、春告げる雪割草を。白樺の木立を吹き抜ける青い風を。
「いいの?」
 ティルテュは探るような目で、レヴィンを見上げている。
「ああ、お前が望むなら、な」
 レヴィンはティルテュに手を差し出す。その手にティルテュはそっと自分の手を重ね、レヴィンに向かって静かに微笑み返した。


《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2016/12/12
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