FE聖戦20th記念企画

眼裏の星


「わたしに魔法を教えてくださらない? ヴェルトマーのアゼル公子」
 まだ少し肌寒い春の午後、芽吹き始めた緑がちらほらと目に入るようになったアグスティ城の中庭で、ノディオン王女ラケシスは、挑みかかるような調子でアゼルにそう言った。
「え……」
 とっさになんと答えていいかわからず、アゼルは呆けたような表情を浮かべる。
「どうして?」
「わたし、魔法も身につけておきたいと思っていますの。それで、誰かよい師匠になってくれそうな人はいないかと思って」
「あなたが魔法を?」
「ええ。学べるものはみな学んでおきたいですもの」


 当然のことのように答えるラケシスの言葉に、アゼルは驚きを隠せなかった。
「たしかにあなたは、杖を使うわざを身につけているし、魔法力の扱いには心得があるのかもしれないけど……」
 魔法は一朝一夕で身につくものではない。相応の素質と深い知識、それに適切な訓練を必要とするものなのだ。
「訓練所の師範は、筋は悪くないと言っているわ。実のところ、初歩の訓練はもう終わっているの。だから、もう少し実践的な修業を積みたくて」
「でも、なぜ僕に」
「あなたが一番いいと思ったの。だって、あなたの魔法力の集め方はとてもきれいだから」


 ほめられているのだ、と気づくのに、少し時間がかかった。
 だが、自分の力を認められたことを素直に受け入れられず、つい他者と自らを引き比べる言葉を口にしてしまっていた。
「レヴィンのほうが、僕より魔法が得意だと思うけど」
「あの人はだめよ」
 間髪おかず、ラケシスは即答した。
「どうして?」


 レヴィンは吟遊詩人という触れ込みでシグルドの軍に加わった魔道士だ。
 魔法の腕は確かだし、とりわけ風の魔法の扱いに関してなら、アゼルよりよほど優れている。
 内に秘める魔法力の高さも、魔法力の集束の巧みさも、とても敵う気がしない相手だ。
「あの人の魔法の捉え方は感覚的過ぎるの。
 天才なのよね、きっと。生まれたときから精霊の声が勝手に聞こえているような人だもの。
 でも、そういう人って、人に教えるのはとってもへたくそ」
 あっけらかんとした調子で、ラケシスは答えた。


 ――じゃあ僕は、天才じゃないんだ。そういうことになるよね。
  お姫様は無邪気で残酷だ。本当のことでも、言ってもらいたくないことだってあるのに。

 皮肉な思いが、アゼルの胸をよぎる。


 自分の才能が兄アルヴィスにも、吟遊詩人レヴィンにも及ばないことを、アゼルは自覚している。だが、それを他人から指摘されるのは――決して嬉しいものではない。


「じゃあ僕は……」
 心に抱く苦々しさを声ににじませないよう気をつけながら、アゼルは問いかける。
「あなたは魔力が高いわ。資質にも恵まれていると思う。でもそれは、訓練の賜物でもある。そうなのでしょう?」


 驚いた。
 たしかにアゼルは魔法の訓練に力を入れてきた。ヴェルトマーの血族として恥ずかしくない人間になりたい。その一念で、多くの時間を割き、努力を重ねてきた。
 だが、そんな努力をもってしても、兄アルヴィスにはとうてい及ばない。
 人はアゼルに言う。
 さすがアルヴィスさまの弟君。しかしアルヴィスさまはあなたのお歳にはそれ以上のことをやすやすとやってのけた。あの方は本当に優れた魔道士でいらっしゃる。
 アゼルが多少の手柄を立てようと、アゼル本人の力はさして認められることもなく、人々の称賛は常にアルヴィスへと向かう。


「どうして……」
 ぽかんとした表情で問いかけたアゼルに、確信に満ちた口調でラケシスは言う。
「わかるのよ、わたしには」
 なぜ、と問うことを許さない、そんな何かがその声にはあった。
「そっか……」
 納得できたわけではない。
 それでもとりあえずうなずいたアゼルに、たたみかけるようにラケシスは問いかける。
「で、どうなのかしら」
「うん?」
「わたしに魔法を教えてくださる?」
「かまわないけれど……」
 時間ならある。それにラケシスはきれいでかわいらしい女の子だ。気が強くて強引なので、ちょっと腰が引けそうになるが、一緒に過ごす機会が増えるのは嬉しい限りだ。
 引き受けない理由はない。だが、あっさりと承諾してしまうのは、負けてしまったような気がして、なんとなく面白くない。
 なにかいい案はないだろうか。


 アゼルは目の前に立つ少女を眺めなおす。
 ふと、少女の腰に吊り下げられている瀟洒な誂えの剣が目に入った。


 ――そうか、剣だ。


「交換条件がある」
 少し声を作り、もったいをつけた調子でアゼルは言った。
「何かしら?」
「代わりに、僕に剣を教えてくれないかな?」
 剣の扱いを身につけることは以前から考えていた。少しずつではあるが、すでに訓練を始めてもいる。
「どうして?」
「学べることは学んでおきたい。さっきあなたはそう言ったよね。
 同じことさ。僕も学べることは学んでおきたい。ちょうど今は時間も空いてるし」
「でも、なぜわたしに?」
「交換条件だから。それと、時間に空きがあって、剣がそれなりに使える人って、他にはあまり思い当たらないしね」


 それは事実だった。
 シグルドに仕える騎士たちは、日々自らの鍛錬を行うとともに、周辺の治安を維持する任をも担っている。傭兵たちにしても同じことだ。
 名目上、アゼルは魔法部隊の指揮官とされている。だが、ヴェルトマー公子である彼の位置づけには微妙なものが含まれており、日頃の哨戒任務などに駆り出されることはほぼない。


 ラケシスの立場はさらに微妙である。
 シグルドは彼女を客人として遇している。だが、バーハラの宮廷もマディノのシャガールも、彼女をただの客人とは見なしていない。


 ――ノディオンのラケシス王女は、アグストリアからグランベルに送られた人質だ。


 表だってはっきり口に出す者はいない。だが、そう信じている人々がいるのは確かだった。
 何らかの任務を与えられるといったこともない代わりに、気ままに外に出かけるようなこともまた難しい。そんな状態に彼女は置かれていた。


「暇で悪かったわね」
 ラケシスは拗ねたような口調で言った。
「それはお互い様だろう?」
「そう言われると……仕方ないわね」
「じゃあ……」
「交換条件ですもの」
「そうだね」
「あなたはわたしに魔法を教える。わたしはあなたに剣を教える。それでよろしくて、ヴェルトマーのアゼル公子?」
「かまいませんとも。ノディオンのラケシス姫」
 アゼルは胸に手を当て、芝居がかった動作で礼をした。そして、顔を上げ、ラケシスに目配せする。
 真面目そうな顔をこしらえていたラケシスだったが、アゼルと目が合うとぱっと破顔し、満面の笑みを浮かべた。
 ――こんなふうに笑う子だったんだ。
 固いつぼみだった芍薬がほころび、ちらりと花蕊を見せた瞬間のような、華やかな笑み。
 美しい少女だとは思っていた。だが、彼女の本当の美しさを知っていたわけではなかったのだ、今までは。
 少女のかんばせに瞬間宿った鮮やかな輝きに、アゼルはただただ目を奪われた。



 アグストリア諸侯連合を束ねる上級王が代々領有してきた王都アグスティ。
 この都は、今、グランベルの軍によって占拠されている。


 現在、王都アグスティを治めているのは、グランベル六公爵家のひとつ、シアルフィ家の公子シグルドである。
 先の動乱において、ノディオンの王女ラケシスはシグルドのもとに身を寄せた。そして動乱がおさまった今も、ラケシスはシグルドにつき従う人々とともに王都アグスティで暮らしている。
 シグルドはラケシスを丁重に扱い、客人として遇している。
 しかし、実のところラケシスの行動にはさまざまな制限が加わえられてもいる。
 それはラケシスの身を安全に保つための措置であったが、同時に、彼女の身柄をシャガールに『奪われる』ことを警戒してのことでもあった。


 ノディオン王エルトシャンはその妹ラケシスをことのほか大切にしている。
 エルトシャンの妻グラーニェは、先年の秋に起こった動乱に先立って、病がちなのを理由に息子アレスを連れて実家のあるレンスターに戻っている。
 たしかにグラーニェは病弱だが、そこまでひどく健康を害していたわけではない。動乱の兆しを悟ったエルトシャンが先回りして妻子を逃したというのが真相だろう。妻子の無事を確保した後、エルトシャンはノディオンを妹ラケシスに委ね、自らはシャガール王のもとに向かった。
 だが、シャガールはエルトシャンの言葉を容れず、その身柄を拘束した。
 シグルドはラケシスやエルトシャンを救うことを目的としてアグストリアに進軍し、ついには王都アグスティを陥落させた。
 今やアグストリアの南半分は、グランベルの勢力下にあるといっていい。
 マディノに拠点を置くシャガールを支えるのは、エルトシャンと彼の率いるクロスナイツのみ。
 そのエルトシャンの泣き所とでも言うべきラケシスは、アグスティのシグルドのもとにある。
 シャガールの視点から捉えるならば、ラケシスはシグルドに『押さえられて』いるのだ。可能ならばその身柄を『取り戻し』、エルトシャンがシャガールのために存分に力をふるえるようにせねばならない。


 ノディオンのラケシスは、アグストリアとグランベルの間にあって、きわめて微妙な位置に立たされているのである。



「あなた、あまり剣には頼らないようにしたほうがよさそうね」
 そう言って、ラケシスはため息をついた。
 アゼルとラケシスがともに剣と魔法を学びあうようになって、十日ほどになる。
 ラケシスの魔法は長足の進歩を遂げている。しかしアゼルの剣の腕前はと言えば、先ほどのラケシスのつぶやきのとおりだ。
 率直に言って、アゼルはあまり剣が得意ではなかった。剣が、というよりは荒事全般が得意ではないと言った方がいいだろうか。
 基本的に膂力が足りていないのだ。その他の運動能力はさほど劣っているわけでもないのだが。


「そもそもなぜ、剣を学びたいなんて思ったの?」
 それを言うなら君だって、どうして魔法を習おうだなんて思ったのさ。
 そう問いかけるのをすんでのところで思いとどまり、アゼルは答えた。
「いずれマージナイトに昇格したいと考えてるんだ。だからある程度、剣のわざも身につけておかないと」
 マージナイトは馬上で魔法を使って戦う騎士である。セイジなどに比べれば魔法の威力そのものにはあまり期待できないが、機動力と汎用性においては優れたものがある。ヴェルトマー公爵家の誇る騎士団ロートリッターにも、マージナイトで構成された部隊が存在している。


「でも、むしろセイジやマージファイターを目指したほうがよくはなくて。そちらのほうが、魔道士としては完成されているように思えるのだけど」
 不思議そうに問いかけるラケシスに、アゼルは答えた。
「純粋に、魔法の力だけを問題にするならば、僕はそれほど優れているわけじゃない。そのあたりは自分でもわかってる。
 それに、マージナイトならきっと兄上のお役に立てる。僕は、兄上を支えることのできる人間になりたいから」
 シグルドの軍に参入し、ヴェルダンの戦を経験したころからずっと胸の裡であたためていたことだった。だが、今まではっきりと口に出してみたことはなかった。
「あなたのお兄様って……ヴェルトマーのアルヴィス卿?」
「そうだけど」
「そう、お兄様を支えることのできる人間に……」
 ラケシスは考え込むようにそうつぶやく。
「おかしいかな?」
「ううん。おかしくはないけれど。
 でも、あなたはアルヴィス卿に無断でシグルド様のところへ馳せ参じたのだと聞いていたから」
「ああ、たしかに」


 ユングヴィのエーディンを救出するためにシグルドが軍を起こしたと聞いた時、アゼルは兄に無断でバーハラの館を飛び出し、ユングヴィへと向かった。
 アルヴィスに言えば引き止められるとわかっていたからだ。
 アルヴィスはアゼルを保護すべき子どもだと思っている。弟が戦場に出て危険に身をさらすことなど、到底許しはしないだろう。
 それだけではない。何か政治的な理由から、アルヴィスはユングヴィの危機を黙殺するつもりなのではないか。はっきりとはわからないながらも、アゼルはその可能性を感じ取っていた。
 行動を起こそうと思うならば、兄に相談してはならない。勘、としか言いようのない部分でアゼルはそう判断し、親友であるドズルのレックスのみに声をかけ、自分の計画を実行に移したのである。


「でも、僕はいずれ兄上のもとに戻るつもりだ。兄上の隣で、兄上を支え、ヴェルトマー家を盛り立てていく。それが僕のあるべき生き方だと思っているから」


 戦場に身を置くようになって、アゼルは気づいた。
 どこまで行っても、結局自分は『ヴェルトマーのアゼル』なのだ。
 自分は兄を慕っている。だからこそ、兄に抗い、独自の判断で動きたいと思ったのだ。
 兄にただ盲従するのではない。対等に向き合い、いずれその傍らに立つためには、一度は兄に逆らってでも、自分自身の意志で動いてみる必要があったのだ。
 シグルドのもとで戦うことは兄の意には染まないかもしれない。だがそれでも、これは自分にとって必要な過程だったのだ。


「……わたしたち、似ているのかもしれないわね」
 ラケシスがぽつりとつぶやいた。
「わたしも、エルト兄様をお助けすることのできる人間になりたくて、騎士のわざを習いたいと思ったのよ。
 ……本当は、女らしいふるまいを身につけてどこかに嫁いだほうが、もっとお役に立てるのかもしれないけれど」
「いや、君はすごいよ」


 この数日の交流によって、アゼルはラケシスに一目置くようになっていた。
 ラケシスは一見わがままな娘のように見えるが、実際にはかなりの努力家でもある。
 ヘズルの血統を引いているだけのことはあって、身体能力はもともと高いようだ。だが、そこにはとどまらず、剣に加えて、槍、斧、弓、それに魔法と、あらゆる種類の技量をまんべんなく学ぼうとし、実際、それなりに身につけつつある。
 武芸だけではない。地理や歴史に科学、軍学など、学問の習得にも励んでいるらしい。若い見習い騎士たちとともに、オイフェの家庭教師として招聘された学者の講義をすすんで受けていると聞いている。


「あ、でも、マージナイトになりたいのならば、むしろ騎乗のわざを磨いたほうがいいのではなくて? あなた、乗馬はなさるの?」
「それなりには」
 乗馬は嫌いではない。バーハラの館で暮らしていた頃も、レックスと連れだって遠乗りを楽しんだりしていた。乗馬にそれなりの自信があるからこそ、マージナイトへの昇格を真剣に考慮しているのだ。
「軍馬を操る訓練は?」
「それは……十分じゃないかも」
「ねえ、だったら、剣よりもむしろそちらの練習に時間を割くべきではないかしら? わたしも、軍馬の背で杖を使う練習を積んでいるところなのよ」
「そっか……」
「正直、剣にはあまり見込みがあるとは思えないの。だったら、重点を絞って技量を身につけるべきよ」
「君はなんというか……」
「なにかしら?」
「言いにくいことをはっきり言うよね」


 これがわがままとか気が強いとか言われているゆえんなんだろうな、とアゼルは思う。
 ラケシスは歯に衣着せぬ物言いをする。ただ、彼女は決して『空気の読めない』たぐいの人間ではない。そういった言葉を向ける相手はごく限られているのかもしれない。
「あら、大切なことじゃない。
 最善を尽くすためには、おのれの得手不得手を心得て、より適切な方法を考える。学べること全てを習得しようとするのは立派だと思うけれど、できることは限られているのだし」
「そうだね」
「わたしはお兄様のお役に立ちたいの」
 ラケシスは噛みしめるようにその言葉を口にした。
「今、ここにいるのも、それがお兄様のためにわたしができる、最良の選択だと思うから。
 ときどき、お兄様にお会いしたくてたまらなくなる。でも、お兄様のところへ行ってしまったら、シャガール王がわたしを膝元に呼び寄せ、わたしの身柄を盾にとってお兄様に難題を吹きかけないとも限らないでしょう?」


 ――ああ、この子は。


 彼女はとても頭がいいのだ。
 自分の置かれている状況を客観的に理解し、自分という存在の政治的な意味を認識し、その上で自分の意志で行動を決めている。
 気まぐれでもわがままでもなく、最良の方策を考え抜いた上で、彼女は今の立場を選び取ったのだ。


「君は……本当にすごいね」
「でも、ここにいるのが楽しいから、というのもたしかにあるのよ。シグルド様のところでは気を使わずに自由にふるまうことができる。友達と呼べる人たちもいる」
 そうなのかもしれない。
 彼女は楽しそうに日々を送っている。オイフェやフィンといった同年輩の見習い騎士たちと学びあい、エスリンやエーディンといった女性陣とおしゃべりに花を咲かせる。人質という言葉からもたらされる暗い印象は、その暮らしぶりからはまったくうかがえない。
「エルト兄様は、アグストリアとグランベルの架け橋になることを望んでおられる。
 そのお兄様の願いを叶えるために、わたしにできることはあるだろうか。そう考えた結果、わたしはシグルド様のもとに身を置くことを選んだの。
 本当はただの人質なのかもしれない。でもそれでもいい。わたしはわたしにできる最善を尽くして、お兄様をお守りしたいから」



 ラケシスの勧めに従って、アゼルは彼女とともに軍馬の扱いを習ってみることにした。
 ラケシスに軍馬の扱いを教えているのは、シアルフィの騎士ノイッシュだという。
「あの人、教えるのうまいわよ。本当はあなたの剣も、わたしなんかよりああいう人に習ったほうがいいんじゃないかと思うけど」
「いいよ、あの人忙しそうだし」
「そうよね」
 本気で剣の腕を今以上に磨きたいなら、師匠を替えることを考えたほうがいいのかもしれない。ラケシスはどちらかと言えば勘に頼りがちだし、少し感情的なところもある。師匠として最適とは言いがたい。だが、最初の交換条件がある。
 それに、ラケシスと関わる時間を手放してしまうのは――なんだかもったいない気がする。


 ラケシスの言葉どおり、ノイッシュの指導は適切だった。
 ノイッシュは相手の持つ力をよく把握して、無理な要求を押し付けたりはしない。だが容易いことしかやらせないのではなく、ほんの少しだけ難しい課題をそれとなく悟らせる。
 ひとりの戦士としてみた場合、彼にはさほど強いという印象はない。むしろ、少し無理をしながら戦っているのではないかと感じることも多い。だが、こういった側面があるからこそ、シグルドの信頼を得て、重要な役割を与えられているのだろう。


 それよりもアゼルが気になったのは、ラケシスの態度だった。
 アゼルとの練習のときと比べて、やけにしおらしいのである。
 言葉数も少ないし、出された指示をそのまま受け入れて、口答えもせずに素直に従っている。
 アゼルが相手のときはこんな様子ではない。
 ラケシスがアゼルの言うことをそのまま素直に受け入れることはあまりない。納得がいくまで何度でも聞き返してくるし、ときには喧嘩腰になって挑みかかってくるようなことすらある。
 つまり、自分は彼女になめられていたのだろうか。それとも指示が適切ではなく、うまく教えることができていないのだろうか。
 いずれにせよ、自分が未熟であるからこそ、ラケシスは素直な態度を取らないのではないか。そう思いあたると、少しばかりほろ苦い気持ちがこみあげてきた。


 練習を始めて半刻ばかり過ぎたころ、ひとりの女性が柵の向こうにたたずんでいるのにアゼルは気づいた。
 今しがた通りががったという風情でこちらを見ているのは、イザークの女剣士アイラだ。
 なぜここに彼女がいるのだろう。
 気を取られてつい目を向けたアゼルを不審に思ったのか、ノイッシュが声をかけてきた。
「アゼル公子、どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。ただあそこに……」
 人影のある方角を手で指し示すと、ノイッシュはそちらを眺めやった。そして人影の正体を悟ると、はっとして動作を止めた。
「少し、失礼します」
 そう言い残すと、ノイッシュは気の急いた様子で馬を走らせ、柵へと向かう。
 騎士は女剣士のそばで馬をとめると、何事かを話し始めた。
 距離があるので会話の内容はわからない。だが、ふと感じるものがあった。


 ――ああ、このふたりは。


 こういった雰囲気には覚えがある。
 一見して、特に何かおかしな点があるわけではない。ふたりはごく控えめに、ただ言葉を交わしているだけだ。だが、そこには抑えがたく漏れ出てくる、ある気配が存在している。


「我慢しなくてもいいのにね」
 いつの間にか隣にラケシスがいた。
 驚いた表情で振り向いたアゼルのほうを見ることもなく、前方のふたりを見つめたまま、ラケシスは続けた。
「あのふたりよ。想い合ってもう久しいようなのに、ちっとも表に出そうとはしない。手を握り合う気配すらないわ。でも、普通にわかっちゃうわよね」
 平板な口調でラケシスは言う。
 その顔にはこれといった表情はなく、ただ淡々と感じたままを述べているように見えた。
 だが、アゼルは気づく。
 まじろぎもせず、ただふたりを見つめるラケシス。
 その声に、そのまなざしに込められている想いは。


 ――そうか、ラケシスは。


 ようやく気づいた。
 ノイッシュの前ではやけにしおらしいラケシス。ひたすらにその指示に従い、無駄口をきくこともなく黙々と鍛錬に励むラケシス。
 彼女はとうに気づいていたのだろう。自分の気持にも、シアルフィの騎士の想いが向かう先にも。
 魅かれあうふたりの間には、自分が割り込む余地などすでにない。
 それでも離れることも諦めきることもできず、傍に近づき、何度も同じ痛みを繰り返し味わう。


 それはアゼルにも覚えのあることだった。
 アゼルがシグルドの軍に身を寄せたのは、ユングヴィのエーディン公女を救いたかったからだ。
 ただ蛮族に奪われたエーディンの身を案じていただけではなかった。他ならぬ自分が蛮族を打ち倒し、みごと彼女を取り戻す。そんな未来をこっそり夢見なかったと言えば嘘になる。
 だが救い出された姫君がその瞳を向けた相手は、アゼルではなかった。


 エーディンとレンスターの見習い騎士が見つめあうさまを、アゼルは何度となく目にしていた。
 取り立てておかしな点があったわけではない。彼らの様子はとても控え目でひそやかだった。
 だがそこには明らかに、他者の分け入ることのできない何かが存在していた。
 意外だった。なぜ彼を、と、何度となく心の中で問うた。
 直接、エーディンに問いかけてみるべきだったのかもしれない。だがその勇気も持てず、アゼルはただ諦めた。
 そして今、気づけば彼らは分かちがたく結びいており、もはやアゼルの分け入る隙などどこにもない。


 ――本当に僕らはよく似ている。


 優れた才を持つ兄に向かう強い想いも。
 年上の憧れの人が恋に落ちゆくさまをただ眺めていることしかできない、無様であわれな片思いも。


 ふいに、横に並ぶ少女に対し、何か強い、どうにも言い表しようのない感情があふれてくるのを、アゼルは感じた。
 同病相哀れむ。突き詰めればそんなところに落ち着くのだろうか。
 だが、単なる同情と言い捨てることのできない、胸の詰まるような何かがそこにはあった。


 ――僕らは遠い星を想い続けている。
 手を伸ばしても届くことのない、はるかな天上の星を。
 瞳を閉ざしても、星は瞼の裏で輝きを放ち続けている。
 その光は遠く、それでいてまばゆく、僕らの心をつかんで離そうとしない。


「あんまり無理しなくていいんじゃないかな」
 胸にこみあげるものを正確に表わすべき言葉が見つからないまま、アゼルは最初に思いついた言葉を口にした。
「どういう意味?」
 いぶかしげな、少し不機嫌な声でラケシスが返す。
「特に意味なんてない。ただそのままだよ。無理はしなくていい」
「わたし……無理、してるのかしら」
「うん、たぶん」
「しなくても……認めてもらえるのかしら」
「少なくとも僕は知ってる。君が頑張っていることも、君がすごいってことも」
「すごいって……なにが?」
「いろいろ」
「……あなた、本当は何も考えていないんじゃないの?」
「どうだろう」
「変な人」
 そう言って、ラケシスはぷいと横を向いた。
 彼女の声はまだ少し固い。だが、先ほどまでの張りつめたような気配はだいぶ薄まっているように感じる。


 ――ああ、かわいいなあ。


 自分の中にあふれ出たこの思いの正体は、詰まるところ、この少女への愛おしさなのか。
 突然訪れた悟りに、アゼルは自分でも驚いていた。


 彼女は美しい少女だ。その華やかな容姿は人目を引きつけてやまない。
 だが、彼女の本当の魅力は、その内面にこそある。
 わがままで、気が強くて、利発で、頑張り屋で、意地っ張りで、そして――とてつもなく優しい。
 それがノディオンのラケシスなのだ。


 ――変な人でもいいさ。君が笑ってくれるなら。


 本当はそう言いたかった。
 だがそんな気取った言葉を口にできるはずもなく、ヴェルトマーのアゼルは、ただラケシスの横顔を見つめ続けていた。


《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2016/05/20
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