FE聖戦20th記念企画

受け継がれしもの(後)


 その後も解放軍の戦いは続いた。
 トラキア半島での戦いの後、解放軍はミレトス地方へと向かい、激戦の末に、その中心地であるミレトス城を落とした。次に目指すのは対岸のシアルフィだ。解放軍はついに、グランベル帝国の本国に迫ろうとしていた。
 今、シアルフィ城を守っているのは皇帝アルヴィスその人だという。もっとも、解放軍の進撃を食い止めるために皇帝自らが前線に出てきたわけではないようだ。息子ユリウスに実権を奪われ、シアルフィに追われたというのが実態らしい。
 そういった帝国内部の事情はともかくとして、悲劇の公子シグルドの故郷であるシアルフィに陣取っている相手が他ならぬアルヴィスであるというのは、因縁を感じさせずにはおかない、なんとも皮肉な状況だった。


 城内への突入に備えて、デルムッドは自分の天幕へと戻り、持ち物を整理していた。
 城の外で防衛に当たっていた敵はあらかた片付いた。アルヴィスは城に篭ったままで、前線には出てきていない。完全に決着をつけるには、城内へと攻め込まなければならなかった。
 先刻の軍議で、デルムッドは城内に突入する者のひとりと決まった。自ら望んで申し出たのだ。ヴェルトマー家に連なる者として、神器ファラフレイムの継承者であるアルヴィスとは、直接向き合っておかなくてはなるまい。
 デルムッドがヴェルトマーの血族であることは、今では広く皆の知るところとなっている。解放軍がトラキア半島の攻略に着手している頃、妹ナンナと話し合った末に、父方の血筋を隠すべきではないと結論づけたのだ。
 もしかしたら、彼ら兄妹に反感を持っている者もいるかもしれない。だが、デルムッドの気づいている範囲では、特に白眼視されることもなく、皆から受け入れられているように思う。
 解放軍にはフリージ家やドズル家といった帝国の中枢を担う家系の血を引く者もいるし、もともと敵対関係にあったところから解放軍へと所属を変えた者もいる。出自ではなく、その志を重んじるような気風があるのはたしかだ。

「デルムッド」

 呼びかける声を耳にして、デルムッドはふと振り返った。
 ラナが天幕の入り口に立って、じっとこちらを見つめている。

「ラナ、どうかしたのか」

 ラナはそばに歩み寄ると、デルムッドを見上げて真剣な声で話しかけてきた。

「突入、あなたも行ってしまうって……」
「ああ。俺は魔法への耐性が高くはないから、さほど役には立てないだろうけど」
「……あそこにアルヴィスがいるからなの?」
「俺はヴェルトマーの血を引く者だからな。一族の者として、きちんとけじめはつけないと」
「でも」

 なおも言い募ろうとするラナに、デルムッドは静かな声で言った。

「ラナ、俺は死にに行くわけじゃない。だからそんなに心配しないで」
「デルムッド?」
「けじめをつけるためには、アルヴィスと――ヴェルトマーの血ときちんと向き合わなくては。だから俺は城へ行く。だけどそれは、死に場所を求めてのことじゃない。明日もちゃんと生きるためだ」

 そこでデルムッドは言葉を切り、ふと自分の横に視線を落とした。
 視線の先には、先ほどまで整理していた自分の持ち物があった。その一番上に置かれているのは――父の持ち物だったという、あのファイアーの書だ。

「これを預かっててくれないか」

 デルムッドはファイアーの魔道書を手に取ると、すっとラナに差し出した。

「これは?」
「父上の遺した魔道書だ。昔、エーディンから渡されて、それからずっと持ってた。俺には使えないけれど……父上と俺を結ぶものだから」
「でも、なぜわたしに」
「ちゃんと戻ってくるという約束のしるしに」

 なおも問いかけるようなまなざしを向けるラナに、デルムッドは言葉を返す。

「これ、さ。表紙をめくるとわかると思うけど、ちょっと他人には見せたくないものだったりする。だから、必ず取り返しに戻るよ。ラナに押し付けたままではいたくないから」
「デルムッド……いったい?」

 不思議そうに首をかしげるラナにうなずき返して、デルムッドはさらに続けた。

「昔からいつも、ラナは俺に力をくれた。つらい時にはいつも君がそばにいてくれた。だから俺は、腐ることなく、折れることなく、今日まで来られたんだと思う。今だってそうだ。こうしてラナが来てくれたことが、俺は何よりも嬉しい」
「デルムッド、わたしは……」
「面倒くさいものを預けて悪い。けど、頼まれてくれるとありがたい」
「……うん」

 小さくうなずくと、ラナは差し出された魔道書に手を伸ばした。
 ラナが手を添えたのを確認して、デルムッドは魔道書から手を離す。

「ありがとう、ラナ」
「……戻ってきてね、絶対」
「もちろんだ」
「デルムッド、わたしね」
「うん?」
「……あなたが好きよ」

 世界が、時を刻むのを止めたような気がした。

「……ラナ?」

 ようやくのことで絞り出した声は、ひどくかすれていた。

「ずっと好きだったの、昔から」
「ラナ、本当に……?」

 呆けたように問いかけるデルムッドにうなずき返すと、ラナはとまどいを含んだ声で尋ねかけてくる。

「その……あなたは、どうなのかな……」
「俺は」

 もちろん好きだ。そう答えようとした。だが、口に出す寸前で、ふとデルムッドは思いとどまる。

「俺はラナが好きだ。だけど」

 だけど、という言葉に、ラナの表情がふっと曇る。

「だけどラナ、俺でいいのか? 俺はヴェルトマー家の血を引く者、みんなにとっては敵の」
「そんなの関係ない」

 デルムッドの言葉をかき消すように、激しい調子でラナが言う。

「どこの家の生まれでも、デルムッドはデルムッドでしょう? たとえ皇帝アルヴィスの甥でも、あなたは小さい頃から知っているデルムッドよ。それに……」

 勢いよくそう言い切ると、ラナは声の調子を落とし、噛み締めるような調子でゆっくりと続けた。

「そんなふうに、たったひとりでつらいことと向き合おうとはしないで。ひとりでは耐え難いことでも、ふたりでなら乗り越えてゆける。そうじゃないの?」
「ラナ……」

 返す言葉が見つけられないまま、デルムッドはラナの名をつぶやく。そんなデルムッドを見上げながら、ラナはさらに言葉を続けた。

「ヴェルトマーの血を引いている、それがどれほど重いものであるか、見当がつかないわけじゃない。でもお願い、ひとりで苦しまないで。わたしにできることなんて、本当は何もないのかも。それでも、一緒にいることならできるから」
「ラナ……本当に」
「うん?」
「本当に、俺でいいのか? ラナが望めば、もっと条件のいい相手はいくらでも……」

 言葉を詰まらせながら問いかけるデルムッドに、ラナはきっぱりと応えた。

「わたしはあなたがいいの。ううん、あなたじゃないと嫌」

 ――ああ。

 デルムッドは一歩踏み出してラナのそばに歩み寄ると、いきなり彼女を胸元に引き寄せた。

「デルムッド?」

 ささやくような声でラナが彼の名を呼ぶ。
 その声にますます気持ちを掻き立てられ、抱きしめる腕にさらに力が加わる。

「……デルムッド、ちょっと苦しい……」

 そっとラナが声を洩らす。
 その声に我を取り戻して、デルムッドはあわてて彼女から身を引き剥がした。

「ごめん、俺、つい」

 興奮さめやらないまま、いまだどこか陶然としている声で詫びるデルムッドに、ラナはちいさく首を振る。

「ううん、嬉しいの。けど、ちょっぴり苦しくて」
「……すまない。だけど」
「うん?」
「ラナ、俺は君が好きだ。好きだったんだ、昔から」
「……うん」
「ずっとためらっていた。君を俺の……面倒事に巻き込むべきじゃないって。だけど、もし君がかまわないなら、俺は」
「あなたと一緒にいたい。それがわたしの望みよ」

 デルムッドの渡した魔道書をしっかりと胸元に抱え込み、一心に彼を見上げながら、静かな、けれども揺るぎない声で、ラナは応えた。

「ありがとう」

 もう一度彼女を抱きしめたい。
 身の裡に湧き上がる衝動を危ういところで押さえ込んで、デルムッドは努めて平静な声を出そうとする。
 けれども出てきた声はかすれていて、少しばかりうわずっていた。

「俺は城に行く。決着をつけてくる。そして戻ってきたら……」
「うん」
「そしたら、もう君を放さない」

 ラナが目を見張り、息を呑み込む。
 デルムッドは右手を伸ばすと、そっと彼女の頬に添える。
 手が震える。頭がぼうっとして、心臓がはじけそうだ。だが、なけなしの勇気を振り絞って、デルムッドは彼女の顔に自分の顔を寄せ――

 唇と唇を重ね合わせて、そっと淡い口づけを落とした。


*****************


 シアルフィ城の奥深く、謁見の間の玉座で、その男は待ち構えていた。

 謁見の間に踏み込んできた者たちをじろりとねめつけると、男は静かに言葉を放つ。

「……哀れなものどもよ」

 低いが、はっきりとよく通る声だ。皇帝として人々の上に立ち、命令を下してきた者にふさわしい権威と威厳に満ちている。
 皇帝のそばに控える人影はもはやない。警護についていた者たちはすべて、すでに討ち果たされている。
 城内に突入してから謁見の間に至るまで、数多くの敵兵が解放軍の行く手を阻んできた。いずれも手練れであり、神器を振るうセリスやアレスを相手取りながらも、怯むこともためらうこともなく、一心に攻撃を繰り出してきた。
 だが、そのすべてを討ち払って、解放軍の精鋭は皇帝のもとに到達した。

「アルヴィス皇帝」

 眼前の男にそう呼びかけて、一行の中から歩み出た者がいた。

「あなたはなぜ、私の父を……」

 解放軍の盟主は、剣の柄に右手を置いて、凛とした声で皇帝に尋ねかける。

「セリスか……よく来たな」

 アルヴィスはセリスに目を据えて、静かな声で応えた。
 皇帝の言葉に、セリスはわずかに身を強張らせる。
 セリスは名乗りをあげていない。だがアルヴィスは、セリスの姿をみとめ、その問いかけを耳にしただけで、彼が何者であるかを悟ったようだ。

「だが、お前も我が炎に灼かれる運命にある。親子ともども哀れなものよ……」

 アルヴィスはおもむろに玉座から立ち上がると、左手に魔道書を構え、右手を大きく前へと突き出した。
 セリスもまた身をかがめて、聖剣ティルフィングを鞘から抜き放つ。

《誇り高きファラの炎よ》

 詠唱の開始とともに、アルヴィスの右手にまばゆい炎の玉が生まれ出る。
 詠唱の完成を待たず、セリスは一気に間合いを詰めた。
 デルムッドの背後で、ナンナが癒しの杖に魔力を集める気配が感じらた。けれども他の者はその場から動くことなく、皇帝と盟主の接触をただ見守っていた。

《……その血に連なる者の呼びかけに応え、ここに力を示せ――ファラフレイム!》

 詠唱が完成し、炎が放たれた。
 聖剣の刃が白く輝き、迫り来る光焔を切り裂いた。そしてそのまま、セリスはアルヴィスの胸元に飛び込んでゆき、その左胸を深々と刺し貫く。
 致命傷を受けながらも、皇帝は解放軍の若き盟主をまっすぐに見据え、ささやきかけるように何ごとかをつぶやいた。だが、そのつぶやきは、離れて立つデルムッドの耳には届かなかった。
 アルヴィスを刺し貫いたまま、セリスはしばし、凍りついたかのように動かなかった。ややあって、セリスはゆっくりと剣を引き抜くと、皆のほうを振り返った。
 血塗れた抜き身のティルフィングを右手に下げたまま、セリスはどこか当惑したような表情で、城内に付き従ってきた者たちにぼんやりとした視線を投げかける。

「セリス様」

 沈黙を破って、先頭に控えていたオイフェが声を発した。
 セリスはゆっくりとオイフェに視線を向けると、いまだ呆然とした様子で口を開いた。

「私はアルヴィスを討った……」
「はい、セリス様」
「父上の仇を……ようやく……」
「ええ」

 応えるオイフェの声には、感極まったような響きがあった。

「アルヴィスは斃れた。私はついに……ここまで来たんだな」

 ひとり言のようにセリスはつぶやく。
 つぶやき終えたところでセリスはようやくいつもの様子を取り戻し、一行に向かってはっきりとした声で告げた。

「さあ、戻ろう。みんなに報告しなくては。皇帝を討ち果たして、私たちは勝利したのだと」

 その言葉に、一行の間から歓呼の声が上がる。
 仲間の喜びの声を耳にしながら、デルムッドは声を発することができないでいた。


 ――誇り高きファラの炎よ、その血に連なる者の呼びかけに応え、ここに力を示せ


 アルヴィスの唱えたファラフレイムの詠唱が、こだまのように蘇ってくる。
 今日、初めて耳にしたもののはずだ。なのにその文句は、ひどく馴染みのあるもののように思えてならない。

(ああ、そうか。あの言葉は……)

 ようやくデルムッドは気づいた。


 ――炎こそ我らが誇り、我らが紋章
   ファラの後裔たる矜持を胸に、我らは炎とともに生きる


 何度となく目にしてきた言葉が、いまだ耳に残る詠唱と重なり合う。
 父のファイアーの書の一頁目に黒々と記されていた言葉。あれは、ファラフレイムの文言を意識したものだったのだ。

 ふと振り返ると、妹ナンナがまっすぐ背を正して立ち尽くしているのが目に入った。
 歓呼の声にあふれる中、ナンナは無言のまま、ただ正面に顔を向けている。
 デルムッドの視線に気づいたのだろうか。ナンナは兄に顔を向けて、わずかに頭を下げる。
 デルムッドはナンナの横にそっと歩み寄った。そして、真横に並んだところで妹の背に腕を回し、なぐさめるように軽く叩いた。


*****************


 皇帝アルヴィスを討ち果たしても、解放軍の戦いは終わったわけではなかった。帝都バーハラでは魔皇子と呼ばれるユリウスがいまだ健在だったからだ。
 奪還したシアルフィを拠点として、解放軍は帝国内部へ軍を進めた。
 エッダを、ドズルを、フリージを。グランベルの各公国を下して、解放軍はバーハラへと迫る。
 バーハラで待つのは、魔皇子ユリウスと不気味な力を秘めた魔将たちだ。
 ロプトウスの書を手にしたユリウスの前では、神器と言えども力を奪われ、本来の力を発揮することができない。
 そんな中、敢然とユリウスに立ち向かったのはユリアだった。
 ユリアはイザークでの旗揚げ以来、解放軍とともに歩んできた。過去の記憶を持たない彼女が、実はユリウスの双子の妹に当たる帝国の皇女であることが知れたのは、つい最近のことだ。
 すべての記憶を取り戻したユリアは、ヴェルトマー城に隠されていたナーガの書を手に、ユリウスと対峙する。
 光の竜ナーガと闇の竜ロプトウス。同じ父母のもとから、同じときに生まれた双子でありながら、ふたりの運命は真逆のものとなった。
 ロプトウスの魔力も、聖なるナーガの前ではその力を失う。
 すべてを呑み込もうとする闇の竜を光の竜は噛み裂いて――そして、ロプトウスは眠りについた。

 かくして、『聖戦』と呼ばれた戦いは、終わった。


 戦後処理に関する会議も終わり、解放軍でともに戦った者たちがそれぞれの祖国へと帰国していく中、デルムッドは最後までバーハラに残っていた。
 デルムッドが向かう先はヴェルトマー、バーハラの隣に位置する公国だ。馬で向かえば三日とかからない。急いて旅立つ必要はないだろう。
 ただ、ヴェルトマーには不安な要素が多い。
 ヴェルトマー家は皇帝アルヴィスを生み出した家系だ。新王セリスに心を寄せる人々から見れば、最大の敵と呼ぶべき存在だった。加えて、解放戦争の末期には、その領土はロプトの暗黒教団が巣食う場所と化していた。アルヴィスの力が及んでいた頃は、ヴェルトマー領は治安もよく、安定した統治が行われていたようだが、現在の状況は決して芳しいものではない。その健全化を図るとともに、こびりついてしまった暗い印象を洗い流していかなければならない。新たなヴェルトマー公爵に担わされているものは、どの方面から見ても多くの困難を含んでいる。
 それでも、自分に課せられたものとまっすぐに向き合っていかなくては。
 ずっとヴェルトマーの名を恥じていた。アルヴィスに対しては、今もわだかまりを抱かずにはいられない。だが、ヴェルトマーの血族であることは拭いようのない汚点ではなく、自分に具わった特性のひとつなのだと、近頃、ようやくそう思えるようになってきた。
 セリスも言っていた。アルヴィスは運命に押しつぶされた哀れな人物だったと。
 アルヴィスはロプトの血を持つ者として生を享け、それゆえに誰もが差別されることなく暮らせる世界をもたらすことを望み、おのれの帝国を築き上げた。だがその過程では、セリスの父をはじめとして多くの人々が騙され裏切られた末に命を落としたし、そうやって出来上がった帝国もまた、暗黒教団によって大きく歪められ、ついには暗黒神の降臨を許してしまった。
 アルヴィスの為した事は決して許されるものではない。だが、彼が最初に目指そうとしたところ、抱いていた理想は、決して唾棄すべきものではなかったはずだ。
 ヴェルトマー公爵として一族の罪を償うとともに、この家の名を『恥ずべきもの』ではなく『誇るべきもの』へと変えていかなくては。
 聖戦士ファラの末裔たる、炎を司る魔道士の一族。ヴェルトマーの名は、裏切りと陰謀を企てるものとしてではなく、正義を望むものとして知られるべきなのだ。


*****************


 明後日にはいよいよヴェルトマーに旅立とうという晩のことだ。
 デルムッドは自分にあてがわれた部屋で、椅子に腰を降ろしたまま、書類が散らかっている机の上をぼんやりと眺めていた。
 つい先刻まで、向かいの椅子にはラナが座っていた。
 恋人同士の甘やかな語らいあいをしていたわけではない。ヴェルトマー到着後の公式行事の打ち合わせや、新公爵として知っておくべき事柄の確認といった、昼の間に終えられなかった仕事を、婚約者である彼女と一緒に今の今まで片付けていたのだ。
 とりあえず、書類をそろえるくらいのことは寝る前にしておこう。重要な書類も少なくない。起きぬけに、寝ぼけたままうっかり駄目にしてしまったりしたら大変だ。

 ふう、と、大きく息を吐き出したところで、扉をノックする音が耳に入った。

(誰だ、こんな時間に)

 不審に思いながら、デルムッドは立ち上がって扉へと向かう。
 扉を開けると、セリスが立っていた。

「やあ」

 明るい声だ。だが、その顔には色濃く疲労の影がある。

「セリス様? どうしたんですか、こんな時間に」
「うん。ちょっと話でもできないかと思って。君ももうじきヴェルトマーに行ってしまうことだし」
「かまいませんが……大丈夫ですか? お休みになられなくても」
「そうだね、本当はさっさと休んだほうがいいのかもしれない。だけど、もうゆっくり話せる機会もあまりないから」
「そうですね」
「ごめん、君も疲れているだろうに」
「いえ、大丈夫です、俺は」
「うん、じゃあ、お邪魔するよ……そうだ」

 そう言って、セリスは左手に下げていた瓶を指し示した。

「これ、飲もう。貯蔵庫からせしめてきたんだ。グラスはある?」
「グラスならありますが……それは酒、ですよね」
「うん。七六五年物のワインだ。当たり年らしいね」
「なるほど。でも、大丈夫ですか、セリス様、酒は……」

 一緒に育ってきたからよく知っている。セリスは酒に強くない。というよりも、ほとんど飲めない。今までも、酒の出るような宴の席では、水で薄く割ったものを出すようにと、こっそりオイフェが指示してきたものだ。

「そうだね、私はあまり強くはないけれど、でも、君は好きだろう?」
「好きは好きですが、私もそう強いわけではありませんよ」

 デルムッドの酒量は人並みといったところだ。ただ、従兄弟にあたるアレスや妹のナンナなどはやたらと強いので、そういうのを見てしまうと、自分が酒に強いとは思えなくなってしまったが。

「うん、度を越さないよう、お互い気をつけよう。でも、こういうときって、普通、酒を用意するものなんだろう?」
「……アレスですね? そういうことを言うのは」
「うん、さすが従兄弟同士。よく知ってるね」
「ええまあ……」

 アレスには、従兄弟のよしみと言い含められて、けっこう酒の席につき合わされてきた。彼と親交を深めたかったし、自分が断ったがために酒の飲めないセリスにとばっちりが行ってはまずいと思い、極力拒まないようにしてきたが、こと酒に関する感覚では、荒くれ傭兵に揉まれて育った従兄弟とは馴染めそうもない。

「とりあえず入って、椅子に座っててください。急いで片付けますので」
「うん」

 セリスは素直な調子でそううなずくと、室内に入ってきた。が、机の上に乱雑に散らばる書類の山を見て、「ああ」と息をついた。

「忙しそうだな……ごめん、邪魔して」
「いえ、セリス様ほどではないですから」
「……うん」

 王国の新たな統治者となったセリスに課せられた政務の量は、自分の比ではない。状況が整えば他の者に仕事を割り振っていけるようになるだろうが、今はその基礎となるべき体制を整えている段階だ。しばらくはろくに休みも取れないような日が続くのだろう。
 セリスに椅子を勧めると、デルムッドは手早く机の上を片付けていく。ひとりでいるときはぐずぐず先に延ばしそうになっていたものも、人を待たせているとなれば、思いのほかにさっさと片付けられるものだ。

「お待たせしました」

 きれいに片付け終わったところで、デルムッドはグラスをふたつ用意して、セリスと差し向かいの位置に腰を降ろした。

「ごめん、かえって迷惑かけてるかな」
「いえ、どっちみち片付けなくてはならなかったので。それに、セリス様とお話しできる機会は貴重ですし」
「うん。毎日のように、みんながそれぞれの土地に旅立っていく。今日だってオイフェが」
「ええ」
「考えてみれば、ずっと離れ離れになるなんて、今までにないことだ。別行動を取ることは珍しくなかったけれど、みんなが一斉にいなくなってしまうようなことはなかった」
「ヴェルトマーはバーハラとそう離れているわけではありません。何かあればすぐに参ります」
「うん……ありがとう」

 礼を述べた後で、セリスは少し考え込む。

「かつてアルヴィス卿が王家の近衛を務めていたのは、そういう距離的な問題もあったんだろうな。摂政であるフリージ家の領地も、やはりバーハラに近かった」
「物理的な距離の問題はどうしても出てくるでしょうね。ワープの魔法が使えたとしても、シレジアやイザークは実際遠いですし」
「そうだね」

 そう応えたところで、セリスは思い直したように首を振る。

「ああ、今日は仕事の話はやめとこう。そういうつもりで来たんじゃないのに」
「ええ」

 セリスに相槌を打つと、デルムッドは机の上に置かれた瓶に手を伸ばして、グラスに酒を注ぐ。
 淡い琥珀色の液体が、トクトクと音を立てながら瓶の口から流れ出た。セリスの前に置かれたグラスに注ぐ量は半分ほどに留めるよう気を配りながら、デルムッドはふたつのグラスを満たした。
 注ぎ終わったところでグラスを掲げて、主君であり幼馴染である青年と静かに乾杯する。
 グラスから軽く一口すすると、甘く芳醇な味わいが口の中にひろがった。予想外の滋味に驚いて、デルムッドはあわててセリスに問いかける。

「セリス様、これは」

 間違いなく極上の――おそらくは秘蔵の酒だ。断りなく持ち出していいようなものではない。

「うん。すごくおいしいけど……これ、ずいぶん強いね」
「と言いますか、大丈夫でしょうか。こんな上等なもの、勝手に飲んでしまって」
「いいさ、この城の主は私なんだ。大切な幼馴染と飲む酒を選ぶくらいのわがままは通したっていいはずだ」
「……はい」

(そうだな、セリス様の気持ちを大切にしよう。あとはうん……セリス様が飲み過ぎないように、そこだけは気をつけないと)

 セリスがわがままを言うなど、本当に珍しいことだ。咎めだてるよりは気持ちを汲んで、少しでもその心にかかる負担を軽くしたほうがいい。

「あ、それと」

 グラスを机の上に置くと、セリスは思い出したようにつけ加えた。

「今夜は無礼講で頼むよ。敬語は禁止だ。名前も呼び捨てで。その……普通に話してくれると嬉しいな。ちいさかった頃みたいに」

 思いがけない申し出だった。
 ぽかんとした顔で見つめ返すと、セリスは脇に視線を落として、どことなく拗ねたような口調で言う。

「本当のところ、ずっと寂しかったんだ。ティルナノグにいる頃から。みんなは普通にやり取りしているのに、ぼく相手には決まって敬語だろう。仕方ないのはわかってたけど」
「……君が十二歳になった時だったかな。オイフェさんに言い渡されて」
「うん、そうだね。いかなる時もぼくをみんなの上に立つ者として扱うようにって」
「将来のためにもけじめをつけなければならない、そのためには日常のささいな場面においても習慣づけるように、と。そういうことでしたね」
「うん。あ、デルムッド、言葉」
「あ……ごめん」

 セリスに詫びながら、デルムッドはつい考え込んでしまう。
 そういえば、昔はどんな口調でセリスに話しかけていただろう。
 長く敬語を使い続けてきたせいで、どうも調子がつかめない。あまり意識しすぎると、かえって不自然な言葉づかいになってしまいそうだ。

「うん。もうすっかり身についてしまってるだろうし、いきなり言われても難しいと思うけど」
「そう……だな」
「でも正直、理不尽だと思ってた。人の上に立つ者と言うなら、スカサハたちはイザークの王族だし、君だってノディオンの王族なのに」
「バーハラのヘイム王家は盟主として皆をまとめていく立場だから。他とは違う、特別な存在なのだと」
「そうだね。そういうことなんだって、無理やり自分を納得させてきた。けど、アレスやアーサーが、自分に敬語を使わせないようにしてるのを見るたび、正直思ってた。ずるいなって。彼らも将来は一国の王になるはずなのに」
「……あ」
「いいよな。ぼくだってみんなと普通に話しかった」

 意外だった。セリスがそんなふうに感じているとは。
 彼はにこにこと笑いながら、すべてを受け入れているように見えていた。寂しいだとか、羨ましいだとか、そういった気持ちを抱いているとは――ああいや。
 実のところ、まったく気づいていなかったわけではない。だが、自分のことで手が一杯で、そういった面でセリスを思いやる余裕がなかったのだ。

「というわけだから、他の者の目の届かないところでは、こっそり普通の言葉で話してくれると、実は嬉しい。オイフェだって、今更怒ったりしないだろうし」
「……そうだね」

 うなずきながらも、デルムッドは言い足した。

「ただ、俺はヴェルトマー公爵だ。人目はどうしても気になるな。反逆とか増長とか、そういうものの兆しだと思われてはまずいし」
「……うん」

 やや遅れてセリスは同意を返した。
 その後、すこし考え込むような様子を見せてから、「ヴェルトマーか……」と小さくつぶやいた。

「ああ、俺はあのアルヴィスの甥だから。どうしたって印象はよくないだろう」
「……アルヴィスの甥なのは、君だけじゃない。ぼくだって」
「……え?」

 何を言っているのだろう。
 デルムッドはセリスの顔をまじまじと見返しながら、セリスに連なる系譜を懸命に頭の中でたどる。
 セリスがアルヴィスの甥にあたるというならば、アルヴィスの親の世代でセリスの一族との間に姻戚関係が存在しなくてはならない。だが、この世代では、シアルフィ家とヴェルトマー家の間ではそういった関係は結ばれていないはずだ。母方をたどるにしても、精霊の森で生まれたディアドラとヴェルトマー家の間に繋がりが存在するとも思えない。

「ちょっと待て。それはいったい……?」
「ああ」

 デルムッドの戸惑いをよそに、セリスは落ち着いた声でうなずいた。

「一応、機密事項だ。公にするのはいろいろまずい。けど、注意深く関係をたどっていけば、気づく人がいても不思議じゃないんだけどね。それに君はヴェルトマー公爵だ。他の人間はともかく、君は知っておくべきだと思う」
「……どういうことだ」
「アルヴィスの母親について、君はどれくらい知ってる?」
「たしかシギュンという名で、出自不明の……いや、マイラの血を引く人物だったとか」
「うん。出身地とか、そういうのは不明ってことになってるね、公的な記録では。けど本当は、ヴェルダンの……精霊の森の生まれだ」
「精霊の森……では、ディアドラ様と同じ」
「うん。というか、このシギュンこそが母上の母親だ」
「……なんだって」

 たしかにそれなら辻褄は合う。ヴェルトマー公爵夫人シギュンは謎の多い人物で、まともな記録はほとんどない。あり得ない話と切り捨てることはできない。だが、これが事実だとすれば……
 セリスは淡々とした声でさらに続けた。

「シギュンは精霊の森の娘だった。けれど、どういうわけだか森を出て、ヴェルトマー公爵ヴィクトル――アルヴィスの父親に当たる人だね――と出会い、その妻となった。アルヴィスが生まれて何年か過ぎたところで、彼女はクルト王子と男女の関係になる。妻と王子の不倫を知ったヴィクトル卿はあてつけるかのように自殺して、シギュンは故郷へ戻って娘を生んだ。この娘が母上だ。だから母上はクルト王子の――ヘイムの血を引いていて、アルヴィスとは異父兄妹にあたる」
「そんな……では」
「うん。アルヴィスと母上は兄妹でありながら結ばれた。そして、ぼくは母方から、ユリウスとユリアは父母双方からマイラの――つまりはロプトの血を引いている。だからこれは機密事項なんだ。光の皇子が実はロプトの血族だなんて、おいそれと他所には漏らせないだろう?」

 ロプトの血族。
 そう。セリスの言葉が事実なら、セリスもまた、ロプトの血筋に繋がっているということになる。

「……どうやって、君はこのことを知った?」
「母上がマイラの一族だということなら、早くから知っていた。父上はそのことを知った上で、けれども周りの者には明らかにせずに、母上と結ばれたんだ。まあ、多少、ごまかしをしたみたいだね。シアルフィ家に残された記録文書では、母上は隠れ里の出ではあるけれどもマイラの血族ではない、そういうことになっているようだ。ただ、父上の配下には秘密を知っている人もいて、イザークに逃れる前に、事実を記した手紙をオイフェに託していた」

 セリスの声は淀みなく、感情の揺れのようなものは感じられない。自分の知る事実をただそのまま述べているように見える。だが、その冷静さがかえって、何か痛ましいもののように思えてならない。

「それでも、アルヴィスの母親シギュンと、母上の母親であるシギュンが同じ人物であるとは、すぐには結びつかなかった。けど、こちらはアルヴィス本人が探り当てて記録を残していた」
「では、アルヴィスは兄妹と知った上でディアドラ様と……」
「いや、最初は知らなかったようだ。けれどもシアルフィを掌中に収めて、そこから父上の妻に関する記録をたどっていって気づいたらしい。ユリウスやユリアが生まれ、帝国の基盤も安定してからのことだ」
「そうなのか……」
「でもまあ、考えてみれば、ヘイムの血を引く子供を産む可能性のあるシギュンという名の女性が、そう何人もいるはずはない。だから昔の――クルト王子とヴェルトマー公爵夫人の醜聞を知る人間なら、アルヴィスと母上が兄妹であることに気づいても、そんなに不思議じゃないわけだけど」
「何かの間違いということは」
「ないだろうね。現に、ユリウスはロプトウスの依り代として覚醒している。濃すぎる血を引いてしまった結果なんだろう」

 そう言うと、セリスは深々と息をついた。だがすぐに、先ほどよりはやや明るい声でつけ加える。

「こういったこと、本当は、秘密にしておきたいわけじゃないんだけどね」
「え?」
「秘密は疑心暗鬼を誘う。隠そうとするからこそ、それが弱点になる。とは言え、今、すべてを明かしてしまうのはちょっとまずいだろうな。ロプトウスの記憶が生々しすぎるから」
「……そう、だな」
「それに、ユリアを傷つけたくない。近親婚は忌むべきものとされている。この事実が知れ渡れば、ユリアはきっとつらい思いをする」

 セリスの言うとおりだろう。
 ユリアはロプトウスに呑まれた双子の兄ユリウスと戦った。それだけでも十分つらいことであったはずだ。なのに、さらに世間の耳目を集め、中傷や非難の対象になるかもしれない事実を明らかにするのは、あまりにも酷だ。
 それにしても、である。
 この話が表に出れば、セリスの即位に異議をさしはさむ者が出るかもしれない。
 ロプト教団の暴虐も、バーハラに降臨したロプトウスも、恐怖を持ってしか語ることのできない忌まわしい出来事だった。
 セリスはヘイムの血を引く者であり、かつ、平和を取り戻すために戦った解放軍の盟主だ。けれどもロプトの血を引いているとなれば、反発は免れないのではないか。

「……なぜ俺に話したんだ」
「うん?」
「ロプトの血族であることは君の弱点になる。そのことを利用して、俺が君を陥れるとか、そういう可能性だって」
「いや」

 デルムッドの言葉を途中でさえぎって、セリスはきっぱりと言った。

「君はそんなことはしない。そうだろう?」
「無論だ。だけど」
「そりゃ、裏切られる可能性だってある。けれども、信じるほうをぼくは選ぶ。だって、真実はいつまでも覆い隠せるものじゃない。特に君は、ヴェルトマーと……アルヴィスと深い関わりを持つ人間だ。信頼して、本当のことを明かしておいたほうがいい」
「君は……強いな」
「そうかな?」

 さりげなくそう応えると、セリスは黙り込んだ。
 だが、しばらく考え込んだ後、ふと視線を上げて、静かな声で言った。

「このところ、ずっとアルヴィスという人物のことを考えていた。あのひとは、どこで何を間違えたのだろうかと」
「アルヴィスのことを?」

 不思議そうに問いかけるデルムッドに、セリスはうなずき返した。

「なんだかんだ言っても、ぼくはあのひとの甥なわけだ。あのひとから何かを受け継いでいたとしてもおかしくはない。父上からばかりではなく、ね。だから、いいところも悪いところも、きちんと見ておかないと。同じ轍を踏まないためにも」

(セリスがアルヴィスから何かを受け継いでいる。そんなことは……)

 ……ないとは言い切れない。
 デルムッド自身にしても、何度も思ってきたではないか。自分のどこかに、あの男と似たような要素があるのではないかと。
 シアルフィ城で敵として向かい合ったとき、あの男の中に自分との類似を、あるいは父の面影を探そうとしたのではなかったか。

「思ったんだ。あのひとの最大の過ちは、他人を信じなかったことなんじゃないかと。よりよい世の中を作るためには自らの手を汚すのも辞さない。その覚悟自体は……うん、わかる部分もある。きれいごとだけじゃ世の中は動かせないから。けれど、裏切りは裏切りで返される、それもまた真理なのだと思う。
 以前、レヴィンが言っていた。父上はぼくに多くのものを残した。その最たるものが『友』なのだ、と。ぼくたちの勝利は、父上の歩んだ道こそが正しかったのだと証明している。そう思うからこそ、ぼくは可能な限り、『ひとを信じる』ことを選びたいんだ」

 そこでセリスはいったん口をつぐみ、デルムッドに視線を据えた。

「デルムッド、君はずっとヴェルトマーの名を背負ってきた。片やぼくは、忌むべき血筋は隠して、みんなから望まれているほうだけを表に出している。正直、なかなか居心地が悪い」
「セリス……」

 返すべき言葉が浮かばない。
 実のところ、セリスのことをずっと羨んでいた。デルムッドの目に映るセリスは、瑕疵なき存在にして、皆の期待を一心に背負った、まさに『光』の皇子だった。
 彼の負わされている使命や責任には同情を覚えた。けれども、ヴェルトマーというあまりにも明らかな『影』を帯びている自分とは違って、光の射すところをただまっすぐに歩めばいい存在、そう思っていた。
 だが、彼は自分がロプトの血筋であることを早くから知っていたのだという。誰にも知られることのない、いや、知られてはならない暗黒の血脈。ある意味、彼が抱え込んでいた『影』のほうが、よほど濃かったのではないか。

「同情してほしいわけじゃないんだ。けど、わかってくれる存在は欲しい。そう思ってしまうのは、甘えだろうか」

 静かで、さりげない声。
 けれどもその声にこめられている願いに、デルムッドは共感を寄せずにはいられない。

(そう、同情してほしいわけでは決してない。ただ、胸の裡に抱えているものを分かち合える相手がいれば、どれほど……)

「セリス、俺は君に何ができる」

 思わずデルムッドはそう問いかけていた。

「デルムッド?」
「君は俺を信頼して、この話をしてくれた。君のために力を尽くしたい。だったら俺は何をすればいい」
「……友達でいてほしいな」

 そう言って、セリスはふわりと微笑んだ。
 柔らかな表情だ。なのにどこか寂しげに見える。

「君とは一緒に育ってきた。だけど今は主君と臣下で、だからどうしても、それなりの礼節――というか、距離かな――を取らざるを得ない。それはまあ、仕方ない。けれども時には、普通に――対等に接してくれると嬉しい」
「……今みたいに?」
「うん。今みたいに」

 セリスは大きくうなずいた。だがその後で、何かを思いついたかのように、少し首をかしげる。

「ああ、もうひとつあった」
「うん?」
「ラナをしあわせにしてほしい」

 なぜここでラナの名前が。前後の脈絡がつかめず、ぽかんとした顔でデルムッドはセリスを見返した。

「ラナと君が互いを想い合ってるのは、前からわかってた。なのに君はなかなかラナの手を取ろうとしない。正直やきもきしてたよ。いったいいつになれば、ちゃんとラナの気持ちに応えるんだろうって」
「それは……」
「君の気持ちもわかるさ。自分の背負っている暗いものに、ラナを巻き込みたくない。それは当然だと思う。けど、ラナは困難が待ち受けていたとしても、愛する人とともに歩むことを選ぶ、そういう子だ。そもそも、ラナの気持ちははっきり君に向かっていた。なのに、ずっと放っておくなんてね」

 どう返したものだろう。
 ラナのことはずっと好きだった。けれども、自分と一緒になることが彼女のしあわせに繋がるとは思えなくて、どうにも踏み切れないまま日々を過ごし、結局は彼女のほうから愛を告げられた。不甲斐ないといえば不甲斐ない限りだ。
 デルムッドの戸惑いに気づいたのだろうか。セリスはちょっと困ったような表情を浮かべた。

「ああ、ごめん。困らせたいわけじゃないんだ。でも、一緒になるからには、ふたりでしあわせを掴んでほしい。彼女が泣くようなことになったら……許さない」

 途中までは明るく冗談めかしたような調子だった。だが、最後の一言だけは、静かで、妙に真剣な声に思えた。
 はっとしてデルムッドは姿勢をただす。だがセリスは照れたような笑みを浮かべ、元通りの明るい調子で言った。

「まあ、ぼくが許すとか許さないとか言うようなことじゃないけど」
「……いや」

 ――自分の背負っている暗いものに、ラナを巻き込みたくない。

 それは、デルムッドの心情を想像した言葉ではなく、セリス自身の心の声なのではないか。
 セリスはラナを愛していた。だが、自分の中に流れるロプトの血ゆえに、想いを告げることを断念した。そう考えるべき材料は――十分揃っている。
 本当のところはわからない。訊ねてもたぶんセリスは答えないだろうし、第一、ラナと結ばれた自分が問うべきことではない。
 デルムッドはセリスの顔にまっすぐな視線を投げかると、きっぱりした声で告げた。

「ラナを大切にする。必ず、しあわせにする」
「……うん」

 セリスもまた真面目な表情で、こくりとうなずいた。

「ああ、仕事の話はしないはずだったのに、なんだか肩の凝る話になってしまったね。せっかくおいしいお酒を用意したのに」
「……だけど、話せて良かった」
「……本当に?」
「ああ」

 うなずくデルムッドに、セリスは笑みを漏らす。
 先ほどの微笑とは似ているようで違う。どこか吹っ切れたような、晴れ晴れとした表情だ。

「じゃあ、改めて乾杯しようか」

 そう言って、セリスは最初の乾杯の後で一口含んで以来、ずっと机の上に置いたままになっていたグラスに手を伸ばした。

「そうだな、だけど」
「うん?」
「くれぐれも飲み過ぎないでくれよ」

 デルムッドが釘を刺すと、セリスは目を丸くした後で、ぱあっと破顔する。

「そうだね、気をつけるよ」

 皇帝と呼ばれた男を伯父に持つふたりの青年は、グラスを目の前に掲げると、その縁と縁を軽く合わせた。



《fin》

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written by S.Kirihara
last update: 2018/12/03
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