FE聖戦20th記念企画

忠臣(前)


 間断なく押し寄せてきたフリージの兵が、ついに引き始めている。
 セリス皇子から派遣された援軍によって力を得たレンスター軍は、残る力を結集して突撃を繰り出した。
 この攻撃が決め手となった。今やフリージの兵たちは統率を失い、一気に潰走へと向かっている。
 半年にわたって繰り広げられたレンスターの攻防は、ようやく今、終わりを迎えようとしていた。



 セリス皇子の『解放軍』から派遣されてきたのは、デルムッド・レスター両名に率いられた騎馬部隊だった。
 デルムッドとレスター、加えて救護を受け持つラナは、レンスター城に入城するや、ただちに謁見の間で待つリーフ王子のもとに案内された。


「あなたがたのおかげで我々は救われた。本当に感謝している」


 そう言って頭を下げる少年を、ラナは不思議な気持ちで眺めていた。


(この人がレンスターのリーフ王子……セリス様のいとこだと聞いていたけれど)


 少年はあまりセリスに似ていないような気がする。ラナは内心、そんな感想を抱いた。


 リーフ王子は装飾性の高い、美しい鎧をまとっていた。茶色の髪に、濃い色の瞳。その表情にはまだどこか幼さが残っているが、両の目に宿る輝きには、年に似合わない厳しさが感じられる。
 リーフは努めて凛とした口調で話そうと心掛けているようだ。だが、多くの傷病者を癒してきたラナの目には、今、この少年が憔悴の極みにあることは隠しようもなかった。
 いや、この少年だけではない。レンスター城に集う兵士たちは誰もがみな、疲れきっている。傷を負っている者も少なくないようだ。


(本当に厳しい戦いだったんだ)


 リーフ王子に率いられた軍がこのレンスター城を奪還したのは半年前のことだという。以後、セリスの解放軍がこの北トラキアに足を踏み入れるまで、リーフたちはフリージ軍の包囲に耐えてきた。物資も士気もそろそろ限界だったに違いない。


「リーフ王子、お目にかかることができて大変嬉しく思います。私はデルムッド、ノディオンのラケシスの息子です。こちらはレスターとその妹ラナ、ユングヴィ公爵家に連なる者たちです。我らが盟主、セリス皇子に代わって、ご挨拶申し上げる次第」


 派遣軍を代表して、デルムッドが口上を述べた。


「ラケシスの……では君は、ナンナの兄上なのか」
「はい。王子のもとに妹がいると聞いて以来、ずっと会いたいと、そう願っておりました」
「そうだったのか。では、すぐにでもナンナに会って欲しい。きっと彼女も喜ぶはずだ」
「妹は……ナンナは無事なのですか?」
「ああ、おかげさまで。ナンナは戦の間中、癒しの技を使って味方の命を救ってきた。今も目を離すことのできない負傷者に付き添っていて、ここには居合わていないのだけど」
「怪我をしている方がいるのですか?」


 不遜かもしれない。そう思いながらもラナは口を挟んだ。
 礼を失して不興を買うよりも、手当てが間に合わず、助けられるはずだった者が助けられなくなることのほうが、ずっと恐ろしい。


「君は……」


 いぶかしげに訊ねるリーフに、ラナははきはきと答えた。


「ユングヴィのラナと申します。癒しの技を心得ています」
「そうか、なるほど。ではラナ、私たちを助けてはくれないか。長く続いた戦いのせいで、我が軍の癒しの杖は、もう使い物にならなくなっている。使いすぎて壊れてしまったんだ。だから今は、魔法による癒しではなく、普通の手当てしか行うことができない。けれどそれでは間に合わないような重傷の者がいて、ナンナは……壊れた杖から無理やり魔法の力を引き出そうと」
「なんてことを。そんな魔力の使い方をしたら、術者の体を損ねてしまうのに」
「やはりそうなのか」


 思い当たることがあるのだろう。リーフは緊張した声で問い返してきた。


「ええ、そうです。無茶です。すぐに止めないと」
「そうだな。早く行こう」


 そう言うと、リーフはすぐさま一歩前へと踏み出した。だが、リーフの右脇に立っていた中年の男性が声を上げた。


「いえ、王子。そのお気持はわかりますが、まずは使者どののお持ちした書状に目を通されますよう」
「アウグスト?」


 足を止めて振り向いたリーフに、アウグストは厳しい声で答えた。


「物事には順番がございます。ただ、ラナ様おひとりが席をはずされるのは問題ないでしょう。誰かに申しつけて、ナンナ様のところにご案内しては」
「……そうだな」


 リーフはすぐに元の位置に引き返す。そして、居並ぶ家臣をぐるりと見渡して、言葉を発した。


「ではアルバ、ラナを案内してくれないか?」
「心得ました」


 ひとりの騎士が列の中から歩み出て、一礼した。
 若い騎士だ。軽くうねりのある青い色の髪が、ラナの目を引いた。


(青い髪のひと……)


 この場に、この色の髪を持つ者は、他にもいるだろうか。
 ラナはこっそりとレンスターの家臣たちを探り見る。


(いない……のね。兄さまと、このアルバさんのほかには)


 では、あのひとはもう亡くなってしまったのだろうか。それとも、たまたまこの場に居合わせていないだけなのだろうか。


「では参りましょうか、ラナ様」


 気づくと、騎士アルバがラナのすぐ横に歩み寄っていた。


「そうですね。案内、お願いします」


 ラナは正面に立つリーフに恭しく礼をすると、アルバに従って謁見の間を後にした。


*****************


 騎士アルバに導かれて赴いた先は、回廊に面した小さな一室だった。
 扉を開けて室内に足を踏み込むと、入口近くにたたずんでいた青い髪の女性が、警戒もあらわに振り向いた。


「セルフィナ様、容態は?」


 声をひそめてアルバが問いかける。


「よくはないわ。ナンナ様は壊れたリライブの杖を使い続けているけれど……でも、ちっとも効いているようには見えなくて」
「意識は?」
「まだ戻ってないの。きっと傷を隠していたのが悪かったのね。熱も上がる一方。このままだといつまでもつか」
「あの、それなら急がないと」


 騎士アルバの背後から一歩踏み出して、ラナは言葉を発した。


「あなたは?」
「ユングヴィのラナ、シスターです」
「セリス皇子のところから来られたのです」


 そうアルバが言い添えると、セルフィナはふっと表情を和らげ、ラナに向かって一礼した。


「お願いします。お入りください」


 セルフィナは部屋の奥を手で指し示す。
 奥の壁際に寝台が置かれていた。その枕辺には金髪の少女が立ち、天に向かってリライブの杖を懸命に掲げている。
 魔法がきちんと働いたならば、杖の先に嵌められた宝玉が光り輝くはずだ。だが、少女の掲げる杖の宝玉にはまったく光が宿っていない。この杖にはもう、魔法を発動させる力は残されていないのだ。それでも少女は懸命に、杖におのれの魔力を流し込もうとしている。


「ナンナ様」


 セルフィナが呼びかけると、少女は振り向いた。


「セルフィナ……」
「セリス皇子のところからシスターが来てくださいました。交代してお休みください」
「でもセルフィナ、お父さまが!」


 金の髪の少女――ナンナは首を振りながら、あえぐような声で言った。


「わたしに任せてください……ナンナ様」


 ラナはナンナに歩み寄ると、さりげなく自分の手の中にあるライブの杖を指し示した。


「あなたは……」
「ラナと申します」
「あなたが……シスターでいらっしゃるのね。お願い。このひとを……お父さまを、どうか助けて」
「ええ。そのつもりです」


 

 ラナがそう答えると、ナンナはほっとしたように息をついた。だがすぐに表情を改め、患者の状態を伝えてきた。


「ひどい傷なのです。でも、幸いにも、臓腑には刃が至らなかったみたいで……ですから、傷口がふさがって化膿が収まれば、きっと」
「わかりました。お任せください」


 ラナがうなずきかけると、ナンナはすがるような目でラナをまっすぐに見据え、大きくうなずいた。
 気が緩んだのだろうか。ナンナはそのままその場にへなへなと座り込んだ。


「アルバ、ナンナ様を」


 あわてたようにセルフィナが若い騎士に呼びかける。アルバはすっと歩み出て、ナンナの横にしゃがみ込み、そっと問いかけた。


「立てますか?」
「大丈夫……です」
「あちらに参りましょう。ナンナ様も休息を取らないと」
「……ええ」


 アルバに付き添われてナンナは部屋の扉に向かう。外に出る前にもう一度ナンナは振り返り、ラナに向かって訴えかけるように言った。


「お願いします」


 ラナは無言で大きくうなずくと、ナンナが部屋を出るのを確かめず、そのまま寝台のすぐ横に歩み寄り、横たわっている患者に視線を落とした。


 青い髪の男だ。年の頃はよくわからないが、若くはないように見える。


(兄さまと同じ色の髪……)


 もしかしたら。
 不安とも期待ともつかないざわめきが、ラナの胸にこみあげてくる。


(でも、セルフィナさんもさっきのアルバさんも青い髪だから)


 先ほど謁見の間には、青い髪を持つ人は他に見当たらなかった。
 だが、この色の髪は、実のところ、レンスターでは珍しくないものなのかもしれない。


(いけない。余計なことは考えないで、今は治療に専念しないと)


 男の顔色はひどく悪い。呼吸も荒く、額にはびっしょりと汗をかいている。
 熱が高いのだと聞いた。少し見ただけでもかなり衰弱しているのがわかる。悠長に構えている暇はない。


 ラナはそう自分自身に言い聞かせると、無言のまま作業に移った。
 まずは患部の確認をしなくては。どのような傷を負い、どのような措置がなされたのかを確かめないと。
 掛け布をめくりあげ、着衣をはだけると、胴にぐるりと包帯がまかれているのが目に入る。


「傷を改めても?」
「お任せします」


 セルフィナの言葉にうなずき返すと、ラナは包帯を解いていった。作業がしやすいようにと、セルフィナが手を貸してくれる。


 男は引き締まった体をしていた。いや、引き締まったというよりは、むしろ痩せ細っているといったほうがいいかもしれない。


(傷だらけ……なんだ)


 男の体には、無数の古い傷跡があった。これほど多くの傷跡を持つ体は見たことがない。それほど老いているようには見えないのに、どれほど多くの、どんなに厳しい戦いをくぐりぬけてきたのだろう。


 包帯を解き終えると、負ったばかりの傷があらわになった。左の脇腹、ちょうど肋骨の下をかすめるように、赤黒い筋が走っている。傷口には縫い合わせた形跡があった。魔法によらない措置は、ひととおり施されているようだ。


(なんてひどい……)


 イザークでの旗揚げからもう半年近く経つ。その間、ラナはずっと治癒を受け持ってきた。戦場での負傷はもう見慣れている。そのラナの目にも、男の状態は命にかかわる深刻なものであると映った。


(魔法が使えないって、こういうことなんだ)


 傷口は清潔にされているし、縫合も丁寧だ。けれども、負傷した直後に治癒魔法を使っていれば、これほど重篤な状態には陥っていないはずだ。少なくとも、失血や発熱は、もう少し抑えられていただろう。


(ブラギ神よ、力をお貸しください)


 ラナは愛用のライブの杖を両手で支えるように持つと、薄く目を閉じて、天高く掲げた。
 魔力が体の中を通り抜けて、杖の先へと収束していくのが感じられる。
 魔力のうねりが頂点に高まったところで、ラナはすっと目を開いた。杖の先に嵌めこまれた宝玉に淡い輝きが宿り、魔法の光が周囲をほんのりと照らしあげる。
 びくん、と、男が身を震わせた。
 赤黒い傷が見る間にふさがり、腫れが引いていく。まだ傷のありかはくっきり見て取れるが、ひどいみみず腫れ程度のものに変わっている。


「ああ……」


 ラナの横で、セルフィナが大きく息をついた。


 その時だった。
 男の瞼がゆっくりと開いた。


 藍色の瞳だ。黒と見まがうほどに濃い、夜明け時の天頂の色の瞳。
 男は焦点の定かでないまなざしでぼんやりとラナを見上げ、そして、何とも言い表しようがない、柔らかな笑みをもらした。


「エーディン……あなたなのか……」


 囁くようなつぶやきだった。


(え……)


 ラナは硬直して男を見つめなおす。
 だが、男は再び瞳を閉ざすと、すうっと眠りに落ちていった。


「フィン……」


 ラナの後ろで、セルフィナが小さな声でつぶやいた。


「この方は……」


 呆然としたまま、ラナはセルフィナに問いかける。


「この方のお名前は、フィンとおっしゃるのですか?」


「ええ。我がレンスターの槍騎士フィン。リーフ王子の守役として、レンスター落城からずっと、王子を守り育ててきたひとです」
「この方はお若い頃、シグルド公子の軍に同行なさっておられた。そうですね?」
「ええ、そのとおりです。でもなぜ」
「この方は、わたしの……」


 そのときだった。
 扉がいきなり開いて、室内に入ってきたものがあった。


「ラナ!」


 驚いて扉のほうに目をやったラナは、兄レスターの姿をそこに見とめた。


「レスター兄さま?」


 レスターは肩で息をしながら、つかつかとラナのすぐそばまで歩み寄る。その表情にはいつものような冷静さはなく――驚き、切迫しているように見えた。


「ラナ、その」


 息を切らしながら話しかけてくる兄に、ラナはそっと首を振る。


「兄さま、静かにして。お父さまが眠ってらっしゃるから」
「あ……」


 レスターははっとして口をつぐんだ。


「お父さま、ですって?」


 ラナの横に立っていたセルフィナが、いぶかしげに問いかけてくる。


「申し遅れました。私はユングヴィのレスター、ここにいるラナの兄です」
「ユングヴィのレスター……?」


 セルフィナは不審な面持ちでレスターの名乗りを繰り返した。だが不意に、大きく目を見開き、息を飲み込んだ。


「では、あなたは、いえ、あなたがたはフィンの」
「はい。私たちの父はレンスターの騎士フィン。そう母から聞いています」
「そう……そうだったの……」
「それで、父の容態は」
「先ほど、こちらの……」


 そう言いかけて、セルフィナはちらりとラナに視線を寄こした。


「ラナです」
「失礼いたしました。お名前をつい失念しまして。ラナ様のお陰で、傷そのものは癒えたようです。ですが、衰弱が激しくて」


 セルフィナに続いて、ラナも言葉を添える。


「でも、ここからは魔法ではどうにもならないわ。お薬を飲んで、休養を取って、ゆっくり体力を戻さないと」
「そうか……」


 レスターは大きく息を吐き出した。
 ラナは兄からセルフィナに視線を移して問いかける。


「セルフィナさん、その……他にも癒しの技を必要としている方がいらっしゃるのでは」
「ええ、います。何しろ厳しい戦いでしたから」
「なら、わたしをその方たちのところへ案内してください」
「構わないのですか?」
「今、ここで、わたしがお父さまにできることはもうありません。ならば、シスターとしての務めを果たさないと」
「……ありがとうございます。助かります。ですが、くれぐれもご無理をなさらないで。ラナ様も、戦場から直接こちらにいらっしゃったばかりなのでしょう?」
「わたしなら大丈夫。まだ余裕があります。手遅れになったばかりに、命や健康を失うひとが出るなんて、そのほうが、よっぽど嫌ですから」


 そう、嫌なのだ。
 イザークでの旗揚げから半年と経っていない。けれどもラナは思い知らされていた。傷ついた者の手当ては、早ければ早いほどいい。少しの遅れが、命そのものや、あるいはその後の人生を左右することになりかねないのだから。


「兄さま」
「うん?」
「リーフ王子のご用は終わった?」
「ああ、だいたいのところは」


 おそらくリーフとの対話の中で、兄は件の重傷者が自分の父であると知ったのだろう。だから謁見が終わると、すぐさまここに駆けつけたのだ。


「ラナ、父上には俺が付き添う。目を覚まされたら、すぐに呼ぶから」
「ありがとう、兄さま」
「無理はするなよ」
「ええ」


*****************


 セルフィナに導かれて向かった先は、施療所として用意された大部屋だった。
 列をなして並べられた寝台には幾人もの患者が横たわっていたが、おおむね皆、フィンよりはましな状態にあるように見えた。
 ラナは医師の意見を伺い、特に重篤な者を優先して癒しの技を施していった。
 できることなら、すべての負傷者に癒しの技を使いたい。けれども、魔法の力は無限ではないのだ。魔法を使うたびに杖は痛むし、使用者であるラナも疲労していく。
 幸いにして、切迫して治癒を必要としている者はそう多くはなかった。ラナは自身が消耗しつくす前に、なすべき仕事を終えることができたのだった。


(疲れた……)


 最後の患者にライブを施し終えたところで、ラナは半ば倒れこむように椅子に腰を下ろし、大きく息を吐き出した。
 あれから数時間は経っているはずだ。けれども未だ、兄からの報せはなかった。フィンはまだ意識を取り戻していないのだろう。


(お父さま……ご無事だといいのだけど)


 傷はたしかに癒した。けれども父はひどく衰弱していた。手遅れだった可能性は十分に考えられる。


(お父さまは、ご自分が傷を負ったことを隠していらした)


 治療の合間に施療所の医師から聞いた。フィンは手傷を負ったとき、その傷を人から隠そうとしたのだと。
 出血があったから、傍にいた者たちは彼が負傷したことに気づいた。けれども彼はかすり傷だと言い張って、傷を改めさせることすら許さなかった。実際には彼は重傷であり、平静を保つのすら難しかったはずだった。なのに彼はそのまま指揮を執り続け、兵を引き上げさせるのに成功し、その後ひとりになってから人の目に触れないところで気を失い、そのまま今日に至ったのだと。


 なぜそんなことを。そう問いかけるラナに、医師は言った。


 ――あの方は癒しの杖がもうほとんど壊れかけていることをご存じで、万が一の際に杖が使えなくなることをおそれておいででした。だから、ご自分には使わせまいとなさったのでしょう。ですが、我々にとっては、あの方こそ失ってはならない方。知ってさえいれば、絶対に魔法を使っていたのに――


 ……ああ。


 

 父は考えなかったのだろうか。自分が命を失えば、悲しむ者がいるかもしれないとは。


 父の横に立ち、壊れた杖を掲げて祈りを捧げるナンナの姿が、脳裏に蘇る。
 壊れた杖から魔力を引き出そうとするのは、強く戒められているふるまいだ。
 癒しの魔法は神の恵みによる奇跡の技であり、人間の肉体には受け止めきれないものだと言われている。祝福を受けた杖を通して神の恵みを受け取ることで、ようやく人間は癒しの技を使うことができるのだと。だが、それにも限度がある。杖という媒体を用いることなく癒しの技を使おうとしても、普通はただ、力が働かずに終わってしまうだけだ。万が一、杖なしでまともに癒しの技を使うことができたなら、術者は我が身を通り抜ける“魔力”に耐えられず、焼き切れてしまうかもしれない。だから、壊れた杖を使って癒しの技を施そうと試みることは、禁忌とされているのだ。
 癒しの技を習う者は、まず最初にそのことを学ぶ。ナンナが知らなかったとは考えられない。理解した上で、彼女はあえて壊れた杖で癒しの技を使おうとしたに違いない。
 ナンナは自分の身の安全よりも、フィンの命を救うことを望んだ。そういうことなのだろう。


(ナンナ様は、わたしのお父さまを、お父さまと呼んでいた)


 あのとき、あの部屋で、ナンナはフィンを『お父さま』と呼んだ。
 だとすれば、ナンナはフィンの娘なのだろうか。
 彼女はラナと同じくらいの年頃に見えた。父が母のもとを去り、レンスターに戻って十八年近く経つ。その間、母はイザークに潜み、父は北トラキアで逃亡の日々を送っていた。
 過ぎ去った年月の中で何があったのかはわからない。ラナが知っているのは、父が母を置いて帰国したことと、ナンナがラナの父をお父さまと呼び、おのれの身を削ってでもその命を救おうとしていたことだけ。

(でも、お父さまは、わたしを見てお母さまの名を呼んだ)


 あのときの父の声が、まだ耳に残っている。
 傷を癒し終えた後、一瞬だけフィンは意識を取り戻した。そしてラナを見て、エーディンの名を呼んだ。
 優しい声だった。柔らかな表情だった。
 あんな声で呼ばれて、あんな笑顔を向けられて、心を動かさずにいられる女性がいるだうか。


(わたし、お母さまには似ていないはずなのに)


 不思議だった。
 母エーディンは美しい女性だ。一方ラナは、『愛らしい』と言われることはあっても、『美しい』と言われることはあまりない。自分と母は、親子と言われればそう見えなくはないという程度には似ていても、見まがうほどにそっくりだとは、とても思えないのに。
 あのとき、父は朦朧としていた。姿形をきちんと認識できていたわけではないのかもしれない。癒しの技によってもたらされた魔力の感触が母のものと似ていたとか、そういった理由だったのだろうか。


*****************


「ラナ」


 呼びかける声を耳にして、ラナは振り向いた。
 いつの間に現れたのだろう。デルムッドが部屋の入口に立ち、こちらを見ていた。

「デルムッド?」


 ラナは椅子から立ち上がると、デルムッドのそばへと歩み寄る。


「話、できるかな?」
「ええ、ここの仕事ももう終わったし」
「そうか」


 ふたりは部屋の外に出て、回廊に置かれたベンチに並んで腰をおろした。
 すでに陽は傾いていた。空は黄金から薄墨色へと変わりつつある。
 どこからかふんわりとした甘い香りが漂ってくる。きっと、この庭園に咲く花の香りなのだろう。生まれ育ったイザークでは嗅いだことのないその花の香は、ここが豊かな南の国であることを改めて思い出させた。


「大丈夫か? ずいぶん長いこと働いていたみたいだけど」
「ええ、大丈夫」
「本当に? 顔色が良くない」
「デルムッドだって」
「そうかな」


 デルムッドはそう言って、わずかに首をかしげる。
 彼の様子はどこかいつもと違う。ラナはそう感じていた。
 デルムッドはとりたてておしゃべりではないが、決して寡黙ではない。ラナの兄レスターとはよく冗談を言い合っているし、どちらかと言えば明るい性質の人間だ。
 だが、今のデルムッドは、打ち沈んでいるように思える。
 ただ疲れているだけなのか。それとも、何か気がかりなことを抱え込んでいるのか。


「ナンナさんとは話せた?」


 そう尋ねかけると、デルムッドは少し考え込んでから答えた。


「ああ、少しだけ。だが、すぐに眠ってしまったよ。このところ、不眠不休に近い状態だったそうだ」
「それだけじゃないわ。かなり無茶なことをしてたの。壊れた杖で無理やり魔法を使おうとするなんて。体を壊してなければいいけれど」
「それは大丈夫らしい。シスターらしい人が来てくれて、様子を見ていったけれど、ただ疲れきっているだけだって」
「それならよかった」
「……そうだな」


 デルムッドがそう答えるまでに、わずかな間が空いた。


「デルムッド、どうかした?」
「あ、いや……たいしたことじゃない」
「そうは見えないけど」
「……ラナはごまかせないな」


 デルムッドはため息を漏らし、軽く目をつむった。
 そのまましばらく考え込んでいたが、ラナのほうに向きなおると、淡々とした調子で話し始めた。


「母上はここにはいなかった。十三年ほど前、まだリーフ王子たちがアルスターにいた頃に、イザークに向けて旅立っていたらしい」
「え、でも……」
「ああ、そうだ。母上はイザークには来ていない。イード砂漠を越えて、イザークを目指そうとしたらしいけど」
「そんな……無茶よ」
「そうだな。女ひとりで魔の砂漠を越えようなんて、無茶にもほどがある」
「でも、どうして」
「俺を迎えにいくつもりだったらしい」
「迎えに?」
「その頃、アルスターは安定していて、リーフ王子たちは豊かな暮らしを送っていた。だから母上は、俺を引き取ってアルスターに連れてこようとしたんだ」
「そうだったんだ……」
「だけどその後、アルスターは帝国に屈して、リーフ王子たちは逃亡を余儀なくされた。妹は――ナンナは、リーフ王子と一緒に、騎士フィンが守ってきた」
「そう……」


 フィンの枕辺に立ち、懸命に壊れた杖をふるおうとするナンナの姿が思い出された。
 ラケシス王女が去ったのは十三年前だという。その頃のナンナは物心つくかつかないかといった年頃だったはずだ。
 騎士フィンは――父は、リーフ王子のほかにも、そんな幼い子どもを守り育てなければならなかったのか。


「母上は、イザークにはたどり着かなかった」
「騎士フィンは……お父さまはどうして、ラケシス様をひとりでイザークへ送り出したのかしら」
「え?」
「逃亡生活だったのでしょう? それならいっそ、あのひとも、リーフ王子も、みんな一緒にイザークに来ればよかった。わたしたちと合流して、一緒に帝国との戦いに備える、そうすればよかったのに」
「……それは無理だよ」
「どうして」
「母上が旅立たれた頃は、まだアルスターは安泰だったし、王子の周りにはレンスターから落ち延びてきた人がたくさんいた。そんな状況で、王子や王子の護衛役が国外に出てしまうなんて、そんなことできるわけがない」
「でも!」
「母上がアルスターを離れた時点では、リーフ王子がアルスターから去るなんて、考えられないことだったんだ。結局、アルスターは帝国の手に落ちて、王子たちは逃亡を余儀なくされたけれども、それはあくまで結果の話。のっぴきならない事情があるわけでもないのに、あっさり国を捨てる王に従う民はいない。国を治める者、人の希望を背負う者であるというのは、そういうものだ」


 デルムッドの声は冷静だった。だがラナは、彼が今にも泣き出すのではないかと思った。


「騎士フィンにしたってそうだ。あのひとは、キュアン王子から託されて、ずっとリーフ王子を守り続けてきた。オイフェさんがセリス様を守ってきたように」
「オイフェさん。うん、そうね……」
「うん、そういうことなんだよ。だから、仕方なかったんだ」


 仕方ない。
 たしかにそうなのだろう。
 オイフェと自分の父を置き換えてみれば、納得するしかない。
 だが、ラナは釈然としなかった。
 理屈ではわかる。だが感情のどこかにしこりがあって、解け去ることなくいまだに残り続けている。


「でもね、デルムッド。やっぱりわたしは、あのひとがイザークに来てくれたらよかったと思ってしまうの」
「……そうだな。そうなっていたら、どんなによかっただろう」


 そのままふたりは黙り込むと、夕闇の迫る回廊で、ただ静かに座り続けていた。


 (こうしていると、お母さまのしてくれたレンスターのお話が思い出される)


 母エーディンは父のことはあまり話さなかった。たぶん、ティルナノグに暮らす他の子どもたちを慮ってのことだろう。時に実子であるレスターやラナが寂しさを覚えるほどに、エーディンはどの子に対してもわけへだてなく接していた。
 その代わりなのだろうか。母は、時折レスターとラナに、レンスターという土地の話を聞かせてくれた。
 遠く連なる青い山並、花の香を乗せて吹き寄せる柔らかな風、風に波打つ金色の麦畑。
 自身は一度も目にしたことのない、豊かで穏やかな南の国の物語を、母は噛み締めるように、懐かしむように、子どもたちに語って聞かせた。
 だからラナにとって、ここは見知らぬ土地でありながら、懐かしむべき土地だった。
 母の語ったとおり、ここレンスターは麗しい国だ。花の香りを乗せた夜風は、あくまでやさしく、柔らかい。


「デルムッド、わたし、お父さまの様子を見に行く」
「もう休まなくて大丈夫なのか? ずいぶん疲れているだろうに」
「そうね。でも、お父さまのことが心配だから」
「だいぶお悪いのか?」
「どうかしら。傷は治せたはずだけど、とても弱っておいでだから」
「そうか」


(そう、傷は治ったはずだ。だけどあんなに状態から、ちゃんと元気になれるんだろうか)


 不安がこみ上げてくる。


「……手遅れだったらどうしよう」
「ラナ?」
「あと四日、いえ、あと二日でいい、わたしたちがもう少し早くここに着いていたら。ほんのちょっとの遅れが、取り返しのつかないものになるかもしれない。だとしたら、わたし、どうしたら……」


 父が傷を負ったのは三日前のことだという。
 四日前に援軍が着いていたなら、そもそも父は魔法の杖による癒しを拒んで傷を隠したりしなかっただろう。いや、少し遅れても二日前くらいなら、あそこまで体力を失う前に、傷を癒すことができていたのに。


「ラナ、ラナ、落ち着いて」
「でも」
「ラナはできることをやった。俺たちは最善を尽くした。あとはもう、天命に任せるしかない」
「だけど」
「どんなに悔いても、時は巻き戻せない。だったら今、できることをする。それしかできないんだから」
「デルムッド……」
「とりあえず、眠っている人たちが目を覚ますのを待とう。過去を知るのも、この先のことを考えるのも、そのあとでいい」
「……うん」


*****************


 ラナはデルムッドに伴われて、父の寝かされている部屋へと向かった。
 部屋の扉を開けると、寝台の脇に立つ男性がふたり、こちらに顔を向けてくる。
 兄レスターの横に立っていたのは、茶色い髪の少年――リーフ王子だった。


「ラナさん……だったね?」
「はい、リーフ様」
「負傷者の治癒を行ってくれたこと、本当に感謝している。改めてお礼を言わせて欲しい」
「いえ、わたしは自分にできることをしたまでですから」
「そうなのかもしれない。だが、あなたは……いや、あなたがたは、我が軍にとって何よりの助けとなった。感謝しないわけにはいかない」


 そう言って、リーフはラナに向かって軽く黙礼した。
 やがて顔をあげると、横たわるフィンに視線を移してリーフは口を開いた。


「フィンはだいぶ落ち着いたようだ。意識を失っているわけではなく、ただ眠っているだけだろうと、医師も言っている。たぶん、もうじき目覚めるのではないかとも」
「そうなのですね」
「ああ、だから後はあなたがたに任せる。フィンはあなたがたの父親だ。その、何というか……親子水入らずで過ごせる時間を持ってもらえればと」
「ありがとうございます」


 レスターが頭を下げる。ラナも兄に少し後れて一礼した。
 ラナたちが頭をあげると、リーフは軽く会釈を返して去っていった。


「じゃあ、俺も行くよ」


 リーフが立ち去ったところで、デルムッドが口を開いた。


「デルムッド?」


 思わず問い返したラナに、デルムッドが答える。


「親子水入らず、そうリーフ王子も言っていただろう。ああ、疲れているようなら、代わりの者を呼んでくるが」
「いや、しばらくはこのままここにいたい」


 レスターの返事に同意して、ラナも無言で大きくうなずいた。


「そう言うと思った」


 デルムッドもまた、部屋から立ち去っていく。
 その姿を見送った後で、ラナはぽつりとつぶやいた。


「デルムッド、大丈夫かしら」
「うん? 何かあったのか」
「ラケシス王女はここにはいらっしゃらないって。もうだいぶ前にイザークに向かったんだって」
「なんだって」
「本当は、だいぶ気落ちしているみたい」
「そうか……そうだろうな」


 兄妹は寝台に横たわっている父に視線を移す。
 リーフ王子が言っていたように、ラナがこの部屋から立ち去った時に比べると、フィンはかなり落ち着いたように見える。
 まだ熱は高いようだ。だが、呼吸は穏やかで規則的になっている。


 そのとき、フィンの瞼がぴくりと動いた。


「……ちょっと人を呼んでくる」
「兄さま?」
「目を覚まされたら薬湯を勧めなくてはと、お医者様が言っていた。知らせてくる。病人の世話なら、ラナ、お前のほうが慣れているはずだし」
「でも」
「任せたぞ」


 ラナが答えるのも待たず、レスターはまっすぐに扉に向かい、部屋の外へと出ていった。
 残されたラナは、父に視線を戻す。


 フィンは目を開いていた。
 ラナは急いで寝台の傍らに膝をついて、父の顔を覗き込んだ。


「君は……」


 二、三度、ゆっくりとまばたきを繰り返してから、フィンはラナに尋ねかけてきた。


「ラナと申します。シスターです。セリス皇子のところから来ました」
「セリス皇子の……では、セリス皇子の援軍が来てくださったのだな」
「はい。フリージ軍は撤退しました。レンスターの勝利です」
「リーフ様はご無事か?」
「ご無事です。大変お疲れのように見えましたが」
「そうか……よかった」


 そう言って、フィンは大きく息をついた。


「お父……フィン様、ご気分は。今、お医者様を呼びに行きましたが」


 お父さま、と言いかけて、ラナはあわてて言い直した。
 フィンはまだ意識を取り戻したばかりだ。いきなり娘だと名乗っては、余計な負担をかけることになるかもしれない。


「傷ならもう痛んでいない。君のお陰だろうか、シスター」
「ええ、ライブをおかけしました。傷そのものはあらかた癒えているはずです」
「そうか……ありがとう」


 フィンはラナの顔をまっすぐに見上げて、礼を述べた。
 何か気付くものがあったのだろうか。フィンははっと驚いたような表情を浮かべると、ラナの顔をじっと見つめた。


「……どうかなさいましたか」
「いや……君とは初対面のはずなのだが……どこかで会ったことがあるのだろうか」
「ライブを使った後、一度、意識を取り戻されました。その時お目にかかっています」
「そうだったのか……いや、すまない。どうもはっきり覚えていないようだ」
「無理もありません。ほんの一瞬でしたので」


(あのとき、お父さまはお母さまの名前を呼んだ……)


 あれは、朦朧とした中での錯覚なのだと思っていた。
 だが、今は違う。フィンの意識ははっきりしている。フィンはラナの中に、エーディンの面影を見いだしたのだろうか。


「そうか……君は、彼女に似ているのか」
「え?」
「いや、そうでもないのだろうか。だが、なぜだろう。君を見ていると、昔知っていたあるひとが思い出されてならない」
「その方は、いったい……」


 そう訊ねかけたとき、入り口の扉が開いた。ラナはあわてて口をつぐみ、入ってきた人物に視線を投げかける。
 レスターと一緒にやってきたのは、年若いが落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。手には湯気の立ち上ったマグが載せられた盆を支え持っている。恐らくフィンの治療を受け持っている医師なのだろう。


「気がつかれたのですね」


 医師はまっすぐにフィンの枕辺へと歩み寄ってきた。医師に場所を譲ろうと、ラナは立ち上がって後ろへと下がる。


「お薬を用意いたしました」


 その言葉に促されて、フィンはそろりと体を起こそうとした。だが、起こしかけたところで、一瞬顔をしかめる。そのわずかな瞬間を見逃さず、レスターは傍に寄り、フィンの背に手を回して上体を起こすのを手伝った。


「ありがとう」
「いえ……」


 フィンの背にクッションをあてがうと、レスターはすっと後ろに下がった。代わって医師がフィンに近づき、薬湯を勧める。
 フィンが薬湯を飲み終えるのを見届けると、医師は空になったマグを受け取って、すぐ脇にある机の上に置いた。続いて脈を取りながら、体調についていくつか質問する。
 まずまずの経過であることを確認すると、医師はほっとしたようにうなずいて、フィンの枕辺を離れた。


「レスター様、ありがとうございます」


 少し離れて待機していたレスターに、医師は礼を述べた。
 その言葉にフィンは顔を上げ、医師に会釈を返す青い髪の青年の姿を凝視する。


「レスターだって……? まさか、君は」


 息を詰めて、フィンが問いかける。
 レスターはフィンのほうに向き直ると、姿勢を正して言葉を返す。


「セリス様の軍から遣わされてきました。私はユングヴィのレスター、エーディンの息子です。そしてこちらはラナ、私の妹です」
「エーディンの! では君は……君たちは」
「はい、あなたの子どもです。ずっとお目にかかりたいと思っていました。レンスターのフィン、我が父上」


 ラナははっとして横に立つ兄を見上げた。
 兄の声は静かで落ち着いているように聞こえた。けれども普段の兄の声を知っているラナにはわかる。
 ごくわずかではあるが、その声は震え、うわずっている。


「レスター……そして君は……」
「ラナです」
「ラナ……そうか、そうだったのか」


「もう少し傍に来てくれ。顔を、よく見せてくれないか」


 声を震わせながらフィンが言う。兄妹は父の枕辺に寄り、床に膝をついて父と視線の高さを合わせた。


「シレジアで最後に見たとき、レスター、君はまだひとつになったばかりだった……そしてラナ、君は……君には、エーディンの面影がある」
「母とはあまり似てない、そう言われることが多いのですが」
「そうなのか。だが……エーディンと重なるものがある。私はそう感じる」
「お父さま……」


 思わずラナは涙をこぼしていた。
 一度泣き出してしまうと、歯止めが利かなくなった。ラナは次から次へとあふれ出る涙をぬぐいながら、嗚咽まじりの声で言った。


「よかった……ご無事で。このまま目を覚まされないんじゃないかと……本当に、よかった……」


 泣きじゃくるラナの頭に、そっとフィンが手を伸ばし、やさしく撫でる。
 そのまましばらくの間、父子は黙って、ただ寄り添いあっていた。


 ややあって、医師が柔らかな声で呼びかけてきた。


「積もるお話もあることと思います。ですがとりあえずはお休みにならないと。先ほどの薬湯には眠り薬も混ざっています。じきにまた、眠気を覚えられることでしょう。それに、レスター様、ラナ様、あなた方もお疲れのはずですから」
「しかし……」
「父上、今夜はこれで失礼します。私はともかく、妹は疲れ果てているはずです。早く休ませないと」


 そう言うと、レスターは立ち上がって軽く一礼した。ラナもまたぴょこんと頭を下げて、先に立ち去りかけている兄の後に従おうとする。


「レスター、ラナ」


 立ち去ろうとするラナの耳に、父の声が聞こえてきた。
 振り返ると、寝台から身を乗り出すようにして、フィンがこちらを見つめていた。


「よく……今日まで無事で。会えて……よかった」


 かすれて聞こえにくい、弱々しい声だった。
 レスターもまた振り返り、無言のまま、父に向かって頭を下げた。
 そしてくるりと向き直ると、扉を開けて部屋の外へと歩み出た。


 扉を閉めたところでレスターは足を止め、天井を仰ぎ見る。


「父上……」


 聞こえるか聞こえないかの、小さな声。
 回廊は薄暗く、人の表情を見分けるのも難しい。
 だがラナは、兄のまなじりに光るものがあるのを、たしかに見とめた。



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written by S.Kirihara
last update: 2018/05/14
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