FE聖戦20th記念企画

守るべきもの


 エルト兄さまよりも素敵な人なんて、いないと思っていた。


 アグストリアの戦乱が勃発する以前のことだ。ハイラインのエリオット王子とこの私、ノディオンのラケシスをめあわせるべきではないかという話が持ち上がったことがあった。
 アグストリア諸侯連合の団結と平和のためには、この婚姻は是非にも成立させなくてはならないものだった。けれども私は乗り気になれなかった。エリオット王子のことがどうしても好きになれなかったからだ。


 わがままと言えばそのとおりだろう。王家の一員である以上、結婚に愛だの恋だのが持ち込めるはずもないことは覚悟していたし、私生児として生を享けた私がノディオンの姫として認知された理由だってちゃんと理解しているつもりだった。
 家同士の絆を確かなものとするために、あるいは、黒騎士ヘズルの血脈を絶やさないために、成人した折にはしかるべき家に嫁ぐ――それこそが、ノディオン王家の姫としての私に求められている役割だ。


 そういったことを、私はわきまえているつもりだった。
 なのに、初めてハイラインのエリオット王子と顔を合わせたとき、私は彼をどうしても受け入れられなかった。
 エリオットを好きになれたらよかった。いや、『好き』でなくてもいい。せめて触れられただけで嫌悪をもよおす、そんな状態に陥らないでいられたら、話は違っていたはずなのに。
 本能的な反応、と言えばいいのだろうか。なんとかして彼の美点を見つけようとしても、抑えがたい嫌悪が先に立ち、虫唾が走るばかり。
 さすがに無理だと思った。だからエリオットをどう思うかと問われたとき、私はただこう答えた。


『私はエルト兄さまのような人でないと好きになれません』


 愚かでわがままな姫君。そう思われたに違いない。
 そう思われても仕方ない言葉を私は選び出し、自分を守る盾として用いたのだから。


 実際、エルト兄さまは素晴らしい方だ。
 騎士としての技量も、王としての器量も、兄上に勝る人などそうはいない。
 シグルド公子の軍に加わり、多くの人々と触れ合った今でも、やはり私はそう思っている。


 でも、本当は私だってわかっていた。
 実の兄と結ばれることなどあるわけがない。いや、あってはならない。兄上の傍らにあるべきは義姉上であって、決して私ではない。
 だったらいっそ、伴侶なんていなくていい。そう思ったこともある。
 夫なんていらない。恋なんてできるはずもない。
 誰かと結婚してヘズルの血を次代に繋ぐのではなく、ただ一介の騎士としてノディオンに剣を捧げる。そういう生き方だってあるのではないか。



 それでも、私も恋を知った。


 最初に心惹かれた相手は、シグルド公子に仕える金の髪の騎士だった。
 真面目で誠実で、騎士としてあるべき姿を忠実になぞろうとするあの方には、どこか兄さまの面影があった。
 でも、あの方は私を見ようとはしなかった。礼儀正しく親切で、いつも丁寧に相手をしてくれる。でもそのふるまいはあくまで目上の『姫君』に対するものに過ぎず、個人的な好意を意味するものではなかった。
 彼が求めていたのは別の女性だった。相手の女性もまた、明らかに彼に惹かれていた。
 ふたりは自分たちの恋心を周囲に見せつけるつもりなどまったくなさそうだった。むしろ気持ちを押し隠そうとしているように見えた。でも、ふたりがどれほど惹かれあっているかなんて、少し注意して見ていれば、いやでもわかってしまう。


 どうしてこうなってしまうのだろう。
 私は別に人のものを奪いたいわけではない。でも、私が心惹かれる相手は、私ではない誰かを一番大切に思っていて、私のことなど見ようともしない。
 見ようともしない、は言いすぎだろうか。だって、兄さまもあの方も、私のことを無視したわけでも邪険にしたわけでもない。いつだって精一杯大切にしてくれていたはずだ。ただ、私がその人にとっての一番にはなれなかった。それだけのことなのだけど。


 仕方ないことなのかもしれない。
 望み、望まれて。愛し、愛されて。
 ふたりの思いが一致すること、そしてそれが周囲から認められ、受け入れられること。
 そういったことは、本当は奇跡のような確率でしか実現しないのかもしれない。


 吟遊詩人は愛を歌う。
 困難に打ち克ち、みごと成就する愛を。あるいは、強く想っているにもかかわらず、かなうことなくはかなく散る愛を。
 愛がたやすく得られるものならば、吟遊詩人の絵空事にどれほどの価値があるだろう。
 得がたいものであるからこそ詩人は愛を歌うのだし、人々はその歌に耳を傾けるのだ。


 あの方への思いもまた、叶わないものだった。
 そう悟った私は、誰に明かすことなく自分の思いを閉じ込めようとした。
 もっと積極的に迫ってみるべきだったのだろうか。けれども、勝てるはずもない戦に名乗りをあげるには、私は自尊心が高すぎた。いや、臆病すぎたのだろうか。
 むなしい片思いなんてあきらめよう。そう決意した頃、私の一番近くにいた人、それがヴェルトマーのアゼルだった。



 なんだか頼りなさそうな人だ。それがアゼルから最初に受けた印象だった。
 私よりも三つくらい年上のはずだ。なのにどうにも子供っぽいというか、自信がなさそうというか、そんな印象がぬぐえない。
 そのくせ、魔法の扱いにかけては一流なのだ。
 アゼルは並の魔道士ではかなわないような魔力を具えている。単に生来の魔力が高いだけではない。多くの訓練を重ねてきたことを感じさせる巧みさもある。なのに、本人はそのことをあまり自覚していないのか、自分を卑下するような言葉ばかりを口にする。でも、よくよく話を聞いてみると、彼が自分と比較しているのは、ヴェルトマー公爵アルヴィスやシレジアのレヴィン王子といった、超一流の魔道士ばかり。
 敵わなくて当たり前なのに。そもそも比べる相手が間違っているのだから。


 そんなだから、彼が私の恋い慕う相手になるなんて思わなかった。
 だって、アゼルはエルト兄さまとはぜんぜん似ていない。
 一緒に剣の練習をしたことがあるけれど、正直、剣の腕前はさっぱりだ。
 乗馬は嫌いではないらしいし、それなりに得意なようだ。けれどもそれだって、騎士としてかろうじて及第点といった程度で、並はずれて優れているわけではない。
 何よりも覇気が足りない。引っ込み思案で、どうにも優柔不断だ。


 でも、彼と話すのは不思議と楽しかった。気持ちがささくれだってとげとげしい言葉を口にしても、アゼルは困ったような表情を浮かべながらそっと受け止めてくれる。そんな彼の柔軟さと優しさは新鮮だったし、心地よくもあった。


 親しくなるにつれて私は気づいた。実は私たちはとてもよく似ている。
 特に異母兄との関係に至っては、いやになるほどそっくりだった。


 尊敬できない実の父親に代わって、父としての役割を果たしてくれる兄。
 神器の担い手であり、人々からの尊敬を一身に受ける兄。
 この人のために力を尽くしたい。この人の信頼を得たい。傍にいる人間にそんな気持ちを抱かせずにはおかない、並はずれて優れた兄。
 ヴェルトマー公爵アルヴィスについて彼が語る言葉を聞くたびに、私は自分とエルト兄さまの関係を連想した。
 私もまた、こんなふうにエルト兄さまについて語っているのだろうか。
 そう気づいたとき、アゼルに向かう気持ちが少しずつ変化しはじめた。


 最初に芽生えたのは仲間意識のようなものだった。共感し、励ましあえる友人と言えば聞こえがいいが、要は、同じ傷を舐め合う相手だ。
 でも、それだけでは終わらなかった。
 もっと緊密で温かな、それでいて泣きたくなってしまうような何かが、私たちの間に徐々に育ち始めていた。
 あの夏、シグルド公子が治めるアグスティの城で、私たちは多くの時間をともに過ごした。
 私はいつも不安を抱えていた。焦っていらいらしていて、ちっとも落ち着くことができなかった。
 そんな私を、アゼルはちょっと困りながらも、でもきちんと受け止めてくれた。
 彼は一見おとなしくて弱そうに見える。けれども本当はとてもしなやかで、けっこう頑固で、したたかですらある。
 戦乱の予兆に満ちたあの日々、アゼルが傍にいてくれたおかげで、私は笑って過ごすことができた。
 いよいよ戦が始まった後も、過度に取り乱したり絶望したりすることなく対処していけたのは、たぶん彼がいてくれたからなのだ。


 そして、あの時が訪れた。
 マディノで敗れたシャガール王はシルベールに逃れる。そしてシルベールに駐屯していたノディオン王エルトシャンに出撃を命じた。


 兄さまは王命に従って出陣し、シグルド公子と刃を交える。
 私は兄さまを止めようとした。戦場に分け入り、兄さまに停戦を呼びかけた。
 兄さまは私の言葉に耳を傾けて軍を引き――シャガール王に処刑された。


 どうすればよかったのだろう。
 あれから私は何度も問い直している。


 兄さまとシグルド公子が戦うなんて間違っている。だから剣を引いてほしいと私は兄さまに告げた。
 でも、その私の言葉が兄さまを死に追いやった。それもまた、認めなければならない事実だ。


 兄さまがアグスティ王家への忠誠を貫くことは、予測できないことではなかった。
 アグストリア諸侯連合の君主のひとりとして、上級王を盛り立てていく。
 たとえ主君がおのれに報いてくれなくとも、あくまでも忠誠を貫き、その旗の下で戦い続ける。
 それはひとりの騎士としては、美しく、正しいあり方なのかもしれない。


 けれどもシャガール王は忠誠をつくす価値のある主君だっただろうか。アグストリアの民にとって、シャガールは本当に良い王と言えただろうか。
 むしろグランベルの、いやシグルド公子の統制下にある地域に住む者たちのほうが、平和で安定した日々を送っていたのではないか。だとしたら、アグストリアの民にとって本当に望ましい支配者はいったい誰だったのか。
 そういったことを、兄さまもきっと考えておられたはずだ。けれども結局、兄さまはあのような行動を取られた。


 どうすればよかったのだろう。
 どうすれば、アグストリアの民は平和で幸福な日々を過ごすことができたのだろう。
 どうすれば、兄さまを生かすことができたのだろう。
 どうすれば、私は兄さまを失わずにすんだのだろう。


 何度問い直しても答えは見つからない。
 ただただ、行き場を失った怒りと後悔が、私の心を食い荒らしていくばかり。


 そんな私を、アゼルはただ抱きしめてくれた。
 同情でもなく、憐れみでもなく、ただそのままの私を受け止め、かなしみを共有してくれた。
 だから私は生き抜くことができた。
 兄さまを喪って、いいえ、兄さまを死なせて、それでも自分が生きていてもかまわない――むしろ生きなければならないと思えたのは、間違いなく彼のおかげだ。


 アグストリアの戦いが終結するのと時を同じくして、シグルド公子は叛逆者の汚名を着せられてシレジアへと亡命した。
 私やアゼルも、シグルド公子に同行した。
 アゼルは本当は残ることだってできたはずだ。彼が望みさえすれば、彼の兄であるアルヴィス卿はきっとアゼルを受け入れただろうから。けれどもアゼルは私と一緒にシレジアへと向かった。
 シレジアに向かう船の中で私は自分の体調の変化に気づいた。
 身の置きどころのないような倦怠感と吐き気。
 最初は船酔いだと思っていた。けれどもしばらく経っても症状は収まる気配を見せない。エーディンに気遣わしげに問いかけられて、はじめて私は思い当った。
 私は子供を授かっていた。身に覚えはあった。父親となる可能性のある人物は――アゼル以外にはありえなかった。


 シレジアについてすぐに、私たちは婚姻の誓いを交わした。
 正式なものではなかった。私はノディオンの王族でアゼルはヴェルトマーの公子だ。正式に婚姻関係を結ぶには面倒な手続きと多くの合意を必要とするが、シレジアに亡命中の身とあっては、そういった手続きをすべてこなすのはあまりにも困難だった。
 私たちは庶民の男女のように、神官を通じて神の祝福を受け、ともに生きることを誓いあった。シグルド公子とともにある人々は、おおむね私たちの結びつきを祝福してくれた。


 緑あふれる初夏に、赤ちゃんが生まれた。
 男の子だった。デルムッドと名付けられた私たちの赤ちゃんは、ふわふわした癖っ毛の金髪と琥珀色の瞳の持ち主で、ヴェルトマーの血よりもノディオンの血を多く感じさせた。見た目だけならばどちらかと言えば私に似ているだろう。
 そのころ、シグルド公子の滞在するセイレーン城には身籠っている女性や生まれたばかりの子供が少なくなかった。おかげで子育てで戸惑うことはあまりなくて済んだ。
 デルムッドはおとなしくて扱いやすいとみんなは言う。客観的に見ればそうなのかもしれない。たしかにたいてい機嫌がよくて、むやみにぐずったりはしない。こういうところは、きっとアゼルに似たのだろう。私に似ていたらもっと癇の強い、面倒な子供になったはずだ。
 おとなしいとはいっても、赤ちゃんの面倒を見るのは本当に大変だった。授乳や夜泣きに振り回されてろくに眠ることもできない日々が続くと、どうしようもなく疲れ果てていらいらすることもしょっちゅうだった。けれどもいらだちよりも喜びのほうがずっと大きかった。


 デルムッドが生まれて、ようやく私は笑いを取り戻した。
 悲嘆と悔恨は今も私の中にある。おそらく生涯消え去ることはないだろう。けれども、暗い思いに胸塞がれていてもなお、日々の暮らしの中には喜びのかけらもまた埋まっているものだ。そのことに、あの子が気付かせてくれた。


 やがてシレジアで戦争がはじまった。王位継承をめぐるこの内乱において、シグルド公子は恩義あるラーナ王妃の側に立って戦った。
 戦争は私たちの勝利に終わったけれど、それはまた、新しい戦いの始まりでもあった。
 内乱終結とほぼ同時に、グランベルの軍が東のリューベックまで進軍してきたのだ。
 シグルド公子はリューベックに向かって進軍すると告げた。それはそのまま、グランベル本国へ軍を進めることを意味していた。


 リューベックを落とすと、シグルド公子は幼いセリス公子をイザークへ落ち延びさせるつもりだと私たちに告げた。
 この先、私たちはイード砂漠を縦断し、グランベル本国へと攻め込む予定だ。激化する戦争に幼い子供たちを伴うことはできない。だからシグルド公子はオイフェに命じて、セリス公子をはじめとする幼い子供たちをイザークへ落ち延びさせようと計画したのだ。


 私たちはデルムッドをイザークへ向かう一行に託すことにした。
 私も一緒にイザークに落ち延びることを勧められた。けれども私は断った。アゼルはグランベル本国に向かうつもりでいるようだし、私自身もグランベルへ――さらには義姉たちがいるはずのレンスターへ向かうつもりだったからだ。


 デルムッドのことは気がかりだった。離れずにすむのなら離れたくなんてなかった。でも母としてその傍にあり続けるよりも戦士として戦場へ向かうことを私は選び取った。
 きっと皆、同じように迷いながら選択を下したはずだ。
 エーディンは子供たちとともにイザークへと向かうことを選び、アイラは私と同じく双子たちを託して戦場に向かうことを選んだ。
 どの選択が最良であるかなど、わかるはずもなかった。けれども、自分の能力を最大限に活用し、より多くを生かすための方法を皆が真剣に考えていた。
 よりよき明日のために。守るべきものを守りきるために。
 はっきりと口にしたことはない。だが、それこそが私たちの合言葉だったはずだ。


 リューベックでの別れの後、私たちはイード砂漠に足を踏み入れた。
 砂漠の行軍はこれまでになく厳しいものとなった。馬は砂漠に適した生き物ではない。騎馬部隊を引き連れての行軍は遅々として進まず、思わぬ消耗を強いられた。
 それでも私たちは行軍を続け、ついにオアシスの城砦フィノーラを陥落させた。
 ここまで来れば、ヴェルトマーはもはや目と鼻の先だ。
 ヴェルトマー――そこはアゼルの故郷でもある。
 アゼルは最近ずっと何かを考え込んでいるように見える。
 彼の兄であるヴェルトマー公爵アルヴィスは、ヘイム王家の姫君の女婿となり、今ではバーハラの王宮で暮らしているという。
 アルヴィス卿はヴェルトマーにはいない。けれどもヴェルトマーに攻め込むということは、アルヴィス卿に剣を向けるのと同じだ。ならばそれはアゼルにとって耐えがたいことなのではないのか。
 アゼルはアルヴィス卿を慕っている。
 いずれは兄上の傍らでヴェルトマーを支える者となりたい――あのアグストリアの夏の日々、アゼルはたしかにそう言っていた。その言葉が心からのものであることを、私は誰よりもよくわかっているつもりだ。
 なぜなら私もまた、自分の兄を恋い慕う者であったのだから。



「ラケシス」
 フィノーラで過ごす最後の晩、ふたりきりになったのを確かめると、アゼルはそっと私に呼びかけてきた。
 開け放たれた窓から月の光がさやかに差し込み、アゼルの横顔をくっきりと照らし出す。
「君はここからレンスターに向かうべきだ。ヴェルトマーを目指すのではなく」
 アゼルは静かな声ではっきりと言った。
「レンスターにはエルトシャン王の子供がいる。君はアレス王子にエルトシャン王の最後の手紙を渡さなくてはならない。そのためにここまで来たんだろう?」


 シルベール城から出撃する前に兄さまは二通の手紙をしたためて、腹心の部下の妻に託していた。一通は私宛て、そしてもう一通は兄さまの息子であるアレスに宛てたものだった。
 私に宛てた手紙の中に兄さまはこう書き記している。


 ――私の選択は最良でも賢明でもない。それは十分理解している。しかし、アグストリアの諸王のひとりとして、私にほかの選択肢はなかった。
 どうかラケシス、憎しみやかなしみに囚われることなく、誇りを失わずに歩み続けてほしい。そして私の心を、我が子アレスに伝えてほしいのだ――


「ノディオンのラケシス、今、君が一番大切にしなければならないのは何?」
「アゼル?」
「君が是が非にでも果たさなければならない使命がある場所はバーハラじゃない。レンスターのはずだ」
「たしかに私はノディオンの王女。でも同時に、あなたの妻でもあるのよ」
「わかってるさ。だからこそ、君には生きててもらわないと」
 アゼルは考え込むようなしぐさを見せて、言葉を足した。
「ラケシス、僕に隠してることがあるよね。君のおなかには新しい命が宿っている。違う?」
「あ……」
 そうかもしれないと思い始めていたところだった。月のものが遅れていたし、なんともいえない倦怠感を覚えることが増えていたからだ。
「どうして?」
「二回目だからね、わかるよ……って言いたいところだけど、本当はクロード様が教えてくれたんだ。君のまとっているエーギルが変化しているって」


 クロード様の言うことなら間違いないだろう。ブラギの高司祭であるあの方は、医者よりも早く、しかも正確に、そういった変化に気づかれる。


「ラケシス、君は絶対に死んじゃいけない。だからもう戦場に出てはだめだ」
「でも……」
「僕は大丈夫だよ。ちゃんと覚悟はできてる。ヴェルトマーには兄上はいないかもしれない。けれどその先、バーハラでは兄上と向かいあうことになるだろう……敵として」
「覚悟だなんて……そんなこと、簡単に言わないで!」


 思わず私は声を荒げていた。


「お兄さまと敵味方に分かれて戦う。そんなこと、あっていいわけがないでしょう。私、覚えてるわよ。アグストリアにいた頃、あなた言ってたじゃない。いずれアルヴィス卿のもとに戻って、アルヴィス卿を支えていくつもりだって。それが自分のあるべき生き方だと思ってるって。
 あなたは私を救ってくれたわ。だから今度は私があなたを守りたい。ひとりでなんて行かせられるものですか」
「ラケシス、僕は兄上が今何を考えているのかわからない。なぜ兄上はレプトール卿やランゴバルト卿と一緒になって、シグルド様に叛逆者の汚名を着せたんだろう。それを知るためにも、僕は、兄上とちゃんと向き合わなくちゃいけない。それがヴェルトマー公子として僕が果たすべき役割だ。そして、君には君の果たすべき役割がある」
「果たすべき役割……」
 そう繰り返す私にアゼルは頷くと、はっきりとした口調で言った。
「まずは何としても生き延びる。そして無事に子供を産んで、レンスターでアレス王子を探し当てる。それこそが君の果たすべき役割だ」


 反論を許さない、断固とした口調だった。
 意外だった。アゼルは物腰柔らか、と言えば聞こえはいいが、自信なさげな歯切れの悪いもの言いをすることが多い。こんなにはっきりと断定的に言い切るのは、私の知る限りでは初めてかもしれない。
 驚いて見つめ返す私に、アゼルはなおも続けた。


「エルトシャン王とシグルド公子、あのおふたりは親友だった。心ならず敵味方となったけれど、最後までお互いを信頼していた。そのことを僕たちは知っている。だけど世間の人たちはどうだろう。エルトシャン王とシグルド公子が戦って、そしてエルトシャン王が死んだ。そこだけを切り取ってしまうと、エルトシャン王とシグルド公子がどんな関係だったかなんて、まるでわからない」


 そう指摘されて、私は初めて気づいた。
 シグルド公子と兄さまが親友同士であり、最後まで信頼しあっていたことは、私にとっては当たり前すぎることだった。
 兄さまの留学時代の話には必ずと言っていいほどシグルド公子の存在があった。
 ハイラインによってノディオンが侵攻を受けたあのとき、私がエバンスに駐留していたシグルド公子に援軍を要請したのも、兄さまがシグルド公子を信頼していると知っていたからだった。
 不幸な巡り合わせによって、兄さまとシグルド公子は敵味方に分かれて干戈を交えた。
 あれは決して本人たちの望んだことではなかった。最後までふたりの間にあったのは友情であり、憎しみなどではなかったはずだ。
 だが起こった事実のみを見て、ただ対立関係にあったのだと考える者がいても、何の不思議があるだろう。


「事実を知ればわかるはずだ。ついそう思ってしまうよね。でも、ちゃんとありのままの事実が伝わるかなんて、とてもあやふやなものなんだ。今の僕に兄上の真意がわからないように、レンスターにいるアレス王子は父王の本心を知らないまま育つかもしれない。だから、ちゃんと伝えないと。
 君はエルトシャン王の手紙を預かっている。その手紙には、エルトシャン王の思いが込められているはずだ。君はアレス王子に――君の甥に、エルトシャン王の手紙を渡さなくてはならない。これは義務なんだと思う。遺された者が果たさなくてはならない、神聖な義務なんだと」


 神聖な義務。
 その言葉に私はわずかな反発を覚える。


 ――義務なんて言葉にはもう縛られたくないのに。


 けれども私はアゼルの言葉を受け入れていた。
 理想を叶えられないまま命を落とした人々がいる。新たに与えられた命がある。
 胎内に萌した命を育み、守り育てて、生ける者に死者の言葉を伝える。それは私にしかできないことだ。


「アゼル……」


 夫の名を呼んで、私はその胸元にすがりついた。


「あなたと離れたくないのに」
「僕だって君と離れたくなんかない。ずっと一緒にいたい。こっちのけりがついたらすぐに君を追う。だから僕は死なないよ。絶対に死んだりしない。レンスターでまた逢おう。約束だ」


 私は無言のまま、ただ頷く。
 アゼルは私の背に腕をまわして、軽く抱きしめる。
 このぬくもりを手放したくない。私は切実にそう思う。
 誰かと愛し合えるなんて思わなかった。報われない愛を心の裡に押し込めて、ひとり生きていくのだと思っていた。
 彼と出会ってからも、ふたりの間にあるものを愛と呼んでいいのか、なかなか確信が持てずにいた。
 けれども今、私は心から思っている。
 この人を失いたくない。ずっと一緒に歩んでいきたい。
 今離れれば、再会できる保証なんてどこにもない。そんなことはふたりともよくわかっている。
 それでも私たちは再会の約束を交わすのだ。


「ええ、レンスターでまた逢いましょう。約束よ」


 私を抱くアゼルの腕に力が加わる。
 月光のもと、私たちは互いの熱を確かめ合うように、固く抱き合った。

《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2017/05/27
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