FE聖戦20th記念企画

明日のために


 長い間、彼女には触れるまいと思っていた。


 ヴェルダンの戦いで、アイラは我々の軍に加わった。
 表向き、彼女はイザーク出身の女傭兵だとされている。だが、実を明かせば、アイラはイザークの先王マナナンの末娘で、マリクル王の妹に当たる。
 その事実は、少なくとも当初は秘密とされていた。バーハラの宮廷が彼らの真の身分を知れば、このまま捨て置くとは思えなかったからだ。
 ただし、我々がシレジアに亡命した頃には、我らが軍に身を置く者たちの間では、イザーク人たちの隠された身分は公然の秘密となっていた。


 シグルド様はシャナンを保護することをアイラに約束し、アイラの信頼を求めた。
 グランベル貴族として筋を通すならば、シグルド様はアイラとシャナンをバーハラへ送り出し、宮廷の裁定を仰ぐべきだったはずだ。しかしシグルド様は武人としての信義に基づいて、アイラたちを自らの手許に留め置き、その存在を公のものとはしなかった。
 この行為は後に、ドズル公爵ランゴバルトらがシグルド様を反逆者として弾劾する証左のひとつとなった。


 アイラはただ、シャナンの身の安全と健やかな成長を願っていた。シグルド様もまた、イザークとの間にあるわだかまりを解くことを願って、アイラたちを庇護した。そこには謀反や野望といった後ろ暗いものはなく、ただ、平和を望むがゆえの信頼があるばかりだった。だが、野心と猜疑心を抱く者たちによってその真意は曲げられ、シグルド様を陥れるための材料として利用された。
 そうなることをオイフェは当初から憂えていたし、実のところ私やアレクも同様だった。
 それでもあのときヴェルダンで、我々はアイラとシャナンの存在を隠すことを決意した。シグルド様が抱いておられる理想を守り抜くことを、我々は選び取ったのだ。



 シグルド様は愚かな方ではない。だが、実利よりも人としての情を重んじられる傾向がある。
 たとえばディアドラ様との婚姻も、そういったシグルド様の性質を表すものだったのではないか。
 シグルド様の奥方となったディアドラ様は、ヴェルダンの森深くに隠された村に住まう巫女だった。
 精霊の村の巫女はさる特別な血筋を引く者であるという噂がある。
 シグルド様が彼女を妻にと望まれたとき、私は彼女の身元を調査している。その結果として知りえた事実は――軽々に口の端に上らせることができるようなものではなかった。
 なのにシグルド様はその事実を知った上で、真実を皆に周知することなく、あえてディアドラ様との間に縁を結んだ。
 私にはお二人の婚姻を止めることはできなかった。秘密を明かさぬことをシグルド様に誓い、私はお二人を守り続けると約束したのだった。


 はたして私の選択は正しかったのか。私は何度もおのれに問い直している。
 シグルド様とディアドラ様の間に生まれた御子は健やかに育っておられる。今のところ、セリス様には瑕疵のようなものは何も見当たらない。健康で美しく、性質のよい子供だ。
 それでも私の中には常におそれがある。セリス様は、果たしてバルドの御子としてふさわしい方に成長されるだろうか。ディアドラ様の中に潜む昏い血が顕現し、あるいは露見し、おそろしい事態を招くのではなかろうか。
 むろん、人は受け継いだ血のみによってその在り方を定めるわけではない。ディアドラ様は優しく穏やかな方だし、その父祖もまた、正義を求めるがゆえにおのが血族に戦いを挑み、聖騎士と呼ばれた人物だったのだから。
 そうおのれに言い聞かせてもなお、私の心から不安は消えない。幼少時から聞かされてきた暗黒神への恐怖は、かくも深く身内に根付いているのかと、思い知らされるばかりである。



 シグルド様の婚礼の宴は、だから私にとって気の重いものとなった。
 おのれの抱える秘密に怯えながら、友の前では笑顔を見せ、この佳き日よと言祝ぐ。ごまかしごとの苦手な私にとって、それは苦痛以外の何物でもなかった。
 私は酒を過ごし、したたか酔った。そして控えの間で酔いを醒ましている時――アイラが目の前に姿を現した。
 私はずっとアイラに心魅かれていた。おそらく、ジェノア郊外で敵として剣を振るう彼女を見たその時から、私の心は彼女に囚われていたに違いない。
 だが、我々の間には厳然たる壁がある。
 アイラはイザークの王女、敵対している国の、しかも王族である人物だ。求めても手の届かない、いや、望むべきではない相手のはずだ。
 私はアイラとの間に距離を置きたかった。分をわきまえない恋慕から生じる摩擦や悲哀は避けるべきだと思っていた。第一、私ごときに彼女が目を留めるはずなどないではないか。
 それなのに、あの夜、アイラは私に歩み寄ってきた。私たちは瞳を見かわし、互いの瞳の中に互いの姿が映り込むのをみとめ、そして私は彼女の前でおのれの胸の裡をさらした。


 ――ともにいられることを、喜ばしく思う。


 実際に口にした言葉はそれだけだった。だが、その短い言葉だけで、アイラは私の心を察したようだった。
 そう、あの夜を境に、私たちは思いを分かち合うようになっていったのだろう。


 それでも、最後の一線を越えることを、私は長い間躊躇していた。
 欲望がなかったわけでは決してない。彼女に触れ、そのすべてを求めたいと、何度願ったことか。だが、その結果起こりうる事態を私はおそれた。
 これは男の側の欲望に過ぎないのだ。自分のわがままに彼女を巻き込んではならない。
 彼女自身の望みを問おうともせずに、私は勝手にそう思い込んでいた。


 その思い込みが破られたのはアグストリアの戦いが終局を迎えた頃だった。
 アグスティ城の攻防で私は重傷を負った。幸い、時をおかずリライブの杖による治癒を受けることができたので、大事には至らなかったが。
 だが、私が負傷したその時、アイラは私のすぐそばにいた。そして、私が倒れ、血を流すさまを、つぶさに目にすることとなった。
 意識を取り戻したときに最初に目にしたのは、真っ青な顔色で睨みつけるように私を覗き込んでいるアイラの顔だった。
 そしてアグスティ城が陥落したあの夜、彼女は私の許を訪れ、私をなじった。


 ――あなたの戦い方は見ていられない。なぜもっと命を惜しまない。どうしてすぐ危険に身をさらそうとする。こんな思いをするのは、もうごめんなのに。


 彼女は泣きじゃくっていた。頑是ない子供のように、理屈にもならない理屈をこねて、ただただ涙を流し続けていた。
 こんなアイラを目にするのは初めてだ。
 アイラは気丈で、涙を見せたり取り乱したりする様子を見せることはまずない。
 その彼女が、頬を紅潮させ、ぽろぽろと涙をこぼし、あられもなく泣きぬれている。
 そんな姿でさえ、こんなにも美しく、こんなにも愛おしいとは。
 彼女の怒りの言葉を耳にしながら、私の心に浮かんだのは、そんな、どうにも愚かしく、どうしようもないような感慨だった。
 ここに至って、ようやく私は彼女に触れた。その手を取り、唇を重ね、そして――彼女にもまた自分と同じ欲望が宿っていることを知ったのだった。



 アグスティ陥落からしばらくの間、私は床についていた。
 先の戦いでの負傷もさることながら、日頃の疲れが祟ったのだろう。自分で思っていたよりもはるかに私は衰弱しており、休養を取るようにと医師から命じられたのだ。
 寝込んでいる私のもとには頻繁にアイラが訪ねてきた。そんな彼女の様子から、周囲も次第に私たちの間柄を察するようになっていった。
 アレクには随分とからかわれた。ただ、軽口や皮肉とともに、アレクは女性と付き合う上での実際的な忠告も授けてくれた。余計なお世話だと突っぱねながらも、私は彼の言葉をこっそりと心に留め置いた。経験豊かなアレクの言葉は、時折的外れなこともあったがおおむね有益で、私はひそかに親友に感謝を捧げた。


 アグスティ滞在が半年を過ぎた頃、再び不穏な空気がアグストリアに流れ始める。
 やがて上級王シャガールは兵を募ってマディノで挙兵し、アグストリアは再び戦場となった。
 厳しく、虚しい戦だった。
 エルトシャン王の死、ディアドラ様の失踪。
 シグルド様はこの上ない痛手を負いながら、それでも勝利を重ねていった。
 年の瀬も押し迫った時分に、ようやく戦いは終わりを迎えた。
 だが時を同じくして、グランベル本国から派遣された軍がアグスティに迫り、我々を反逆者として弾劾する。
 追い詰められた我々に手を差し伸べたのは、シレジアのラーナ王妃だった。ラーナ様の招きに応じて、我々は海を越えてシレジアへと亡命した。


 シレジアに到着して間もなく、私はシグルド様にアイラとの結婚の許可を求めた。
 アイラの真の身分は、表面的にはいまだ伏せられたままである。だからシアルフィの騎士ノイッシュが花嫁として迎えた相手は、イザーク王女アイラではなく、あくまでイザーク出身の女傭兵アイラだった。もっともその頃にはすでに、シグルド様のもとに集う人々はほぼ皆、真実に気づいていたようだ。
 思えば不思議な縁である。平時であれば結ばれることのない相手であったろう。出会うことすらなかったかもしれない。
 そして、婚姻の誓いを立てて間を置かずして、アイラが身籠っていることがわかった。



 シレジアでの時間は穏やかに流れていった。
 夏の終わりにアイラは双子を産んだ。アイラと同じ黒い髪と瞳をもつ男の子と女の子だ。
 あの日の喜びを、どう言い表わせばいいだろう。
 これまでも、シグルド様のもとに集う人々の間では、幾人かの子供が生まれている。赤子の姿を目にすることは、さほど珍しいものではなくなっていた。
 だが、それが自分の子供であるとなれば、まったく話は別だった。
 双子の顔かたちは、男女の差こそあるものの、驚くほどよく似ていた。それでいてその気質はかなり違っていることが、育つにつれて明らかになってきた。
 おとなしくて我慢強い兄と、いつも活発に動き回りたがる妹。
 しかし双子というものは、何につけても大変なものだ。ひとりでも手がかかるというのに、それが二倍になって、しかもほぼ同時に同じような欲求を示すのだから。
 幸いというべきか、セイレーンの城にはセリス様の乳母を務める女性のほか、アイラよりも少し先んじて子供を産んだラケシス様やシルヴィアがいた。彼女らの手助けもあって、双子はすくすくと育っていった。


 だが、平和な時間は長くは続かなかった。
 冬の初めにレヴィン王子の王位継承を不服とする先代国王の弟たちが反乱を起こしたのだ。
 このシレジアの内乱において、我々はラーナ王妃とレヴィン王子の側に立って戦った。
 内乱は我々の勝利で終わった。だが、内乱の終結と時を同じくして、グランベルの軍が東のリューベックを制圧したとの報せが届く。軍を率いているのはドズル公爵ランゴバルト卿。グランベル軍の目的がシグルド様を討つことであるのは明白だった。



「ノイッシュ、少し相談しておきたいことがある」
 リューベックへの進軍に関する軍議が終わり、皆を下がらせてから、シグルド様は私に声をかけられた。
 招かれるままに、私はシグルド様が私室として使っておられる部屋に向かう。


「リューベックを制圧した後のことだ。オイフェに話すよりも先に、お前と相談しておきたい」
 部屋の扉が閉まっていることを確認してから、シグルド様は静かな声で切り出した。
「リューベックから南下してイードの砂漠を越えればヴェルトマーに至る。リューベック奪取の後、私はこの経路でグランベル本国へ向かうつもりだ。そこまではいいな」


 私が頷くのを確認して、シグルド様は言葉を続ける。


「砂漠越えは厳しい行軍となるだろう。そればかりでない。本国に入った後は激戦に次ぐ激戦が予想される。我々は遠征軍、しかるに相手は防衛軍だ。勝利は容易には得られまい。だが、我が軍にはセリスをはじめ、幼い子供が多く同行している。砂漠越えの前に、私はこの子たちをできる限り安全な場所に避難させておきたいのだ。
 シレジアに預けていくことも考えた。だが、これ以上ラーナ王妃に迷惑をおかけするわけにもいくまい。そこで考えたのが――イザークだ」


 私はシグルド様の言葉に頷いた。
 リューベックは国境の砦だ。北東へ向かうとイザークに至る。
 イザークはグランベルと交戦状態にある。敵の敵は味方という論理に従えば、イザークの民がバーハラの宮廷から反逆者とみなされている我々を受け入れる可能性は充分考えられるだろう。
 シグルド様はさらに続けた。
「私はイザークへ子供らを逃がす役割を、オイフェに担わせようと思っている」


 オイフェはシアルフィ公爵家に連なる者だ。バルドの血を継ぐ者は意外と少なく、そのためオイフェの爵位継承順位は、実はかなり高い。だからこそシグルド様は両親を早くに失ったオイフェを手許に置いて教育を施してきたのだ。


「私やセリスに万が一のことがあった場合は、オイフェがシアルフィを担って立つことになる。死なせるわけにはいかない。とは言え、ただ落ち延びよと言ってもオイフェは耳を貸さないに違いない。だが、セリスを守れと命じれば、イザークへ逃れることを受け入れると思うのだ」
「オイフェを交えずに私に先に話そうとお考えになられたのは、だからなのですね」
「ああ。オイフェはおそらく、私についていきたいと言うだろう。だが、私は同行を許すつもりはない。そして実のところ、ノイッシュ、お前にもイザークへ向かってもらいたいのだ。アイラとともに」
「私が……ですか」
「そうだ。子供たちには守り手が必要だ。オイフェももう十七歳、子供たちを託せるだけの力は備えている。だが、加えてイザークゆかりの者を同行させたい。そう、アイラとシャナンだ。イザークの王族の口添えがあれば、イザーク人の助力を得るのもたやすいはずだから」
「おっしゃるとおり、アイラはイザークに向かうべきです。しかしシグルド様、私はシグルド様に随行いたします」
「ノイッシュ?」
「オイフェに加えて私までもがイザークへ向かえば、シグルド様に従って騎士団の指揮を執る者が減りすぎてしまいます。ただでさえ我らは劣勢です。あまり多くの者をイザークに向かわせるのは上策とは思えません。
 我らの目的は、国王陛下の御前で弁明すること。そのためには勝ち進んでバーハラに凱旋しなければなりません。確かにセリス様やオイフェは大切です。ですが本隊の勝利がおぼつかなくなるようでは本末転倒もいいところ。私はあくまでシグルド様の旗下で戦うことを望みます」
「だが……」
「オイフェはもはや庇護を必要とする年齢ではありません。私が手を貸さずとも、セリス様と自分自身を守って、イザークで道を切り拓いていくはずです」
「しかしいいのか。それではお前は妻子と別行動を取ることになる」


 ああ、やはり。
 シグルド様は実利からではなく、私への気遣いからこの申し出をなさったのだ。
 ディアドラ様が失踪して以来、シグルド様は苦しんでおられた。
 伴侶がそばにいない日々の痛みを知るからこそ、シグルド様は他の者に同じ思いを味わわせたくないと思われたのだろう。
 私とてアイラと離れたいわけではない。だが、ここで情に負けて大局を見失うわけにはいかない。


「生き延びればまた会うこともかないましょう。ですがなによりも肝要なのは、シグルド様の勝利です。
 私はシアルフィに剣を捧げ、シグルド様に誓いを立てております。よりよき明日のために今日の別れが必要ならば、甘受すべきと心得ています」


 私の言葉にシグルド様は息を呑んだ。


「ノイッシュ、お前はいつも……いつも他の者たちの願いをかなえるために、自らの望みは後回しにする。私がディアドラと結ばれることを望んだときもそうだった。お前にばかり犠牲を強いることなど、私は望んではいないのに」


 私はそっと首を振り、シグルド様に応えた。


「いいえ、そうではありません。犠牲などでは決して。我が妻、我が子のためにも、それが自分の取りうる最善の道だと思えばこそ、私はシグルド様の許にありたいと望んでいるのです」


 私たちの置かれている状況は、実際のところかなり絶望的だ。
 バーハラに至る道に待ち構えているグランベルの軍は選り抜きの精鋭であるはずだ。特にランゴバルト卿やレプトール卿が前線に出てくるならば、神器を持つ者と戦うことになる。
 それでも我々は前に進むしかない。絶望して、ただ手をこまねいて、死の訪れを待つのではなく。


「それに、私には願いがあります。この戦いが終わった後で、かなえたいことが」


 私はシグルド様にある願い事を申し出た。
 以前から考えていたことだった。子供たちが生まれた時から、いや、アイラとともに生きていこうと決意した時から、ひそかに望んでいたことだった。
 そして、シグルド様は、私の願いを肯われた。



 シグルド様の部屋を辞すると、私はアイラの姿を探してザクソン城内をさまよった。
 アイラは広間の片隅でブリギッド公女と歓談していた。
 ブリギッド様はついふた月ほど前に男児を産み、この冬の戦の間はずっとセイレーンに滞在していた。ようやく体がもとに戻り、子供も外に連れ出せる状態になったのだろう。つい先日、勝利の知らせを受けて、赤子とともにザクソンへ移動してきたところだった。


「アイラ、話したいことがある」
 私が声をかけると、アイラはこちらを振り向いて、訝るように首をかしげた。
「わかった、部屋に戻ろう」
 そう答えると、アイラはブリギッド様に会釈して、私についてくる。
 あてがわれている部屋に戻ると、アイラは不審な面持ちで私を見据え、すぐに訊ねかけてきた。
「何があった。軍議の後、あなただけがシグルド公子と話していたようだが」
 私はシグルド様との会話をアイラに伝えた。
 アイラは黙って私の話に耳を傾けていた。だが話が進むにつれ、アイラの表情が次第に険しくなっていく。


「……というわけだ。だからアイラ、君も子供たちとシャナンを連れて、オイフェとともにイザークへ向かってほしい」
「嫌だ」
「アイラ!」
「イザークへは行かない。わたしもシグルド公子とともにバーハラへ向かう」
「だめだ。子供たちはまだ幼い。何よりも君はイザークの王女。イザークの人々はオイフェに力を貸すことを拒むかもしれない。だが、君がいれば」
「イザークの王族ならシャナンがいる。我が兄マリクルの遺児にしてバルムンクの継承者たるシャナンが。イザークの民の支持を得たいなら、シャナン以上の存在はない。シャナンはたしかにまだ子供だが、道理がわからないほど幼くもない。自分の役割をきちんと果たせるはずだ」
「しかし……」
「わたしはシグルド公子に恩義と負い目がある。あのときヴェルダンで、シグルド公子はわたしとシャナンを保護してくれた。自らが被る不利益を知らないはずはないのに、信頼し、ただ手を差し伸べてくれた。その恩義に応えて、わたしはこの剣をシグルド公子のために振るってきた。今から訪れる戦いは、今まで以上に、いや今までのなかで一番困難なものとなる。そんな時に軍から離れるなど……できるわけがない。
 それに第一、あなたは公子のもとで戦い続けるのだろう、ノイッシュ?」
「ああ、当然だ。私はシアルフィに、いや、シグルド様に剣を捧げているのだから」
「なら、なおさらだ。あなたを置いて、わたしだけ故郷に戻れるものか」
「イザークへの道中にだって危険は多い。オイフェはまだ若く経験も乏しい。誰か守るものがついていたほうが」
「割ける兵などないことは、あなただってわかっているはずだ。我々は本当にぎりぎりのところで戦っている。それともあれか、わたしはこの軍には不要なのか」
「そんなわけないだろう」
「あなたはわたしの無事を望み、イザークへと向かえと言っているのだろう。だがわたしはあなたの妻。いついかなるときも、ふたり、ともに歩み続ける。そう誓ったではないか」
「アイラ……」
「あなたと離れたくない」


 すがりつくような目で、アイラは私を見上げる。
 こんな表情をするとき、彼女は驚くほど頑固になる。どんなになだめすかそうと決して意志を曲げない。最後に折れるのは、いつも決まって私なのだ。
 今回もやはり例外ではなかった。


「わかった、アイラ。ともに行こう。バーハラへ」


 アイラは無言で頷くと、一歩私に歩み寄り、私の胸元に顔を埋めた。
 細い肩が小刻みに揺れる。静かな嗚咽の振動が、すがる手からかすかに伝わってくる。
 私はアイラの背に自分の両腕を回して、そっと彼女を抱きしめる。


「アイラ、聞いてほしい」


 アイラを腕の中に収めたまま、私は一語一語きざむように、ゆっくりと話し始めた。


「この戦が終わったら、一緒にイザークへ帰ろう。オイフェとセリス様をシアルフィへと見送ったら、私はそのままイザークに残ろう。君と子供たちと共に、イザークで生きるために」


 アイラは顔を上げ、驚いたような表情で私を見つめた。
「ノイッシュ?」
 私は彼女に頷きかけて、言葉を続ける。


「ずっと考えていた。君はイザークに必要な人間だ。戦が終わって平和が訪れたら、君はイザークの地で生きるべきだ。ならば私は、その時私はどこにいればいい。グランベルに生まれてイザークの女性を愛した男は」
「本気なのか」
「もちろん」


 そう言い切った後で、私はそっと付け足した。


「ただ、イザークの人々は私を王女の夫として認めないかもしれない。だがたとえそうなったとしても、君を守る者として、君と子供たちの傍らで生きよう」


「でも、あなたはシアルフィの騎士なのに。その地位は、忠誠の誓いはどうなる。第一、シグルド公子がなんと言うか」


 不思議そうな声でアイラは言った。
 その声の響きに、私はかすかな痛みを覚える。
 そうだ。私はシアルフィの騎士として生きてきた。彼女を愛するひとりの男としてそのそばにあるよりも、騎士としての責務を優先してきた。
 それが間違っていたとは思わない。だがそれゆえに彼女を傷つけたことも少なくなかったはずだ。


「騎士としての名を失おうとも、その矜持は潰えはしない。生まれた土地を離れても、故郷を失うわけではない。むしろグランベルに生を享けた者として、イザークとグランベルを結ぶ懸け橋となろう。それに、シグルド様にはもうお許しをいただいてある」
「え……」
「先ほどお話しした」
「シグルド公子は認めたのか。お前を手放すことを」
「……快諾とは言いがたかったが。それでも、シグルド様は言ってくださった。お前が心から望むものを得ることができるなら、と」


 シグルド様は私を惜しんでくださった。その上で、こうも言ってくださった。


 ――ようやく、自分の望みを言ってくれたな、ノイッシュ。


「イザークとグランベルの間には不幸な行き違いがあった。ともに聖戦士を祖に持つ王家を主と仰ぎながら、互いを敵と呼び、相争って血を流した。私たちの子供はふたつの国の挟間に生まれた。あの子たちが父母どちらの国も愛せるよう、私は力を尽くしたい」


 アイラが言葉もなく私を見上げる。
 その目にはまだ涙が光っている。だが表情は晴れやかで、驚きと――おそらくは喜びに彩られている。


「ノイッシュ、あなたを愛したことを、いや、あなたに愛されたことを、わたしは誇りに思う」
「私も同じだ。私は君の愛を得て、子供たちを得た。それに見合う男でありたい。そう願うばかりだ」


 アイラの唇が声もなく動き、私の名前の形をなぞる。
 その唇を閉ざすように、私は自分の唇をそっと重ね合わせた。

《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2017/04/23
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