FE聖戦20th記念企画

月影の剣


「無理はするな。ここは引け」
 そう言って、金髪の剣士はブリギッドをその背にかばうように、敵との間に割って入った。


 いらぬ世話を。
 思わず出かかった言葉を、ブリギッドはすんでのところで飲み込む。


 男の言うとおり、今は引くべきだ。
 ブリギッドの得意とする武器は弓である。弓は敵に距離を詰められてしまっては使いにくい。至近距離からの速射もできないわけではないが、距離を取ることができるならばそれに越したことはない。


「すまない。助かる」
 そう答えて、ブリギッドはその場を剣士に預け、後方に下がった。


 距離を見計らい、ブリギッドは敵に矢を放つ。
 敵を見据え、味方の位置を確認しながら。


 敵対する海賊はかなりの人数だ。しかし、さすがは歴戦のつわものと言うべきか。シアルフィ公子シグルドに率いられた軍はみごとなまでに統制がとれている。押し寄せる海賊を巧みにあしらい、あっさりと打ち破っていく。


 混戦の中、先ほどの剣士の姿をブリギッドはひそかに捜し求めていた。
 なんという名であったか。たしか歩兵部隊の一員だったはずだが。
 昨日、軍議の席で顔を合わせたと記憶している。だが、その名前は思い出せなかった。


 ――ああ、いた。


 大剣が銀の輝きを帯びて閃く。
 自在に、舞うがごとく。


 ――なんて、きれいなんだろう。


 きれいなはずなどないのに。これは殺し合いなのだから。


 男が戦う姿を見て、それを美しいと感じる。今まで、そんな経験はなかった。
 海賊に育てらたブリギッドは、戦いの中で生きてきた。
 賊と呼ばれてはいるものの、無意味な略奪はしない。それが身上だった。
 強きをくじき、弱きを守る。その信念が矜持を支えてきた。
 けれども自分はたしかに海賊で、その名にふさわしい行為を重ねてきた。
 だから、戦いならばよく知っている。
 戦いは熱狂を生む。その熱と狂乱の中には、荒々しい喜びが潜んでいる。
 だが同時に、破壊と死からまぬがれ得ない、愚かしくも醜悪な行為でもある。


 あんな戦い方は見たことがなかった。
 無駄のない身のこなし。鋭い剣さばき。
 熱に浮かされているように見えても、どこまでも冷静で。


 美しい。そう思った。


 大剣をやすやすとふるい、次々に海賊たちを切り伏せてゆく金髪の剣士。
 戦場の混乱の中にあって、彼の姿だけが、くっきりと鮮やかに、ブリギッドの記憶に刻み込まれた。



 アグストリア諸侯連合を統べる上級王シャガールは、シアルフィ公子シグルドによって討たれた。
 シャガール王を討ち果したシグルドは、すぐに軍を返し、アグストリアの北東に位置するオーガヒルの海賊砦に向けて進軍を開始した。混乱に乗じて、海賊たちが不穏な動きを見せていたからだ。
 獰猛な海賊も、歴戦の猛者であるシグルド軍を前にしては、ただ押されるばかりだった。シグルド軍は快進撃を続け、瞬く間に海賊の本拠地たるオーガヒルの砦を包囲する。
 明日には砦の攻略が始まる。そんな時、シグルドの軍に合流した者たちがいた。
 ブラギの塔から戻ってきたエッダのクロードとフリージ公女ティルテュ。加えてもうひとり、オーガヒルの首領だった女戦士ブリギッドが、シグルドの軍に加わったのだ。


 ブリギッドはかつてはオーガヒル海賊の首領だった。だが、部下ドバールの不品行を咎めた結果、逆に彼女自身が海賊から追われて、命を狙われるようになった。
 逃避行の中でブリギッドはクロードらと行き会う。そして気づけばともにシグルドの軍に身を寄せていた。


 自分の身に何が起こっているのか、ブリギッドは把握しきれていなかった。
 仲間だったはずのオーガヒル海賊から追われ、グランベルの公子のもとに身を寄せた。
 自分と瓜二つの容貌を持つ女性から姉と呼ばれ、見るからに立派な弓を手渡された。
 弓弦を引き絞るとともによみがえった、幼少期の記憶。
 ブリギッドは思い出した。
 自分はユングヴィの公女だ。そして目の前にいる、自分と同じ顔をした女性はエーディン。幼い頃に生き別れた双子の妹。
 この弓は神器なのだと、エーディンは言った。
 ユングヴィに伝わる、大いなる力を秘めた聖弓イチイバル。
 この弓を引くことができるのは、同世代ではただひとり、ブリギッドのみなのだと。


 エーディンの言葉は真実だと、ブリギッドは確信する。
 海賊のもとで過ごした日々、何かが欠けていると感じていた。
 今、イチイバルを手にしてブリギッドは知った。いや、思い出した。
 優しかった父と母。いつも一緒だった、自分とそっくりの女の子。
 なぜ忘れていたのだろう。こんなにも慕わしく、温かく、懐かしいものたちを。
 自分はユングヴィのブリギッド、聖弓イチイバルの後継者だ。


 父はいつも言っていた。
 いつかお前がこの弓を使うことになるのだよ、と。
 この弓は大きな力を持っている。だからそれにふさわしい、強くて正しい人間になりなさい、と。


 ――ああ、そうだ。だから、自分は義賊でなければならなかったのだ。


 すべてが腑に落ちた。嵌め絵のかけらが正しい位置に収まって絵柄が完成したときのように、あるべき自分の姿がはっきり見えたような気がした。


 そうは言うものの、とまどいと混乱もまた、ブリギッドの中には渦巻いていたのだった。


 ずっと海賊の娘として生きてきた。
 育ての父である海賊の首領は荒々しい男だったが、ブリギッドには優しかった。彼が惜しみなく愛情を注いでくれたから、ブリギッドは自分が拾われた子供であったことに微塵も気づかなかった。ドバールに指摘されるまで、自分は根っからの海賊なのだと、信じて疑わなかったのだ。
 だが、信じていた世界はあっけなく壊れ去った。
 そして、新しく目の前に開けた世界は、今まで見知っていたものとはまったく違っている。



 オーガヒルの海賊砦を攻略する軍勢に加わることを、ブリギッドは志願した。
 オーガヒルの海賊たちは、もとはブリギッドの部下だった。だが、義賊たらんとする先代の首領やブリギッドの意向に逆らって、民を苦しめ、悪行を働いた。
 元首領として、自分はけじめをつけなければならない。率先して彼らを討ち、オーガヒルの海賊が負った悪名を打ち消さなくては。
 そう気負うブリギッドに、総大将であるシグルドは言った。


 ――ともに戦おう。そして君の力を貸してほしい。君が欲しいのだ。


 海賊の首魁であったブリギッドに対して、疑いを抱くことなく、シグルドは信頼を寄せてくる。その開けっぴろげな態度に半ばあきれつつも、ブリギッドは救われたような気持ちがした。


 こうしてブリギッドはシグルド軍の一員となる。
 そして、オーガヒル攻略の戦いの中で、彼女は「彼」と出会ったのだった。



 オーガヒルの攻防はシグルド軍の勝利の終わった。
 だがその直後、シグルドは同国人の陰謀によって反逆者と呼ばれるようになる。
 シグルドと彼を取り巻く人々はアグストリアを離れ、シレジアへと亡命することとなった。
 ブリギッドもまたシグルド軍の一員として、ともに北国シレジアへと逃れた。


 一行がシレジアに着いたのは冬の初めだった。
 慣れない土地で、いまだ親しいとは言いがたい人々と暮らす。ブリギッドにとって、その冬は厳しいものであってもおかしくないはずだった。
 だが、ブリギッドはこれまでになく安らいだ時間を過ごしていた。
 シグルドを取り巻く人々は、穏やかで優しい。
 貴族や金持ちはずる賢く心冷たいものだ。そう海賊たちは言っていた。穏やかで礼儀正しいふるまいの陰で、悪だくみや足の引っ張り合いを行う、そんな信用ならない連中なのだと。
 だが、そんなことはなかった。
 今、ブリギッドの周囲にいる人々は、その多くがいわゆる“身分のある人々”だ。
 彼らは表裏がないし、必要以上に偉ぶることもない。心温かで親切で、人をだますこともない。
 こんな世界もあったのか。
 身近な人々を疑ったり警戒したりする必要がない。善意に対しては善意が返される。
 それがどれほど幸福で得難いものであるのか、おそらくこの人たちは気づいてさえいない。
 守りたい。この穏やかな日々を。この善良で心やさしい人々を。
 聖弓の担い手たる元海賊は、心の底からそう願うようになっていた。



 シレジアは雪深い。冬の間、人々は室内にこもって暮らすことになる。
 外に出られない退屈な日々が続く中、ブリギッドは剣の技を身につけることを思い立った。
 自分には弓があれば十分。かつてはそう思っていた。
 だが、オーガヒルの戦いを経て、ブリギッドは弓以外のわざを身につけることを望むようになった。
 戦の中であの金髪の剣士が見せた銀の剣閃。あるいは、女剣士アイラが見せる、目にも止まらぬ素早い剣さばき。さすがにあれほどのものは無理だろう。それでも、ただ力まかせに武器を扱うのではなく技を極める、そういった戦いの仕方を学んでみたいと思ったのだ。


 では誰から剣を習うのか。
 まず脳裏に浮かんだのは、あの金髪の剣士――アグストリアの剣闘士ホリンだ。
 だがブリギッドが実際に教えを乞うたのは、イザークのアイラだった。
 ブリギッドがシグルドのもとに身を寄せるようになってからまだ間もない。妹であるエーディンを除いては、親しいと言えるほどの相手はいない。そんな中にあって、アイラとはどことなく気心が通じ合うようなところがあった。
 多く言葉を交わしたわけではない。けれども、アイラならば変に気遣うことなく話すことができる。そう感じていた。
 ブリギッドの申し出をアイラは快く引き受けた。こうしてセイレーン城の修練場で、ブリギッドは剣の修業を始めたのだった。



 剣を習い始めてから十日ばかり経った、ある日のことだった。
 気分がすぐれないので今日の稽古は見合わせたい。そうアイラが伝えてきた。
 元気そうに見えたのにどうしたことだろう。不安を覚えつつアイラを見舞ったブリギッドは、驚くべき言葉を聞かされた。


 ――子供ができた。どうやら三月目くらいらしい。


 アイラには伴侶がいる。起こりうる事態ではあった。
 だが、ブリギッドには意外だった。
 アイラは女である以前に剣士としての印象が強い。男と睦みあい、子宝に恵まれるといった、女にとっては当たり前の出来事が彼女の身の上にも降りかかるというのは、どことなく不思議な感じがした。


「すまないな。せっかく一緒に練習をはじめたばかりなのに」
「子供ができたんだろう。祝うべきことだ。謝るようなことじゃない。今は自分の体を第一に考えて、無事に元気な子供を産まないと」
 ベッドに身を横たえている黒髪の女剣士をたしなめるように、ブリギッドは言った。
「子供ができたくらいで、剣の稽古ができないとは思えないんだが」
 いかにも残念そうにアイラは答える。
「いや、授かったばかりの時期は、ちょっとしたことでもけっこう危なかったりするものだと聞いている。無理はしないでほしい」
「そうだな。もうわたしひとりの問題ではないのだし」
「そのとおり。第一、練習中に何かあれば、あなたの旦那から恨まれる。そいつは勘弁願いたい」
 アイラの伴侶である金の髪の騎士の姿を思い描きながら、ブリギッドは言った。
 シアルフィの騎士ノイッシュは、生真面目で情の深い人物に思える。本人は隠しているつもりのようだが、彼がアイラに夢中なのは少し見ればすぐにわかる。今こうやってアイラが休養を取っているのも、おそらくは彼の意向なのだろう。
「ん……そうだな、たしかに」
 一見不満そうな、だがその実どこか満足げな声で、アイラは頷いた。


「ところであなたの剣の師匠だが」
 表情を改めて、アイラが切り出した。
「わたしはこのとおりだ。練習に出るのはしばらくは無理だろう。で、代わりの者を考えていたのだが、ホリンではどうだろうか?」


 ――ホリン。


 その名を耳にすると、胸がざわめく。


「ホリン……か」


 その名を口の端にのぼらせると、鼓動が高鳴る。


「不服か?」
「いや、そうじゃない。ただ、あまりよく知らない相手だから」
 平静を装ってそう答えるブリギッドに、アイラは真面目な表情で相槌を打った。
「愛想のない奴だからな。だが、腕前はたしかだ。人に教えるのもけっこううまい。実は、シャナンの剣の稽古はあいつに頼んであるんだ」
「そうなのか」
「基礎を教えることに関してなら、たぶんノイッシュのほうがうまいと思う。ただ、歩兵の戦い方と騎士の戦い方は違う。あなたもシャナンも馬に乗って戦うわけではないから」
「なるほど」
「気が進まないなら、ほかの相手を考えるが」
「いや……頼んでもらえるならありがたい」
「そうか。ならばその線で話を進めておこう」
「ああ、すまないな」
「いや、もとはと言えば、わたしの都合で起こったことだし。……ああ、そういえば」
 思い出したようにアイラはつけ加えた。
「親しくないと言っていたが、ブリギッド、あいつはあなたを褒めていたぞ。いい目をした弓使いだと。あいつが誰かを褒めるなんてめったにないことだ。たぶん、かなり気に入られてるんじゃないかな」
「そうなのか」
 努めて平板な調子で、ブリギッドはそう答えた。


 本当は冷静ではいられなかった。
 あのホリンが、自分を褒める言葉を口にした。つまりそれは、少しは関心を持ち、認めてくれているということなのだろうか。



「あ、ブリギッドさん」
 修練場を訪れたブリギッドに、声をかけてきた者がいた。
「デュー?」
「今日から新しい仲間が加わるって聞いてたけど、ブリギッドさんだったんだ。よろしく!」
 少年と青年の境にある若者は、明るい声でそう言うとにっこり笑いかけてきた。
「あんたも、ホリンから剣を?」
「うん。おいら、ずっと我流でやってきたけど、どうせならちゃんとした武器の使い方を習いたいなって思ってて。で、シャナンがホリンさんから剣を習ってるのを見てさ、混ぜてもらえないかって聞いてみたんだ。な?」
 そう言ってデューは首をめぐらせて、奥のほうに佇んでいる少年に同意を求めた。
 練習用の剣を手にした黒髪の少年が、無言でうなずき返す。
「シャナンはまだ八つだけど、おいらなんかよりずっとうまいんだよな。ブリギッドさんはどう? 海賊のおかしらだったんだし、剣だってすごそうなんだけど?」
「わたしは初心者だよ。海賊連中は斧を使う奴らがほとんどで、正式な剣の使い方なんて勉強したことがない。第一、わたしは弓ばっかり触っていたしね」
「そっかあ、うん、そうだよね」


 デューはもとはヴェルダンの盗賊だったと聞いている。今では昔の稼業からは足を洗い、シグルド軍の一員としてこまごまとした用事をこなしているらしい。
 裏社会で生きてきた経歴を持つこの若者に、ブリギッドはそこはかとない共感を抱いていた。


「そろったようだな」
 いきなり背後から声をかけられ、ブリギッドはあわてて振り向いた。
 背の高い金髪の青年が、いつの間にかひっそりと姿を現していた。
「ホリン」
 ブリギッドの呼びかけに頷いて、金髪の剣士は口を開く。
「話はアイラから聞いている。今日からよろしく頼む」
「あ、ううん、こちらこそ」
 とまどいながら、ブリギッドは言葉を返した。
「わたしは習う側で、しかも初心者だ。よろしくっていうのは、こっちが言うべき言葉じゃないかな、先生」
 言いながら、ブリギッドはつい考えこんでしまう。


 ――ちょっとなれなれしすぎただろうか。失礼な女だと思われてなければいいけど。


「先生、か」


 笑っているのか、それとも何か気に障ったのか。
 応えるホリンの表情は、どことなくいつもと違うような気がする。


「あなたからそう呼ばれるほどの者ではないのだが。ユングヴィのブリギッド姫」
「姫はよしとくれ。わたしはあなたから剣を学ぶ――うん、そうだな、生徒というか弟子というか、そういったもんだ。それにふさわしい扱いをしてほしい」
「あなたのような、貴人であり武人でもある方を、ただの生徒として扱うのはすこし難しいのだが」
「けれど剣は素人だ。シャナンにも、きっとデューにも及ばない。だから、ちゃんとけじめはつけておきたいんだ。一番未熟な教え子として」
 考え込むような表情で、ホリンはじっとブリギッドを見つめる。
「なるほど。ではあなたを、教え子のひとりとして扱おう。ブリギッド」
 そっけない声だった。だがその声には、何かほっとさせられるような響きがあった。
 こちらを認め、対等に、そして相応に扱おうとしてくれている。
 たぶん、きっと、そうなのだ。
 ブリギッドは金髪の剣士に軽く一礼して、その顔を再び見上げた。



 ブリギッドがホリンから剣の手ほどきを受けるようになって、半月ほどが過ぎた。
 練習は順調だった。最初のうち、ホリンはブリギッドに基本の型のみを教え、立ち合いは行わせようとしなかった。ブリギッドは教えられたとおり忠実に型をなぞるとともに、シャナンやデューが練習している様を盗み見ていた。


 初日にデューが言っていたように、シャナンは幼いながらもすでに才覚の片鱗を見せている。体格も体力もまだまだ大人には及ばないため、ホリンは決して無理な指示は出さない。それでも、シャナンの剣筋には並ならぬものが感じられた。


 一方のデューは、自分自身で言っていたよりもはるかに巧みな使い手であるようにブリギッドには見えた。
 たしかにシャナンのような鮮やかさはない。がむしゃらで、乱れた動きのように見えることもある。だが、何か手合いの呼吸のようなものを心得ているように思えるのだ。
 たいしたことがなさそうに見えて、うかつに踏み込むと必殺の一撃を食らわしてくる。そういう、駆け引きの巧みさのようなものを、この若者は備えている。


 そしてホリンはと言えば。
 彼の動きは静かだ。無駄がなく、隙を見いだすのが難しい。
 決して華やかではない。動きは抑えられており、どこまでも実用に徹したもののように見える。
 だがその無駄のなさが美しいのだと、ブリギッドは思う。
 と同時に、その剣技にはどこか既視感があった。


 ――ああ、そうか。アイラだ。


 ホリンの剣技はどこかアイラのものと似ている。
 アイラの剣技はホリンよりも動的だ。すばやい動きで相手を翻弄して、手数の多さで勝負をかける。
 だが、その根本にある基本の型には、どこか相通ずるものがあるように思えるのだ。
 一度気にかかると、常にそのことが意識されるようになった。ブリギッドは心して他の者たちの剣技を観察し、ホリンやアイラの剣筋と比べるようになっていった。



「どうだ、剣の練習は」
 部屋に訪ねてきたブリギッドに、アイラは明るい調子で問いかけてきた。
「おかげさまでうまくいっている……と思う」
「そのようだな。この間ホリンに聞いた感じでは、なかなか筋もいいようだ」
「話をしたのか?」
「シャナンの様子を聞きたかったからな。最近、あの子も少し大人になってきたのか、何でもかんでも話してくれるということもなくなってしまって」
「なるほど」
「それでブリギッド、あなたのことも聞いてみたのだが、どうやらあれだ。ホリンはだいぶあなたを気に入っている」
「そう……なんだろうか」
 自信のない様子で応えるブリギッドを励ますように、アイラは大きく頷きかえす。
「あまり口の立つ男ではないからな。表だって褒め言葉を口にしたりはしないだろう。それでもなんとなくわかるものだ」
「そうか」


(やはりアイラは、ホリンと何か通じあうものを感じているのだろうか)


 そう思うと、かすかな鈍い痛みのようなものが、胸の奥で疼く。
「アイラ」
 意を決して、ブリギッドはアイラに問いかけた。
「あの人は、ホリンは、イザークの人間なんだろうか」
 その言葉に、アイラははっと息を呑む。
「どうしてそう思った?」
「ホリンの剣筋はあなたと似ている。ほかの連中とはどこか違う。たぶん、あなたと同じ流れを汲む剣の使い手なのではないか」
 アイラはブリギッドの顔をまじまじと見つめた。
「……さすがだな。ホリンが気に入るわけだ」
 そう言うと、アイラは大きく息をつき、言葉を続けた。
「そうだな、わたしも気づいていた。訊ねてみたこともある。あなたはイザークの人間なのかと」
「ホリンは何と?」
「自分はイザーク人から剣を教わった。だが、自分はイザークの人間ではない。そう答えた」
「そうか……」
「だが、わたしはあいつにそっくりなイザーク人を知っている」
「え?」
「あれはわたしが十二歳の時のことだった。ちょっとした機会があって、親戚筋にあたるふたつ年上の少年と出会った。彼は金の髪と青い瞳の持ち主で――アグストリア人である母親の容姿をそのまま受け継いでいたんだな――すぐれた腕を持った剣の使い手でもあった。話す機会なんてたいしてなかったし、以来、会うこともなかった。けれど、ずっと忘れることができなかった」
「その人は……」
「大人になる前に家を出て、そのまま音信不通になってしまった……らしい。はっきりとは知らないんだ。知りたかったけれども、聞くに聞けないまま、時間が流れてしまったから」
 淡々とした口調でありながら、アイラの声には悔恨がにじみ出ていた。
 ほんの束の間の出会いに過ぎないと言いながらも、その親戚の少年は、アイラにとっておそらく特別な――大切な存在だったに違いない。
「だから、あいつと出会った時は驚いた。そっくりだったから。容姿も、剣筋も。思いきって問いただしてみたんだが」
「違ったのか」
「否定された。『そんな名の者はここにはいない』と」
「そうか」
「本当のところを言えば、わたしはまだ疑っている。ホリンは本当はセタンタなのではないかと」
「セタンタ?」
「ああ、その親戚の名前だ」
「そんなに似ているのか」
「似ている。というか、あの剣技を使える奴が、そんなに何人もいてたまるものか」
「もしかしてその人は、あなたにとって」
「うん?」
「その、何というか、忘れられないような相手だったのか」
「そうだな」
 考え込むような表情を見せて、アイラは言った。
「私は勝気で、少しばかり思い上がったところのある子供だった。自分の剣の腕に自信があって……父や兄以外に後れを取ることなんてあるはずがない、そう思っていた。その鼻っ柱をへし折ったのがセタンタだった。まあ要するに、剣を合わせて負けたんだ。悔しかったさ。けれどそれがいいきっかけにもなった。おかげで私は知ったんだと思う。世界は広く、自分の知らないもの、自分では及ばないものがまだまだたくさんあるのだと」


 わかるような気がする。
 ブリギッドは日々、シャナンが剣を学ぶ姿を見ている。シャナンは幼いが、才能のひらめきを感じさせるものを具えている。男女の差こそあれ、幼い日のアイラもまた、あんな子供だったのではないか。熟達した大人ならばともかく、年の近い少年に敗れたとあれば、さぞ悔しかったことだろう。だがその悔しさは、彼女をより広い世界へと導く契機となったのだ。


(忘れえぬ相手――か)


 思い出を語るアイラは輝いて見えた。
 淡々とした口調ではある。だが、幼い日のその邂逅が彼女にとっていかに大切なものであったかは、おのずと窺い知れた。


 ――たぶんそれは、人が初恋と呼ぶものだったのではないか。


 面と向かって訊く気にはなれなかった。けれどもブリギッドはそう確信していた。
 今の彼女が誰を第一にしているかは疑う余地もない。身ごもった子供たちの父親に当たる男を、いかに彼女が大切に思っているかは、少し見ればわかることだ。
 だがそれはそれとして、幼い日の思い出もまた、彼女の中で明るい輝きを保ち続けているのかもしれない。



 年が改まってさらにふた月が過ぎ去った。
 ほかの国ではそろそろ春の兆しが見え始める季節になっても、シレジアはいまだ雪に閉ざされていた。
 吹雪の続いたときがあった。この吹雪はむしろ春の前兆であるのだと、土地の者は言う。けれども雪国に慣れないブリギッドにとって、昼とも夜ともつかない暗い空も、唸りを上げて吹きすさぶ風も、春はいまだ遠いのだと感じさせずにはおかないものだった。


 吹雪が始まって三日目の夜更けだった。
 何とはなしに寝つけないまま、ブリギッドは寝台に身を横たえ、吹きすさぶ風の唸りに耳を傾けていた。
 そうして耳を傾けているうちに、風の吼えたける音がふいにおさまった。
 しんと、体の奥に染みいるような静寂が訪れる。
(静かすぎるというのも、落ち着かないものだな)
 ブリギッドはそっと自分の部屋から忍び出ると、城の露台へと向かった。



 吹雪はおさまっていた。見上げると、深い藍色の空はきらめく星々で満たされていた。
 身を切るような寒気の中、細い三日月はどこまでも清澄に、皓々と照り映えている。
 ふと前方を見やると、少し離れた所に人影があった。
 寒空の下にただひとり、ひたすら夜空を見上げる男を認め、ブリギッドは足を止める。


(ホリン――)


 声をかけたかった。だが、ひとり佇む男の姿には、どこか人を拒む孤独の気配があった。
 立ち止まり、息をひそめ、ブリギッドは彼を見つめる。
 どれくらいそうしていたのか。
 男は空から視線を落とし、ゆっくりと振り返って――ブリギッドに気づいた。


「ブリギッド?」
 不思議そうな声で、ホリンが呼びかけてくる。
 呼び声を耳にして、呪縛が解かれた。ブリギッドはそっと男に歩み寄る。
「どうした、こんな夜更けに」
「吹雪の音が気になって寝つけなかった。おさまった気配がしたので、つい外に出てきた」
「そうか――俺もだ」
「そうなのか」
「子供の頃は、よく夜の空を見上げていたな」
 頭上に広がる星空に視線を転じて、ぽつりとホリンが呟いた。


 はっとして、ブリギッドは彼の横顔を見つめる。
 珍しいことだ。ホリンは寡黙な男で、特におのれ自身についてはあまり語ろうとしない。
 アグストリアの闘技場で、不敗の剣闘士の名声を勝ち得た男だという。だがそれ以前の彼について知る者はない。隠しているわけではないのかもしれないが、特に自分から言い立てることもないからだ。
 だが今、彼は幼い頃の思い出を口にしようとしている。


「剣閃、月光の如くさやかなるべし。
 俺が師匠と仰いだ人は、剣の極意をそう語った。子供にとっては、まるで意味のわからない言葉だった。だからその意味するところをつかみたくて、折があればひたすらに、ひとり夜空の月を眺めていた」
「夜更かしを咎める大人はいなかったのか?」
「そうだな――俺はいわば厄介者だったからな。夜、そばにいてくれるような相手はいなかった。人の数だけは多い家だったが」
 淡々とホリンは語る。短い言葉から窺い知れる少年の孤独に、ブリギッドは痛みを覚えずにはいられなかった。
「……すまない」
「謝るようなことではない。ただの事実だ」
 ホリンは天に向けていた視線をブリギッドに移して、静かな声で答える。
「でも……」
 ゆっくりと首を振ると、ホリンはなおも続けた。
「夜空を見上げるのは好きだった。月も、星も、地上からは遙かに遠く、けがれのないものに思えた」


 では、子供の頃の彼にとって、地上はけがれに満ちたものとして映っていたのだろうか。
 以前にアイラが話題にしたホリンと思しき人物のことを、ブリギッドは思い出す。
 大人になる前に家を出て、行方知れずとなったイザークの少年。アイラははっきりとは語らなかったが、何か複雑な事情があることが窺えた。今耳にしたホリンの過去にも、やはり同じようなものが感じられる。あれはやはり、ホリンのことなのではないだろうか。


「今も夜空は変わらない。いや、一層美しいようにも思える」
 ホリンの声はあくまでも静かだ。なのになぜだろう。かなしみと、そして孤独の気配が色濃く漂っているようにブリギッドには思える。


「冷えたのではないか?」
 そう言って、ホリンはブリギッドの右手を取り、ふわりと自分の手の中に包み込んだ。
「冷え切ってるな」
 ホリンの掌は不思議なほど暖かだった。
「そうだな……たしかにちょっと寒い」
 鼓動の高鳴りを押し隠し、ブリギッドは囁くように応える。
「俺の部屋にいい火酒がある。飲めば温まるだろう。来ないか?」
「え……」
「炉を分かちあい、ともに温まろう。無理にとは言わない。もしお前が望むなら」
 何気ない言葉だ。だが、そこに含まれる言外の意味を、ブリギッドは推し量ろうとする。


 ――炉を分かちあう、とは、古い時代に婚姻を意味するものとして使われていた言葉ではなかったか。


 何の含みもない、ただ文字通りの言葉なのかもしれない。たとえ男女の関係を求めるものであるにしても、それはただ、刹那の欲求を満たしたいという程度のものなのかもしれない。


 ――ああでも、それでも。


 今、おそらく彼は自分を求めている。そしてそれは、間違いなく自分の願いと一致している。
 ブリギッドもまた、彼のそばにありたいと思っている。
 たとえそれが彼にとってはひとときの気の迷いであったとしても。ただ一夜の出来事で終わってしまうのだとしても。


「……そうだな」


 頷いて、ブリギッドは彼の胸元にことりともたれかかった。
 一瞬、ホリンの体に緊張が走る。
 だが、右手で包み込んだブリギッドの手を自らの胸元に寄せ、左手をブリギッドの肩にまわすと、ホリンはそっと包み込むようにブリギッドを抱きしめた。



《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2017/3/29
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