もうひとつの故郷(前)
夏至の夕べのことだった。スカサハとラクチェはオイフェに呼び出されて、ティルナノグの館の書斎へと向かっていた。
オイフェがなぜ自分たちを呼び出したのか、スカサハはわかっているつもりだった。去年の夏至の夕べ、オイフェは同じようにセリスを呼び出して話し込んでいたからだ。
セリスは去年の初夏、十三歳に達した。これを機にと、オイフェはセリスの父であるシグルド公子について、さまざまなことをセリスに聞かせたらしい。このとき同時に、やはり十三歳に達したレスターが、母であるエーディンから大人の心得とでも言うべきものを聞かされていたようだ。
十三歳になる年の夏至の日は、大人へと一歩踏み出す日。年長者から大人としての心得を聞かされて、自分の親の話を教えてもらえる――そういう心づもりが、ティルナノグの子供たちにはできあがっていた。
「ああ、来たね。スカサハ、それにラクチェ」
扉を開けて室内に入ってきた双子を見て、オイフェはにこやかに声をかけた。
「君たちはもうすぐ十三歳になる。これを機に、託されていたものを渡しておきたいと思ってね」
「託されたもの……ですか?」
ラクチェがそわそわした様子で訊ねかける。
「そうだ。リューベックを発ってここイザークに向かう前に、君たちの父上と母上から預かったものがある。大人としての分別がつく年頃になったら、渡してほしいと頼まれて」
オイフェは一通の封書を机の上から取り上げて、スカサハに差し出した。
「これは君たちの父上――シアルフィのノイッシュから託された手紙だ。何が書いてあるのか私は知らない。この十二年、封を切らずにただ保管してきたのだ」
スカサハはオイフェの差し出した封書を受け取ると、しげしげとその表書きを眺めた。ラクチェも首を突き出して、横合いから覗き込んでくる。
封書には丁寧に漉かれた上質な紙が使われていた。表には整った字体でスカサハとラクチェの名が記されている。裏返すと赤い封蝋の上に印章が押されていた。剣を基調にしたもののようだが、あまり見慣れない意匠だ。父個人の紋章なのかもしれない。
封を切ろうとしたところで、オイフェが押し留めた。
「ああ、読むのは後にしなさい。今は他にも用事があるのだ」
そう言って、オイフェはまずラクチェに向き合うと、掌に収まるような小さな箱を差し出した。
問いかけるようなまなざしを向けるラクチェに、オイフェは微笑を浮かべならうなずいた。
「君の母上から預かっていたものだ。開けてごらん」
促されるままにラクチェは箱のふたを開ける。
中に入っていたのはひとそろいの耳飾りだった。虹色の光沢を持つ小さな乳白色の宝石がひと粒、金色にきらめく台座に嵌め込まれている。
「これって……」
不思議そうな顔で問いかけるラクチェに、あふれんばかりの笑みを浮かべてオイフェが答えた。
「ああ、懐かしいな。アイラ様が身に着けていたのを確かに覚えている。黄金の台座に、石はおそらくは……蛋白石だろうか。小さいが、なかなかに高価なものだろうな」
「母さまの耳飾りなんですね」
そう言って、ラクチェは耳飾りをつまみ上げ、目の前にかざした。
石は机の上に置かれたランプの光を受け、きらきらと輝く。
「きれい……」
ラクチェは目を細めて、魅入られたように宝石を見つめている。
珍しいことだとスカサハは思った。
ラクチェは普段、花や宝石、きれいな衣装といったいわゆる『女らしい』ものに興味を示そうとしない。と言うよりは、そういったものを避けているような節がある。それが今、母の形見であるという耳飾りを、嬉しそうに眺めている。
「母さまはいつもこれを?」
「ああ、おそらく」
オイフェはうなずいた。だが、うなずいた後で、自信なさそうにつけ加える。
「ただ、小ぶりであまり目を引くものではないから、正直、はっきりとは覚えていないのだ。なにせ、私はこういったことには不調法で。すまないね、エーディンに訊ねてみた方がいいだろう。着け方や手入れの方法、そういったことも含めて、いろいろ教えてくれるのではないかと思う」
オイフェにうなずき返すと、ラクチェは大切そうにそっと耳飾りを箱にしまった。
「さてスカサハ、君にはこれを」
そう言ってオイフェは脇にある机の上から、ひとふりの剣を取り上げた。
「君の父上が使っておられた剣だ」
スカサハは手にしていた封書を脇に置くと、背筋を伸ばしてオイフェとまっすぐに向き合った。そして両手を差し出して、押し頂くようにして剣を受け取った。
飾り気のない鞘に、機能的な柄。柄の付け根に刻まれた紋章以外には、これと言った装飾は見当たらない。柄の紋章は、手紙の封蝋に押されていたものと同じように見える。
スカサハは右手で柄を握り、鞘を払う。
銀色に光る刀身があらわになった。錆びや刃こぼれは見あたらない。何度となく研ぎ直されてきたのだろう。刀身はいささかすり減っているようにも思える。
スカサハが使い慣れている大剣よりも小ぶりだ。盾とともに使う、騎士の剣なのだ。
「これは……」
「鋼の剣だ。シアルフィを出て以来――ああいや、それ以前からかな――ずっと使っておられたように記憶している。他にも武器はあったはずだが……我が子に託す剣として選んだのは、自身の紋章が刻まれたこの剣だったのだろう」
改めて剣を見つめるスカサハの耳に、ラクチェのつぶやきが聞こえてきた。
「いいな……わたしも剣がよかった」
振り向いたスカサハは、双子の妹が拗ねたような表情でこちらを凝視しているのに気づく。
「お前だって……ちゃんと母さまの耳飾りをもらっただろう?」
「それはそうだけど……でも、わたしは剣が欲しい」
「でも、俺が女物の耳飾りをもらったって……」
「母さま、わたしにも武器を用意してくれてたらよかったのに」
ラクチェの言葉を聞きつけたオイフェが、ため息をつきながら、いかにも困ったという様子で漏らした。
「ふむ……実は、アイラ様から預かった武器もあることにはあるが」
「えっ、そうなんですか?」
ラクチェが勢い込んで聞き返す。
「リューベックでお別れしたとき、自分に代わってセリス様や子供たちを守ってほしいと、お持ちの剣の一振りを私に託してくださったのだ。シャナンが大人になってからは、シャナンに渡してある」
「あ、もしかして、その剣って」
「うむ。今、シャナンが使っている勇者の剣。あれはもともと、アイラ様が使っていたものなのだよ」
双子は顔を見合わせた。
シャナンが持っている勇者の剣ならよく知っている。片刃で反りのある、すこし珍しい作りの業物だ。イザーク流の剣技とよく馴染む剣だと、以前シャナンが語っていたのもよく覚えている。あれはもともと、母の剣だったのか。
「もとは君たちの母上の佩刀だ。頼めばシャナンも君に渡すかもしれないが……ただ、どうだろう。何といってもあれは名剣だからね。そもそも、子供たちを守るためにと預けられたものなのだし」
「……もしわたしが、みんなを守れるほどに強くなれば、シャナン様はあの剣を譲ってくださるでしょうか」
考え込み、ためらいを見せながらラクチェは言った。
「今すぐじゃなくていい。でも、いつかきっと。わたし、母さまの剣にふさわしい剣士になりたい」
「……ラクチェ、君は本当に、アイラ様によく似ている」
わずかに苦笑の混じった、だが感慨深げな声で、オイフェが応える。
「君の容姿は母親譲りだと常々思っていた。だが気質もまた、アイラ様ととてもよく似ているのだな。あの方も、ドレスや宝石よりも武器のほうが自分に似つかわしいと、よくおっしゃっていたものだ」
そこまで言ったところでオイフェは「ああ」と息をついて、軽く首を振った。
「今日はもともと、君たちにご両親の話をするつもりだったのだ。本来の目的に戻ろうか」
オイフェは姿勢を正して、やや改まった声で切り出した。
「ご両親……と言っても、私が話すのは、主に父上のことだ。母上の……アイラ様のことなら、私よりもシャナンやエーディンのほうが詳しいだろう」
双子は無言でうなずき返す。
双子の父親であるノイッシュはシアルフィの出身だ。オイフェとは同郷で、ともに公爵家に仕えていたと聞いている。
「君たちはアイラ様の子供として、このイザークで育ってきた。我々は追われる身だった。君たちがイザークの王族であることを強調したほうが、何かと有利だったのだ。けれども内心、さびしくはあった。私は君たちの父上を……尊敬していたからね」
尊敬、という言葉を耳にして、スカサハは少し不思議に思った。
双子たちの父はオイフェよりも年長だし、シアルフィ家臣団の中でも家格の高い家柄の出身だったと聞いている。けれどもオイフェはシアルフィ公爵家の血縁者であるとともに、幼い頃から軍師としての才能を見いだされ、シアルフィ公子シグルドに重く用いられていた人物だ。そんなオイフェから見て、本当に父は尊敬に値するような存在だったのだろうか。
「ああ、最も尊敬していたのはもちろんシグルド様だ。けれども……そうだね、『主に仕える騎士』としてどうあるべきかと考えるとき、私にとってノイッシュは、ある種、見本のような存在だったのだよ。武術の腕前も、あるいは戦略を練る頭脳も、あの方よりすぐれている人物は少なくないだろう。けれども、主君への忠誠心であったり、人としての誠実さであったり、そういった事柄に関してあの方を凌ぐ人間は、そうはいない。そういう方だった」
そう前置きすると、オイフェは彼らの父、シアルフィの騎士ノイッシュについて語り始めたのだった。
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「スカサハ、どうかしたのか。なんだか朝から元気がないような気がするんだが」
翌朝のことである。朝の鍛錬を終えて休憩に入ったところで、レスターが話しかけてきた。
「ああうん……ちょっと」
「そう言えば、なんだかラクチェも様子がおかしいな」
「……ん」
「喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩というか……うん……そうだな」
「なんだ。珍しいな」
どうしたんだと問いかけてくるレスターに、スカサハは当惑したような声で応えた。
「どうもラクチェの機嫌を損ねてしまったらしいんだ。けど、どうしたらいいんだか」
「機嫌を……?」
「昨日、オイフェさんから父上と母上の話を聞いた」
「そうか。今年はお前たちの番だったんだな」
「ああ。で、俺は父さんの剣を、ラクチェは母さんの耳飾りをもらったんだけど……ラクチェ、それが気に入らないみたいで」
「あー……」
納得した、と言わんばかりの声を、レスターは漏らした。
「自分も剣がよかった、ってさ。わからなくはないけど、取り替えるわけにもいかないだろう。俺が女物の耳飾りをもらったって、どうしようもないし」
「……まあ、そうだな」
「でも、そう言ったら、あんたにはわかんない、って思いっきり拗ねられて……それっきりだ」
実際、スカサハは途方に暮れていた。
夕べ、オイフェから父の話を聞いた後、すぐにふたりで父の手紙を読むつもりだったのだ。けれどもどこでどう間違えたのかラクチェはむくれてしまって、今朝は口すら聞いてくれない。
「そうか……。まあ、ラクチェにも、いろいろ思うところがあるんだろう」
「ん……」
「母さまにでも相談したらいいのかもな」
「エーディンに?」
「たぶんラクチェ、自分が女だから軽んじられたような気がした、とか、そんなこと考えてそうだよな。最近、ちょっと気になってた。別にさ、ごく普通に扱ったつもりなのに、女だからって馬鹿にしないで、って、すぐ噛み付いてくるから」
「うん」
スカサハにも思い当たるところがあった。
一昨年くらいまで、スカサハとラクチェは本当によく似ていた。体格も同じくらいだったし、足の速さも腕力も、さして違いはなかった。
けれどもこのところ、スカサハはぐんと背が伸びて、体格もがっしりとしてきた。一方でラクチェは、背ばかり伸びていた時期が終わり、ほっそりしながらもどことなく曲線的な女らしい体つきになりつつある。
双子であっても、スカサハは男でラクチェは女だ。年頃になれば違う姿に育っていくのは、言わば当たり前のことのはずだ。けれどもラクチェにとって、どうやらそれは受け入れがたいことらしい。
「あと、もうひとつ気になることがあって」
「うん?」
「昨日、父さんのことをオイフェさんから聞いた。で、思ったんだ。オイフェさんやシャナン様はなぜ、俺には騎士の修行をさせようとはしなかったんだろう」
そのことを疑問に思ったのは、昨日が初めてというわけではない。けれども改めてそのことが気になりだしたのは、オイフェがスカサハたちの父を高く評価していたと知ったからだ。
「俺の父はシアルフィの騎士で、シグルド様に仕えていた人だった。けど、俺が習ったのは、イザークの剣士の戦い方だ。レスターやデルムッドには、オイフェさんは騎士の戦い方を教えているのに」
「スカサハ、お前はさ、騎士になりたいのか?」
「どうだろう。けど、なんて言うか。繋がりが欲しいなって」
「ああうん、わかるよ。俺もけっこう、そういうのはあったりする」
「レスター?」
「俺の父はレンスターの槍騎士だろう? 俺も、槍を使う騎士になるべきなんじゃないかと思ってたことがある。頼めばオイフェさん、きっと教えてくれるだろうし。けど」
そこでレスターは言葉を切り、軽く呼吸を整えてから、つぶやくように言った。
「すこし槍を触ってみて思った。俺、たぶん弓のほうがずっと得意だ」
レスターの言葉に、スカサハは無言でうなずく。
オイフェとシャナンは、ティルナノグの子供たちに、さまざまな武術をひととおり教えている。スカサハも剣だけではなく弓や槍を扱ったことがあるし、レスターだって最初から弓の鍛錬のみに励んでいたわけではない。けれどもある程度の基礎を教わったところで、ひとつに絞ってそれを伸ばしていくようにと指示を受けた。
その結果、レスターは弓、スカサハは剣の技量を高めていくようになったのだ。
「それと同じようなものじゃないかな」
「……なのかな」
「だって、馬の背の上じゃ、流星剣とか無理だろう?」
「あ……うん、そうだな」
流星剣はオードの血筋の者に伝えられている剣技だ。一回と見える斬撃で五回も切りつける必殺の技で、これを身につけられる者はごく一握りだと言われている。
その技に先日、スカサハは開眼した。剣の師匠を務めてくれているシャナンはまだまだ研鑽が必要だと言いながらも、よく身につけたと褒めてくれたものだ。
けれどもラクチェは……
そこまで考えて、スカサハはふと、あることに思い至った。
「流星剣……か」
「ん、どうした?」
「いや……なんでもない」
「しかしすごいよな。あれが使えるようになるなんて」
スカサハは流星剣を身につけた。いや、完全に身につけたとはまだ言いがたいが、ともかくもそのこつを飲み込みつつある。
けれどもラクチェは、まだ流星剣を成功させたことがない。
そう、思えばあれ以来かもしれない。ラクチェがスカサハに対して、何かと意地を張ってみせるようになったのは。
「……けど、それが悪かったのかな。ラクチェが機嫌悪いの」
「ああ、ラクチェは負けず嫌いだから。お前に先を越されて悔しいんだろう。けど、気にしたってしょうがないだろう」
「それはそうだけど」
「流星剣ができるってことは、やっぱり正解なんだろうなって思う。騎士じゃなくて、剣士になったのは」
「……うん」
「それに、スカサハはシャナン様のいとこで、イザークの王族だ。見た目もしっかりイザーク人だからなあ。グランベル人の騎士の子供として生きるより、イザークの王族として生きたほうが、なんていうかな、生きやすい、っていうか」
「オイフェさんも似たようなことを言ってた。俺たちをイザークの王族として扱ったほうが何かと有利だったって」
「うん。どうしてもそうなるよな」
レスターは軽く息をつくと、独り言をつぶやいているような調子で言った。
「俺とかデルムッドは、見た目からしてよそ者だから……どんなふうに生きようと、どっちみちこのイザークに溶け込むのは難しい。けど、お前やラクチェは違う」
「……そう、だね」
「だからさ、あんまり気にするなよ」
「ん……」
「ラクチェだって、たぶんすぐ流星剣を覚える。そしたらきっとうまくいくさ」
「……かな?」
「とりあえず、ラクチェのことは母さまに話しておく。だからお前はあんまり気にするな。それと、俺は思うんだ。何も父親と同じ戦い方を身につけることが、父親への敬意を示すことじゃないだろうって」
そう語るレスターの視線は、スカサハを通り越して、どこか遠くを見つめているように思えた。
レスターの父はレンスターの槍騎士フィンだ。
レンスター王国が帝国の手に落ちたとき、フィンは王子リーフを伴って隣国アルスターへ逃れたと言われている。だが、そのアルスターも帝国の支配するところとなって久しい。現在、フィンとリーフ王子の消息は杳として知れない。
レスターの母エーディンは、フィンについて多くを語ろうとはしない。けれども彼女は夫の生存を固く信じて、日夜祈りを捧げている。そしてそれは、子供であるレスターやラナも同じだった。
「俺は、弓騎士として最善を尽くす。いつか父上と再会することができたら、息子として誇りに思っていただけるような、そんな弓騎士を目指すつもりだ」
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日も暮れて、夕餉も終わった後のことだった。
寝室に向かおうとしていたスカサハを、ラクチェがためらうような様子を見せながら呼び止めた。
「……スカサハ」
「うん?」
「ちょっと、話、いい?」
「いいけど……あ」
ラクチェの耳元で、きらりと何かが光る。
「ん、何?」
「その耳飾り、もしかして母さんの?」
宝飾品の意匠を覚えるなど、正直苦手だ。けれどもたしかにそれは、昨日オイフェのところで見た耳飾りに見えた。
「うん。昼間、エーディンに頼んで教えてもらったの。着け方とかいろいろ」
「そうか。きれいだな」
「これね、ちっちゃいけど、かなりの値打ちものなんだって」
「そうなのか」
「うん。そんなに目立たないけど、母さまが王族だからこそ持てたんだろうとも」
そう言えば、昨日オイフェもそんなことをちらりと言っていたような気がする。
「あのね、イザークの女の子は、もう子供じゃない年頃になったら、母親からアクセサリーをもらうものなんだって。一人前になった印で、そうね……持参金みたいな感じ? だから、小さくてもできるだけ上等なものを用意するんだって」
「へえ……」
「これ、教えてくれたの、マナなんだけど」
「ああ、なるほど」
マナはこのティルナノグの近隣で生まれた少女だ。スカサハたちとは違って生粋のイザーク人だが、帝国兵の暴虐によって先祖伝来の土地を失い、数年前からこのティルナノグで暮らすようになっている。
「母さま、そういうことを考えた上で、これを預けといてくれたのかな」
「うん、そうだな、きっと」
「だからね……ごめん」
「うん?」
「なんか拗ねちゃってて、ごめん」
「あ……いや」
なんだかいやに素直だな。
戸惑いながらも、スカサハはラクチェの言葉にうなずき返す。
「不安だったの。スカサハはどんどん強くなるのに、わたしは足踏みしたままで。体もね、変わっていくから。あんたは筋肉がついて背が伸びて、でもわたしはそうじゃない……女だから。けど」
ああ、やっぱりそういうところに引っかかっていたのか。
予測はしていた。けれどもこうやって双子の妹の思いを直に聞くことができて、スカサハはなんだかほっとしていた。
「エーディンが言ってた。母さまは、シグルド様の軍で一番強い剣士だったって。他にも強い人はいっぱいいた。でも、剣士の中では母さまが飛びぬけて強かった。女だからとか、そんなのぜんぜん問題にならないくらい」
イザークの王女アイラはシグルド軍最強の剣士。これもまた、以前からよく耳にしてきたことだ。
シャナンもオイフェも、常々そう言ってスカサハたちの母を讃えている。けれども今、ラクチェの心にその言葉が響いたのは、同じ女性であり、戦いに関することを進んで語ろうとはしないエーディンが、あえて口にしたからなのか。
「わたしも母さまみたいになれるのかな。修行を続けてたら、いつかきっと」
「ラクチェ……」
もちろん……と応えかけて、スカサハは口をつぐんだ。
ラクチェは強い。いずれ母をも凌ぐ剣士になるかもしれない。そのことをスカサハはよく知っている。けれども、定まってもいない未来のことを安請け合いするなど、あまりにも無責任だろう。
そう、今伝えるべきことは、きっと、もっと他にあるはずだ。
「そうだラクチェ、一緒に父さんの手紙を読もう。昨日、結局読みそびれてしまったし」
「……うん」
「じゃ、俺、部屋に取りに行くから。居間で会おうか」
「うん」
じゃあ、と応えてスカサハが歩き始めたところで、ためらいを含んだ声でラクチェが呼び止めた。
「スカサハ」
「うん?」
「……ありがと」
ただそれだけを口にすると、ラクチェはくるりと向きを換えて、パタパタと足音を立てて足早にその場を歩み去っていった。
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そして、五年近くの歳月が流れた。
早春のある日、隠れ里ティルナノグがガネーシャに駐在している帝国兵に発見された。これがきっかけとなって、セリスはついに決起し、解放軍を立ち上げる。
解放軍はティルナノグの東に位置するガネーシャの砦に向かって兵を進め、これを落とした。ガネーシャの砦で軍師レヴィンと合流を果たすと、今度は南に位置するイザーク城を目指してさらに進軍を続ける。
イザーク城はかつて、イザーク王国を支配するオードの一族が居城としていた。だが、オードの一族に代わって新たな支配者となったドズル家は、他国への出入り口となる南西のリボー城をおのが居城と定め、イザーク支配の中心地とした。王城ではなくなったイザーク城は、ドズル家の次男であるヨハンの手に委ねられていた。
イザーク城主ヨハンは、父ダナンの命を受けて討伐の軍を起こす。だが、解放軍と接触したヨハンは、寝返って解放軍についた。
怒り狂ったダナンは配下の者に命じてイザーク城を落とすと、兵を差し向けてきた。解放軍はこれを打ち破り、イザーク城に向けてさらなる進軍を続けた。
日を置かずして、イザーク城は解放軍によって制圧された。かくして、旧イザーク王国の本城であったイザーク城は、解放軍の支配するところとなったのである。
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イザーク城制圧の翌日、軍議を終えて廊下を歩いていたスカサハに声をかけてきた者があった。
「ああ、スカサハ。君に少し用事があるのだが」
「ヨハン王子?」
振り返ったスカサハは、けげんな面持ちでヨハンをうかがい見た。
「俺に用事? ラクチェではなく」
ドズルのヨハンはラクチェに好意を抱いていて、暇さえあれば彼女を追い掛け回している。だが、ラクチェの双子の兄であるスカサハとは、積極的に関わるつもりは特にないように見えた。なのに、こうやって話しかけてくるとは、どういった風のふきまわしなのだろう。
「うむ。ああ、できればラクチェにも立ち会って欲しいのだ。だから正確に言えば、君たちふたりに用があるわけだが」
「うん?」
「君たちに、ぜひ見てもらいたいものがある」
「俺たちに?」
「君も知っているだろうが、このイザーク城は、旧王家の本城だった。すなわち、君やラクチェやシャナン王子の一族が起居していた場所だったのだ」
「ああ、そうだな」
「先日まで、私はこの城の主だった。この城に残されていた旧王家の文物は、私の管理下にあった。そういったものはたいてい宝物庫の中にしまいこんでいたのだが――ああ、かつての王家と関わりあるものを損なおうとする馬鹿者もいるからな――その中に、君たちと縁の浅からぬものがあってだな」
「そうなのか」
「だからラクチェと共に、宝物庫に来てくれないだろうか」
「ああ、わかった。ラクチェはたぶん、ラナのところにいるはずだ。一緒に呼びに行くか?」
「そうだな」
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スカサハの言葉どおり、ラクチェはラナのもとで傷病者の看護を手伝っていた。
ラナに断りを入れてラクチェを誘い出すと、スカサハたちはイザーク城の地下へと移動した。
ヨハンは迷う様子も見せずに薄暗い廊下を抜けていく。そして、どん詰まりに行き着いたところで足を止めて、双子のほうを振り返った。
「ここなのか?」
スカサハの問いかけに、ヨハンは無言でうなずき返し、厳重に錠前が下ろされた扉に向き直った。手にしていたランタンをラクチェに手渡すと、腰に吊るしていた鍵束をまさぐり、鈍い色合いの大ぶりな金属製の鍵を選び出して錠前に差し込んだ。
ほどなくして錠が開き、閂がはずされた。ヨハンは沈黙を保ったまま扉を押し開いて、中に入るよう、双子を促した。
室内はひんやりとしていた。ヨハンはラクチェに預けていたランタンを受け取り、高々と掲げた。
真っ暗だった宝物庫に、ほわりと明かりが広がっていく。
「ああ」
ヨハンがほっとしたような声をもらした。
「荒らされた様子はないな。城を取られている間に狼藉を働く者がいたのではないかと不安だったが」
「それで、わたしたちに見せたいものって?」
ラクチェが待ちきれないといった様子で話しかける。
「そう急かさないでくれ。長くは待たせないから」 そう言うと、ヨハンは部屋の奥へと踏み込んでいく。
この部屋には明かり採りの窓さえないらしい。真っ暗な中で、ヨハンの掲げるランタンの光のみが、薄ぼんやりと輝いて道を指し示している。わずかな明かりの中では見て取れるものは限られているが、どうやら室内にはずらりと棚が並んでいるらしい。棚の他にも、床の上には壷や箱や長持が所狭しと置かれている。つまずかないよう足元に気をつけながら、双子はそろりそろりとヨハンの後に続いた。
「ここだ」
奥まで進んだところでヨハンは足を止めると、振り返って双子に声をかけた。
「見て欲しい……正面の壁だ」
ヨハンはいっそう高くランタンを掲げて、正面の壁を照らしあげた。
ぼんやりとした明かりの中に浮かび上がったのは、壁の一角を丸ごと占める大きな絵画だった。
椅子に座った白髪の男性を取り巻くように、何人かの人物の姿が描かれている。
中心となっているのは、右正面に描かれている威風堂々とした白髪の男性だ。髪もひげもみごとなまでに真っ白だが、厳しく前方を見つめるその表情には、老いの衰えはいささかも感じとれない。いかにも威厳に満ち溢れ、支配者然とした雰囲気を漂わせている。
その左後ろには、長い黒髪を背に流した若い男の姿があった。精悍な表情を浮かべた若者の右手には、鞘に収められた長剣が握られている。
若者の右横には、寄り添うように小柄な若い女性がたたずんでいて、その胸元には、白い布に包まれた何かが大切そうに抱かれている。おそらくは産着に包まれた赤子だろう。
若い男性の手前、椅子に座った白髪の男の左隣には、ひとりの少女が立っていた。年の頃は十三、四歳といったところだろう。他の人物と同様にイザークの民族衣装を身に着け、愛らしさよりも凛々しさを感じさせる引き締まった表情で、まっすぐに正面を見つめている。
その少女の姿は、スカサハにとってあまりにも見慣れたものだった。
(この子、まるで昔のラクチェじゃないか)
イザーク城に残された、ラクチェにそっくりな少女の肖像。
スカサハは横に立つ双子の妹に、思わず視線を投げかけた。
ラクチェもまた、魅入られたように肖像画を見つめている。そのラクチェの口から、つぶやきがもれた。
「これって、もしかして」
淡々とした声で、ヨハンが答えを返す。
「イザーク王家の肖像だそうだ。裏面に年号と詞書が入っている。グラン暦七五一年、シャナン王子の誕生を祝して、と」
「シャナン様の……じゃあ、この手前の女の子は」
「アイラ王女だろうな、君たちの母上の」
「母さま……この子が」
ラクチェとヨハンのやり取りを聞きながら、スカサハはなおも目の前の絵を――絵の中の少女をじっと見つめる。
丹念に見返すうちに、スカサハはあるものに気づいた。
「ラクチェ」
「ん?」
「あの子の――母さんの耳元、よく見てみろ」
ラクチェも言われるままにスカサハの指差す先に目を向ける。しばらく凝視した後で、「あ」と小さな声を上げた。
「耳飾り……これって私の」
「ああ。お前の……いや、お前のために、母さんが預けてくれた耳飾りだ。小さくてわかりにくいけど、たぶん間違いない」
「母さま……本当にこれ、こんなふうにつけてたんだ……」
「ああ……」
不思議な気持ちがした。
シャナンが常々言っていた。ラクチェはアイラと瓜二つだと。だから、少女時代の母が同じ年頃だった頃の妹とそっくりなのは、特に不思議がるようなことではない。
耳飾りの由来はオイフェから聞かされていた。だから母が妹と同じ耳飾りを身につけているのは、意外でも何でもない。
すでに知っていたことばかりのはずだ。だが、こうやって絵の中に描かれているのを目にすると、今までは感じることのできなかった実感のようなものがこみ上げてくる。
(それにしても、ヨハンはなぜ、この絵を大切にしまっていたんだろう)
ヨハンはドズル家の王子、つまりはグランベル帝国の人間だ。
イザークの住民は、グランベル帝国の支配を歓迎していない。二十年前に起こった戦で旧王家が散り散りになってしまった恨みに加え、ここ近年、厳しくなる一方の帝国の締め付けに抵抗の気運を募らせている。そんな状況なのだ。旧王家に関わる文物など、丁寧に保管するのではなく、むしろ人知れず処分しようとしてもおかしくはないだろうに。
(今、俺たちにこの絵を見せたのは、ラクチェの歓心を買うためかもしれない。だが)
それだと、今までこの絵を保持してきたことの説明にはならない。
よくわからない男だ、とスカサハは思う。
ラクチェに気があるのは正直気に食わないし、戦場でいきなり詩もどきの謎の文章を読み上げる神経にいたっては、わけがわからないとしか言いようがない。けれども、城主としてのヨハンについて、さほど悪い話を聞かないのも事実だ。
ヨハンはつい先日、解放軍に加わった。これからは仲間としてともに戦っていくことになる。どういう人間なのかを知っておくことは、むしろ必要なことだろう。
「ヨハン王子、その……聞いてもいいか?」
迷いながらも、スカサハは切り出した。
「何だろう?」
「あなたはなぜ、この絵を守ってきたんだ。オードの一族の肖像画など、帝国の人間にとっては邪魔なものじゃないのか」
「絵画は芸術であり、文化財だ。大切にしないで何とする。それに、この肖像画に関して言うならば、歴史を記録したものでもあるわけだ。むざむざ損なってしまっては、後世の人々に顔向けできないではないか」
「だが、その歴史は、あなたがたにとって有利なものではないと思うんだが」
「文化の保持に、有利不利など関係ない。それに私自身、イザークとまんざら縁がないわけでもないしな」
「え?」
「私の母はリボーの出身だ。私も六歳まではリボーの地で育った。それ以降は本国で教育を受けたわけだが」
スカサハは思わず息を呑み込んでいた。
言われてみて思い出した。噂に聞いたことがある。ドズル家の次男と三男は、イザークで生まれたのだと。
「イザークの民にとって、私はドズル家の――帝国の権力者に過ぎないだろう。だが、私にとってイザークは……」
そこでヨハンはふっと黙り込んだ。だが、やや間を置いて、きっぱりとした口調で続けた。
「いや、私が何者であるかなど、問題の本質とは関係ない。芸術を愛し、過去の真実を尊重する。よき為政者とは、そのようにあるべきだろう」
「ヨハン王子……?」
ヨハンの言葉をどう捉えるべきか、スカサハは量りかねた。
イザークの血を引いているから旧王家の遺物を尊重するのではなく、普遍的な真理に則って過去の遺産を守る。帝国の打倒を中心に物事を捉えてきたスカサハにとって、そういった考え方はかなり風変わりで――まぶしいまでに理想主義的なものに思える。
「それに、あのアイラ姫の愛らしさよ。あれを損なうなど……許されざる犯罪だ」
その言葉に、スカサハは全身から力が抜け去るような感覚を覚えた。
(こいつ……まさか、好みの女の子の絵を駄目にしたくなかっただけなのか)
しかもその少女は自分の母で、目下この男が言い寄っている妹とそっくりなのだ。
(もっともらしい言葉に惑わされるところだった。こいつ、ただの……変態かもしれない)
いや、そうではないのだろうか。
為政者の手本のような高邁な理想こそが本音で、少女の絵姿を愛でる言葉はただの照れ隠しなのか。
いずれにせよ、自分には捉えきれない男だ。首を振りながらスカサハは、横に立つ妹にふと目をやった。
ラクチェは、心ここにあらずといった風情で、ランタンの明かりに照らし出されたヨハンの横顔をひたすら見つめていた。