運命を越える
ヴェルトマー城前の攻防は激しいものとなるだろう。誰もがそう思っていたはずだ。
なのに実際には、戦いはあっけなく終わった。
城前に広がる台地にはレプトール公爵みずから率いるフリージの精鋭部隊が待ちかまえ、さらに崖上には、ヴェルトマー家所属の魔道士が陣取っていた。
上方にヴェルトマー、正面にフリージ。二方向に展開される敵兵を相手取るならば、苦戦は必須。
けれども、フリージ軍の先鋒と私たちが接触したその瞬間、ヴェルトマーの魔道士たちが魔法を放った相手は私たちではなかった。
メティオの嵐は、フリージ軍の上に降り注いだのだ。
いったいなぜ。ヴェルトマーはフリージと同盟しているはずなのに。
フリージ軍は混乱状態に陥った。
私たちもまた、驚きを隠すことができなかった。
ヴェルトマー軍の寝返りは、私たちにとっても不可解なものだったからだ。
ヴェルトマー公爵アルヴィス卿は、レプトール卿やランゴバルト卿と同じ陣営に属しているはずだ。現にこの間、私たちはフィノーラに駐在しているヴェルトマーの者たちと交戦した。事前に内通の打診があったとも聞かない。
なのにこの戦では、ヴェルトマーはフリージを裏切って、私たちに味方するというのか。
フリージ軍が混乱したのは最初のうちだけだった。
レプトール卿の一喝によって、フリージ軍はすぐさま統制を取り戻す。さすがは公爵直轄の精鋭部隊だ。その士気は高く、一兵卒に至るまで侮りがたい実力を示した。
中でも、神器トールハンマーを携えたフリージ公爵レプトールは別格だった。トールハンマーから放たれる魔法の雷は、名にふさわしく、神の鉄槌と呼ぶべき威力を発揮する。その魔力の圧たるや、なまじな者では近づくことさえ覚束ない。
でも、神器なら私たちの側にもある。
聖剣ティルフィング、神弓イチイバル、そして、風のフォルセティ。
総大将でありながら、シグルド様は輝ける剣をその手に自ら陣頭に立ち、敵の懐深く斬り込んでいった。そのすぐ後ろに続くのは、これまた神器を携えたユングヴィのブリギッド様と――レヴィン様。
神器に対抗しうるのは神器。中でも決め手となるのは、魔を砕く聖剣ティルフィング、あるいは雷撃に有利な風魔法の極致たる風のフォルセティ。
そう、レヴィン様こそが、この戦いの勝敗の鍵を握っている。
……もっとも、私は最前線の様子をこの目で見ていたわけではない。
この戦いでは、私は伝令の任を受け持つと同時に、癒しの杖を振るって負傷者の治癒に当たるよう、指示を受けていた。
以前は、私たちの軍で癒しの技を使える者は少なくなかった。けれども今、癒し手はとても減ってしまった。エーディン様はイザークへと落ち延びていったし、ラケシス様とはフィノーラで別れている。
そういった状況だったから、ファルコンナイトに昇格した私にも、治癒者としての役割が期待されていた。
それに、今回、フリージ軍には弓兵が多く配備されている。弓を苦手とする天馬騎士が率先して前に出るのは無理がある。私は単なる戦闘要員としてではなく、伝令、もしくは治癒者として立ち回るほうが望ましいと、シグルド様たちは判断されたのだ。
作戦上の必要性は十分承知していたけれども、私は最前線にいるレヴィン様のことが気がかりでならなかった。
レヴィン様は我がシレジアの王子であり、私個人にとってもかけがえのない方だ。
昔の私ならば、たとえ状況を理解していても、レヴィン様のおそばを離れるなど考えられなかっただろう。何をおいてもレヴィン様のすぐそばに控えていようとしたかもしれない。
けれども、私はそういった行動は取らなかった。いや、取れなかった。
私はシレジアの天馬騎士。でも、今はシグルド軍の一員でもある。
アグストリア以来、私はシグルド様と彼に従う人々とともに歩んできた。
長い戦いの末、ようやくのことで私たちはここまで来た。私たちには余裕なんてもうこれっぽちもない。私情を押さえ、力の限りを尽くして、ことにあたらなくては。
そう。勝利を望みながらも、この場に居合わすことのできなかった人々のためにも、私たちは絶対に負けられない。
「フュリー」
クロード様がふと顔を上げて、天馬の鞍上にある私に呼びかけてきた。
「決着が……ついたようです」
静かな声だ。
「魔力の乱れが収まりました。雷は途絶え、今、風は穏やかに凪いでいます」
クロード様は魔力を『観る』ことができる。離れた場所で起きた魔力の変動であっても、たやすく感知できるのだという。
私も少しは魔法の手ほどきを受けている。でも、クロード様のように魔力の流れを読み取ったりはできない。
けれども、そんな私でも感じるものがあった。
遠雷は止み、風も収まった。空気の中に漂っていたびりびりしたものが和らいで、温かいものがふわりとひろがりはじめている。
「では……」
震える声で、私は訊ね返した。
勝利したのはどちらなのだろう。それこそが一番聞きたいことなのに。
そんな私の心を汲み取ってくださったのだろう。クロード様は小声ながらも力強い調子で言った。
「ええ。勝利したのはおそらくレヴィン王子。間違いないでしょう」
「ああ……」
思わず息が洩れる。クロード様は柔らかな笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「レプトール卿が討ち取られたのならば、残る敵が降伏するまで、そう時間はかからないはずです」
「はい!」
「戦いはほどなく終わります。我々は勝ったのです。ただ、気がかりなのは……」
そこでクロード様は言葉を切り、何事かを考え込む。だがやがて面を上げて、思いを断ち切るように首を左右に振った。
「ヴェルトマー、ですか?」
声をひそめて、私は訊ね返す。
「……ええ」
「彼らはいったいどういうつもりなのでしょう。信頼できるのでしょうか」
「……わかりません。ですがそれも、すぐに明らかになるはずです」
「そうですね」
同意しながらも、私は不安を拭うことができなかった。
私たちを率いているシグルド様は善良で、他者を疑ってかかるよりは、まずは信じようとなさる方だ。それはとても好ましくて、立派な態度であるのだけど、こと、戦争や政治の駆け引きとなると……
「ともかく、私たちはここまで来たのです。バーハラはもう指呼の間。今は憂うよりも、まずは喜びましょう。気をゆるめるわけには……まだいきませんが」
そこで言葉を切ると、クロード様は再び私を見上げ、静かに微笑みかけてきた。
そのまま私たちはヴェルトマー城に迎え入れられた。
ヴェルトマー城の守備を任されていたのは、アイーダと名乗る年若い女性だった。アルヴィス卿の信頼篤い将軍で、魔道士としての実力も確かなのだと、アゼル公子は彼女を評した。
アイーダ将軍は、私たちを快く迎え入れた。
彼女の言によれば、アルヴィス卿はもともとシグルド様の無実を信じていたのだという。今まではレプトール卿とランゴバルト卿の力が強く、シグルド様に味方するのは難しかった。だが、ようやくシグルド様を助けることができるようになったのだと。
鵜呑みにしていいのだろうか。疑いを抱く者は少なくないはずだ。
けれどもシグルド様は彼女を――いや、彼女の背後にいるアルヴィス卿を信じた。
こうして私たちはヴェルトマー城の客人となり、王都バーハラへの凱旋に備えて、束の間の休息を取ることとなったのだった。
その夜は、アイーダ将軍も交えて会議が開かれた。
そう、軍議ではなく会議だ。私たちの戦いは終わった。あとはバーハラへ赴いて、国王アズムール陛下の前で釈明するだけなのだから。
私はこの会議には出席しなかった。戦の疲れが出たのだろう。入城の直後に倒れこみ、そのまま寝台へと運ばれたからだ。
微熱と軽い吐き気があったが、別に重症ではなさそうだ。けれどもクロード様は、寝台にとどまっているようにと、強い口調でおっしゃった。
そのクロード様ご自身も、とても疲れているように見えた。無理もない。戦いの間中、絶え間なく癒しの技を使っておられたのだから。
魔法の行使は傍から見ているよりもずっと消耗する。本当は、クロード様こそがすぐにでも休養を取らなければならない状態であるはずなのに。
そう私が話したら、クロード様は微苦笑を浮かべておっしゃった。
「いえ、私は大丈夫。そもそも、休んでいるわけにはいきません。私はエッダ公爵、グランベル六公爵家に数えられる家門の当主です。国王陛下にお目通りを許された今からこそが、私の本当の出番なのですから」
「クロード様、でも……」
なおも言い募ろうとすると、クロード様は私の頬にそっと手を伸ばし、軽く触れた。
「フュリー。あなたは戦場で十分に役目を果たした。今はとにかく休んでほしいのです」
ああ、この方はいつもこうだ。
ご自分は無理をしても、他の者にはあくまで優しい。その言葉も物腰も優しいのに――いいえ、優しいからこそ、どうにも逆らいがたい。
私は黙ってうなずくと、再び寝台に身を横たえた。クロード様は私に目配せをするとランプの灯りを小さくして、そっと部屋から出ていった。
……目が覚めると、枕辺のランプの灯りが再びあかあかと大きく輝いていた。
頭を巡らせると、クロード様が寝台の横に椅子を寄せて腰掛け、私をのぞき込んでいるのが目に入った。
「……クロード様?」
身を起こそうとする私をそっと制して、クロード様は口を開く。
「起こしてしまいましたか? すみません、灯りを落としましょうか」
「いいえ」
私が応えると、クロード様は静かにうなずいた。
微笑んではいるが、とても疲れていらっしゃるようだ。顔色も心なしか青ざめているような気がする。
言いようのない不安が、突如、胸にこみ上げてきた。
私はそろそろと身を起こし、寝台の上に腰掛けて、クロード様と向かい合う。
「会議……終わったんですか?」
「ええ、さきほど」
「クロード様、その……何か、よくないことでも」
「いいえ、特には」
「でも……」
「フュリー、あなたはしっかり休んでください。そして私たちと一緒にバーハラには向かわず、そのままシレジアに戻りなさい」
「え……」
「あなたは身ごもっています」
「あ……」
クロード様と私は、この初春、シレジア城を奪還した直後に婚姻の契りを結んでいる。以来、転戦の中にあっても、状況が許せば同じ褥で休んできた。行軍に差し支えないよう、その……そういったことは、かなり控えていたのだけど、でも、ありえないことではない。
「無理をしてはなりません。故郷で安らいで、よい子を産む。そうしてほしいのです」
「でも、私たちはもうグランベルにいるのに。国王陛下に謁見して、その後はクロード様の……あなたの妻として、一緒にエッダに向かう。それではいけないのですか?」
「あなたはシレジアの人ですから。だめです。バーハラへ行ってはいけない」
何かが変だ。
クロード様は穏やかに言葉を重ねている。けれども妥協するつもりはまったくなさそうだ。
私を妻としてエッダに連れて行くのが嫌なのだろうか。ううん、それは違う気がする。何故と問われても説明しにくいのだけど、そう私は感じていた。
だとすれば、何が問題なのだろう。
不吉な予感がする。
突然寝返ったヴェルトマー軍。戦いが終わったのに、ちっとも安らいだ様子を見せないクロード様。それはいったい、何を指し示しているのか。
「……バーハラで、何が待っているのですか?」
押し殺した声で、私はそう訊ねた。
「フュリー?」
「クロード様は何かを隠していらっしゃる。いいえ、以前からずっと、何かを隠していらっしゃった」
そうなのだ。
クロード様と夫婦になって、まだそんなに長いわけではない。けれども私は気づいていた。
時折クロード様は、夜中に目を覚まして何かを考え込まれていることがある。夜闇の中のこと、その表情はわからない。でも、感じとれるものがあった。
この方は何か、人には言いがたいものを胸の内に抱えていらっしゃるのではないだろうか。
「あなたはずっと思い悩んでいらした。戦いのせいなのかと思っていました。でも、戦いに勝った今も、あなたは少しも喜んでいらっしゃらない。むしろ、以前よりも深く苦しんでおられるようにすら見えます。私たちの歩む先に、そう、バーハラに、何かよくないものが待ちかまえている、そうお考えなのでは?」
「フュリー……あなたは」
「私ではお力になれませんか? あなたはいつも私を励ましてくださる。けれどあなたご自身は、悩みや苦しみをすべてひとりで引き受けて……ひとりで耐えていらっしゃる。そう思えてならないのです」
「この先、バーハラで私たちを待っているのは……破滅です」
「え……」
「神の託宣なのです。信じがたいことかもしれませんが」
そう言って、クロード様は静かな声で話し始めた。
クロード様には予知と呼ぶべき力がそなわっているのだという。
ブラギの司祭たちは、それを神託と解釈している。クロード様ご自身は、自分が受け取るものが神より賜ったものなのか、それとも神様とは関わりのないものなのか、しかとは判らないとおっしゃる。けれども確かに、幼い頃からクロード様は時々未来を『視て』きたらしい。
そしてあのとき、アグストリアのブラギの塔で、クロード様は視たのだ。シグルド様の運命と、この戦いの結末を。
私たちは敗北する。
個々の行く末までは、定かにはわからないという。でも、バーハラの城門前で劫火に包まれ、そこでシグルド様の歩みは止まる。それは動かしようのない未来なのだと。
言葉を失い、私はただクロード様を見つめ返す。
「だからフュリー、帰ってください、シレジアへ。あなたはここで死ぬべき人ではない」
「嫌です。そんな……そんな、私だけが逃げるなんて!」
そんなことできるわけがない。みんなを見捨てて行くなんて、絶対に嫌だ。
思わず私は口走っていた。
「なら、運命を変えましょう。みんなに言うんです。バーハラに行ってはいけないって」
「いいえ、運命は変わりません」
「え……」
「幼い頃から何度となく試してきました。私の視るものは予兆に過ぎない。ならば起こるはずだったこととは別のことを起こせば、未来は変えられるのではないかと。でも、だめなのです。どこかをいじっても、結局は同じようなところに落ち着いてしまう。未来とは、運命とは、そのようなものであるらしいのです」
「でも……」
「どう足掻いても変えることができないなら、未来など知らない方がいい。余計な苦しみを増やすだけですから」
クロード様は淡々と言う。それが私には耐えがたかった。
知らなければ苦しまなくてすむ。そのとおりかもしれない。
でも、それならクロード様ご自身は。
クロード様は視てしまうのに。他に知る者がなくても、クロード様だけはこの先起こることを知り、それを誰にも語ることなく、ひとりで抱え込んで……
ああ、そうなのか。
突然、ひらめいたことがあった。
「やっとわかりました。クロード様は温かくて優しくて、でもいつも、何かを諦めていらしゃるように見えた。ただひとり、手の届かないところに立っておられるように見えた。それがなぜなのか、ようやく……」
涙がこみ上げてくる。
泣き虫フュリー。子どもの頃、私はそう呼ばれていた。
昔の私は確かに泣き虫だった。不器用で、感情を抑えるのが苦手で、言いたいこともうまく言えず、ただただ泣いてしまうことがよくあった。
さすがに大人になってからは、感情を抑える術を覚えた。言葉にできないまま泣きじゃくることなど、もうないだろうと思っていた。
でも、やっぱり私は泣き虫だ。
今、目の前にいるこの人のために、私は何ができるだろう。
その苦しみを、その諦めを、拭い去ってしまいたいのに。晴れやかに笑ってほしいのに。
なのに、どうすればいいのかわからない。
ただ涙を流す私に、クロード様はそっと手を差し伸べる。
私のほほから涙を拭い、額の上に口づけを落とし、背に腕を回し、そして、私をその胸の中に包み込んだ。
「すみません。フュリー」
「どうして謝られるのです」
「あなたをこの運命に巻き込みたくなかった。なのに私は、あなたを望んでしまった」
「そんなこと!」
「いいえ、聞いてください。フュリー、私は」
クロード様は身を離し、膝を突き合わせるような形で座りなおすと、私の両手をご自分の両手で包み込む。
「私はあなたが好きです。あなたを愛しています。あなたとともにいられることが、本当にうれしかったのです。今、あなたのお腹には私の子どもがいる。他のものなら諦めもしましょう。でも、少しでも可能性があるなら、あなたと子どもを生かしたい。それが私の、ただひとつの願いです」
切々とした声だった。
クロード様は気軽に愛を語る方ではない。こんなにはっきりとご自分の内面を話されるのは、初めて私を愛しているとおっしゃったあの日と、婚姻の誓いを立てたあの夜くらいだ。
だからこそ、私は何も言えなくなってしまった。
何が正しいのか、何を選べばいいのか。
私は天馬騎士となるべく育てられ、天馬騎士として生きてきた。
我が身と我が命を尽くして、他者を生かすことこそが騎士の本分。そう教えられてきた。
自分と自分の子どもを救うために他の人たちを置き去りにして逃げるなど、もってのほかだ。
でも、それでも。
私はクロード様を悲しませたくない。クロード様の心に沿いたい。
ならば私は、どうすればいいのだろう。
答えの出ないまま、私はただ、クロード様と向かい合っていた。
その二日後、私たちはヴェルトマー城を発った。
ヴェルトマーから王都バーハラまでの距離はわずかだ。出立の四日後には、私たちはバーハラの郊外に到着し、そこに最後の野営地を設営した。
ほとんどの者がこのままバーハラ城へと向かう。ただ、あまり身分の高くない者や同行してきた子どもなどは、この野営地に残る。
私はと言えば、この最後の野営地からシレジアへ戻ることを、クロード様と約束していた。
ヴェルトマーが何を考えているのかは定かでない。いや、この一連の戦いがシグルド様の敗北で終わるのなら、何か企みがあるのだと考えた方がいい。ひとりヴェルトマー城に残るのは論外だった。だから、ヴェルトマーを出るときに、私もみんなと一緒に出発した。そしてそのまま行動をともにしていたのだけど、ついに昨夜、クロード様に説き伏せられ、今度こそシレジアに帰るよう、約束させられたのだった。
みんながバーハラへと向かった後、自分に割り当てられた天幕で荷物を整理していたときのことだ。
「フュリー」
シルヴィアがひょいと天幕の入り口から顔を覗かせた。
「どうしたの?」
「んー…… どうしてるかなって思って」
シルヴィアはそう言いながら天幕の中に入ってきた。その腕にはちいさなリーンがしっかりと抱かれている。
リーンは最近ようやくよちよちと歩けるようになってきた。それだけに、目を離してしまうのはちょっと怖い。だからだろう、シルヴィアは自分の赤ちゃんを身近に引き寄せておこうと、いつも気を配っている。
「なんかね、フュリー、元気ないから」
「そう……かな」
「うん。ヴェルトマーで、熱出して倒れたでしょ。あれからちょっとね」
「たいしたことなかったの。もう大丈夫だから」
「ならいいけど」
シルヴィアはそこで言葉を切ると、探るような調子で問いかけてきた。
「ねえ、ほんとはフュリー、何か隠してない?」
「あの、クロード様に……言われたの。シレジアに帰りなさいって。その……私……赤ちゃんが、できたみたいだから」
「ああ、そっかあ」
ぱあっとはじけるように、シルヴィアは笑った。
「おめでと。うんうん。神父さまとフュリーだから、そういうの、どうなってるんだろうって思ってたけど、ちゃんとやることはやってるんだ」
「あ……そ、そうね……そういうふうに言われてしまうと、とても、その……恥ずかしい、けど」
「ええー、恥ずかしがらないでよ。おめでたいことじゃない」
あっけらかんとした調子でシルヴィアは言う。
ああ、いつものシルヴィアだ。
最初の頃は、シルヴィアのこういうところが苦手だった。レヴィン様と親しくしているのも気に入らなかったし、とてもじゃないけれど仲良くなんてなれそうもないと思っていた。
でも結局、シグルド様の軍に加わっている女性の中で、私が一番仲良くなれたのはシルヴィアだった。
シルヴィアは明るくてあけっぴろげで、一見、不真面目な人のように見える。でも本当は、一途で一所懸命な、温かい心を持った、素敵な女の子だ。
いったん親しくなってからは、いつも彼女に励まされてきた。私がうじうじと悩んでしまったとき、すっと背中を押して、一歩先へと歩み出せるようにしてくれる。シルヴィアはそんな友達なのだ。
「子どもってかわいいよ。そりゃ、大変だし面倒だし、もうどうしようかって思っちゃうときもあるけど。でも、ほんとね、あたし、この子がいてよかったって思ってる」
「ええ、そうね」
私も子どもは好きだ。こんなときでなかったら、子どもを授かったことをどれほど喜んだだろう。けれど今は、ただ喜んでいられる状況ではない。
「だからね、ほんと無理しちゃだめ。体、大事にして――そうだね、やっぱりシレジアに戻った方がいいんだろうな。ねね、リターンの魔法とか使えないの? 神父様かレヴィンにさ、頼んだら、砂漠越えとかしなくても、一発で帰れそうなもんだけど」
「そうね……」
「じゃあさ、みんなが帰ってきたら頼んでみようよ。魔法でシレジアに戻してって」
――みんなが帰ってきたら
その言葉に、私は思わず身を硬くする。
みんなが帰ってきたら。ああ、帰ってきてくれたら、どんなにいいか。
……だめだ。やはり黙っているなんて、私にはできない。
クロード様は運命は変えられないと言った。バーハラから先へ続く道はないのだと。
でも、足掻いてみてはいけないだろうか。土壇場まで足掻けば、何かひとつでも救い出せないだろうか。
そう。せめて、シルヴィアやリーンや、この野営地に残っている人たちを逃がすくらいなら。
意を決して、私は口を開いた。
「あのね、シルヴィア、聞いてほしいことがあるの」
シルヴィアは私の話をすんなりと信じてくれた。そしてすぐに、野営地の守備を任されているホリンに相談すべきだと提案した。
私がシルヴィアに同意すると、シルヴィアはすぐさまホリンを探しに天幕を出て行き、ほどなく金髪の剣士を伴って天幕に戻ってきた。
私はホリンにも同じ話を繰り返した。寡黙な剣士は黙って私の話に耳を傾けていたが、すべてを聞き終えたところで即座に言った。
「まずは子どもを優先して逃がす。ファバルはデューに託す。シルヴィア、お前とデューは、とりあえずオアシスの街ダーナを目指せ。運あればそこで落ち合おう」
「落ち合うって……じゃあ、ホリン、あんたは?」
シルヴィアの問いかけに、ホリンはきっぱりと答える。
「俺はバーハラへ向かう」
その言葉を耳にして、私の心は決まった。
「わかりました。では、私もバーハラへ行きましょう」
ホリンは右眉をすっと上げると、つぶやくように言った。
「身重の女が死地に向かうなど、勧められたものではないが」
「でも、死ぬと決まったわけではないでしょう? 救える者をひとりでも多く救い出す、それこそが騎士たる者の務め。ここでひとり逃げてしまっては、私は一生悔い続けることになってしまいます」
「……そうだな。だが、無茶はするな」
「ええ、そのつもりです」
私は天馬に馬具をつけ、自分の武装を確認する。
迅速な行動こそが武器になる。重い装備は極力避けて。愛用の細身の槍、雷の剣にライブの杖。これくらいがちょうどいい。
ヴェルトマーの者たちは信頼できない。私たちの動向を把握して、ひそかに見張っているに違いない。目立つ行動は避けなくては。
ホリンと私とシルヴィアたちは、別々に行動すると決めた。
ホリンは野営地に残っていたわずかな手勢をまとめあげ、もうすぐバーハラへと向かうだろう。シルヴィアとデューは、難民の姉弟を装って砂漠を目指すのだという。
運命は変えられないかもしれない。でも、私はあきらめない。あきらめたくない。
明日を迎えるために、運命を越えよう。
愛する人たちと、ともに笑いあうために。
「頑張ろうね」
相棒の鼻面を撫でて励ましの言葉をかけると、ひらりとその背に跨がる。
目指す方角は南西。
バーハラの王城に向けて、私は空へと舞い立った。
《fin》