流離の花
ドズル公子レックスは、郷里からの手紙をくしゃりと丸め、部屋の隅に投げつけた。
差出人はドズル家の家令だった。
エバンス滞在中も、ここアグスティに移ってからも、折に触れレックスに宛てて故郷から手紙が送られてきている。
書かれていることはいつもたいして変わらない。
――たとえスワンチカを受け継ぐのがダナン様であっても、このドズル家を支えるべきお方はレックス様以外には考えられません。賤しき女の腹より生まれしあの方は、野卑にして無思慮。あのような方にドズル家の将来をゆだねるのはあまりにも危険。奥方様はお心を痛めておいでです。一刻も早くバーハラにお戻りくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
ただ、今回の手紙には気がかりなことが書き添えられていた。
――イザークからの便りによれば、ダナン様はリボーの有力氏族の娘を手篭めにし、子どもを生ませたとのこと。このようなこと、とても若奥様に報せるわけにはまいりません。幸いというべきか、若奥様は幼いブリアン様の成長にお心を砕かれ、ダナン様の行状にはさほど関心を抱いてはいらっしゃらぬよう。それにしても、あの方の荒淫ぶりには、ほとほとあきれかえります。さすがは賤しき淫婦の息子というべきでしょうか。
(ああ、くそ!)
どうにもやり場のない苛立ちがこみ上げてくる。
(こんなこと報せてきて、いったい俺にどうしろというんだ)
手紙を丸めて投げ捨てる程度では気分が収まりそうもない。
こんなときは思いっきり体を動かすに限る。
訓練所で汗を流すか。馬で早駆けするか。
(どうせならアゼルを誘えたらいいんだが)
無理だろうな、とレックスは思う。
最近、アゼルは付き合いが悪い。どうやらレックスとじゃれあうよりも、ノディオンの姫君と剣の修行にいそしんだり談笑したりするほうが楽しくなったらしい。
それはそれで喜ばしいことだと、レックスは思っている。男として、親友の恋路を温かく見守るくらいの度量は備えておきたい。
(遠乗りにしておくか)
部屋にこもって鬱々とした気持ちで居続けるよりは、どこかに出かけて汗を流したほうがずっといい。
レックスは身支度を整えると、厩へと向かった。
家族の問題は、レックスにとって常にわずらわしいものだった。
レックスの母レジーナは父ランゴバルトの正妻である。シアルフィ公爵バイロンの遠縁にあたり、ランゴバルトとは幼い頃から婚姻を約した間柄だった。つまりは家同士が定めた政略婚の相手だったのだ。
だが、ランゴバルトには妻を娶る前に関係を持った女がいた。
生まれは定かではない。流れ者であったとも、厩番の娘であったとも聞いている。
この女との間に男子が生まれている。レックスの兄ダナンである。
当初、ダナンの存在は公にはされていなかった。しかしダナンが五つのとき、その体に聖痕が顕れる。
聖痕をその身に宿した者は神器の担い手となる。ランゴバルトは息子ダナンの存在を明らかにし、跡継ぎとして立てた。
ダナンの存在は波紋を呼んだ。シアルフィ公爵家と疎遠になったのも、ここに端を発するのではないかと言われている。
レジーナは夫の不実を知り、怒り狂った。しかしその胎にはすでにレックスが宿っていた。
誇りを傷つけられたレジーナは夫ランゴバルトを避けるようになった。彼女はダナンに露骨な憎しみを向けるような真似はしなかったが、その存在を内心快く思っていないことは誰の目にも明らかだった。
そしてレックスが生まれた。
ランゴバルトは聖痕を持つ跡継ぎダナンを第一に扱ったが、家臣の中には正妻レジーナの顔色を窺い、レックスを持ち上げようとする者も少なからず存在している。
こういった不和は、表面上は覆い隠されている。だが、ドズル家の内部には常に、微細な不協和音のような、どうにもかみ合わない不快な空気が漂っていた。
いわゆる高貴なる家柄の男が妻以外の女に手を出すことは、さほど珍しい話ではない。ある者はおのれの権威を盾に欲望を押し通して、またある者は心通わぬ政略婚に倦んで、妻ではない女を求める。だがそういった関係によってもたらされる不和や不幸を、ダナンはよく知っていたはずではないのか。
レックスに過剰なまでの期待と愛情を寄せる母。その母を牽制するためか、ダナンを盛り立てて、レックスには目を向けようとしない父。そして、公爵と公爵夫人のどちらにつけば優位に立てるかを推し量る家臣たち。
そういった人々の間で、ダナンとレックスは親しくなる機会を奪われたまま成長していった。
レックスは兄が嫌いではない。特に憎しみを抱いているわけでもない。
だが、兄と弟と呼ぶにふさわしい絆を築くことができないまま、気づけば成年に達しようとしている。
家令はダナンを荒淫と呼んだが、そうではないことをレックスは知っている。
ダナンは気が荒く、強引なところがある。言葉遣いも率直で繊細さに欠けるきらいがある。だが根は正直で、まっすぐな男だ。
その率直さは女性に対するときも変わらない。たしかに少しばかり惚れっぽく、色を好む傾向はあるが、だからといって望まぬ相手に無理強いするような男では決してないはずだ。
手紙にあったイザークの女性は、本当に手篭めにされたのだろうか。合意の上の関係、つまり純粋に、ただの――恋人なのではないか。
真相はわからない。ダナンに直接問うことができればいいのかもしれないが、兄は今、イザークにいる。アグストリアとイザークはあまりにも遠い。
第一、直接顔を合わせたところで、何をどう問えばいいのか。
家族と呼ぶには遠く、さりとて決して他人ではない相手。
そう、いっそ他人であれば、気楽であったものを。
厩に向かう小道を歩いていると、ふと、鈴の音のようなものが耳に入ってきた。
特に考えがあったわけではない。だが何となく気を引かれて、レックスは音を辿り、道の脇に生い茂る木立に足を踏み入れた。
かすかな音を頼りに夏の光が蔭をなす木立の中を進んでいくと、少しばかり奥に入ったところに、小さな広場がぽっかりと開けていた。
広場には人影があった。
(あ……)
木漏れ日の中で、娘がひとり、舞っている。
シャン、シャラン
舞にあわせてリズムを刻み、鈴の音が響く。
見れば、娘の手足には小さな鈴が結わえつけられている。
見知った娘だった。
ハイラインを陥とした頃に、旅の吟遊詩人を名乗る男とともにシグルドの軍に参入してきた踊り子だ。
名前はシルヴィアといったか。
彼女とはあまり言葉を交わしたことがない。だがその舞の腕前が確かなことは、レックスもよく知っていた。
彼女は酒の席で舞う。戦の後の、祝いの席で舞う。そして戦のさなか、まさに敵に突撃せんとするその前に、戦士らの士気を鼓舞するために舞を捧げる。
時と状況に合わせ、彼女はその舞を変化させる。酒の席を賑やかすときはひたすらに楽しく、戦勝祝いではひたすらに喜ばしく。そして戦場では、厳かで力強い、神に捧げるがごとき舞を。
だが、今の彼女の踊りは、そのいずれでもなかった。
ゆっくりと、そして速く。同じ動きを、娘は何度も何度も繰り返している。
どこか泥臭い、地味な動作の繰り返し。
華麗ではない。踊りとは言いがたいかもしれない。
その表情は無心で――いや、むしろ少し険しいもののように見える。
(そうか。これは“練習”だ)
武器を振るう者として鍛錬を重ねてきたレックスにはわかる。
これは基礎を固めるための反復練習だ。技量を最高の状態に保ち、さらなる高みを目指すためには、こういった基本に立ち戻った訓練は常に必要とされる。
内心、レックスは少なからず驚いていた。
享楽的で軽薄な娘だと思っていた。おしゃべりであけっぴろげな、あまり育ちのよくない娘だと。胸のふくらみは薄く、容貌もどちらかといえば幼げで、妖艶というよりは明朗で闊達な印象を受けるが、男のあしらいには慣れていて、一緒に参入した吟遊詩人レヴィンをはじめとして、その傍らには常に誰かしら男性の影がある。そんなふうに思っていた。
これほど真面目に、ただひとりで基礎訓練を重ねるような堅実さを具えているとは、思いもしなかった。
(見くびっていたな)
シルヴィアの舞がすぐれたものであることには気づいていた。だが、それに見合う努力を繰り返している可能性には思い至らなかった。
より高きところを目指すものが、地道な練習を厭うはずなどない。考えてみれば当然のことだ。だが、上辺の華やかさに気を取られ、そういった姿が目に入らなかった。
いや、彼女が見せないようにしていたのだろうか。
そうなのかもしれない。
こんな辺鄙な場所ではなく、訓練所とか城の中庭とか、そういった場所で練習したっていいはずなのだ。
だがシルヴィアは、わざわざ人目にあまりつかない場所に出かけて、たったひとりでこうやって練習している。
それはただの気まぐれなどではなく、彼女なりの美意識のあらわれなのかもしれない。
柄にもなく、レックスはシルヴィアの練習に見入っていた。
部屋を出るときに胸を占めていた苛立ちは消え去っていた。今はひたすらにシルヴィアの舞が――いや、シルヴィアという人物が気にかかっている。
汗を散らして舞うシルヴィアは美しい。
媚びも飾りもない。基礎に徹した、あくまでも機能的で無駄のない動き。
ただ、無心に、一心不乱に。
腕を伸べ、跳躍し、回転し、リズムを刻む。
そこには何か、人の心を動かすものがあった。
あの、戦いの前の、神をも動かすがごとき、力あふれる舞。
あの舞に通じるなにかが、この練習の中にも潜んでいる。
ひとしきり練習を重ねた後、娘は動きを止め、息を整える。
どれくらい前から練習していたのか、レックスにはわからない。だが、その様子を見れば体力的に限界なのだろうということは察しがついた。
(もう立ち去ったほうがいいだろうな)
人目につかない場所でひたすらに練習していたのは、泥臭い努力を重ねるさまを見られたくなかったからなのではないか。ならば、練習を見ていた人間がいたなど、報せないほうがいいだろう。
そう考えて、そっと立ち去ろうとしたそのとき。
顔を上げたシルヴィアと、ふと視線がかち合った。
一瞬、シルヴィアの顔から表情が消えた。
だが、すぐにシルヴィアはいつもどおりの朗らかな表情を取り戻し、苦笑交じりに言った。
「ああ、やだなあ。見てる人がいるなんて思いもしなかった」
シルヴィアはレックスの隣に歩み寄ると、間近な距離から顔を見上げて続けた。
「つまんないものを見せちゃった。ごめん」
「いや……」
戸惑いながらレックスは返した。
「とても、きれいだった」
「え?」
きょとんとした表情でシルヴィアが問い返す。
「だって、つまんないでしょ。きちんとした踊りじゃない、ただの練習だもん」
「練習をきちんとこなすのは大事なことだ。それに、実際きれいだった。みごとだったと言ってもいい」
「そ、そうかな……」
シルヴィアはそわそわと落ち着かない様子を見せ、足元に視線を落とした。
「こちらこそ、覗き見をするような真似をしてすまなかった」
「ううん、覗き見なんてそんな。そりゃ、こんな芸にもなってないような練習を見られるのはちょっと恥ずかしいけど」
そんなに卑下することもないじゃないか。
そう言いかけて、レックスは言葉を引っ込める。
「そういえば、今日は相棒は一緒じゃないのか?」
「相棒?」
「吟遊詩人の。大抵あいつの笛に合わせて踊ってなかったか」
「ああ、レヴィン?」
「そうそう」
「こういった基礎練習には付き合ってもらわないかな。合わせの練習なら一緒にやってるけど。
それに今日はレヴィンはお出かけ」
「うん?」
「もうすぐ夏至祭でしょ。城下街に市が立ったから、フュリーと一緒に買い物に出かけてる」
「……いいのか、お前」
思わずレックスは問いかけていた。
フュリーはマッキリー攻略に前後してシグルドの軍に加わったシレジアのペガサスナイトだ。
当初、彼女はシグルドの軍に敵対する行動を取っていた。だが吟遊詩人レヴィンの説得により、シグルド軍に同行するようになった。
フュリーとレヴィンは同郷であり、旧知の間柄であるらしい。
このレヴィンという人物、旅の吟遊詩人と自称しているが、なにかと不審な点が多い。そもそも風魔法の使い手である時点でただものとは思われないのだが、それに加えて、ペガサスナイトの指揮官であるフュリーとかなり親しいようなのだ。本当は、シレジアでは相当高い地位を持つ人物なのではないか。
そして踊り子シルヴィアは、そんなレヴィンと親しい関係にある。
シルヴィアはレヴィンの後を追ってシグルド軍に加わったのだと大抵の者は考えている。このふたりは技芸の相方として一緒に行動することが多いのだが、単に踊り子とその伴奏をする楽師という以上の関係――いわゆる男女の仲なのではないかとレックスは推測している。
「ん?」
「いや、ふたりで行かせてしまって」
「だってフュリーが困るでしょ。はっきり言わないけどわかってる。フュリーはレヴィンに仕えてるんだって」
あっけらかんとした口調でシルヴィアは言った。
「護衛の騎士がご主人から離れるわけにはいかないでしょ。だからフュリーがレヴィンについて行くのは当たり前。それに邪魔したくなかったし。家族水入らずのほうがきっと楽しいだろうから」
「家族?」
「レヴィン、言ってたの。『あいつは妹みたいなもんだ』って」
「妹、ねえ」
そういう関係ではないだろう。
少なくとも、フュリーのレヴィンに対する態度は、家族に対するものではない。彼女はうやうやしく、礼儀正しく、そして慕わしげにレヴィンの姿を追っているように感じる。
仕えるべき主であり、憧れの男性。フュリーにとってのレヴィンは、そういった存在なのではないか。
「んー、たぶんさ、レヴィンにとっては実際そうなんだと思うよ? まあそれ以上の気持ちだってあるのかもしれないけど。でも、ちっちゃいときから知ってる、家族みたいな関係。それはそれで間違いないみたい」
「お前はさ、それでいいのか?」
「いいって、何が」
「うん、何というか、その……」
どうにも言いにくかった。
フュリーはレヴィンを慕っており、シルヴィアもまたレヴィンを求めている。レヴィンがフュリーとともに行動することは、シルヴィアにとって――つらいことなのではないのか。
「たしかに、あたし、レヴィンが好きだよ。芸事の相方として、あれ以上の相手なんてそうそう見つかんない。
でもね、あの人はあたしには手の届かない人。それもよくわかってるから。
それに、家族って、ちょっとうらやましいんだ」
「家族なんて、そんなにいいもんじゃないぞ」
忘れかけていた苦い気分がよみがえる。
家族。それはレックスにとっては常にかなしみと混乱を掻き立てるものだった。
どうしようもなく離れたいのに、どうしようもなく離れがたい、この慕わしくもわずらわしいもの。
どうしてうまくいかないのだろう。単純に好きと嫌い、善と悪として捉えることがどうして許されないのだろう。
「そうかなあ。あたしには、家族なんていないから」
不思議そうにシルヴィアが言う。
「旅の一座はさ、家族なんかじゃないもん。そりゃ、ちゃんとおまんまにありつくために、一緒にうまくやってこうとはしてたけど。でもやっぱり他人でしかないし」
「……血の繋がった家族だからって、気持ちが通じ合うわけでもないんだがな」
「それでもさ、なんかね、うらやましい。あたしは親も兄弟も知らない。どこで生まれたのかもわからない。広い空の下をただひとり、風に流されていくしかない根無し草。
でも時々思うの。こんなあたしにも生んでくれたおかあさんがいたはずだし、もしかしたら兄弟だっているのかもしれない。だとしたら、それはどんな人たちなんだろうって」
――知らないほうがしあわせだってこともあるかもしれないぞ。
そう言いかけて、レックスはふと口をつぐむ。
「まあ、実際のところ、ものごころもついてない子どもを放りだしちゃうような、どうしようもない人たちなんだろうけど」
あっけらかんとした口調で、シルヴィアは続ける。
「でもさ、考えてみるだけなら自由だから。もしかしたらあたしは、悪漢にさらわれた高貴な姫君なのかもしれない。おとうさまとおかあさまは手を尽くして探してくれたけれど、ついに見つけることができなかったんじゃないか、とかね」
シルヴィアは乾いた笑いをもらし、軽くウィンクする。
「なーんてね。そんなこと、あるわけないけど」
「お前……」
かけるべき言葉が見つけられないまま、レックスはシルヴィアを見つめる。
「姫君なんかじゃなくても、お前は十分に」
十分に、なんだというのだろう。
衝動的に口にした言葉は、続きの見つからないまま霧散した。
気まずさを抱えながら、レックスは続く言葉を必死で探そうとする。
「……お前の踊りはすごい。ずっとそう思っていた。今、練習している姿を見て、なおさらそう思う。どこの誰だとか、そういうこととは関係なく、その身ひとつで、お前はちゃんとやってきたし、これからもやっていけるだろう。それはとても立派なことだ。俺はそう思う」
シルヴィアはぽかんとした表情でレックスの顔を見つめた。
「……ありがと」
礼を述べ、シルヴィアはレックスに笑いかける。
明るく、曇りのない無邪気な笑み。その表情に、レックスはつと胸を衝かれる。
――ああ、この娘は。
ずっと心のままに生きるのを恐れてきた。異なる階層の女や敵対する家に生まれた女性、そういった望むべきではない相手に目をとめてはならないと思っていた。望まれない縁によってもたらされるであろう不調和やかなしみを、自分は嫌というほどよく知っているのだから。
だが、『出逢い』というものは、そういった戒めを乗り越えて、突然訪れるものなのかもしれない。
――もしかしたら親父も兄貴も、そうだったのだろうか。
生まれさえわからないさすらいの踊り子。旅から旅への道端に咲く流離の花。
家を継がない次男とはいえ、ドズル家の公子にふさわしい相手とはとうてい言えない女性だ。だがそんな娘に、自分は今、どうしようもなく惹きつけられている。
「また踊りを見せてもらってもいいか? 今度は練習ではなく、きちんとした、お前の納得のいく踊りを」
「いいよ、もちろん。なんならとびっきりの、とっておきを踊ったっていい。ちょっと恥ずかしいけど。
もし、あんたが望むなら、ね」
シルヴィアはそう答えると、嫣然と微笑んだ。
《fin》