FE聖戦20th記念企画

同胞(前)


 コープルは悄然として、ただ目の前の焚火を眺めていた。

(こんなところで夜営なんて……カパドキアはもう目の前なのに)

 父ハンニバルは今もなお、解放軍と交戦中のはずだ。解放軍はルテキアを落とし、コープルを解放した。だからもう、父が解放軍と戦わなければならない理由はない。一刻も早く父の許に向かって、休戦を呼びかけたいのに。
 行軍を続けるにあたって休息が必要なのはコープルも理解していた。解放軍はかなう限りの速度をもって、ルテキアを急襲した。そして部隊の大半をルテキアの守備に残すと、盟主セリス自らがごくわずかの騎兵を率いて、今もなおハンニバルが戦い続けているカパドキアを目指している。その進軍は速やか――いや、かなり無理のある急行軍だ。それでも、コープルは焦らずにはいられない。

(せめてあんな……どんちゃん騒ぎは控えてくれたら)

 笛と太鼓の音が、風に乗って切れ切れに聞こえてくる。
 景気のいい手拍子に、囃し立てる人の声。
 楽の音のするほうに、コープルはそっと視線を投げかけた。
 あかあかと燃える炎の輝きを受けて、紅の被布が楽の音にあわせてひらひらと舞っているのが目に入った。
 大きな篝火の前に立ち、踊り子が踊っている。その周りを幾重にも取り囲んで、兵士たちがやんやと喝采を送っている。

(あんなちゃらちゃらした踊りのどこがいいんだろう……)

 そもそも戦場に踊り子なんて必要なのだろうか。たしかに士気を鼓舞する効果があるのかもしれない。だが、一刻も早くカパドキアを目指したいコープルにとっては、娯楽としか思えないものに時間と手間と体力を割くのは、ただの無駄としか思えなかった。

「コープル君、疲れているのではないか?」

 いきなり背後から声をかけてきた者があった。驚いて振り向いたコープルは、茶色の髪を持つ長身の若者がこちらを見ているのに気づいた。

「……ヨハンさん?」

 コープルの呼びかけにうなずくと、ヨハンはコープルの隣に腰を下ろし、手にしていたマグを差し出してきた。

「薬草茶だ。少しは疲れが取れるだろう。飲んでおくといい」
「ありがとうございます。いただきます」
「虜囚生活のあとで、いきなりこの急行軍だ。かなり無茶をさせているのは承知だが……」
「いえ。一刻も早く父の許へ向かいたいのです。本当は休む間も惜しいのですが」
「だろうな。だが、休息は必要だ。急ぐばかりでは潰れてしまうからな、馬も人も」
「……はい」

 ルテキアからの道中、コープルはヨハン配下の騎士の馬に同乗させてもらっていた。その縁もあり、この斧騎士とは会話を交わす機会が多い。解放軍に加わったばかりのコープルにとって、ヨハンは比較的気遣いのいらない相手だった。

「明日にはカパドキアに入るだろう。今夜はしっかりと休みたまえ。君こそが、すべての鍵を握っていると言っても過言ではないのだから」
「……そうですね」

 カパドキアの城主ハンニバルはコープルの養父だ。
 解放軍がトラキアに足を踏み込んだとき、ハンニバルは解放軍との間に交渉を持つことを望んだ。しかし、トラキア王トラバントはあくまで解放軍と戦うことを主張し、ハンニバルの意見を退けた。ばかりでなく、戦に消極的なハンニバルを戦場に追い立てるべく、その養子コープルを人質として要求し、ルテキア城へと送った。
 コープルを盾に取られたハンニバルはいたしかたなく戦場へと向かった。
 人質の一件を知ってか知らずか、解放軍はハンニバルの部隊と戦端を開きつつも、別働隊をもって先にルテキア城を落とした。ルテキア城の地下牢に囚われていたコープルは解放軍によって救い出され、今、こうして解放軍とともにカパドキアへと向かっている。
 父ハンニバルを説得して、ともに解放軍に加わろう。コープルはそう決意している。
 トラキア王国への忠誠心はある。決して豊かではないこの山がちな国こそが自分の祖国なのだと、コープルは考えている。けれども、今のトラキアのあり方には疑問があった。
 トラキア王トラバントはグランベル帝国と協調してトラキアを護ってきた。だが、帝国は本当にともに手を携えて歩むべき相手だろうか。トラキアの平和と発展を望むならば、セリス皇子が率いる解放軍に協力したほうが、ずっといいのではないか。
 少なくとも、解放軍と戦うのは父の本意ではないはずだ。コープルが人質に取られたから、父は否応なく戦わざるを得なかったに過ぎない。
 どのような道を選ぶのかは父の自由だ。けれども、無理に戦う必要はもうなくなっていることだけは、一刻も早く父に伝えなければ。
 コープルの願いに応えるように、解放軍は夜に昼を継いでここまで軍を進めてきた。だが、今夜はあのような踊りが披露され……

「歌舞音曲の類は嫌いかな?」

 不意にヨハンが話しかけてきた。
 心中を見透かされてしまったのだろうか。ぎくりとしながらも、表情をつくろってコープルは答える。

「え、いいえ。そうではなくて」
「不謹慎だと、そう感じるかもしれないな。だがああいった慰撫は、兵たちにとって必要なものなのだ」
「……そうなんでしょうか」
「体の疲れは休めば取れる。だが、心の強張りはどうだろう。戦を前に昂ぶる気持ちをほぐし、良い形で士気を高めておくのは必要なことだ。父上を案ずる君にとっては、わずらわしいばかりかもしれないが」
「いえ、その。ただ……慣れてないから」

 まんざら嘘ではなかった。
 ハンニバルは独身を通してきた。国や民を思う気持ちは人一倍強いが、それ以外の私的な楽しみごとには関心が薄いように見える。その身辺に女性の影はなく、養子として迎えた戦災孤児たちのほかには家族と呼べるような存在もない。加えてコープル自身も、早くに僧籍に入り、神に仕える生活を送ってきた。華やかに女性が舞い踊る姿など――目にする機会そのものが乏しかったのだ。

「歌や踊りは良い。芸術はなべて、人の心を豊かにしてくれるものだが、我がいとこ殿の踊りは、きわめてすぐれた芸術であろうな」
「我がいとこ……?」

 その言葉にコープルは疑問を覚える。
 たしかヨハンは、ドズル家の出身であったはずだ。ドズル家と言えば十二聖戦士のひとつに数えられる家柄で、帝国の中枢をなす存在でもある。実際、ヨハン自身はその出自にふさわしい、どこか品格のある立ち居振る舞いを身につけているように感じる。だが、あの踊り子は、そういった高貴な生まれの人間には見えない。

「ああ。どうもそうらしい。私自身も驚いたのだが」

 そう言って、ヨハンは踊り子リーンの身元について話しはじめた。

 踊り子リーンは、解放軍が砂漠の交易都市ダーナを攻略した際に参入したという。アレス王子と親しい仲であったため、彼に同行するような形で解放軍の一員となったのだ。最初は身元の知れない人物だと思われていたが、彼女の装身具に見覚えがあると軍師レヴィンが言い出したことから、その出自が明らかになった。リーンが所持している装身具や剣はすべて、かつて彼女の母が所持していた品だったからだ。
 リーンという名前も、母の面影を色濃く残した彼女の容姿も、その母が誰であるかを雄弁に物語っていた。レヴィンも、そして軍監であるオイフェも、リーンは踊り子シルヴィアの娘に違いないと断言した。

「シルヴィア?」

 コープルは思わず問い返していた。

「と、軍師殿はおっしゃっていたな。うん? 何か思いあたることでもあるのかな?」
「……いいえ」

 ヨハンにはそう答えたものの、コープルは動揺を抑え切れないでいた。
 シルヴィア。その響きはコープルにとっても、覚えのあるものだったからだ。

 コープルには両親の記憶はない。だが、親の形見と思しき品がふたつ、赤ん坊だったコープルと一緒に見つかっている。
 ひとつは印章の刻まれた指輪だ。ただ、この指輪はハンニバルが大切に保管しているので、コープルの手元にはない。
 もうひとつは古ぼけた祈祷書だ。祈祷書といっても、聖職者が携えているようないかめしい書物ではない。日々の祈りに用いる聖句と、神話上の有名な逸話が記されたごく薄い冊子である。子供や庶民といった、あまり学のない者に向けて書かれた易しい読み物なのだ。
 この冊子の裏表紙に、女性の名前と思しきものが記されている。
 シルヴィア――冊子に記された文字列は、そう読めた。
 本文の文字とは明らかに違う筆跡だった。大きな字で、たどたどしく書かれているその名前は、おそらくこの冊子の持ち主だった人物のものだろう。

(けど、シルヴィアなんてよくある名前じゃないか)

 そう考え直してみたものの、どうにも心がざわめいた。

「すみません。たいしたことじゃないんです。どうか話の続きを」
「ふむ?」

 ヨハンは怪訝そうに軽く眉をしかめたものの、それ以上追及することなく、さらに続きを語り始める。

 シルヴィアはドズル公子レックスと恋仲だった。レックスはドズル公爵ランゴバルトの息子だが、父親がシグルド公子と敵対するようになった後もシグルドの許に残り、バーハラの戦いに至るまでともに戦い続けた。レックスはまた、ヨハンの父ダナンの異母弟でもある。つまり、ヨハンと踊り子リーンは父方のいとこ同士というわけだ。

「では、あのひともネールの血を引く……」
「そういうことになるな。まあ本人は、そういったことにはあまりこだわっていないようだが」
「そうなんですか?」
「みなし子として育ってきたのに、今さら聖戦士の血族だなんて言われても、だったかな。軍師殿から両親の話を聞かされたとき、そう答えていたのだよ」
「みなし子……ですか」
「幼い頃に母親らしき人物がダーナの修道院に預けていったのだそうだ。身の回りの品々も、そのとき添えられていたものであったとか」
「ダーナ……」

 それではあの踊り子も、ダーナの街の孤児だったのか。
 コープルもまた、ダーナで見いだされた孤児だ。母の名前のことといい、あの踊り子と自分には、意外と共通するものが多いのかもしれない。コープルは改めて篝火の光に照らし出されて踊る娘に目を向けた。

「気になるようだな」

 笑いを含んだような声で、ヨハンが問いかけてくる。

「いえ、そういうわけじゃ……」
「麗しい女性で、あれほどの舞手なのだ。興味を持つのは当然のこと。恥ずかしがることはない。何なら少し話をしてみてはどうだ?」
「え?」
「君も解放軍の一員となったのだ。皆と親しむ機会は大切にしたまえ。なに、怖がるような相手ではない。気さくで心根の美しい、良い女性だぞ」

 そう言うとヨハンは腰を上げ、ついてくるようにとコープルを促した。振り返る様子も見せずにさっさと歩いていくヨハンの後を、あわててコープルは追いかける。
 ヨハンはまっすぐに踊りの場へと歩み寄っていくと、人垣の薄いところを見つけ出して、すっと前列へと入り込んでいった。コープルもまた、はぐれないように後に続く。
 周りにいた者たちは文句も言わずに場所を開けてくれた。ヨハンは場所を空けてくれた兵士に軽く礼を返すと、コープルを自分の手前へと導いた。
 正面ではない。向かって左端のあたりだ。だが、ほとんど最前列と言ってもいい場所で、コープルは踊り子の舞を見た。
 最初に感じたのは驚きだった。

(なんだろう、これって……)

 遠目に眺めていたときにはわからなかった。けれども間近で触れてみると、リーンの踊りには、引き込まれるような何かがある。
 打ち鳴らされる太鼓が、手首に結わえられた鈴が、踏みしめるステップが、リズムをつくりあげる。そのリズムは振動となって、見ている者の体の内側に直接伝わってくる。
 踊り子の動きは軽やかで、それでいて迫力があった。舞うごとに、手にした赤い被布もまた、鮮やかに翻る。それはまるで――

 ――まるで、炎だ。

 息をつくこともできないまま、コープルはただ、吸い寄せられるように踊り子を見つめた。

 やがて踊り子は動きを止め、すっと手を差し伸べて一礼する。
 それとともに、楽の音が絶えた。
 静寂の中、しゃらん、と、踊り子の手首の鈴が小さく鳴る。続けて起こる拍手の嵐。
 舞が終わったのだ。
 コープルは、詰めていた息を一気に吐き出して、ほうっと大きく息をついた。

 いまだ覚めやらぬ喧騒の中、ヨハンはまっすぐに踊り子のそばへと歩み寄ると、何ごとかを話しかけた。
 ヨハンの言葉に相槌を打ちながら、リーンはふと顔を上げ、離れて見ているコープルに視線を投げかけてきた。そして、そのまま軽やかな足取りでコープルのそばまで歩み寄り、にこりと微笑んで問いかけた。

「あなたはコープルでしょう?」

 軽やかで音楽的な声だ。鈴を転がすような、という形容がぴったりくる、甘さを含みながらも涼やかな声。

「あっ、う、うん……」

 どぎまぎしながらコープルは返事をする。

「ヨハンがね、あなたがわたしとお話ししたがってるって」
「あ、えと……」

 戸惑うコープルに、リーンはなおも言葉をかけてくる。

「違ったのかしら」
「あっ、えと、いえ……」
「そう、じゃあよかったら、少しお話ししない?」
「その……いいんですか。踊りは」
「ああ、そろそろお開きにするつもりだったの。ヨハンが声をかけてきたのが、いいきっかけになったみたい」
「あ……はい」
「じゃあ、行きましょ。ここだと落ち着かなくて」

 そう言うと、コープルの返答を待たず、リーンはすたすたと歩き始めた。戸惑いながらコープルはその後を追う。
 この思い切りのよさは、少しヨハンと似ているような気がする。容貌にもたたずまいにも似たところはないように見えながら、気質のどこかに似たようなものが受け継がれているのかもしれない。

 先ほどまでコープルが座り込んでいた焚き火のところまで来ると、リーンはそっと火の前に腰を降ろした。コープルもまた、彼女の横に座り込む。

「……コープルも孤児なんだってね」

 少し考え込んでから、リーンは静かな声で問いかけてきた。

「小さい頃の記憶はないの?」
「……うん。ぜんぜんない」

 ハンニバルがコープルを養子に迎えたのは、コープルがまだほんの赤ん坊だった頃のことだったらしい。物心ついて以来の記憶は、ハンニバルの息子としてのものばかりだ。
 そのことに不満はない。むしろ、血の繋がらない子供に我が子も同然の愛情を寄せてくれる養父への感謝があるばかりだ。それでもたまに考えることはある。
 本当のところ、自分はいったい何者なのだろう。

「父さんがダーナの街で拾ってくれた時、ぼくはまだ赤ん坊だったって」
「あなたもダーナで?」

 大きく目を見開いて、リーンがまじまじと見返してきた。

「うん。リーンさんも、だよね。さっき、ヨハンさんがそう言っていた」
「ええ、そうなの」

 そう答えると、リーンはまたもや首をかしげて考え込むような仕草を見せた。

「わたしはあの街の修道院で育ったのよ」

 その言葉を皮切りに、リーンはぽつりぽつりと自分の身の上を話し始めた。
 大まかなところは先ほどヨハンから聞いたものとほぼ同じだった。けれども最後に、リーンはそっと、ヨハンの語らなかったことをつけ加えた。

「わたしが踊り子になったのはね、いつの日か、お母さまにめぐり会えるかもしれないと思ったからなの」

 ややうつむきながらそう語るリーンを前にして、コープルは不思議な思いに駆られた。

 リーンは修道院に預けられて育ったと言っていた。修道院の生活は清貧を重んじる。そういった生活に慣れた者にとって、現世の欲と情熱の坩堝とも言うべき踊り子の世界は、きっと馴染みにくいものだったに違いない。それでも彼女は、実の母を求めて、育った環境とはほど遠い世界へと飛び込んでゆき、独学で技芸を身につけたのだ。

「……リーンさんって、えらいんだね」

 どうやらこの踊り子は、見た目よりもずっと真面目で、かなり堅固な信念の持ち主らしい。見た目の印象から派手好きで騒がしい女性のように思い込んでいた自分がどうにも恥ずかしかった。

「ぼく、少し誤解していたようだ」

 つぶやくようにそう詫びると、リーンは軽く笑みを浮かべて、さらりと言った。

「コープルは踊り子が嫌いなのね」

 いかにも軽い調子で口にされた言葉。だがその言葉は、コープルの胸にずしりと響いた。

(なんて愚かなことをしてしまったんだろう。偏見に曇った目でしか見ることができないまま、ひとを裁こうとするなんて)

「うん、嫌いだった。でも……」

 でも。
 言いかけてコープルは迷う。
 でも、の後に続くのは、どんな言葉がふわさしいのだろう。

「でも、リーンさんは好きだよ」

 迷いながらも、コープルはその言葉を口にした。
 正解かどうかはわからない。けれども、今、自分がこの華やかな女性に感じているのは好意と――おそらくは共感なのだと、コープルは感じていた。

*****************

 翌朝のことである。
 こちらに向かっている竜騎士の姿があるとの報告がもたらされた。行軍の準備に取り掛かっていた解放軍に、にわかに緊張が走る。
 竜騎士は単騎で行動しているという。とは言え、目撃されたものはただの斥候に過ぎず、背後に大軍が控えているかもしれない。油断は禁物だ。
 解放軍が警戒を強める中、竜騎士はなおもまっすぐにこちらへと向かってきている。
 コープルもまた中空に目を凝らして、迫り来る竜騎士の姿を捉えようとした。

(あれは……もしかして)

 まだ朝焼けの色が残る空の彼方に、コープルは飛竜の影を見分けた。
 遠目だからはっきりとはわからない。だが、空を往く竜の鱗は緑で、騎乗する竜騎士の鎧は赤い。背後にたなびく髪は長く、濃い茶色をしているように見える。
 赤い鎧に、長い茶色の髪。そんな特徴を持つ竜騎士は多くはない。

「アルテナ様……? でもなぜ」

 トラキア王トラバントの一人娘にして、優れた騎士との誉れも高いトラキアの王女。そんな人物が斥候として単独で前線に出てくるとは思えない。だとすれば彼女はいったいなぜ、ひとりでこちらに向かってくるのだろう。

「なんと……本当なのか、コープル君」

 いつの間にやって来たのだろう。振り向いたコープルは背後にヨハンの姿を認めた。

「ハンニバル将軍の養子である君なら、トラキアの王女を知っていても不思議ではないが……」
「間違いないと思います。あの竜に、あの鎧。アルテナ様以外に思い当たる竜騎士はいません」
「ふむ」
「でもどうして、アルテナ様がひとりで、こんなところに」
「それに関しては思い当たるところがある。だがともかく、セリス皇子に報せよう」

 報せに向かうまでもなく、セリスもまた、近づいてくる竜騎士を自分自身の目で確かめようと天幕の外に出てきていた。
 その間にも竜騎士はこちらへと迫っていて、ついに解放軍の野営地にほど近い地点に着地した。

「こちらからの攻撃は控えよ!」

 セリスは配下の者に鋭く命令を下すと、竜騎士に向かって一歩踏み出し、よく通る声で呼びかける。

「トラキアの竜騎士よ、いかなる目的でこの場に訪れたのか。我が名はセリス、皇女ディアドラとシアルフィのシグルドの嫡子にして、この軍を率いる者。速やかなる返答を求む」

 竜の背から降り立った騎士もまた、セリスに歩み寄ってくる。その手に武器はない。携えてきた槍は竜の鞍の脇に固定されたままのようだ。

「セリス様、私はトラキアのトラバントの……いえ、レンスターのキュアンの娘、アルテナです」

(え……!)

 アルテナの名乗りに、コープルは衝撃を受けた。

「アルテナ王女、あなたが!」

 セリスもまた、驚きを隠せない様子でアルテナに答える。

「先日、解放軍と接触した折に、リーフ王子から真実を聞かされました。私はもう、あなたがたとは戦えない。どうか私も解放軍の一員にお加え下さい」
「よく決心してくださいました。リーフ王子から話を聞いて以来、私もあなたを待っていたのです」

(アルテナ様がレンスターの王女……どういうことなんだ)

 コープルは当惑していた。だが、この場にいる人々はみな、この竜騎士がアルテナ本人であることに驚きはしても、アルテナがレンスターの王女を名乗ったことには驚いていないらしい。

「アルテナ様……」

 コープルの口から漏れたつぶやきに気づいたのだろう。アルテナはセリスの背後に立つ少年に視線を移し、驚きの声を上げた。

「コープル! なぜあなたがここに」

 コープルが答えるよりも先に、セリスが滑らかな口調で説明する。

「ああ、彼をご存知なのですね。トラバント王は彼を人質に取り、ルテキア城に預けていたのです。ハンニバル将軍を戦場へ向かわせるために」
「なんてこと……そんな卑怯なまねをしてまで、父上……いえ、トラバントは……」

 アルテナは絶句した。怒りとも悲しみともつかない悲痛な表情を浮かべて、コープルを正面から見つめる。

「ごめんなさい、コープル。あなたまでがこんな……こんなひどい目に」
「いいえ、アルテナ様」

 コープルは激しく首を振り、即座に答えた。

「ぼくは大丈夫です。むしろ、今回のことではっきりと心が定まりました。ただ、父が心配です。ぼくが人質に取られたばかりに、望みもしない戦いを……」
「コープル……」

 アルテナは呆然とした様子でコープルの名を呼んだ。だがすぐにセリスに視線を転じて、きっぱりとした口調で言う。

「こうしてはいられません。一刻も早くカパドキアへ。ハンニバル将軍をむざむざ失うなど、許されることではありません」
「そうですね、アルテナ王女。あなたとは話したいことが多々あるが……まずはカパドキアを目指しましょう。ハンニバル将軍の令名は我が軍にも届いている。進んで敵対したい相手ではありません」

 そう述べた後で、セリスは口調を改めて付け加えた。

「アルテナ王女、我々はあなたを歓迎する。ただ、戦の途中で陣営を変えた人間に対して、とやかく言う者もあるかもしれません。ですが、私はあなたを信頼します。我が父シグルドとあなたの父上キュアン王子の友情にかけて、そして、私自身とリーフ王子との友情にかけて」

 アルテナは沈痛な面持ちでセリスの言葉に耳を傾けていた。そしてセリスが言葉を終えると、言葉を返すことなく、ただ深々と頭を垂れた。

*****************

 カパドキア近郊の上空で、コープルは飛竜の背中から地上の戦を見下ろしていた。
 コープルが乗っているのはアルテナの騎竜だ。
 プリーストであるコープルが戦場に分け入るのは難しい。兵士たちの注意を引きつけつつ、コープルを無事にハンニバルの許まで送り込む者が必要だった。その役割をアルテナが買って出た。トラキアの王女であった彼女が戦場に姿を現せば、カパドキアの兵たちはきっとアルテナに注意を向け、動きを止めるに違いないだろう。そうアルテナは説明した。
 寝返ったばかりのアルテナにコープルを託すことを懸念する声もあったが、総大将セリスはアルテナに賛意を示した。セリスはアルテナを信頼していると皆の前ではっきりと告げ、コープルをアルテナの騎竜に同乗させたのだった。
 解放軍の歩兵部隊とトラバント率いる装甲部隊は、いまだ交戦中だ。ただ、形勢はほぼ決しており、カパドキアの兵はもうわずかしか残されていない。けれども解放軍は殲滅戦に移ることなく、ひたすら防戦に徹している。
 ハンニバルを殺してはならない。ルテキアに向かう前にセリスが下した命令は、しっかり守られているようだ。

「まずは私が兵たちに呼びかけます。皆が私に集中したところであなたは将軍の許へ。いいわね、コープル」
「はい、アルテナ様」
「……カパドキアの者たちは、私が解放軍に降ったことをまだ知らないはず。だますのは本意ではないけれど」

 憂いを帯びた声でアルテナはつぶやいた。だが直後に、思いを断ち切るようにきっぱりと言った。

「でも、まずはこの戦を止めなければ。でないと私たちは前に進めない」
「はい」
「では行きます。しっかりつかまってて」

 そう告げると、アルテナは速度を上げ、兵たちが接触している地点まで一気に翔けた。
 戦場の真上まで来たところでアルテナは高度を下げて、大音声で呼ばわった。

「双方、剣を収めよ!」

 その声に、カパドキア兵の動きが止まった。
 解放軍の兵士もまた、動きを止めたカパドキア兵に追撃を加えることなく、じっと動静をうかがう。
 動きを止めた両軍の間に、アルテナは飛竜を下ろした。まずは自分自身が地面へと降り立つと、いまだ飛竜の背にあるコープルが降りられるように手を貸す。
 コープルが着地したのを確認すると、アルテナは再び兵士たちに向き直って、はっきりとした声で告げた。

「トラバント王は戦死し、ルテキアは解放軍が押さえた。これ以上の戦いはもはや無意味!」

 カパドキア兵の間から押し殺したようなどよめきが立ちのぼる。
 兵たちの反応を確認して、アルテナはそっとコープルの背を押した。
 コープルは意を決して、一歩一歩踏みしめるように前進する。

「コープル!」

 兵たちの間から、ひときわ立派な体躯をした男性が姿を現して、コープルに近づいてきた。

「父さん!」

 ひと声叫ぶと、コープルは養父ハンニバルのそばに一気に駆け寄る。

「コープル! お前……」
「父さん、もう戦うのはやめて。解放軍がルテキア城を制圧したんだ」
「なんと……では」
「解放軍が……セリス様がぼくを助けてくださった。だから……」
「お前は……無事だったのだな」

 ハンニバルはこわごわと、籠手に包まれた手をコープルに伸ばす。
 ハンニバルの手は赤黒い血痕で汚れていた。だがコープルは構うことなく、父の手に自分の手をしっかりと重ねた。

「父さん、ぼくは解放軍に加わりたい」
「コープル?」
「トラキアはもう、昔のトラキアとは違う。ぼくは皆のために戦いたいんだ」

 その時、コープルの言葉を引き継ぐように、言葉を発した者があった。

「そう、トラキアは昔のままではいられません。変わらなければならないのです」

 アルテナだった。コープルがハンニバルと向き合っている間、沈黙を保っていたアルテナが、はっきりとした口調で再び話し始めたのだ。

「アルテナ様?」

 いぶかしげに問いかけるハンニバルにアルテナは告げる。

「ハンニバル将軍、トラバント王が戦死しました。ですがアリオーン王子は健在です。トラキアは兄上が引き継ぐでしょう」
「それは……ですがアルテナ様、なぜあなたがここに」
「私は解放軍に加わったのです。レンスターの王女として」

 ハンニバルが息を呑む。
 アルテナはすっとハンニバルから視線をはずすと、その背後に控える兵士たちに向けて、女性としてはやや低い、よく通る声で語りかけた。

「カパドキアの勇士たちよ、私はトラキアの王女として育てられてきた。だがそれは、我が真実の姿ではなかった。私は……」

 一瞬、アルテナは言い淀む。だが、次の瞬間にはきっぱりとした調子で、言葉を続けた。

「私はレンスターのキュアンの娘アルテナ、地槍ゲイボルグを受け継ぐ者。トラバント王は皆をたばかり、私を自分の娘として育ててきた。だがその嘘は暴かれ、白日の下に晒された」

 兵士たちは微動だにせず、ただアルテナの言葉に耳を傾けている。

「トラバント亡き今、これ以上の戦いは無意味です。セリス皇子はトラキアを蹂躙することなど望んでいません。休戦を求めましょう。この身に流れる血はレンスター王家のものであっても、今もなお、私はトラキアの平和をこそ願う。だからどうか……」

 明瞭で聞き取りやすい声で語ってきたアルテナだったが、ここに至って言葉が途切れた。
 沈黙が続く。だがやがて、その沈黙を破ってハンニバルが声を発した。

「アルテナ様」

 ハンニバルはコープルの肩に手を乗せると、そっと義理の息子を脇へと押しやり、アルテナと正面から向き合った。

「アルテナ様のご決意、たしかにうかがい申した。わしもまた、トラキアの未来のため、息子コープルとともにセリス皇子の許へ参りましょう」

 そう言うと、ハンニバルは兵たちの方へ向き直り、厳かな声で宣言した。

「わしは解放軍に降る。そなたらの奮闘と労苦、このハンニバル、決して忘れはせぬ。刃折れ、矢尽きてもなお戦い続けたつわものよ、敵対者の前に膝を折ることは屈辱であろう。だがこれも、よりよき未来を求むるがこそ。たとえ裏切り者のそしりを受けようと、我が心は常にこの大地とともにある。トラキアよ、栄えあれ!」

 しばらくの間、カパドキアの兵たちは声も上げず、その場で硬直していた。だがやがて、兵たちの間から歓呼とも慟哭ともつかない雄たけびが湧き上がる。そして雄たけびは、次第にはっきりと意味をなす唱和へと変わっていった。

「トラキアよ、栄えあれ!」

 満身創痍のカパドキア兵たちは、ただひたすらに、その言葉を繰り返したのだった。

*****************

 ハンニバルの降伏宣言から間もなく、セリス皇子がカパドキアの野に到着した。ハンニバルは解放軍の盟主に改めて降伏の意を伝え、カパドキア城を明け渡した。
 カパドキアの兵たちは武装を解かれた上で城に収監されたが、それはあくまで一時的な処置であることをセリスは強調した。
 降伏した者たちを罪人と見なすつもりはない。むしろ、トラキアの新たな支配者であるアリオーン王子との休戦に協力して欲しい。それが、解放軍を率いる者の意志だった。

 コープルは自室として使っていた部屋で、荷物を整理していた。
 これからは解放軍とともに行軍することになる。今度この部屋に戻るのは、いったいいつになるだろう。
 もっとも、この部屋はコープルにとってそれほど馴染みのある場所ではない。ハンニバルは長年に亘ってミーズ城を守っていた。ここカパドキアに移ったのは、ごく最近のことだ。
 コープルの身の回りの品は多くはない。数冊の書物に祈りの杖、わずかな着替えといったところだ。迷うことがあるとすれば、どの本を持って行くべきか、くらいだろうか。ただ、コープルの向かう先は戦場である。書物をひもとく時間などそうそう取れはしないだろう。けれども、一冊も持たずに旅立つのは、なんとも心さびしいような気がした。
 ふと、積み重なった本の間に、ぼろぼろの薄い冊子を見つける。赤ん坊だったコープルと一緒に発見された、あの祈祷書だ。

(これは持っていかないと)

 裏表紙に記された名前が母親のものであるとは限らない。そもそも親の形見かどうかも定かではない。けれどもこの冊子は、コープルにとって置き去りにできるようなものではなかった。

 扉をノックする音が聞こえた。「どうぞ」と答えると、重い木の扉が開き、ハンニバルが室内に入ってきた。

「軍議、終わったの?」
「ああ、先ほどな」

 そう言ってハンニバルは、コープルに微笑みかけてきた。
 優しい表情だ。けれども顔色は悪く、見るからに元気がない。疲れきっているのがありありと表れ出ていた。

「父さん……今日はもう休んだほうが」
「そうだな。できればそうしたいが……だが、そんな余裕はないだろう」
「でも」
「解放軍と対するにあたって、陛下は帝国に援軍を求めている。帝国の騎士団が派遣されてくるのは時間の問題だ。まだ戦は終わっていないのだよ」
「だけど父さん、解放軍は強い。父さんがそんなに無理しなくても」
「コープル」

 たしなめるような口調で、ハンニバルはコープルの名を呼んだ。

「ここは我々の国なのだ。我々トラキア人の働きがそのまま、トラキアという国への評価に関わってくる。それくらいの心づもりでいなくては」
「あ……うん……」
「セリス様は年に似合わずしっかりした方のようにお見受けした。慈悲深くもあらせられる。けれども、それに甘えるばかりではなるまいよ」
「……うん」
「それはそうとコープル、お前は大丈夫だったのか?」
「うん?」
「人質にされている間も、その後も、ひどい目に合わされたりとかは」

 訊ねるハンニバルの声は、気遣いといたわりに満ちていた。

「ああうん。大丈夫。心配しないで」
「そうか?」

 疑わしげな表情を浮かべてハンニバルは問い返してきた。

「ルテキアのディスラーは、ぼくを地下牢に閉じ込めた。でも、飢えさせたりいたぶったりはしていない。賓客の扱いとはいかなかったけど。それから、解放軍のひとたちは、だいたいみんな親切にしてくれてる。だからぼくは大丈夫。ひどい目になんて会ってないよ」
「ならばいいのだが……」
「そうだ、カパドキアへの道中では、ドズルのヨハン王子が気を遣ってくれて」
「ふむ?」
「新参者のぼくが困ったことにならないように、ってことなんだろうね。いろいろ話しかけてくれたりしたんだ」
「そうだったか……しかし、解放軍にドズル家の方が参戦しているのか?」
「ああ、うん。イザークの戦のときに解放軍についたんだって」
「そうか、なるほど」

 ハンニバルはコープルにうなずきつつも、中空に視線をやり、何ごとかを考え込むような様子を見せた。

「父さん、何か気になることが?」
「いや……そうだな、その方にお礼を申し上げないとな」
「うん」
「おそらくは、敵対する陣営から所属を移した者の立場を慮って、お前に心を砕いてくださったのだろうな」
「あ……」

 父に言われて初めて気づいた。そうか、ヨハンもまた、戦の最中に所属する陣営を変えた人間なのだ。自分や父やアルテナと同じように。

「コープル、その方に――ドズルのヨハン殿と言ったか――お会いできないだろうか」
「あ、うん。そうだね。でも、どこにいるんだろう」
「城の広間に多くの方が集っているようだ。もしご本人がいらっしゃらなくても、どなたかは所在をご存知だろう。ああ、先に向かっていてくれないか。わしは一度、書斎に立ち寄りたいのだ」
「うん、じゃあ、ぼくは広間に行ってヨハンさんを捜しとく」
「うむ」

 うなずくとハンニバルは部屋から立ち去っていった。
 書斎になにか用事があるんだろうか。軽い疑問を覚えながら、コープルもまた、自室を後にして城の広間へと向かった。

*****************

 城の広間へ踏み込むと、ヨハンの姿はすぐに見つかった。
 ヨハンは広間の片隅で、黒い髪を持つ若い女性と談笑していた。垣間見える表情はやわらかく、相手との会話を心から楽しんでいるようだ。行軍の間には見かけなかった表情だ。
 コープルの位置からだと相手の女性の顔は見えない。だが、ふたりの間には、何か特別な空気が流れているような気がした。邪魔しては悪いのではないか。ふとそんな気持ちが湧き上がり、声をかけるのがなんとなくためらわれた。
 だが、ヨハンのほうでコープルの姿に気づいたらしい。会話を中断して、ヨハンはコープルのそばへと歩み寄ってきた。

「コープル君、何か用事だろうか」
「あの……」

 自分はそんなにじろじろとヨハンを眺めていたのだろうか。少しばかり気詰まりなものを感じつつも、コープルは自分の用向きを伝えた。

「えっと……さっき、父と話してたんです。カパドキアに来るまでのことを。ルテキアからの道中、ヨハンさんにお世話になったって。そう言ったら、父がヨハンさんにお礼を言いたいと」
「ふむ? 世話というほどのことをしたつもりはないのだが」
「けど、馬の手配や、その他にもいろいろ話しかけてくださったりとか」
「軍務のうちだ。特別なことではないよ」
「でも……」

 そのとき、先ほどまでヨハンと話していた黒髪の女性が歩み寄ってきて、声をかけてきた。

「あなたがコープル? ハンニバル将軍の息子さんの」

 はきはきした口調でありながらもどこか柔らかな、心地よい声だ。

「は、はい」

 緊張した面持ちでコープルが答えると、女性はにこりと微笑んだ。

「私はラクチェ。よろしく」
「コープルです。どうぞよろしくお願いします」
「あなたのお父上は、とても手強い相手だった。わたしたちの側に来てくれて、本当にありがたいと思っているの」

(ああ、このひとは、父さんの軍と直接対決したのか……)

 形容しがたい震えが、ぞくりと背筋を駆けのぼる。
 目の前の女性は、おそらくはコープルがよく知っている父の部下をその手にかけているだろう。もしかしたら、父とだって刃を交えているかもしれない。

「はい。父もきっと、解放軍の方々とこれ以上戦わないでよくなって、ほっとしているのではないかと思います」
「ええ、そうね」

 コープルに軽くうなずき返すと、ラクチェは「あ」とちいさな声を漏らした。

「ごめんなさい。話に割り込むような形になって。あなたはヨハンと話していたのに」
「いいえ、大丈夫です」
「そうだ、構うことはない、ラクチェ。初めて顔を合わせる相手に挨拶をするのは当然のこと」

 鷹揚な調子で述べるヨハンに、少しためらうような声でラクチェが応える。

「そうだけど、でも」
「むしろ、ぼくがお邪魔してしまったんじゃないでしょうか」
「いや、そんなことはない。ハンニバル将軍の御用となれば、是非にでもうかがわなければ」

 そんな会話を交わしていると。

「コープル」

 重々しい声がコープルの耳に届いた。

「父さん」

 振り返ると、すぐ後ろにハンニバルが立っていた。

「待たせたかな?」
「ううん」

 そう父に応えたコープルだったが、にこやかに微笑みかけてきたハンニバルが、ふと動作を止めたのに気づく。
 ハンニバルの視線を追うと、そこにはラクチェの姿があった。

「将軍……」

 緊張した面持ちで、ラクチェは軽く頭を下げた。先ほどまでの打ち解けた雰囲気とはまるで違う、ぴりぴりと張り詰めた空気が流れる。

「貴女は……」

 ハンニバルの問いかけにラクチェは顔を上げて、硬い表情で名乗りをあげた。

「ラクチェといいます」
「ラクチェ殿、か。たしかイザークのシャナン王子のいとこにあたる姫君が、そのようなお名であったと記憶している。解放軍にその人ありと知られる名だたる女剣士は、なるほど、貴女であられたか」

 その言葉に、ラクチェはそっと目を伏せる。

「カパドキアの野で対峙した時、貴女は我らにとっては脅威以外のなにものでもなかった。だが、同じ旗を仰ぐ身となった今、そのことはもう蒸し返すまい。刃交え、しかしてその後に肩並べあうは、もののふのならい」
「……はい」
「そのように身構えてくださるな。最初は難しいかもしれぬが」
「すみません。慣れるようにいたします」
「いや……姫のお気持ちはお察しいたします。この老骨にも覚えなきことではありませぬゆえ」

 そう語るハンニバルの声には、すでに緊張感あふれる硬さはなく、若い女剣士を慮る温かさが感じられた。

「ありがとうございます。戦場での将軍は手強く恐ろしい存在でした。味方となってくださって、本当に心強く思っています」
「そう言ってくださるか。ありがたいことだ」

 ハンニバルはいかにもほっとしたように、軽く息を漏らした。そしてラクチェの傍らに立つヨハンに視線を移して問いかけた。

「ところで、ドズルのヨハン殿にお礼を申し上げたいのだが、もしやあなたが」
「はい。私がドズルのヨハンです」
「おお、そうであったか。この度は息子コープルが世話になったそうで。ありがたく思っております」
「いえ、コープル君にも言いましたが、特別なことは特に何もしておりません。ただ、虜囚生活の直後に急行軍を強いることになったので、体調など崩さぬよう、多少の計らいはいたしましたが」
「そういったお気遣いこそがありがたいというもの。おかげさまで、息子は健康を害することもなく無事であったようです」

 その言葉に、ヨハンは軽く頭を下げる。
 ヨハンが顔を上げるのを見計らって、ハンニバルは再び口を開いた。

「話は変わるのですが、ヨハン殿に少し見ていただきたいものがありましてな」
「ほう?」
「こちらの品なのですが」

 ハンニバルは懐から小さな箱を取り出すと、自分の掌の上に乗せた。そして箱のふたを開け、その中身を二本の指でつまみ上げて、ヨハンの目の前にかざしてみせた。
 柔らかい色を放つ合金製の、ややいかつい作りの指輪だ。石が飾られるべき場所は平たくなっており、代わりに印章が刻み込まれている。

(あれは……!)

 思わずコープルは声を上げそうになった。

「この指輪は?」
「我が息子コープルがダーナの街で見つけられたときから身につけていたものなのです。できればあなたに、この指輪に刻まれた印章を見分けていただけないものかと」
「ふむ?」
「ドズル家の紋章によく似ているのだが、どうも一致するものが見つからないのです。おそらくはドズル一門に連なるどなたかの個人紋ではないかと思うのだが、わしは紋章学には疎く」
「すこし、お貸しいただけないだろうか」
「もちろんです。どうぞ」

 指輪を受け取ったヨハンは、目の前にかざして、ためつすがめつ眺め返した。だがやがて、首をかしげながらハンニバルに話しかける。

「細かくて、どうもはっきりわかりません。蝋の上にでも押せば、仔細がわかるでしょうか」
「そうかもしれないと思い、こちらも用意しております」

 そう言うと、ハンニバルは懐から小さな紙片を取り出して、ヨハンに手渡した。紙の上には赤い封蝋が施されているようだ。

「おお、これは用意周到な……」

 ヨハンは紙片を受け取ると、蝋の上に押されてある印章を丹念に眺めた。しばらく眺めた後で「ふむ」と口の中で小さくつぶやき、視線を上げた。

「断言はできません。私もはっきりとは覚えていないので。ですがおそらく、これは我が叔父レックス公子の個人紋でしょう」

(え、それって)

 横で耳をそばだてていたコープルは、思わず息を呑んだ。
 ドズルのレックス公子。その名前は昨日、踊り子リーンの父の名として耳にしたばかりだ。リーンの母の名もまた、コープルと無縁とは思えないものだった。となれば、コープルの父母は……
 混乱するコープルの耳に、ヨハンのしゃべる声が流れ込んでくる。

「将軍がこの印章をご存知ないのは無理もないこと。我が父ダナンは、レックス叔父を一門からはずすよう取り計らいました。今では叔父の個人紋を目にする機会など、めったにないでしょう」
「なるほど、そうでありましたか」
「しかし、この指輪をコープル君が身につけていたということは」

 ヨハンに視線を向けられて、コープルはびくりと身をすくめた。

「君もまた、我がいとこなのか」
「ヨハンさん……」

 戸惑いながらも、コープルは言葉を紡ぎ出す。

「その、ぼく、他にも、親の形見じゃないかと思う本も持ってて。で、そこに書かれている名前、シルヴィアって……」
「なんと、それでは」

 心底驚いたような表情で、ヨハンはまじまじとコープルを見つめた。

「……いや、私の見立てだけでは確実とは言えまい。ここは、昔の事情に通じている方の意見を伺うべきであろうな」

 独り言のようにそうつぶやくと、ヨハンは真剣なまなざしをコープルに向けて言った。

「コープル君、その本は今、君のところにあるのだろうか」
「あ、はい。ぼくの部屋に置いてあります」
「そうか、では、その本とこの指輪を軍師殿に見ていただこう。軍師殿ならおそらく、実際のところを見極めてくださるはずだ」

*****************

 コープルは広間を出て一旦自室に戻り、軍師レヴィンが滞在している客間へと向かった。
 室内にはすでにハンニバルとヨハンがいた。請われるままにコープルは手にしていた祈祷書を軍師に差し出し、裏表紙の書きつけを見せた。
 レヴィンはじっと裏表紙を見つめる。そして考え込んだ末に深く息を吐き出し、顔を上げて言った。

「シルヴィアの筆跡だな……おそらく」
「では……」

 急き込んで問いかけるコープルに、レヴィンは冷静な声で返す。

「シルヴィアは読み書きが得意ではなかった。旅芸人の一座として育つ中で、自分の名前の書き方だけは覚え、その後、少しばかり読み書きの手ほどきを受けたこともあったようだが、結局、不自由なくこなせるまでには至らなかった。この本を見るのは初めてだが、シルヴィアの持ち物だと言われれば納得するしかない。いかにも『らしい』からな。シルヴィアは特別信仰心が篤いようには見えなかったが、そうだな、聖職者の説法を聞いたり、祈りを捧げたりといったことは嫌いではなさそうだった」

 ああ、そうなのか。
 レヴィンの語る母らしき女性の情報に、コープルはふと、納得か、あるいは安堵のような感覚を覚えていた。
 母の名と思しきものが記された祈祷書――この本の持ち主が自分の親なのだとすれば、きっとそのひとは「かみさまのおはなし」を大切なものだと考えていたに違いない。ならば自分もまた、「かみさま」を大切にする人間になろう。
 それこそが、コープルが僧職を目指した原点だったからだ。

「そしてこちらの指輪だが、ヨハン王子の言うとおり、レックスのものだろう。つまりコープル、お前が携えていた品は、レックスとシルヴィアの持ち物であったと考えてまず間違いない。加えて、拾われた時期や場所を思えば、お前がふたりの子供である可能性はかなり高い」
「つまり、ぼくは、そのひとの……」
「ああ。お前はおそらくシルヴィアの息子だ。生まれた時期から考えて、授かったのはおそらくあのバーハラの悲劇よりも前だろうな。そう、遺された品々も、状況も、すべて、お前がレックスとシルヴィアの子供である可能性を強く示唆している。ただ……」

 レヴィンは少し考え込むような様子を見せると、声の調子を落として続けた。

「疑うことならばいくらでもできる。盗んだものをそこらの捨て子に持たせた可能性だって、あり得なくはない。お前がレックスとシルヴィアの子であると名乗れば、そういったことを指摘してくる者もいるだろう」
「それは……でもぼくは」

 ただ本当のことが知りたいだけなのに。
 そう続けるつもりだった。だが、自分をじっと見つめるレヴィンに気おされて、コープルは出かかった言葉を飲み込んでいた。

「コープル、解放軍に身を置きながらドズルの血に連なる者であると名乗ることは、相応の覚悟を必要とする。ドズル家は帝国の重鎮だからな。だから、もしお前が自分の出生に関わる事情を伏せておきたいと望むならば、我々はあえて広めようとはすまい。ヨハン王子もハンニバル将軍も、このことにはすでに同意している」
「あ……」

 ドズル家の血を引いているということが何を意味しているか、気づいていないわけではなかった。けれども大人たちは自分よりもはるかにその事実を重く捉え、その上で慮ってくれているのか。

(けど、リーンさんは……)

 あの踊り子は、その事実を隠してはいない。
 レヴィンの言うように、コープルがドズルのレックスと踊り子シルヴィアの子供であるならば、リーンはコープルの姉に当たる。会えるとは、いや、存在しているとすら期待していなかった、同じ血を分かち合う存在なのだ。
 あの艶やかな踊り子が自分の姉だとはにわかには信じがたい。けれどもその一方で、どこか納得できるようなものもまた、コープルは感じていた。
 昨日、焚き火の前で談笑したときに彼女に覚えた慕わしさは、もしかしたら、同じ血を引いるからこそのものなのかもしれない。

「あるがままの事実を、あるがままに。ぼくはそう望みます」

 考えた末に、コープルはそう答えていた。

「自分が養い子であることは昔から知っていました。でも、ぼくの父さんはトラキアの将軍ハンニバル、ずっとそう思っていましたし、これからもそれは変わらないでしょう。けれども、血筋の上での両親――ぼくに生命を与えた人たちのことだって、いつも気にかかっていたんです。難しいことはわかりません。ですがぼくは、ただ本当のことが知りたい。そして、本当のことなら隠したくはないのです」

 自分の血筋を受け止めて、隠すことなく生きている姉。偽りを抱えて彼女と接するのは、恥ずべきことのように思える。
 それに、真実は隠しとおせるものではない。今、小手先のごまかしをしたところで、いずれ向き合わなければならない日が来るのではないか。

「そうか」

 レヴィンは静かな声でそう答えた。だが、その傍らに立っているハンニバルは、感極まったような表情で、コープルの名を呼んだ。

「コープル……」
「父さん?」
「お前は今もなお、わしを父さんと、そう呼んでくれるのだな」
「もちろんだよ、父さん」
「それでいながら、真実から目を背けることもなく……」
「違うんだ、父さん」

 父は自分を買いかぶりすぎている。
 コープルはふるふると首を振ると、懸命な調子で父に言う。

「真実から目を背けない、とか、そんな大層なことじゃなくて。ただぼくは、本当のことなら隠したくないだけだ」
「つらい思いをすることになるかもしれないのだぞ」
「でも、それはぼくだけじゃない。リーンさん……ううん、姉さんや、それにヨハンさんだって。それに、ぼくには父さんがいてくれるから」
「ああ、コープル、お前はわしの……わしの誇りだ」

 涙交じりの声で、ささやくようにハンニバルは言う。

「ううん。父さんこそが、ぼくの誇りだ」

 口に出してから、改めてコープルは実感する。
 そう、ハンニバルこそがコープルの父であり、コープルの誇りなのだ。ドズル家の血を引いていると知ってもさほど動じずにいられるのは、ハンニバルという父親がいてくれるからこそだ。
 そう気づいたとき、ふと、張り詰めた声でカパドキアの兵たちに呼びかけていたアルテナの姿が思い出された。
 父と信じていた人は本当の両親の仇で、祖国と信じていた国はむしろ敵国と呼ぶべき場所だった。
 レンスター王家の血を引いていると知っても、なおもトラキアの平和をこそ願うと語ったアルテナ。あの王女はいったいどんな思いを抱えて、その言葉を口にしたのだろう。

(ぼくは大丈夫……ぼくは揺るがないでいられる)

 コープルの父はハンニバルで、祖国はトラキアだ。はっきりとそう断言することのできる自分は、たぶんしあわせな人間なのだろう。そして、自分がそう信じていられるのは、ハンニバルが信頼に値する人物であるからこそだ。
 揺るぎない存在でいてくれる養父に、コープルは今、心からの感謝を捧げていた。



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written by S.Kirihara
last update: 2018/10/07
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