FE聖戦20th記念企画

もうひとつの故郷(後)


 セリスがイザークで旗揚げして一年あまりが過ぎた。
 解放軍は激戦の末、ついにミレトス地方へと足を踏み入れていた。
 自由都市ペルルークを発して、クロノス、そしてラドスと、解放軍はミレトス地方南部の都市を次々に解放していった。今や帝国の支配下にあるのは、内海に臨むミレトスの街のみ。

 ミレトスの戦いは苛烈なものとなった。
 大勢の暗黒魔道士がこの地に広がる森のあちこちに潜み、容易には見て取れない位置からフェンリルの魔法やスリープの杖を使ってくる。それに加えて、魔皇子とも呼ばれるユリウスがフリージのイシュタル王女を伴って、この地に姿を現したのだ。
 ユリウスとイシュタルの存在は、歴戦の勇たる解放軍にとっても、恐怖以外のなにものでもなかった。
 だが、天は解放軍に味方した。
 セティがサイレスの杖によってイシュタルの魔法を封じ、そこをラクチェが得意の剣技で切り伏せる。
 イシュタルが深手を負ったと知ると、ユリウスは解放軍には目もくれず、傷ついた彼女を抱き上げて、不可思議な移動魔法の力によっていずこかへと去っていった。
 いささかあっけない幕切れではあった。ユリウスとの対決もやむなしと、みな覚悟を決めていたからだ。だが何にせよ、強敵との戦いを避けられたことは幸いだった。解放軍はそのまま城門前へと軍を進め、一気にミレトス城を落とす。
 かくして、ミレトス地方は完全に解放軍の勢力下に収まった。

 ミレトス地方を掌中に収めたとなれば、次に向かうのは対岸のシアルフィだ。
 シアルフィ――この土地は、解放軍にとって特別な意味を持っている。
 かつてシアルフィは、バルドの末裔たる公爵家が支配する土地だった。だが、先の当主バイロン卿とその息子シグルド公子が『反逆』したことにより、シアルフィは帝国に召し上げられ、その直轄領となっていた。
 解放軍の盟主たるセリス皇子にとって、シアルフィは父の祖国だ。そして、スカサハとラクチェにとっても、シアルフィは父の生まれた土地――いまだ目にしたことのない、もうひとつの故郷だった。


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 激しい攻撃を凌ぎ切り、海峡を渡っていよいよシアルフィ城へと迫ろうとしていた時のことだった。別働隊を率いて住民の救助に当たっていたレンスターのアルテナ王女が、とある人物を伴って本隊に合流した。

「パルマークと申します。何とぞセリス様にお目通りを」

 そう告げる初老の聖職者を目にして、オイフェが驚きの声を漏らした。

「パルマーク司祭、ああ、ご無事でいらしたのですね」

 パルマークはいぶかるような表情で、セリスを守り育ててきた騎士に視線を向ける。

「あなたは……?」
「オイフェです。お懐かしい。アグストリア以来ですね」
「なんと……あのオイフェなのか」
「はい」
「いやはや、年月の流れというものは……あの少年が、これほど」
「パルマーク様もお元気そうで何よりです。謀反の疑いをかけられたあの時、アグスティに留まっていらした司祭様たちを置き去りにして、我々はシレジアへと逃げた。本当に申し訳ないことをいたしました」
「いえ……過ぎたことです。どうしようもなかったことは、私もよく存じておりますから」
「ずっと気がかりだったのです。ご無事でいらして本当によかった。そして、今はシアルフィにいらしたのですね」
「ああ、話せば長くなるが……だが、オイフェ――ああいや、オイフェ殿、まずはセリス様にお目通り願えないでしょうか。必ずセリス様にお渡しするようにと、預かっているものがあるのです」
「ああ、すみません。懐かしさのあまり、つい」

 オイフェは横に視線を移して、傍らに立つスカサハに声をかけた。

「スカサハ、私はセリス様にお知らせしてくる。その間パルマーク司祭のお相手を」
「はい」

 足早に立ち去るオイフェを見送ると、スカサハは傍らに立つ司祭に視線を移した。

「司祭様、何かご入用のものはありますか?」
「ああいや、特に今は。ただ、一緒にいた子供たちのことと、この預かりものが気になるばかりで」

 そう言って、司祭は自分の手の中にある布に包まれた細長い物体を示した。

「それは……?」
「大切な預かりものなのです。確実にセリス様にお渡ししなくてはなりません」
「そうですか」

 その包みを目にして、スカサハは警戒心を抱いた。
 形からして、包みの中にあるものはおそらく長剣だ。見たところ、パルマークは腕利きの戦士には見えないし、オイフェとも顔馴染みであるらしい。セリスを狙う刺客とは思えないが、武器を携えて盟主に近づこうとする者に対しては、警戒せざるを得ない。
 そんなスカサハに、パルマーク司祭は考え込むような様子を見せながら問いかけてきた。

「あなたは……その、イザークの方なのでしょうか? セリス様はイザークでお育ちになったということですが」
「スカサハと申します。母がイザークの出身なのです。セリス様とは幼い時から一緒に育ってきました」
「そうですか。なるほど」

 パルマークは相槌を打つ。そしてスカサハの顔にもう一度目をやると、何事かを考え込みながら、もう一度問いかけてきた。

「お母上はイザークの出身とおっしゃっていたが、お父上は違うのだろうか。あなたはその……昔、知っていた人に少し似ている気がして」
「ああ、父はグランベルの……シアルフィの出身だと聞いています」

 スカサハの答えを耳にして、パルマークははっとしたような表情を見せた。

「まさかとは思うのですが、あなたは……いや」

 言いかけて、パルマークは思い直したように口をつぐんだ。

「すみません。初対面の方に対して、身元を詮索するような真似を」
「いえ」
「何と申しましょうか。つい、考えてしまうのです。あなたは昔、私が知っていた方々と縁のある方なのではないかと」
「昔、知っていた方々……ですか」
「ええ。私はかつて、シグルド様に仕えておりました」

 そう前置きして、パルマークは自分とシグルドとの関係を語り始めた。

 パルマークはもともと、シグルド公子の父であるバイロン卿に仕える司祭であったという。シアルフィの城で、騎士たちの心と体の健康を守る役割を果たしていたらしい。
 シグルドはヴェルダンを攻め落とした後、国境の城エバンスの城主に任じられた。この時パルマークもまた、シアルフィを離れてエバンスで働くこととなった。そして、シグルドがアグストリアに駐屯していた頃も、やはりシグルドに従ってアグスティ城へと移っている。だが、シグルドが反逆者の汚名を着せられてシレジアへと逃れたとき、本城で留守居を務めていたパルマークは脱出することがかなわず、そのまま捕らえられて身柄を拘束された。そして、紆余曲折を経て今日まで生き延び、シアルフィの地で人々を守ってきたのだという。

「では司祭様は、シグルド公子や、そのそばにあった人々のことを、よくご存知なのですね」
「そうですね。もう二十年近く昔のことになりますが、あの頃のことは今も鮮やかに記憶に残っております。良い時代でした……苦しいことも多くありましたが」

 ではこの人は、自分の父母のことだって知っているに違いない。
 思い切って訊ねてみるべきだろうか。いいや、今はそういった私的な話をすべき時ではない。だが……

「スカサハ」

 思案しているスカサハに、背後から声をかけた者があった。
 振り返ったスカサハは、そこに双子の妹の姿をみとめた。

「ラクチェ?」
「こんなところにいたのね。戦闘が終わってから見かけてなかったから、どうしているかと思った」
「ああ、オイフェさんと一緒だったんだ。今はこちらの司祭様に付き添ってる」
「そうだったんだ」

 そう答えると、ラクチェはスカサハの横に立つパルマークに視線を移し、軽く目礼した。

「あなたは……」

 パルマークは驚愕の表情を浮かべて絶句する。だがすぐに、あわてた様子でラクチェに礼を返した。

「ラクチェです。スカサハの……妹です」
「そうでしたか。いや失礼。昔知っていたある方に、あまりにも似ていらしたので」
「私に似た人……ですか?」
「ええ。イザークのアイラ。アグストリアにいた頃、存じ上げておりました。もしやあなたは……」
「アイラの娘です。でも、いったい?」
「ああ、やはり。あなたはお母上に……本当によく似ておられる。あの方がお若いままの姿で目の前に現れたかと思うほどに」

 そのとき、オイフェが戻ってきて、パルマークに声をかけた。

「司祭様、セリス様がお会いしたいとおっしゃっています。どうかこちらへ」

 その言葉に従って、パルマークはオイフェの傍らに歩み寄る。だが、歩き出しかけたところで振り返り、スカサハたちに話しかけてきた。

「スカサハ殿、そしてその妹御も。あなたがたには懐かしい人々の面影がある。後でまたお話ししたいものだ」
「はい、司祭様。ぜひに」

 そうスカサハが応えると、パルマークは深くうなずいて前に向き直り、オイフェとともにセリスの待つ本陣へと歩み去っていった。

「スカサハ、あの司祭様はいったい?」

 不思議そうな顔でラクチェが問いかけてくる。

「ああ。シアルフィのひとで、アグストリアの頃までシグルド様に同行していた方らしい。だから母さんのことを知っていたんだろう」
「そっか……なるほどね」

 うなずいてから、ラクチェが感慨深そうな声で言った。

「わたし、そんなに母さまに似てるんだ」
「ラクチェ?」
「うん、知らないわけじゃなかったけど。オイフェさんやシャナン様がいつも言ってるし、それにほら、前にイザーク城で見たでしょ、母さまの肖像画」
「ああ、そうだったな」
「あれを見て、たしかに似ているなって思った。でもこうやって、昔の母さまを知っている人から直接言われると……なんて言うんだろ。ああ、本当にそうなんだなって」

 そこで言葉を切ると、ふと思いついたように、ラクチェは再び訊ねかけてきた。

「そう言えば、あの司祭様はシアルフィのひとなのよね?」
「そうおっしゃってたな」
「じゃあ、父さまのことを知っているのかな」
「たぶん知ってるんじゃないかな。シアルフィのお城に住んでいたこともあるらしいから」
「あの人、後でまた会いたいって言ってた」
「うん」
「聞いてもいいよね……父さまのこと」
「ああ、そうだな」

(そうか。ラクチェもやはり、父さんのことを考えていたのか)

「ラクチェ」
「うん?」
「覚えてるか、父さんの手紙」
「忘れるわけないじゃない」
「イザークとグランベル、ふたつの国の狭間に生まれた俺たちが、どちらの国も愛することができる、そんな世界になって欲しいから、自分は戦いに赴くのだと。父さん、そう書いていた」
「ええ」
「俺たちはシレジアで生まれてイザークで育った。シアルフィは知らない土地だ。どんなにオイフェさんが話してくれても、自分では来たことのない場所だったから。けど俺たち、今、父さんの国にいるんだな」
「そうね……」


*****************


 セリスと対面したパルマークは、自分の持ってきた『預かり物」を差し出した。布にくるまれたその品は、スカサハが見立てたとおり、一振りの長剣だった。
 聖剣ティルフィング。バルドの家系に伝わる神器である。
 解放軍の者たちは、なぜパルマークがこの剣を持っていたのかといぶかしんだ。だが、パルマークはただ『さるお方との約束で仔細は話せない』と言い張るばかりで、それ以上は何も語ろうとしなかった。
 それでも、その剣がティルフィングであることは間違いなかった。たしかに見覚えがあるとオイフェが証言していたし、セリス以外の者では、振るうことすらままならなかったからだ。
 ティルフィングは魔から身を守り、闇を払う聖剣だと言われている。シアルフィ城で待ち受けている皇帝アルヴィスは、神器ファラフレイムを携えているに違いない。絶大な魔力を誇るファラフレイムにまともに対抗できるのは、同じく神の力を宿した神器に限られるだろう。聖剣ティルフィングはまさに、皇帝を討つにあたって必要な武器だった。
 シアルフィの城門が破られると、セリスは聖剣ティルフィングを手に、自ら城の奥深く踏み込んで皇帝アルヴィスの姿を追った。付き従うのは魔剣ミストルティンを手にしたアレスにデルムッドとナンナの兄妹、それにオイフェだった。
 皇帝は謁見の間でセリスを待ちかまえていた。仲間に支えられながら、セリスは自らの手で宿敵アルヴィスにとどめを刺したのだった。
 かくして、グランベル帝国皇帝アルヴィスは打ち倒された。セリスは父の仇を討ち果たすと同時に、父の故郷であるシアルフィを奪還したのである。


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 シアルフィ解放の三日後のことである。パルマーク司祭がスカサハとラクチェに会いたがっていると、セリスが伝えてきた。
 どのような用向きなのだろう。疑問を抱きながらも、スカサハには期待するところがあった。
 もしかしたら、自分たちの両親と関わりのあることなのではないか。
 パルマーク司祭はシアルフィの出身で、シグルドがアグストリアにいた頃までは行動を共にしていたのだと言っていた。先日顔を合わせたときも、ラクチェの中に母の面影を見ていたようだ。

 スカサハとラクチェには懐かしい人々の面影がある。司祭はたしかにそう言っていた。
 ラクチェは母に似ている。だが、スカサハはどうなのだろう。
 昔のことを知る人は、スカサハの中に誰の面影を見いだすのか。
 大抵の人は、スカサハをイザーク人として扱う。スカサハ自身もそのことに違和感はない。
 けれども、自分はラクチェほど母と似ているわけではない。そのこともよく知っている。
 ならば司祭がスカサハの中に見いだしたのは、もしかしたら。


「お呼びたてして申し訳ない。ですが、あなたがたとはもう一度ゆっくりお話ししたいと思っていたのです」

 シアルフィ城の一室で、スカサハとラクチェはパルマーク司祭と対面した。
 スカサハたちが入ってくるのを見ると、先に部屋の中で待っていたパルマークは椅子から立ち上がり、深々と一礼する。
 双子たちが椅子に着いたのを見届けると、パルマークはすぐさま本題に入った。

「オイフェ殿に伺いました。あなたがたの父上はシアルフィの騎士ノイッシュなのだと」
「はい」
「実は……初めてお会いしたときからそうではないかと思っていたのです。こうしてもう一度お会いすることができて本当によかった」
「司祭様は、父のことをご存知なのですか?」
「よく存じ上げております」

 ああ、やはり。
 パルマークの言葉は、双子たちの期待したとおりのものだった。
 パルマークは父を知っている。そして、そのことを話すために、こうして双子たちに声をかけてきたのだ。

「あなたがたにお目にかかりたいと思っていたのは、会っていただきたい方がいるからなのです」
「それはいったい?」
「帝国との戦いで、ノイッシュ殿のお身内はほとんど亡くなられています。ですがノイッシュ殿の母上――あなた方から見ればおばあさまにあたる方ですね――この方だけはご健在で、今でもこのシアルフィの郊外で暮らしておいでです。お忙しいのは存じております。ですが、王都に向かわれる前に一度、この方に会っていただけないでしょうか」

 双子たちは思わず顔を見合わせていた。
 シアルフィが父の故郷であることは知っていた。だが、父の親族が今も健在で、ここで暮らしているとは思っていなかったからだ。

「ぜひともお願いします」

 スカサハがそう答えると、パルマークは満足そうにうなずいた。

「すぐに向かわれますか? 城からは多少離れたところにお住まいですが……馬を使えば日帰りできるかと思います」
「ええ。先方に不都合がないようでしたら、すぐにでも」
「それは大丈夫でしょう。では、支度を整えて向かいましょうか」


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 すぐさまに馬が用意され、三人はさっそく目的の場所を目指して出発した。
 双子たちは騎乗して戦うことこそないが、馬の扱いはひととおり習っている。だが、パルマーク司祭もまた、なかなかに巧みな乗り手であったと知って、いささか驚いていた。

「若い時分に覚えたのですよ。遠方への移動が多いならば、馬に乗れたほうがなにかと便利ですから」

 双子の視線に気づいたのだろう。パルマークは笑みを浮かべてそう言った。

 パルマークに導かれて、双子はシアルフィの城下を進む。
 壊れた家屋や何かが焼け焦げた跡などが、かしこに見うけられる。先日の戦の爪痕は、決して浅くはないようだ。
 けれども、シアルフィの城下街はこれまで遠征の中で通過してきた街と比べて、格段に豊かで安定しているように見えた。戦が終わってからまだ日も浅いのに、ごく普通に商売が営まれているし、浮浪者らしき者の姿もほとんど見当たらない。
 もともと豊かな土地だったのか。それとも――帝国の統治は、この土地では思いの外に行き届いたものだったのか。

 城下を取り囲む壁を越えると、田園風景が広がっていた。春の終わりの青空の下、丈高く伸びた麦は、すでに色づき始めている。麦の穂に混じって、ところどころで緋色のひなげしが風に揺れる。生まれ育ったイザークでは目にしなかった光景だ。
 イザークにも麦畑ならある。だがこんなふうに、うららかな日差しの下に、風に波打つ麦の穂が一面に広がっているような風景はなかった。イザークは山がちで冷涼な土地だ。作物を植えて恵みを得るよりも、丈の低い草に覆われた草原で放牧を行うことをもっぱらとしているからだ。
 比べると、ここシアルフィはなんと豊かな土地なのだろう。

 北トラキアに足を踏み入れた時にも同じことを感じた。グランベルや北トラキアは、その土地からして豊かなのだ。こういう土地でならば、人々は飢えや貧しさに怯えることなく、心豊かに暮らせるに違いない。
 ふと、ドズルのヨハン王子のことが思い出された。
 イザークで解放軍に加わって以来、ヨハンはずっとラクチェに付きまとっていた。最初はうっとうしそうにあしらっていたラクチェだったが、いつの間にかその傍らに寄り添うようになっていた。
 おそらくは、そう、トラキアの戦いの頃からだったろうか。
 気づき始めた当初、スカサハはこの事態を受け入れがたいと感じていた。だが、ヨハンと妹の様子を見続けるうちに、しぶしぶながらも受け入れざるを得ないと思うようになっていた。
 このまま行けば、彼を義弟と呼ぶことになるだろう。まあそれも、そんなに悪い話ではないかもしれない。
 ヨハンはイザークで生まれ、グランベルで育った。自分やラクチェと同様に、彼もまた、ふたつの故郷を持つ者なのだ。
 彼は戦斧を振るうことを厭わないが、同時に愛を賛美し、詩を好む。ヨハンの作る詩が良いものなのか悪いものなのか、正直スカサハには判断できないし、彼が本音の部分で何を考えているのか、いまだにつかみかねている。
 けれども、気づいたことがある。
 口では冗談めかしたことを言っていても、ヨハンは本質の部分ではとても真面目だ。かくあるべしという理想を抱いているがゆえに帝国から離反したが、今でもドズル家の一員としての誇りを保ち続けている。
 彼のそういった、ただ荒々しいばかりではない気質は、グランベルの豊かな風土によって育まれたものなのかもしれない。


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 道なりに馬を進めると、やがて小さな街にたどり着いた。パルマークに先導されるままに、一行は町並を抜けてさらに先へと向かう。
 中央広場を行き過ぎて、北へと向かう坂を上りきったあたりに、その家はあった。
 茅葺の屋根に漆喰で固められた白い壁。街中で見かけた家々とは違い、農夫の家にも似た素朴なつくりだ。庭をぐるりと取り巻いている生垣は、おそらくはサンザシだろう。今を盛りと一面に咲きほころぶ白い花のあいだを、蜜蜂たちが気だるい羽音を立てて行き交っている。
 門をくぐったところでパルマークは馬から降りて、脇にある馬留めに馬を引いていった。双子も司祭に倣って、横木に馬を繋ぎとめる。
 ふたりが馬を繋ぎ終えたのを見届けると、司祭は玄関へと向かった。そして、扉の脇に吊り下げられた小さな鐘をそっと鳴らす。
 コォォン、と、深みのある鐘の音色が響き渡り、程なくして扉が開き、使用人らしき身なりの若い娘が一行の前に姿を現した。

「司祭様でいらっしゃいましたか」

 娘はパルマークに向かってうやうやしく頭を下げた。

「ああ。奥方様にお伝えしてくれないか。先日お話しした方々をお連れしたと」
「承りました」
「ああ、それと。我々は馬で来た。できれば馬の世話を頼みたいのだが」
「はい。厩番に伝えておきますね」

 そう答えながら、娘は司祭の背後に立つスカサハたちを興味深そうにちらりとうかがい見た。だが、視線を向けたのはほんの一瞬のこと、娘は優雅な仕草で一礼すると、屋敷の中へ入るよう、一行を促した。
 娘は部屋の奥に置かれたテーブルに一行を案内すると、「しばらくお待ちください」と言い残して、奥の間へと立ち去っていった。

「お待たせいたしました」

 ややあって、簡素なドレスに身を包んだ小柄な年配の貴婦人が、奥の間から姿を現した。その後には、先ほどの小間使いの娘が飲み物の載った盆を携えて従っている。

「奥方様」

 パルマークは椅子から立ち上がると、老婦人に向かって頭を垂れた。スカサハとラクチェもあわてて司祭に倣う。

「ああ、そんなにかしこまらないで」

 老婦人は気取らない調子でそう言うと、腰を下ろすよう手で指し示す。その指示に従って席に着いたところで、パルマークが口を開いた。

「先日お話しした方たちを案内して来ました。奥方様」
「では、この子たちがノイッシュの」

 老婦人は双子にまっすぐな視線を向けてきた。

「忙しい中、よく来てくれましたね。本当は私のほうがお城へ行くべきだったのでしょうが……ごめんなさいね。年を取ると遠出するのがどうも億劫で」
「いえ、そんな」
「司祭様からお話を伺って以来、ぜひとも会いたいと思っていたの。あなたたちのほうから来てくれるなんて、なんて嬉しいこと」

 そう言うと、老婦人はにっこりと笑いかけてきた。
 曇りのない笑みだ。儀礼や気遣いではなく、この人は本心から自分たちに会いたいと思ってくれているに違いない。なぜかそう確信できた。

「ありがとうございます。私たちもお会いできて嬉しく思っています。父にゆかりのある方と会えるとは思っていなかったので……おばあさま」

 祖母に当たるこの貴婦人をなんと呼べばいいのだろう。迷いつつも、スカサハは老婦人に向かってそう呼びかけた。

「あ……そうね。そうなのね、私、あなたたちのおばあちゃん、なのね」
「すみません。失礼だったでしょうか」
「いいえ、とんでもない。ただ、期待していなかったから。私に向かって『おばあさま』と呼びかけてくれるひとがいるなんて。身内の者はもう、みんな亡くなってしまったと思っていたの。上の子は結局子供を残さなかったし、ノイッシュも……そうね、あまり浮いた話もない子だったから。シレジアに行ってしまってからはずっと音信不通だったでしょう。まさか今になって、こんなふうに孫と会えるなんて」

 思わず双子は顔を見合わせていた。
 祖母は父と母が結ばれたことを知らなかったのか。
 以前、オイフェに聞いた話によれば、アグストリアにいた頃にはすでに父と母は恋仲だったらしい。もっとも、婚姻の絆を結んだのはシレジアに亡命してからだと言うことだが。
 アグストリア滞在中は、まだ連絡が途絶えたりはしていなかったはずだ。わざわざ知らせるまでもないと思ったのかもしれない。けれども、それ以外にも理由があった可能性もあるかもしれない。
 たとえば、母はイザーク人だ。そのことが障害になっていたのだとすれば……
 不安に駆られながらスカサハは訊ねた。

「その……おばあさまは不快に思っておいででしょうか」
「え?」

 きょとんとした顔で祖母は聞き返してくる。

「私たちの母はイザーク人です」
「ええ、そうね」
「グランベルには、イザークの人間を蛮族と呼んで賤しめる方もいると聞いています。それに、イザークとグランベルは、かつて戦争状態にありました。遺恨を抱く方も……いらっしゃるのではないかと」

 祖母は軽く息を呑み、スカサハをじっと見つめる。

「……そうね」

 祖母はそうつぶやいて、膝元に視線を落とす。そのまましばらく考え込んでいたが、やがてすっと顔を上げ、静かな声で話し始めた。

「私の長男は……つまり、あなたたちの伯父にあたる人は、イザーク遠征に参加して、行方知れずになりました」

 そのことはスカサハも知っていた。父の残した手紙にも、同じことが書かれていたからだ。
 ノイッシュの兄は、主君であるシアルフィ公爵バイロンに従ってイザーク遠征の軍に加わっていたのだという。瀕死のバイロン卿がシグルド公子率いる軍勢と合流した時、ノイッシュの兄は同行していなかった。状況から鑑みて、もうすでに亡くなっていたのだろう。そう父は記していた。

「イザークの方々にわだかまりを抱いていたことも……なかったわけではないの」

 双子たちの表情が強張ったことに気づいたのだろうか。祖母はふと目元を緩め、穏やかな声で言った。

「でもね、それはもう昔の話。だって、イザークの人々は、セリス様やあなたたちを受け入れて、ずっと守り育ててくれた。それにあなたたちのお母さまは、あの子が望んで結ばれた相手。感謝こそすれ、憎み、さげすむような相手ではない。むしろありがたいし……畏れ多くすらある。だって、あなたたちのお母さまは、イザークの王族、オードの血脈に連なる方なのでしょう?」
「はい」

 答えるスカサハにうなずき返して、祖母はさらに言葉を続けた。

「私は……そしてあの子も、聖戦士の血筋などとは縁遠い生まれです。あの子は騎士として、いいえ、ひとりの人間として、ひとかどの者に育ってくれたと思うけれど……尊い血を引く方の伴侶になるには、そうね、分不相応だったはず。平和なときならば、こうした縁を結ぶことはなかったでしょう」

 ああ、そうなのか。
 父と母の国が対立関係にあったことは理解していたし、常に意識していた。けれども、父と母の間に身分の隔たりがあったことには、あまり気づいていなかった。
 平和なときならば結ばれることのなかった、分不相応な相手。たしかにそのとおりなのだろう。だが、だとすれば、グランベルとイザークの間に戦がなければ、父と母が結びつくこともなく、自分たちが生まれてくることもなかったのだろうか。

「だからね、私があなたたちに不満を抱くなど、あるはずない」
「……安心しました。そう言っていただけて」

 スカサハはほっと胸を撫で下ろした。
 実際のところ、祖母は複雑な思いを抱えているに違いない。それでも目の前に現れた孫と名乗る者たちに対して、反感ではなく、肉親としての情を示そうとしてくれている。そう考えてよさそうだ。

「おばあさま、私たちは父母のことを覚えていません。父母と別れてイザークへ向かったとき、私たちはまだ一歳にもなっていなかったのです。ですが別れ際に、父はオイフェさんに手紙を託していました。私たちが大きくなったら読めるようにと。その手紙の中に、父は書いていました」

 スカサハは祖母に目を据えたまま、父の手紙をそらんじた。
 父の手紙なら、もう暗記している。十三歳の夏、オイフェから受け取ったあの日以来、何度となく読み返してきたのだから。


 ――君たちはイザーク王女アイラの子供だ。イザークの地で生きていくにあたって、母の名は大きな意味をもたらすだろう。だが同時に、グランベルの騎士の子であることは障害となるかもしれない。だから、父の家名を名乗ってくれとは望まない。けれども心の片隅に留めおいていてくれないだろうか。シアルフィもまた、君たちの故郷なのだと。そして願わくば、イザークとグランベルの架け橋となるような人生を歩んで欲しい。
 グランベルとイザークは、不幸にして相争った。だがその遺恨を後の世代に残したくはない。君たちがふたつの故郷をふたつながらに愛することができる、そんな世の中をもたらすために、オイフェに君たちを託して、私は戦に赴くつもりだ。


 祖母はじっと耳を傾けていた。スカサハが語り終えてもなおしばらくの間、祖母は沈黙を保ったまま、孫たちを静かにただ見つめていた。

「……あの子がそんなことを」

 ぽつりとそう呟くと、老婦人はそっと目頭を拭った。

「どう言えばいいのかしら。とても……嬉しいの。あの子が……人間としてとてもまっとうなことを子供たちに書き残していたことも、あなたたちがあの子の手紙を大切にしてきてくれたことも」
「あの……おばあさま。今日、父の手紙も持ってきているんです。ご覧になられますか?」
「……構わないのかしら」
「ええ、もちろん」
「では、見せてもらっても」

 スカサハは鞄から封書を取り出すと、椅子から立ち上がって祖母に歩み寄る。スカサハの差し出した手紙を受け取ると、祖母は表書きをじっと見つめた。

「あの子の筆跡……ああ、本当に」

 そう呟くと、祖母は封筒の中から手紙を取り出して、さっと目を通していく。

「あの、よろしければ差し上げます。それ」
「……え?」
「私たちはもう覚えていますから、中身」
「ありがとう。でも、気持ちだけをいただくことにしておくわね」
「ですが」
「この手紙ね、最後のところに印章が押されているでしょう? 封筒も……最初はたぶん封蝋が押されていたのよね?」

 そう指摘されて、双子は改めて老婦人の手の中にある手紙を見つめる。
 たしかに祖母の言うとおりだ。手紙の末尾には父の個人紋と思しき印章が記されている。封蝋は最初に封を切ったときに剥がれ落ちてしまったが、やはり同じ印章が押されていたと記憶している。

「これは、ただあなたたちに言葉を届けるためだけに書かれたものではない。あなたたちの身元を証明するために用意されたものでもある。この手紙があれば、あなたたちはシアルフィの騎士ノイッシュの子供としての権利を主張することができるわ。昔の法律がまだ生きていればの話、ではあるけれど」

 祖母は軽く息をつき、言葉を続けた。

「イザークの王族でもあるあなたたちにとっては、さほど意味のないことかもしれない。けれどね、昔は我が家にもそれなりの財産と封土があった。今はもう、帝国にほとんど取り上げられてしまったけれど。でも、もしそのまま残されていたら、他に継ぐべき者もいないから、あなたたちが相続することになったでしょう」
「父は……そういったことを考えて、この手紙を」
「そうね……遺産云々はともかくとして、こういった文書があれば、嫡出子であることの証明にはなるはず。身元の保証といったものは、騎士の社会では決して無意味ではないから」

 そう言われてみて、スカサハは気づいた。
 父がオイフェに預けたのはこの手紙と鋼の剣だが、どちらにも紋章が入っている。おそらく父は、公の場で身元を証明できるようなものを、意識して選んだのだろう。

「ああでも、なんてあの子らしいのだろう。戦場に向かうにあたって、あなたたちに何を残していけるのか。そう考えた末に、この手紙を書いたのでしょうね」
「その、父は……おばあさまから見て、どんな人物だったのでしょう?」
「ああ、あなたたちはノイッシュのことを覚えていないのね」
「すみません」
「詫びることなんてないわ。まだ赤ちゃんだったのだもの、当然よ」

 でも、何を話せばいいのかしら。そう口の中で小さくつぶやいて、祖母は小首をかしげた。そうやってしばらく考え込んだ後、ぽつりぽつりと静かな声で語り始めた。

「ノイッシュはとても真面目な子だったわ。ただ、真面目すぎて、ちょっと融通の利かないようなところもあった。優しい子で……だから、戦いには向いていないんじゃないかと心配したこともあったけれど、騎士としての務めはきちんとこなそうとしていたはず。ヴェルダンとの戦いが始まってからは責任ある立場を担うことになって……でも、その頃のことは、パルマーク様やオイフェ様のほうがよくご存知でしょうね。私がよく知っているのは、子供の頃のあの子。せいぜい騎士の叙勲を受けたばかりの……そう、今のあなたたちくらいの年頃までかしら」

 そこで祖母は言葉を切り、ふと考え込むような様子を見せた。

「ああ、そうだ。少し待っててくれる? あなたたちに見せたいものがあるの」

 そう言うと、祖母は椅子から立ち上がって、ゆっくりと隣の部屋へと移っていった。
 ややあって、祖母はふたたび双子たちが待つ部屋へと戻ってきた。掌よりも少し大きい四角い額のようなものを胸元に押し付けて、しっかりと抱え込んでいる。

「これを」

 祖母は双子に木枠の額に収められた絵を差し出す。
 ラクチェがそわそわしながら、請うような視線をスカサハに投げかけてきた。スカサハは妹と視線を合わせ、受け取るようにと目配せした。
 ラクチェは祖母からその絵を受け取ると、スカサハの横に寄り添う。双子は肩を並べて、ラクチェの手の中にある小さな絵を見つめた。
 ごく若い男の肖像画だ。細かな筆致で、写実的に描かれている。
 絵の中の青年は、鞘に入った剣を左手に捧げ持っていた。髪は明るい金髪で、うなじにかからない程度の長さに切りそろえられている。瞳の色は明るいヘイゼルグリーン。いかにも生真面目そうな眼差しは、まっすぐに正面に向けられている。

「あの子の……ノイッシュの肖像画よ。叙勲を受けた記念に描かせたものなの」
「父さまの……?」

 問いかけるラクチェにうなずき返すと、祖母はさらに言葉を続けた。

「ええ。十八歳の時の。昔住んでいた館には、もっと大きな絵もあったのだけど……館ごと没収されてしまったから。これは小さいものだから、どうにか手元に残せたの」

「父さま……もしかして、スカサハに似てる?」

 横でラクチェがぽつりとつぶやいた。

「そうね。私もそう思うわ。目の色も髪の色も違うし、体格だって違う。でもどこか……似ているわね」
「奥方様もそう思われますか?」

 不意に、今まで沈黙を保っていたパルマーク司祭が口を挟んだ。

「ええ。もしかして司祭様も」
「はい。最初にスカサハ殿とお会いしたとき、どことなく面影を感じまして……後でオイフェ殿から事情をうかがっておおいに納得したのです」
「そんなに……似ているでしょうか」

 不思議そうに問いかけるスカサハに、祖母は軽くうなずき返す。

「そうね。決して瓜二つというわけではないのだけど、雰囲気というか表情というか、そういったものがどことなく。それに、声がね、少し」
「声……ですか」
「ええ。不思議ね。あなたたちにはあの子の記憶はないというのに、声とか、仕草とか、表情とか、そういったものがあの子と重なるなんて」

 そんなこともあるのだろうか。
 顔のつくりは天から授かったものだ。同じ血を引いているなら似ていてもおかしくはない。しかし、仕草や表情は、その人と身近に接しているからこそ似るのではないか。だからそういったものが似ているというのは、祖母がスカサハの中に自分の息子との相似を見いだしたいと願っているだけで、事実ではない可能性も高い。けれども本当に大切なのは、実際にどうかということではなく、似ていると感じられることなのかもしれない。
 改めてスカサハは、父の肖像画を見つめる。
 整った顔立ちに、引き締まった表情。身に着けている衣装は式典で身に着けるような服、いわゆる礼装なのだろう。金糸銀糸を使用して美麗な刺繍をほどこした、いかにも西方の騎士らしい装いだ。
 髪の色も目の色も服装も、自分とはずいぶん違っている。顔も――鏡でたまに見る程度だから、はっきりとはわからないが――さほど似ている気はしない。けれども、この場に集う人々は、スカサハと父は似ているという。ならばきっと、どこかに面影があるのだろう。

「その絵はあなたたちに差し上げるわ。もしよければ、だけど」

 祖母の申し出に、ラクチェが驚いたように言葉を返す。

「いいんですか?」
「ええ。私は憶えていますもの。あの子の姿なら、はっきりと。でも、あなたたちにはよすがとなるものがないから」
「でも……」
「それにきっと、あの子だって喜んでくれるはず。こんな手紙を遺していたのですもの。あなたたちに自分のことを知って欲しいと望んでいたに違いないわ」
「ありがとうございます」

 きっぱりした声でスカサハが応えた。驚いたような表情で、ラクチェは兄を見やる。

「スカサハ、でも、それだとおばあさまが」
「いいのよ。私はもう、十分もらうべきものをもらった。だから、せめてあなたたちに贈れるものがあれば」
「喜んで受け取らせていただきます。感謝します、おばあさま」

 そう言ってスカサハは祖母に頭を下げた。一礼した後、顔を上げ、考えをめぐらせながら言い添える。

「父のことは、これまでもオイフェさんが聞かせてくれていました。人となりなら、それなりに知っていたと思います。ですが、その声も、その顔も、私たちの記憶にはありませんでした。けれども今日、おばあさまのおかげで、今まで知らなかったものに形を与えることができました」

 スカサハの言葉に祖母はうなずく。

「あなたたちの役に立てたなら……これほど嬉しいことはないの。これからも、何か私でできることがあれば、遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます。今は特には。ですが、何かあれば、そのときは必ず」
「ええ」

 そう応えると、祖母はふわりと微笑んだ。改めてその顔を真正面から見て、スカサハはふと気づく。
 祖母の瞳の色は父と同じだ。おそらくは髪の色も。祖母の髪には白いものが多く混じっているから絵の中の父ほど鮮やかな色には見えない。だが、若い頃にはきっと、父と同じような豊かな金の髪をしていたことだろう。

(そうか。血の繋がりとは……こういうものなのか)

 言葉によって伝わるものがある。けれども目で見ることによって、初めて気づくものもある。
 スカサハは眼前の老婦人に深々と頭を下げた。


*****************


 玄関から外へ歩み出ると、日はすでに傾きつつあった。
 すぐ出立すれば、日暮れをあまり過ぎることなく城に帰り着けるはずだ。祖母は宿泊を勧めてくれたが、次の戦の準備もある。スカサハたちは感謝を述べながらも、祖母の申し出を断った。
 まだ陽光は明るいが、地面に落ちる影は淡くて長い。遠からず日暮れが訪れるだろう。
 生垣に咲くサンザシの白い花の間を飛び交っていた蜜蜂たちは、今はもうすっかり姿を消していた。その代わりと言うべきか、ほんのりと緑がかった白い蛾が一匹、ふわりふわりと空中を舞っている。
 見知らぬ土地の、見慣れない情景だ。けれども、この日暮れ前の空気には、何か懐かしいものが含まれているような気がする。
 この家は父の生家ではないのだと祖母は言った。ただ、祖母の実家であるこの家を、子供時代の父はしばしば訪れていたのだとも。
 ほのかに漂う甘い花の香り、温かくて柔らかな風。生まれ育ったイザークでは、味わうことのなかったものばかりだ。
 けれどもきっと父にとっては、これらはすべて馴染みあるものだったのだろう。


 自分の中に父の面影を見いだす人がいる。
 ここは父の生まれ故郷、父を知る人々がいる国だ。
 見知らぬ土地でありながら、縁ある人々の住まう場所。
 話でしか聞いたことのなかったもうひとつの故郷は、たしかにここに実在していた。


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written by S.Kirihara
last update: 2018/09/02
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