星影の瞳
初めて出会った時、彼は命の瀬戸際にあった。
マーファの城に囚われていたエーディンは、ヴェルダン王子ジャムカの助力によってひそかに城を脱し、ヴェルダンを進軍中だというシグルドの軍勢を探していた。
ジェノア近郊の海岸近くで、エーディンはシグルド麾下の騎士と行き会い、無事シグルドたちとの合流を果たす。
そしてそのまま身を休める暇もなく、彼女はおのれの負うべき任務に就いた。
負傷した者たちを癒す――それこそが自分の任務であると、エーディンは考えている。
「ごめんなさい、エーディン。いきなりこんなことをお願いしてしまって。
でも、ぜんぜん手が足りていないし、わたしでは力が及ばなくて」
憔悴しきった表情で詫びる親友に、エーディンは柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「いいえエスリン。私でお役に立てることがあるなら、これほどありがたいことはないの」
シグルドの軍には癒しの技を持つ者が少ない。
レンスター王妃エスリンは数少ない癒し手のひとりとして、日夜癒しの技を行使してきた。しかし、すべての負傷者を癒しきるにはあまりにも人手不足だった。
エスリンは限界まで疲れ果てている。挨拶を交わすや否や、エーディンはそのことに気づいた。
だからこそ、エーディンは自らの身を休めるよりも先に、傷ついた者たちの中に分け入り、癒しの技を使うことを選んだのだ。
近年、グランベルは平和であった。
騎士たちを束ねる公爵家の娘として生まれ、僧侶となって癒しの技を身に付けたエーディンではあったが、実際の戦場に出るのは、今回が初めてだ。
呻き、泣き叫ぶ声。血と膿のにおい。
すべて、エーディンにとってなじみのないものだ。
(この惨状を生み出した一因は、私にあるのだろうか)
この戦は、彼女の名のもとにはじまっている。
ヴェルダンは彼女と聖弓イチイバルを奪おうとしていた。そしてシグルドは彼女の奪還のために兵を進めた。
彼女自身が望んだことではなかった。だが、戦いのきっかけとして彼女の名前が使われたのは事実だ。
彼女に咎があったわけでは決してない。
それでも、戦いで傷つき苦しむ者たちと自分を切り離して捉えることは、エーディンにはできなかった。
多くの人々が傷ついていた。
その中でも、“彼”の状態はひときわ深刻なものだった。
その見習い騎士は天幕の隅に寝かされていた。
まだ若い――少年といっていいくらいの年頃だ。青い髪は汗ばんだ額にはりつき、呼吸は不規則で荒い。時々うめくような声をかすかにもらすものの、なんとかして痛みにあらがい、おのれを保とうとしているように見えた。
「傷を見せてください」
エーディンは傷ついた若者に声をかけ、その傍らに身をかがめる。
「あ……なた……は……?」
切れ切れに若者が問いかける。
「ユングヴィのエーディンです。無理にしゃべろうとしないで。私に心を委ねてください」
「エーディン……さま……? では……ご無事……で……」
「お黙りになって、フィン」
それがこの若い騎士の名であると、エスリンは言っていた。
レンスター王子キュアンが目をかけ、大切に育てようとしている見習い騎士。
傷口を確かめると、エーディンはリライブの杖を掲げ、神に祈りを捧げて癒しの力を呼び起こす。
ポゥ、と、杖の先にはめられた宝玉に淡い光が宿った。
光は次第に拡がり、天幕の暗がりをぼんやりと照らしあげる。
「……っ!」
フィンは声にならない呻きを、かすかに洩らした。
「これ、は……」
呆然とした様子で、彼は呟く。
「傷はあらかた癒えたはずです。でも、くれぐれも油断はしないで。失われた血や、奪われた体力がすべて戻るまでにはまだまだ時間がかかるはずですから」
「エーディン、様……?」
若い騎士はじっとエーディンを見詰めている。
その瞳に、エーディンは我知らず見入っていた。
瞳は深い藍の色。揺れるランプの炎がその瞳に反射し、星の瞬きのごとき光を添えている。
星を宿した夜の色の瞳。
一瞬にして、深く、そして永く、その輝きはエーディンの胸の奥に刻み込まれた。
彼のどこがそれほど特別だったのか、後になってからですら、エーディンにはよくわからなかった。
癒し手である彼女を崇める者は少なくない。彼女の技によって命を救われた者が、まるで女神であるかのように彼女を伏し拝むのは、よくある情景だ。
その美貌ゆえに彼女に惹かれる男性も少なくない。長く豊かな黄金の髪。淡い色合いの、夢見るような光を宿した蜂蜜色の瞳。花のかんばせに宿る表情はあくまで柔和にして清楚。
賛美を捧げられるのも、欲望を向けられるのも、エーディンにとって珍しいものではなかった。
だから、彼女によって命を救われたレンスターの見習い騎士が、憧憬と崇拝のこもった瞳を彼女に向けてくるのは、意外でもなければ目新しいことでもなかった。
……なかったはずなのに。
彼の視線の注がれる先が、その一挙手一投足が、すべて無視できないもののように感じられる。
その手の触れたものすべてが、温もりと輝きを宿すように感じられる。
どうしてこんなことが起こってしまったのだろう。
彼は五つも年下の、異国の騎士だ。
レンスターでは名門とされる一族の生まれだという。だが、グランベル六公爵家の姫君にして聖戦士の血族であるエーディンの配偶者になるには、つりあいの取れた相手とは到底言えない。
弟のアンドレイよりもなお若く、身分においても劣っている若者。
伴侶とするのは不可能ではないかもしれない。だが、実現させるにはあまりにも困難が多い。
本来ならば望むべき相手ではないのに。
彼の姿を追い、その声を聞くことは、彼女にとって大きな喜びと、困惑と、そして痛みを秘めた苦悩をもたらすものとなっていた。
ヴェルダンの戦が終結すると、シグルドの軍はアグストリアとの国境に立つエバンスへと移動した。
エーディンは、そしてレンスターの一行もまた、帰国することなくシグルドと行動を共にしていた。
シアルフィ公子シグルドは恋をしていた。
その恋は実を結び、エバンス城で婚礼が行われる運びとなった。
若い城主を祝福して、エバンスは晴れがましい空気で満たされていた。
季節は夏、夏至も近い頃――
エバンスは前線の砦であり、華やかな宮廷ではない。
グランベルはいまだイザークとの戦争を続けていたし、ヴェルダンやアグストリアにも無警戒ではいられない空気が流れている。
だから、シグルドの婚礼の宴は格式ばらないものとなった。
グランベル六公爵家の世継ぎのものとしては、あまりにも質素だったと言うべきだろう。
だが、そこには喜びがあり、心からの祝福があった。
最前線でのつましい宴であったからこそ、シグルドの婚礼は真実と愛情で満たされたものとなったのだ。
「踊っていただけませんか」
宴もたけなわになった頃、大広間の端にひとりたたずむエーディンに、フィンが声をかけてきた。
エーディンをダンスに誘う者は少なくなかった。だが、彼だけはずっと声をかけてこなかった。
いや、そもそも彼は誰とも踊っていなかったような気がする。
「私でよろしいなら」
「お願いいたします」
フィンはエーディンの手を取ると、そのまま楽の音に合わせてステップを踏みはじめる。
その動きはややぎこちない。だが、ステップは軽やかだし、リードは確かで踊りやすい。
「そんなに息を詰めていなくても、大丈夫」
ささやくようにエーディンは言った。
「もう少し力を抜いて。あなたはとても上手よ」
「……はい」
少し顔を赤らめて、小さな声でフィンがうなずく。
「誰に教えてもらったのか、訊いてもいいかしら」
少し意地悪がしたくなって、エーディンは訊ねた。
「エスリン様に。それからシアルフィのアレク殿にも。騎士として必要な作法だからと」
「……ああ」
あくまでも真面目に、正直に答えるさまがいかにも彼らしくて、エーディンは思わず笑みをもらした。
「レンスター生まれのかわいい女の子ではないのね」
「そんな知り合いはおりません」
少しあわてたような調子でフィンは答える。
「そう」
そのまま言葉が途切れた。
続ける言葉もないまま、曲の切れ目までふたりは踊り続けた。
曲が終ったところで、エーディンはそっと告げた。
「暑くなってしまったわね。少し夜気にあたって涼みましょう」
回廊に囲まれた中庭で、ふたりは互いの横に並び立ち、言葉もなくたたずんでいた。
星明かりの中庭は静謐な空気で満たされている。
広間の楽の音がかすかに響いてくる。だがその音は遠く、別の世界から洩れ聞こえるこだまのようだ。
エーディンはふと視線を上げ、フィンのおとがいを見つめる。
初めて出会ってからまだ三ヶ月と経っていない。だが、彼はずいぶんと変わった。
エーディンの癒しの技によって一命を取り留めたのちも、彼はしばらく休養が必要な状態にあった。
あの頃、彼は衰弱し、傷ついていた。
ただ体に傷を負っていただけではない。戦士としての未熟さを恥じ、役立たずなおのれ自身に腹を立て、肝心な時に戦場にいられないことに焦りを覚えていた。
焦る必要などないのに。彼は若く――幼いといっても差支えないほどに若く、それゆえに経験も少ないだけなのだから。
時と経験を得たならば、彼はきっと優れた騎士となる。彼の主君であるキュアンはそのことを確信しており、だからこそ、この遠征に彼を伴ったのだ。
傷が癒えた彼は戦場に戻った。精霊の森を抜け、ヴェルダンの本城に攻めのぼる戦に参加した。
経験を積むことにとって、彼は落ち着きと熟練を手に入れていった。
その成長は目覚ましく、確かな資質と伸びゆく若さを感じさせる。
彼はきっと知らない。自分がどれほど成長しているかなど。
そしておそらく気づいていない。その若さに、エーディンがかなしみと不安を覚えていることなど。
彼は若くて健やかだ。
彼の目に、自分はどう映っているのだろう。
命の恩人だから。だから彼は私に特別な目を向けているのだ。ただそれだけのことに過ぎない。
彼には、自分よりももっと若くてかわいらしい、つりあいのとれた相手がふさわしい。
「エーディン様」
突然、フィンはエーディンに顔を向け、静かな声でつぶやくように言った。
「あなたをお慕いしております」
息が止まるかと思った。
「フィン……?」
「このようなことを言うのは、あなたにとって迷惑なことでしょう。
ですが、私は、あなたをお慕いしています。
だから、私は、あなたにふさわしい者となりたい」
フィンは訥々と語る。
もともと言葉の多いほうではない。こんなに長く語る彼を見るのは珍しいと言ってもいい。
「今すぐにとは申しません。でも……いつか。
いつかあなたを求めることを、許していただきたいのです」
「フィン……私は」
拒むべきなのだろう。自分を求めようとすれば、彼は苦しむに違いない。
彼はとても騎士らしい騎士だ。キュアン王子を慕い、尊敬し、レンスターのために槍を振るうことに誇りを感じている。
彼はレンスターを捨てられない。彼はレンスターの忠義なる騎士。レンスターにあってこそ、彼は矛盾なく、しあわせに生きられる。
エーディンがユングヴィの娘、聖弓イチイバルの護り手であるように。
――そう、私はユングヴィの娘なのだ。
ユングヴィにはアンドレイがいる。けれど、アンドレイはイチイバルを使うことができない。
もし私が子どもを産んで、その子どもに聖痕があらわれるようなことがあれば、ユングヴィは分裂するかもしれない。
だから、私は伴侶を求めてはならない。
お姉さまが見つかるか、アンドレイの子どもに聖痕があらわれて、聖弓の継承者が明らかになるまでは。
イチイバルの正当な継承者が現れるまで、私が聖弓から解放されることはない。
だから私は……
そんなことは初めからわかっていたはずだ。
それなのに、一度動き始めた心は、気づいてしまった想いは、義務と責任の名のもとに堅くそびえていた堰を押し流して、今、あふれ出ようとしている。
「……あなたが好きよ」
フィンが息を呑むのが伝わってきた。
エーディンはフィンにただうなずき返す。
遠い広間の灯が、フィンの顔を横から照らす。
藍色の双眸は暗闇の中にあって、今はその色すら定かでない。
だが、エーディンは知っている。その瞳には星の輝きが宿っていることを。
フィンの顔が近づいてくる。
エーディンは瞳を閉ざし、顎を軽く引き上げて、彼に向けて顔を傾ける。
フィンは頬を寄せると、エーディンの唇の上にそっとおのれの唇を重ねた。
《fin》