約束して
アーサーが生まれたのは、秋の終わりのよく晴れた朝だった。
生まれる兆しがあらわれたのは前の日の日暮れだったのに、生まれたときには夜が明けてすっかり明るくなっていた。結局、一晩中あたしはうなり続けていた。
正直、大変だった。こんなしんどい思いをするのはもうごめんだって、何度も思った。
けれど、生まれてきた赤ちゃんを抱かせてもらって、そしてあたしと赤ちゃんを覗き込むレヴィンを見たとき、あたしはとても――とてもしあわせな気持ちになった。
レヴィンは涙ぐんでいた。泣きながら、うれしそうに笑っていた。
びっくりした。レヴィンはちょっと斜にかまえているというか、かっこつけてるというか、人前で泣いたりするのは嫌がる人だと思っていた。けれどもあの朝レヴィンはそういったものを全部取り払って、ぐしゃぐしゃの顔をあたしに向けてきた。
よかった。本当にそう思った。
あたしとレヴィンの関係は、シレジアの人たちからはそんなに歓迎されているわけじゃない。そのことを表立ってはっきり指摘する人はそんなにいないけど、それくらいあたしだってわかっている。
あたしはフリージ家の娘で、レヴィンはシレジアの王子だ。
あたしの家とシアルフィのシグルド様たちは対立していて、レヴィンのお母様であるラーナ王妃はシグルド様に肩入れしていて。そのうえシレジアだって決して一つに固まっているわけじゃなくて、レヴィンの叔父さんたちは、レヴィンやラーナ様に敵対しようとしていて。
ああ、めんどくさいな。説明しようとするだけで頭がこんがらがっちゃう。
そう、なんというか、あたしがレヴィンと夫婦になるというのは、政略的に見ると、ものすごく面倒な状況をもたらすものなのだ、たぶん。
うん、だから。
王子レヴィンの相手としてシレジアの人たちが望んでいたのは、こんなややこしい事情を抱えたグランベル貴族の娘なんかじゃない。もっとこう、レヴィンの立場を強化してくれるような女性だったはずだ。
たとえば、そう、フュリーみたいな。
けれど、レヴィンは――レヴィンとあたしはこういう関係になって、そしてアーサーが生まれた。
シレジアの人たちの中で――ううん、シグルド様に従っている人たちを含めても、あたしに対して一番親身になってくれたのはフュリーだった。
最初は不思議だったし、状況がわかり始めたら、もっと不思議だった。
フュリーはレヴィンの部下で幼馴染で、そして、たぶんレヴィンのことを愛していた。
だから、普通ならあたしのことを一番邪険にしたっておかしくないはずだ。
なのに、あの人はいつも親切で。
うそつきの偽善者なんじゃないかって思ったときもあった。宮廷ではそういう人、珍しくないから。
でも、たぶんそうじゃない。
あの人はうそのつけるような人じゃない。真面目でお人よしで馬鹿正直で。その上、レヴィンのことが本当に好きで。
たぶん男と女とか、王子とその騎士とか、そういった関係を抜きにしても、フュリーはレヴィンという人のことが好きなのだ。
だからフュリーはいつだって、レヴィンが一番しあわせになれる道を一生懸命考えていて。それで、あたしとレヴィンがなるべく居心地よく過ごせるようにって、気遣ってくれたんだろう。
そう気づいてしまうと、けっこう苦しかった。
けれど、だったらあたしが譲ればいいかと言えば、そうもいかず。
いろいろ迷ったときもあった。でもアーサーを授かったりとか、そう、とにかくいろいろなことがあって、あたしはこう思うようになった。
あたしは精一杯、しあわせになろう。レヴィンをしっかりつかまえて、アーサーをきちんとかわいがって、そうやってちゃんとした家族を作って、素敵な人生を送ろう。たぶんそれが、一番いい方法なのだ。
ラーナ様もフュリーも、それなら安心できるはずだ。そしてきっと、お父さまだって。
お父さまは、あたしのことをどう思っているだろう。勝手に家を出てって、シグルド様の仲間としてシレジアに行ってしまった娘のことを。
心配しているだろうか。それとも、厄介な娘だと腹を立てているだろうか。
お父さまのことは、いつも気になっていた。
お父さまはシグルド様を陥れた。
自分の父親だけど、ううん、自分の父親だからこそ、それが事実なのだと、あたしはわかっていた。
お父さまは頭のまわる人だ。そしてそのことを自分でもよく知っていて、ほかの人の馬鹿さ加減に寛容になれない。そんなところがある。
お父さまはあたしに冷たかったわけじゃない。けれど、あたしに対して、お父さまはたいして期待をかけていなかったように思う。
頭の悪い、不出来な娘。
お父さまにとって、あたしはたぶん、そんな存在だったんじゃないだろうか。
あたしは、お父さまに見捨てられたくなかった。
馬鹿な娘だと叱責されるのではなく、よくやったと褒めてもらいたかった。
だから、あたしなりにがんばってた。魔法の練習も、公爵家の娘にとって必要とされている、いろんなお勉強も。
けれど、お父さまに褒めてもらえるようなことはほとんどなくて。
お兄さまのことなら、お父さまは認めている。なのにあたしは。
その違いが悔しくて、かなしくて。
あたしはバーハラを離れてアグストリアを訪ねて――そして、レヴィンと出会った。
アーサーが生まれてふた月ほどして、シレジアの内戦がはじまった。
お産がきつかったこともあって、あたしはまだあんまり元気じゃなかった。だから戦には加わらず、セイレーン城に残ることになった。
今回の敵はトーヴェ城のマイオス公爵。レヴィンの叔父さんにあたる人だ。
あたしはレヴィンのことが心配だった。
レヴィンは一見、平気そうな顔をしていた。けれどもとてもぴりぴりしていて、ちょっと怖いような気配を漂わせていた。
レヴィンは戦に慣れているはずだ。でも今回は、このシレジアの地で、シレジアの王子として戦う。戦う相手はシレジア人で、しかもその総大将は自分の叔父にあたる人だ。
つらくないはずがない。
本当はレヴィンのそばにいたかった。だから一緒に行きたいと、一度だけレヴィンに言ってみたことがある。
でも、そうしたらものすごく反対された。
確かに今のあたしの体調では、軍について行くのはちょっと厳しい。いちおう乳母はいるものの、アーサーから離れるのだって、できれば避けたい。反対されるのは当然なんだけど。
結局あたしはひとり城に残り、レヴィンは出陣していった。
そしてひと月近く経って、報せが入る。
トーヴェ城が陥落した。城主マイオス公爵に止めを刺したのは、王子レヴィンだった、と。
トーヴェ陥落に続いて、ザクソンのダッカー公爵が軍を起こした。
ダッカー公爵の動きは早かった。みんながトーヴェから戻ってくるよりも早く、シレジア城は陥落してしまう。
ダッカー公爵はユングヴィのアンドレイと結託していたらしい。ペガサス部隊を率いて戦ったマーニャさんは、ユングヴィの弓騎士団に蹂躙されて、命を落とす。
悲惨な戦いだったと聞いた。なすすべもなく、一方的にやられたのだと。
ようやくトーヴェから戻ってきたみんなは、補給だけを済ませると、ほとんど休むことなくシレジア城奪還のために出陣していった。
今回はあたしも加わった。レヴィンは相変わらず反対したけれど、体力もだいたい戻っていたし、何よりも、あたしはレヴィンが心配だった。
レヴィンは張り詰めていた。傷ついていた。シレジア城を落とされたこと、そして何よりも、マーニャさんを失ったことが重くのしかかっているようだった。
マーニャさんとは何度か会ったことがある。正直言って、ちょっと苦手な相手だった。
でもあの人はシレジアにとってとても大切な人で、レヴィンにとっても――たぶん、特別な人だったんだろう。
シレジア城を落とすのに、さほど時間はかからなかった。
そしてレヴィンは城に囚われていたラーナ様と対面して、神器フォルセティを受け取った。
シレジア城を奪還すれば、残るのはダッカー公爵の本拠地であるザクソン城のみ。
シグルド様は軍を整えなおすと、ザクソンに向けて進軍を開始する。
ダッカー公爵は他国の傭兵を雇い入れて、城の守りを固めていた。
傭兵団はそれなりに強かったけれども、今のあたしたちの敵ではなかった。
中でもレヴィンの戦いぶりはすさまじかった。
神器フォルセティは風を刃に変え、すべてを切り裂いてゆく。
あたしも神器を受け継ぐ家に生まれている。だから、神器がどんなものかは知っている。
ううん、知っているつもりだった。
お父さまが試演でトールハンマーを使うところを見たことがある。けれど、実戦の中で見るフォルセティの力は、それとはぜんぜん違っていた。
圧倒的、だった。そばに寄るだけで肌が粟立つような、そんなすさまじい魔力が立ちのぼる。
なのに、どう言ったらいいだろう。清らかで温かいものもまた、そこには同時に存在していた。
ああ、そうだ。
レヴィンの呼ぶ風は、いつだってやさしかった。
初めて出会ったとき、レヴィンはちいさな風を呼び出して、木の枝に引っかかったリボンを取ってくれた。
彼の吹く笛の音は、息吹という名の風によって作り出され、そよ吹く風に乗って広がっていく。
くすぐられて笑いがこぼれ出るような。やさしくそっと包み込んでくれるような。そんな風を呼ぶことができる人なのだ。
神に迫るような力を得ても、この人は変わらない。そう思うとあたしはうれしくて――そして、誇らしかった。
ザクソン城が陥落するのに、たいして時間はかからなかった。
城主ダッカー公爵にとどめを刺したのは、今回もやはりレヴィンだった。
悪逆の叔父を討ち果した王子をシレジア国民は歓呼をもって迎え入れ、王子レヴィンは国民に笑顔で応えた。
こうしてシレジアに再び安定と平和がもたらされた。
あたしは知っている。
あの夜、ふたりきりになった後、レヴィンは泣いていた。
言葉にならない嗚咽をもらし、肩を揺らして泣き続けていた。
そんな彼に、あたしは何も言えなかった。
あたしは言葉もなく寄り添って、夜が明けるまでただひたすら彼を抱きしめていた。
シレジアには平和が戻った。けれどシグルド様の戦いはまだ終わったわけじゃない。
ザクソン制圧から日を置かずして、ドズルのランゴバルト公爵の軍勢がシレジアとイザークの境にあるリューベックの城を攻め落としたという報せが入った。
グランベルの追手はもうそこまで迫っている。
このままシレジアにとどまり続ければ、きっと、ランゴバルト公爵の軍勢はシグルド様の身柄を引き渡すことをシレジアに要求してくるだろう。
拒めば当然、戦争になる。
シグルド様は討って出ることを選んだ。そしてレヴィンもまた、シグルド様とともにリューベックに向かうつもりだとあたしに言った。
「ティルテュ、お前はシレジアに残れ」
リューベックへの進軍が決まった日の夜のこと。寝室でふたりきりになると、レヴィンはあたしにそう切り出した。
「どうして!」
「無理をしてほしくないんだ。アーサーだってまだ幼い。戦場になんて連れて行けるものか。だからシレジアに残って……」
「いや」
「ティルテュ、わかってくれよ」
「あたしはあなたと離れたくない」
「俺だって離れたくなんかない。だがな、ティルテュ、このままグランベルに向けて進軍すれば、俺たちはいつかきっとレプトール公爵と戦うことになる」
……うん、わかっている。
今回の戦いはこれまでとは違う。あたしたちはグランベル本国に向けて進軍する。待ち構える敵はグランベルの人間、そしてあたしの父はその敵の大将のひとりだ。
「身内と戦うなんて、ろくなもんじゃない」
静かな声でゆっくりと、レヴィンはそう言った。
怒っているのでも、たしなめているのでもない。けれどその声にこめられている強い思いは、否応なく伝わってくる。
「俺は叔父上のことなんて好きじゃなかった。マーニャのことがあってからは憎んですらいた。そして、叔父上を倒すのは俺でなくてはならなかった。異国からの客人であるシグルド公子ではなく。
けれど、幼い頃から知っているような身内と敵味方になるなんて、ろくなもんじゃない。ましてやレプトール公爵はお前の、実の父親なんだぞ。そんな相手とお前が戦っていいはずない」
そう。身内と戦うことのつらさを、レヴィンは誰よりもよく知っている。
だからこそ彼はあたしに言うのだ。お父さまと戦ってはいけないと。
「それに、実際にレプトール公爵が出陣するとしたら、きっとトールハンマーを携えているだろう。トールハンマーは雷を呼ぶ。そして雷に対して有利な属性は――わかるだろ?」
……気づいてなかった。
雷魔法に有利なのは風魔法。そして神器を操る人間にまともに対抗できるのは、同じく神器を持つ者くらいだ。
この先、お父さまと戦うことになったとして、お父さまと戦えるだけの力を持っているのは……
「俺は――風魔法フォルセティの継承者である俺は、レプトール公爵に対する切り札となる。だから、レプトール公爵が出陣すれば、ほぼ確実に俺が立ち向かうことになる。そんな現場にお前が居合わせるなんて」
お父さまとレヴィンが殺しあう。そんなの、考えただけで胸が張り裂けそうになる。
呆然と見つめるあたしの頬に、レヴィンはそっと手を伸ばす。
「シレジアに残ってくれ」
「……ううん、あたし、やっぱり一緒に行く。行きたいの」
あたしの答えに、レヴィンは息を呑み、目を見開いた。
そんな彼に構うことなく、ゆっくりと、はっきりとした声で、あたしは続ける。
「あたしにとっての家族は、今ではもうレヴィンだから。だからできるだけそばにいさせて」
レヴィン、覚えてる?
アグストリアでシレジアへ向かう船を待っていたとき、あなたが手を差し伸べてくれたこと。
あのとき、あたしは選んだ。たとえお父さまがすぐそばに来ていたとしても、この人と一緒にシレジアへ行くんだって。
本当のところ、あの時点ではまだしっかり選べていたわけじゃなかった。けれど今ならはっきり言える。あのとき、あなたの手を取ったことは、けっして間違ってなんかいなかった。
「あたしね、決めたの。ちゃんと家族を作るって。あなたと一緒に。あなたと、アーサーと、ううん、アーサーだけじゃない、ほかにもきっといっぱい子供を産んで。そしてみんなで一緒に暮らすの。仲良く、にぎやかに」
レヴィンは応えない。頬に伸ばした手をさらに伸ばし、あたしの頭の後ろにすっと差しこむ。
そうしてもう一方の手をあたしの背に回して、ぎゅっと抱き寄せた。
「なら、約束してくれ」
ちいさな、かすれたような声で、あたしの耳元でレヴィンが言う。
「お前は俺と来る。ただし、アーサーはシレジアに預ける。そして、レプトール公爵と戦うと決まったら、お前は軍を離れてシレジアに戻る。それでいいか?」
「……うん」
本当は最後までレヴィンと一緒にいたい。けれどこれ以上、無理は言えなかった。
「じゃあ、レヴィンも約束して。
必ず生き残るって。死んだりしないって。そしてずっと一緒に生きていくって」
「ああ、もちろん」
レヴィンは迷うことなくそう答えた。
ああ、本当にそうできたらいいのに。
あたしたちの向かう先に待つ戦いは、きっと今まで以上につらくて厳しいものになる。
待っている敵は、お父さまやランゴバルトのおじ様だ。
明日のことなんかわかるはずがない。そして、たとえ勝てたとしても、あたしたちが無傷でいられるはずはない。
なんて不確かな約束だろう。それでもあたしは、あきらめるつもりはない。
レヴィンは抱きしめていた腕を緩め、少し体を離す。
そして改めてあたしの顔を覗き込むと、顔を寄せて、むさぼるように唇を重ねてきた。
《fin》