FE聖戦20th記念企画

託されしもの(前)


「いてっ」


 疼くような感覚を覚えて、アーサーは左手の甲を眺めた。


「……なんだこれ?」


 手の甲に、何か痣のようなものが浮かび上がっている。
 虫に刺されたか、草にかぶれたか。普通ならそう思うところだ。だが、そういったものとして捉えるには、その痣は妙に整った形をしている。左右対称の形をとり、くっきりした線で描き出されたそれは、まるで紋章か何かのようで、偶然に出来上がった形にはとても見えない。
 それに、かぶれにも虫刺されにもまるで心当たりがない。今は冬、虫の類は少ないだろうし、かぶれるような草だってすっかり枯れている。さっきまで施療所で薬の調合を手伝ってはいたが、いつもどおりの処方で、いつもどおりの材料をいじっただけだ。何か目新しいものに触れた覚えはない。


 なんでこんなものができてるんだ。
 昨日まで――いや、今、この瞬間までこんなものはなかった。
 手の甲の痣をしげしげと眺めるうちに、アーサーはあることに気づく。


 この紋様、どこかで見た覚えがある気がする。
 魔法の研究書か、歴史書か、はたまた紋章学の本だったか。たぶんそういった類の書物だったはずだ。だが、どこで見たのか、アーサーにはさっぱり思い出せなかった。


「まあいっか」


 わからないことをくよくよ考えても仕方がない。本当に必要なことなら、そのうちわかるはずだ。
 それよりも今は、やりかけた仕事を片付けてしまおう。冬場の水汲みは面倒でやっかいな仕事だ。天候の荒れないうちにさっさと済ませておかなければ。
 手桶を持ち上げて、アーサーは外にある井戸へと向かった。


*****************


 さびれた海辺の町の、郊外に建つ古ぼけた修道院で、アーサーは育った。


 十三年前のあの秋の日まで、アーサーは母と妹とともに、森の中の小屋で隠れるように暮らしていた。
 あの日、アーサーはひとりで野外に遊びに出ていた。家からあまり離れるなとは言われていたものの、リスを追いかけたり、胡桃やハシバミの実を拾い集めるのに夢中になるうちに、ついつい遠出をしてしまい、気づけば日暮れも近い刻限になっていた。
 だが、怒られるのではないかとびくびくしながら帰宅したアーサーを待ち受けていたのは、変わり果てた我が家だった。
 母と妹は姿を消していた。小屋はすっかり荒らされていて、見るも無残なありさまだった。家具は引き倒され、長持の中にしまってあったはずの衣類や道具が、あちこちに散乱している。何者かが狼藉を働いたのだということはひと目でわかった。


 何があったんだろう。


 呆然と立ちすくむアーサーに、声をかけてきた者があった。
 初めて会う人間だった。シレジア人に多い緑の髪の、なにやらひらひらとした人目を引く衣装を身に着けた男だ。小屋の様子を見て、男もまた、唖然としているように見えた。小屋の入り口で立ちすくんでいる少年に気づくと、男はぐいとアーサーを身元に引き寄せ、いきなり抱きしめた。


「お前は無事だったんだな」


 突然のことにアーサーは面食らった。けれども不思議と警戒心は湧かなかった。男は――いや、男を取り巻く風は温かく、どこか懐かしいにおいがした。危険な相手ではない。直感としかいいようのないものでそう悟り、アーサーは抗うことなく素直に従った。
 男は名乗らなかった。アーサーもまた、男に自分の名前を明かさなかった。だが男はアーサーのことを――名前も、その素性も――最初から承知しているようだった。立ちすくむアーサーを抱き上げると、男はそのまま荒れ果てた小屋を後にした。
 幾日かの間、男とアーサーは一緒に旅をした。そして、港町セイレーンの北に位置する海辺の町にたどり着くと、男は町外れに立つ修道院にアーサーを預けて、いずこかへと立ち去っていった。
 以来十三年、その男とは顔を合わせていない。


 アーサーはこの夏で十七歳になった。本当はここでやっかいになっていられる年齢はとうに過ぎている。
 それでもここに居続けているのは、院長がアーサーを外の世界に出したがらないからだ。
 なぜだろうと思わないわけではない。
 聖職者を目指す子どもがそのまま修道院で暮らし続けることなら、ないわけではない。だがたいていの俗人は、一時的に修道院で暮らすことになったとしても、いずれは離れていくものだ。だがアーサーは、そういったこともないまま、ここに残り続けている。
 ありがたくはある。ここにいれば、修道院の書庫を使わせてもらえるし、魔法の勉強を続けることもできるからだ。
 もしかしたら、院長はアーサーを聖職者にしたいのだろうか。
 アーサーは学問が好きだし、魔法の才能も持ち合わせているから、まんざら向いていなくはないだろう。ただ、アーサーには神に仕えたいという気持ちはない。だから聖職者になるつもりはなかった。


 だが、書物をひもとき、魔法を学ぶことのできるような生活から切り離されてしまうのも嫌だった。職人や商売人になってしまえば、そんな暮らしは望めなくなる。聖職者か魔道士になれば、まさにそういった生活を営めるが、生業として選ぶには、魔道士は少しばかり問題がある。こんなご時勢だ。魔道士としてまともに生計を立てようとするならば、帝国の紐付きになるしかない。だがそれはそれで、どうにも気が進まない。


 だから今の状態は、アーサーにとって都合のいいものだった。ただ、都合よくはあるが、あまり居心地のいいものではない。将来の定まらないまま、ずるずると居候を決め込むというのは、そう落ち着けるものではないからだ。
 とは言え、修道院から離れるのも、それはそれで気が引けた。自分が去れば、ここに残されるのは、非力な修道士と、庇護を必要としている幼い孤児ばかり。若い男性で魔法の使えるアーサーは、肉体労働の担い手と教師と用心棒を兼ねているに等しい。実際問題として、アーサーがいることによって助かっている部分は大きいのだ。
 それに、帝国の支配は日増しに高圧的なものに変わってきている。今のところ、特に理不尽な仕打ちなどは受けてはいないが、どこかに不穏な空気があるのも事実だ。


 自分の歩むべき道を見つけられず、さりとて修道院から離れることもできず――微妙な状態のまま、アーサーは日々を送っていたのだった。


*****************


 汲んできた水を炊事場の水桶に移していると、慌てた様子で老院長がやってきた。


「客人なのだ。こちらに来なさい」


 妙に落ち着きのない様子だ。普段の院長は物事に動じない人物なのに、どうしたことなのだろう。
 促されるままに、アーサーは客間へと向かう。
 客人はアーサーだけと話すことを望んでいるのだと、院長は言った。奇妙な話だ。多少魔法が使えるとは言え、アーサーはいわば居候のようなもの、決して名の知れた人物ではない。そもそも、外部に知り合いなどいるはずもないのだが。
 重い木製の扉を開けて、室内へと足を踏み込む。正面に立っている人物に目にして、アーサーは思わず声をあげそうになった。


 この男を知っているような気がする。


 見慣れない顔だ。少なくとも、近隣の者でないのは確かだ。なのになぜだろう。どこかで会ったような気がして仕方ない。
 シレジア人らしい緑の髪と緑の瞳。年齢はよくわからない。皺もなく姿勢もしゃんとしているから、年寄りではないだろう。その顔を見る限り若そうに思えるが、醸し出す雰囲気には若やいだものはあまり感じられない。世を深く知り、達観するに至った老人のようですらある。


「アーサーだな」


 名を訊ねるというより、予め知っていることを確認するような調子で、男は問いかけてきた。
 面食らったまま、ただ無言でうなずき返すと、男はつかつかとアーサーのそばに歩み寄ってきた。


「手を見せてくれ」


 言われるままにアーサーは両手を差し出した。男はアーサーの左手を自分の手の上に重ね置くと、甲の上に浮かび出た痣をしげしげと眺めた。


「……やはりか」


 男のつぶやきを耳にして、アーサーはふと我に返る。


「なんなんだよ、いったい」


 自分の手を男の手の上からさっと払いのけて、アーサーは男に食ってかかる。


「あんた、誰だよ。俺に何の用事だ」
「私の名はレヴィン。お前に渡したいものがあってここに来た」
「渡したいもの……?」
「そうだ」
「じゃあ、さっさと渡せばいい。なんで俺の手なんかを見てる?」
「お前の状態を確認しておかなくてはならなかったからな」
「俺の状態って……」
「その手の甲の紋様、以前からあったわけではないだろう?」
「ああ、こんなもん、今までなかったさ。ついさっき、初めて気づいた」
「それは聖痕だ」
「え……?」


 思わず耳を疑った。
 知らない言葉では決してない。知識としてならよく知っている。だがまさか、自分の痣がそれであるとは思いもしなかった。


「なんだ、理解していなかったのか。院長殿の話では、お前は勉強熱心だということだったが」
「えと……聖痕って、その、もしかして……」
「ああ、神器の担い手となる者に顕れる聖なる徴。魔法なり歴史なりをまともに学んでいれば、知らぬはずはないと思うが」
「そうだけど! でも、なんでそんなものが俺に」
「お前が神器を担う者だからだ」


 何でもないことのようにさらりと男は言う。
 思わずアーサーはまじまじと男の顔を見つめ返した。


「信じられないという顔だな。だが、気づいているだろう。お前は他の人間より魔法が得意なはずだ。風を読み、風を操ることを、たいして努力もせずにいつの間にか身につけていた。そうではないか?」
「そう……なのかな」
「周りに魔法を学ぶ者が自分以外にいなくては、知りようもないか。なら、覚えておくといい。お前のように、やすやすと魔法を身につけることができる者はそう多くはない。お前は……かなり例外的な存在だ」
「えっと……」
「そして今、お前には聖痕が顕れた。お前は風魔法フォルセティの継承者なのだ」
「えええ!」


 フォルセティ。
 シレジアに生まれ育った者で、その名を知らないものはないだろう。
 十二聖戦士の神器のひとつにして、シレジア王家に代々伝わる、最大最強の風魔法。シレジアの誇りそのものと言っても過言ではない、神より賜りし神秘の力。


「ちょっと、ちょっと待った。なんで俺が」
「それがお前の生まれ、血の宿命だからだ」
「なんでだよ! じゃあ俺は、このシレジアの王族だって言うのかよ!」
「そうだ」
「え……」
「お前は父母のことをどれくらい知っている?」
「あ……」


 そう指摘されて、初めて思い至った。
 アーサーは父母のことをほとんど知らない。
 父は物心ついたときからそばにおらず、母と生き別れたのは四歳の時だった。
 育ててくれた修道士たちは、アーサーの身元については何も触れなかったし、アーサーもあえて聞き出そうとはしなかった。内心では、母と妹の行方は常に気にかかっていたのだが。


「母さんの名前なら……それと妹のも。でも、父親のことは何も……」
「母の名はティルテュ、妹はティニー。そうだな?」


 念を押すように訊ねる男に、アーサーは無言でうなずく。


「お前の母ティルテュは、グランベルのフリージ公国の公女だった。グランベルの――シアルフィのシグルド公子の話は知っているか?」
「あんまり馬鹿にするなよ。反逆者の烙印を押された悲劇の公子の話くらい、セイレーンのあたりに住む者なら、ちっちゃいガキだって知ってる」
「そうか、なら続けよう。お前の母はフリージの公女だったが、シグルド公子に同行してこのシレジアへと落ち延びてきた。そして、シレジアの王子と恋仲になり、お前と妹が生まれた」
「えっと……」


 聞いたことのない話だった。
 悲劇の公子シグルドの物語は有名だ。彼とシレジア王子レヴィンの間には友情が結ばれ、その縁によって、先のシレジア王妃ラーナは祖国を追われたシグルド公子をシレジアに招きいれた。ここまでならば、シレジアの者なら誰でも知っていることだ。
 だが、そのシグルド公子の一行に敵方にあたるフリージ家の娘が同行していて、さらにはシレジアの王子と恋仲になって子どもをもうけたなどという話は――初めて耳にする。


「つまり、お前の母はフリージの公女で、父はシレジアの王子だ。お前は父方からも母方からも聖戦士の血を引く者であり、そして、フォルセティの担い手でもある」
「そんな……嘘だろ」


 信じがたいことだった。
 フリージ家は現在のグランベル帝国にもっとも協力的だった家のひとつで、帝国樹立以降は、北トラキアに基盤を持つ王家となっている。いわば帝国の中核をなす家柄だ。
 シレジアの者たちにとって、グランベル帝国は潜在的な敵のようなものだ。表立って逆らいはしないものの、その支配を受け入れて十五年近く経った今でも、シレジア人のグランベルに対する反感は根深い。
 グランベルの重鎮の娘とシレジア王子の間に子どもがいて、それが自分なのだと、この男は言う。しかも、シレジアの象徴とも言うべきフォルセティの継承者でもあるのだと。


「嘘なものか。今日、私がここに来たのは、お前に真実を伝えて、運命と向き合うよう促すためだ」
「真実……運命……なんだよそれは!」


 思わずわめきたくなった。
 運命なんて言葉でごまかされるものか。生まれる前の事情など、アーサーが望んで選んだものではない。誰が親かとか、どんな血を受け継いでいるかとか、そんなことで自分の歩む先を決めつけられるなど……どうにも我慢ならない。


「アーサー」


 男は静かな声で、たしなめるようにアーサーの名を呼んだ。


「今、この世界がどういう状態に陥っているか、お前は知っているか?」


 そんなもの知ったことか。
 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、アーサーは男の話に耳を傾ける。そうせねばならないと思わせる何かが、男の声にはあったからだ。


「ここシレジアでは、帝国の支配はさほど苛烈なものではない。だが、よその地域では恐るべき事態が進行しつつある。帝国の頂点に立つものは、単なる暴君ではない。人の世にあっては許されざるもの、認めてはならないものを世に解き放とうとしている、我らとは相容れぬ存在だ。もうじき各地で反乱が始まるだろう。お前は広い世界に出て……見定めろ。守るべきものは何なのかを」
「見定めろって……」
「お前だってわかっているのだろう。いつまでもここにとどまっているわけにはいかないと」
「……それはそうだけど」
「フリージの血族、あるいはシレジアの王族として生きろ、とは言わない。だが、フォルセティを担う者として、しかるべき責任を果たせ。力を持って生まれついた者は、その力を正しく使う義務をもまた背負っている。その事実から目を背けてはならない」
「力……」
「そう、力だ」
「そんなこと言われたって……」
「そうだな。いきなり言われて飲み込めるとは私も思ってはいない。だが、忘れるな。これから先、お前は大いなる力を託された者のひとりとなる。否が応でも……な」


 男は傍らの机の横に歩み寄り、無造作に置かれている二冊の本を指し示した。


「ここに二冊の魔道書がある。お前にこれを渡すために、今日、私はここに来たのだ。
 ひとつはエルウィンドの書。出回っている数はそう多くはないし、扱える者となればさらに少ない。だが、お前なら使いこなせるだろう。そしてもうひとつは――フォルセティだ」


 男は机の上の本に手を伸ばすと、いかにも大切なもののようにそっと持ち上げて、その表紙をアーサーの目の前に掲げた。
 深い緑に染められた革張りの表紙。その上に金箔を用いて刻印されている紋様は――アーサーの左手の甲に現れたものと同じ形をしている。


「受け取れ、アーサー。お前の継ぐべき遺産を」


 差し出された本に、アーサーは右手を伸ばす。手元に寄せようとして左手を添えたそのとき――


 電流に貫かれたような衝撃が、身の裡を走り抜けた。


(なんだ……なんなんだ)


 温かいものが本を伝って流れ込んでくる。まるで光の奔流の中に身をさらしたような、そんな感覚に囚われる。


(これが……フォルセティなのか!)


 他の魔道書を手にしたときとはまるで違っていた。ただ手に取るだけで、体の内側に魔力がみなぎってくるようだ。


「フォルセティは力の書。だがその力は、ただ戦うためのものではない。世界を愛し、光を求め、よりよき在り方を目指すための力だ」


 その言葉を発したのは、眼前の男なのか、それとも、フォルセティの魔道書なのか。


「フォルセティの力は大きすぎる。ここ一番という時以外には頼らないようにしておけ。おのれを失いたくなければ、な」


 うっとりと魔力の流れに身を浸しているアーサーの耳に、男の声が流れ込んできた。


「だからエルウィンドも用意しておいた。普段使うのはこちらで十分。神器の使いどころ、見誤るなよ」


 そう言って、男はもう一冊の魔道書をアーサーに差し出した。
 かなり使い古された本のようだ。緑の革張りの表紙にはかしこに痛みが見られる。だが、装幀はしっかりとしているし、どことなくしっくりとなじむような感触がある。


「フォルセティには及ばないが、それもなかなかにいい本だ。大切にしてくれ」
「あ、ああ……」


 不思議だった。フォルセティを手にした時のような衝撃はない。だがこの本にもなにか温かな――そう、なじみやすさのようなものを感じるのだ。


「さて、これで私の用事は終わった。あとはアーサー、お前に任せる」
「任せる……って?」
「フォルセティの担い手として、なすべきことをなせ。シレジアの王権を求めるなり、あるいは、もうすぐ各地で始まるであろう、帝国からの解放を求める争乱に身を投じるなり。まあ、何をするにせよ、お前が選ぶしかないが」
「あんたは……どうすればいいと思っているんだ」
「さて、な」
「はぐらかすなよ。思うところがあるからこそ、こうやって魔道書を押しつけに来たんだろ?」
「押しつけに、か。たしかにな」


 そう言って、男は苦笑をもらした。
 予想外の反応に、アーサーは少しばかり拍子抜けする。
 怒りだすかと思っていた。挑発的な言いぐさだと自分でも思ったからだ。だが、男は怒りもせずに、軽くいなした。
 なんだろう。この男と話していると、どうにも苛ついて仕方ない。
 やけくそになって、アーサーはさらに乱暴な調子で言葉を重ねた。


「だったら言えよ、俺は何をすればいい?」
「何をせよ、と指示されて、お前はそれを素直に受け入れられるのか? 人から与えられたものをそのまま飲み込む、そういった性分とも思えないが。だがそうだな、ならば、まずは知るのだ。それから決めるがいい」
「知るって……何を」
「この世界のありさまを。人は何を求め、どこに向かおうとしているのを……と、まあ、大上段に構えてしまっては身動きが取れまい。だからまずは、アーサー、お前自身の望みに気づくことだ」
「俺自身の……?」
「お前は何をしたい? どんなふうに生きたい? すべてはまず、そこから始まる」
「俺は……」


 改めてそう問われると、答えに詰まってしまう。


 この修道院にいつまでもいられるとは思っていない。修道院の行く末も気がかりではあるが、ずっとここに居続けたいわけでは決してない。
 では何がしたいのか。何を求めているのか。


 もっと広い世界へ出たい。
 広い世界で、自分が何者であるのかを確かめたい。


 ああ、違う。
 それもたしかに自分の願いには違いない。
 だがその願いを叶えるよりも先に、より強く、是非にでもと望んでいたことがあったはずだ。


「俺は母さんと妹を取り戻したい。せめて、その行方を知りたい。それが今の、俺の一番の望みだ」
「そうか、なるほど」


 男は納得したようにうなずいて、そのまま黙り込む。
 しばらく考え込んだ後、男はおもむろに口を開いた。


「ティルテュとティニーをさらったのはフリージの者たちだ。そして今、ティニーはアルスターにいる。少なくとも、ここふた月以内に入った情報ではそういうことになっている」
「妹はアルスターに。では母さんは」


 アーサーの問いに、男は一瞬、顔をこわばらせる。
 だがすぐに表情を消して、淡々とした声で答えた。


「ティルテュは死んだ」
「死んだ?」
「ああ、もう八年ほどになる」
「八年……そうか」


 思ったよりも自分が動揺していないことに、アーサーはむしろ驚いていた。
 母は死んでいた。
 もう一度会いたい、ずっとそう願っていた。捜し当てて、今度こそ一緒に暮らすのだと、固く心に誓っていた。だが心のどこかでは、もう会うことはないだろうと悟っていたのだろうか。


「そういや、なんであんた……俺の母さんや妹の行方を知ってる?」


 そう問いかけるアーサーに、男は淀みなく答える。


「フリージのティルテュとその娘ティニーは重要な人物だ。行方を把握しておく必要があった」


 重要な人物。その表現にアーサーはひっかかりを覚える。
 たしかに母も妹も、グランベル帝国を支える要人の身内には違いない。加えて妹は、フリージ王家とシレジア王家、ふたつの王家の血を受け継ぐ存在でもある。政治的ななにやらを思えば無視できない存在なのかもしれない。だが男の言う「重要な人物」とは、本当にそれだけの意味なのだろうか。


 そもそもこの男は何者なのだ。
 神器フォルセティを携えてアーサーのもとに訪れ、母や妹の行方を問われれば即答できる、この男は。
 たしか、顔を合わせてすぐに名乗っていたはずだ。シレジア人には珍しくもない名前だからうっかり聞き飛ばしていた。だが、こうも条件がそろってくると、その名は特別な意味を持っているように思えてくる。


「あんた、たしか、レヴィンって言ってたよな? 名前」


 シレジア最後の王子にしてフォルセティの継承者。あの王子の名前もたしかレヴィンといったのではなかったか。
 そしてフリージの娘――アーサーの母ティルテュと恋仲になったシレジア王子というのもおそらく――


「もしかして……シレジアの王子なのか?」


 俺の父親なのか、とは聞けなかった。
 アーサーの問いに、男は表情を変えることなく答える。


「私は、フォルセティの遣いだ」


 そう言ったきり、男は口をつぐんだ。
 肯定とも否定ともつかない答え。
 そんなの答えになってない。そう言い返したくてたまらなかった。だが、これ以上質問しても、おそらく男は何も語るまい。そう悟らざるを得ない何かを、アーサーは感じ取っていた。


 問いかける代わりに、アーサーはただ無言で、男を正面からねめつける。
 男はアーサーから視線をはずすと、すっと近づいてきて真横に並び、アーサーの右肩をぽんと軽くたたいた。


「しっかりやれよ」


 そう耳元でささやくと、男はアーサーから離れて、そのまま部屋の外へと歩み去っていった。


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written by S.Kirihara
last update: 2018/04/21
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